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じつに奇蹟的な現象が起った。体格がずばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が、忽然として近くに現われ、坐つたまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく、兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中に喇叭吹きもいた。その一人から喇叭をとりあげると、その大男は川の方へ飛び出し、胸一杯息を吸い、喇叭を吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。このときカエサルは言った。
「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」と。
(スエトニウス『ローマ皇帝伝』第1巻32節 国原吉之助訳 岩波文庫(上)41ページ)

*** *** *** *** ***

カエサルがルビコン川を渡るにあたつて、「大きく容貌のきわだって美しい男」が現れたさうです。これは兵士の一人ですか。また「神々の示現」ならどの神ですか。兵士たちを奮ひ起こすために必要な出来事だつたのですか。

質問者からの補足コメント

  • さきほど仕事から帰りました。今日は疲れたのでもう寝ます。Tastenkastenさんとiacta-alea-estさんの文章は職場で拝見しました。

      補足日時:2016/01/10 22:58
  • 私は通訳の経験がなく、もちろんそんな能力もありません。知らない言葉、未経験の状況などにどのやうに対応してゐるのか、不思議に思へます。書物の翻訳なら調査することもできますが、通訳となれば瞬時に対応しなければなりません。よほど機転のきく人でなければ務まりません。回答番号10のコメントに書いた催しでは、碁のこと知らない人が韓国語の通訳をしてくださるのですが、それなりにわかるやうに話してくれます。もちろん囲碁用語は無理ですけれど。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 08:50
  • うれしい

    今回はiacta-alea-estさんについての質問でしたので、回答番号1をベストアンサーにいたします。みなさまありがたうございました。

      補足日時:2016/01/15 17:51

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A 回答 (22件中1~10件)

「賽は投げられた」とは、私のアカウント名なのですし、別の質問欄にお誘いが書いてありましたので、この問いの回答者に私が想定されているのではないかと自意識過剰になりました。

さあ、どうぞ、得意分野を答えてみせよ、ということなのかもしれません。plapotiファンは大変多いようですから、私を歓待してくださるとは光栄なことでもあり、お心遣いに感謝致します。しかしどうしたものでしょうね。専門外なので、ちょっとわからないですね。正解を書けと言われると精神的に負担ですが、一般論で「試験の答案」を提出します。

 一般に古代ギリシアの神を見分けるにはアトリビュート(所有物)を問題とすればよいらしいのですね。図像学、いわゆるイコノグラフィーです。今回は葦笛です。葦笛は牧神のアトリビュート。アポロンの竪琴と比べられます。牧神が出現したとすれば、神々の世界と現実が交わったような印象が致します。現実の世界が不意に神的次元と繋がったのです。何か劇的な印象が致しますね。なぜ牧神か。これから起きる戦が詩に謳われるような神的な戦で、既に始まりを詩の神が謳い揚げているというのでしょう。戦士たちは名誉欲を刺激され、後世まで語り継がれる重要な戦で活躍しようと、やる気が出て来るでしょう……。まあ、なかなか絵になる場面ですね。

 しかしplapotiさんがスエトニウスまで読まれるのなら、そんなこと、先刻お分かりだったのではないですか。あるいは、上のように一般には読むかもしれないが、実は裏があるのだ、とか。註釈に書いてあるかもしれない。お手柔らかに願います。

 得意分野を明らかにせよとのことですが、生憎と、専門的に答える気はあまりないのです。と言うのも専門家として答えるには厳正にやる必要があり、これは大変ストレスフルなのです。むしろ、ご趣味が合うと、話しやすいかもしれませんね。
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この回答へのお礼

さつそくの御回答ありがたうございます。cyototuさんのブログで以前一度お話いたしました。教えて!gooに雑談のお誘ひをしたのですが、あほなさんとのやりとりを拝見して、もう少し雑談があつたほうが「誤解」が少なくなるのではないかと思つて、気楽な雑談質問を立てました。御専門がどのあたりの文献なのか見当もつきませんが、ギリシャローマにもお詳しいやうですね。古典に注釈書はつきものですが、私はほとんど読んでゐません。cyototuさんは解説ではなく本来の書物を読めと強調なさいますが、解説書までは手がまはらないのが実情です。仕事のための実用書だけもたいへんです。

