『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜこれほど人々を魅了するのか

古典落語の”立ち切れ”について気になることがあります。
主人公の若旦那の親である、大旦那の存在が薄い、と思います。
噺の中で、大旦那がいるのか、いないのか分からないほどです。
私が思うことを書きます。
たとえ噺の表に出てこなくとも、たとえば番頭が「大旦那と相談して・・・」とか「大旦那が心配して・・・・」とか発言すれば、大旦那が噺の中にはっきりと表れてくる、と思います。
なぜ、大旦那の存在が薄いまま、演じられているのでしょうか?

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A 回答 (3件)

私は米朝師匠と先代文枝師匠でしか聞いた事がありませんが、上方では冒頭若旦那が丁稚を捉まえて親族会議の内容を聞き出す場面から始まります。


丁稚を通してですが、親旦那は一言だけ発言をしますので、存在がまったくない訳ではありません。
その後、親族会議に乗り込んだ若旦那が番頭にやり込められて蔵に放り込まれますが、その場面に親旦那を登場させると返って話がややこしくなると思います。
この場合は番頭対若旦那の構図で良く、その方が番頭の敵役がはっきりとします。
また番頭はあくまでも忠義で憎まれ役を買って出ているので、「親旦那と相談」とか「親旦那が心配」などと言わないのは、親子関係に摩擦を生じさせないようにする番頭の気持ちだと思います。

ご存知のように落語は演者によって演出が違いますよね。
それは噺に対する演者の受け止め方が反映されている訳ですから、当然人それぞれです。
ですから、受け止める方も人それぞれで良いと思います。
質問者さんは大旦那が出た方が良いと思ってみえるわけですし、多くの演者は出さない方が良いと思っているのではないでしょうか。
落語に正解なんてないですからね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<番頭はあくまでも忠義で憎まれ役を買って出ている>
のでね。落語は懐が広いですから、私も勝手にほざいています。

お礼日時:2015/10/31 19:18

No.1のお礼を読んでの回答です



この話は番頭と若旦那の噺なので
大旦那の出番がないだけでしょう

それに
まず若旦那にも番頭にも名前がない
名前があるのは小松という女性の名前だけです
しかも、その小松も話の中には出てこない
名前だけです

大旦那よりももっと大事な役割の小松さえ出てこない

いらない部分を省略して省略して、現在の形になったのではないでしょうか

それともうひとつ
落語というのは、演者が勝手に自分の解釈で変えてもかまわないものなのです

大旦那でも小松でも、噺のなかに出したければ、出してもかまわないのです

どなたの「立ち切れ」をお聞きになったのかは不明ですが
みなさんそれぞれ、自分でここはおかしい、わかりにくいといったところは
自分で変えて話していらっしゃいます
噺の中に大旦那を出してはいけないというわけではありません
人物にだって、それぞれに名前をつけて出してもかまわないのです

たぶん、演者の方も
大旦那を出さないほうが、番頭の役割がはっきりして話しやすいということで
従来の形で話されているのではないでしょうか
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この回答へのお礼

早速のご回答を頂きありがとうございました。
<演者が勝手に自分の解釈で変えてもかまわないもの>
ですね。僭越ですが、聴き手の私も気になったことを綴ります。
<大旦那を出さないほうが、番頭の役割がはっきりして話しやすい>
ということですね。ただ、この場合は、
<番頭と若旦那の噺>
に縮こまって(大げさに言うと、二人の対決に)しまいます。それより、大旦那の台詞はないとしても、例えば、番頭が大旦那に言及し、その存在を浮かびあがらせれば、話が広く豊かになる、と思った次第です。

お礼日時:2015/10/28 16:20

江戸の商家では、番頭が全てを仕切っていて、主人の存在は薄い例が多い。


大旦那と若旦那の関係を強調すると、親子の対立となり、話がどろどろとした厭味なものになってしまうから。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<大旦那と若旦那の関係を強調すると、親子の対立となり、話がどろどろとした厭味なものになってしまうから。>
ですね。強調すれば、その通りだと思います。しかし、今の構成では大旦那のかげがあまりにも薄すぎる、と思います。

お礼日時:2015/10/27 21:35

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