葦笛を吹いてゐたなら牧神パンといふことなのですね。オウィディウス『変身物語』第1巻700行あたりに、葦笛の由来が載つてゐました。シュリンクスといふ妖精がパンに追ひまはされて葦に身を変へたといふことで、ストーカー規制法は役に立たなかつたやうです。

>これから起きる戦が詩に謳われるような神的な戦で、既に始まりを詩の神が謳い揚げているというのでしょう。

トロイア戦争、ホメロスの世界ですね。ホメロスはムーサでしたけれど。たしかにこれなら兵士たちもやる気が出さうです。プルタルコスによれば、カエサルは「賽は投げられた」をギリシャ語で叫んだのださうですから。(『英雄伝』「ポンペイウス」60節)

>ご趣味が合うと、話しやすいかもしれませんね。

このサイトでも、専門分野、得意分野には投稿しない人が多いやうに感じてゐます。作曲家のたすてんさんなどはむしろ例外的な存在です。私は地元の三流大学法学部出身のトラック運転手で、文学部の言語学科や哲学科に出かけて遊んでゐた程度の知識にすぎません。もうしばらく御指導よろしくお願ひいたします。

お礼日時:2016/01/09 20:35

やっぱりここは楽しいですね♪



「ちゃんと質問文を読んだ人から回答が寄せられて」
いる状況なのかはともかく(笑)
We Belongで無責任じゃない、言葉が自己中に映るのは何故か?
自己中であっても嬉しい楽しいなら誰も悩めてなさそうで。

兵士は国家に養われた構成員で、構成員は人間で、
人間は国家より遥かに困難な社会に閉ざされている。
とプラトンの国家論についてアラン。
真実の優れた知識が指揮する国家の完全性は考えにくいものではない。

しかし人間は選り抜きの市民との外面的な関係、
その意味において人間内部の政治(活動企画や予算、)の節制で、
自分で自分に投資などというものがしうるのか?
合理的な利潤が齎されるか否か「もたらされる」を漢字変換するとこれも「さい」? 
叩けば何ぼでも埃の出る身ながら、
誇りは均衛関係、調和に利することのみ齎されるものと思う。

敵か味方かの対立関係だけで裁くよりか、そこ(二元論)
を乗り越え!
徳や美も生まれつき持つ存在者は居らずとし、
連続連鎖、無数に分割されつつ集合体、全体のままで「見事な一瞬(卓越性)」は
不完全であった美や徳を説明する骰子(さい)となり所有する。

というプラトンの言葉を要約すると、
元々、常に美しくも正しくもなくとも、みんなでやれば、人間は慣れれば慣れるもので(笑)
「才」が「差異」を見出し発揮され、後からなら言い訳もつくだろう。
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この回答へのお礼

>やっぱりここは楽しいですね♪

現在は「奇跡のレッスン」が大人気です。あほなさんは職人タイプなのでcyototuさんやiacta-alea-estさんのやうな研究者と話が合つても良ささうなのですが、まつたくかみあはないやうです。miko-desiさんもどうぞ。

>ちゃんと質問文を読んだ人から回答が寄せられて

私の質問は関連したことなら何でもありです。以前ぶらげろさんが自己チユーについての質問を立てて、全員で自己チユーを礼讃したことがありました。ベストアンサーは文句なしにtefutefuさんでした。言ひたい放題が哲学カテゴリらしくておもしろいと思ひます。

アランと聞くとサンダーバード3号のパイロットを想像するだけで、まつたく読んでゐません。論旨が読みとれなくて申し訳ございません。でも文末のまとめの箇所は、cyototuさんの主張みたいです。やはり優秀なお弟子さんです。

御回答ありがたうございました。

お礼日時:2016/01/15 09:31

また駄菓子ならぬ、駄識と行きましょう。

駄菓子は上品な菓子よりも美味いのが沢山ある。

サイコロを投げるのは神の思し召しを伺うことだが、多数決もそう考えられていたんだね。昔、鎌倉幕府が貞永式目と言う武士用の憲法の草案を作っているときに、女性が嫁に行ったら彼女の実親の面倒をみる義務を免除するかしないかで、評議員の中で意見が分かれた。その当時、親の面倒を見ない者に相続権がなかった。また、今と違って、財産を譲った引退後の親がその気になったら何時でも財産を取り返すことが出来た。そこで、上記の義務を免除してしまったら女性に実親の財産の相続間がなくなってしまう。でも、それを義務づけると、女性には男性の2倍の負担が掛かってしまう。男女同権を守るか、女性の負担の軽減かってんで、喧々諤々だ。そこで、結局13人の評議員の多数決で決めることになった。その根拠は神の判断を仰ぐというものだった。結局、多数決で男女同権となり、女性の相続権が認められ、現今のかかあ天下の下地が完成したんだ。今でも、ほとんどの家庭では母ちゃんが財布のひも握っているけど、これって外国じゃ珍しい。

毛唐の何とか言う奴が、「最大多数の最大幸福」なんて宣って、わかった気になっている連中が多いようだが、それって本当の理由かね。いつもの後付けの屁理屈なんじゃないんかね。毛唐どもは「神の下の平等」なんて、神を信じていない連中には全く訳の解らないこと言ってるけど、これも多数決と同じで、社会の進化の成り行きで得られた安定解の後付けの屁理屈なんじゃないかね。人間、理屈が通ると安心しているが、理屈が事実を引っぱり出すんじゃなくって、いつでも成り行きで起こった事実が理屈を引っぱり出すんだよね。

ここを訪れる連中は当然哲学に興味持ってんだろうけど、理屈はいつでも事実の後付けだっちゅうこと忘れないでね。

またいつもの宣伝だ、

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1147141 …

も読んでね。
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この回答へのお礼

>また駄菓子ならぬ、駄識と行きましょう。

碁でも、終局時に駄目がたくさんあいてゐるのが美しいとされます。

>結局、多数決で男女同権となり、女性の相続権が認められ、現今のかかあ天下の下地が完成したんだ。

(笑)歴史とはおそろしいものです。
不勉強でまつたく知りませんでしたので、ちよつとだけネットで検索してみると、第18条に相当するのでせうか。

>毛唐の何とか言う奴が、「最大多数の最大幸福」なんて宣って

以前「ベンサムとミル」の質問に回答したのですが、私は懐疑派です。「事実の後付け」といふのは、言ひ訳と同じ構造なのですか。

[1] よからぬことをしでかした。
[2] 過去の行為は取消すことはできない。
[3] よからぬ行為を正当化する。
[4] そのために必死で理屈を考へる。

この屁理屈を理論と呼ぶのですね。回答番号6で「決めたのです」といふ言葉が出てきましたが、決めてしまへば、そして周囲に宣言してあとに引けなくなつたりすれば、何が何でも理屈をつけて正当化しなければなりません。人間、さういふ場面では必死になります。だからこそ新しいものが生みだされるのでせう。

>またいつもの宣伝だ

私の質問ページは、宣伝も自由です。といふよりも、Q&Aへの投稿は、ほとんどすべて宣伝なのかもしれません。うちの両親は天皇陛下をはじめとする皇族のかたがたがテレビに映されると、正座します。(今は足がよくないのでしなくなりました。)cyototuさんのお書きになる話は、ほとんどどれも実例がすぐに浮かんできますので現実味があります。

お礼日時:2016/01/14 23:25

猪突先生、失礼致しました。

ブログを拝読して、自分で自分の書いたことにコメントを。

>ところが今は、せっかく日本語で、漢字で物品の名前を付けても、ローマ字表記にしてしまうのがNowでヤングだというご時世です。

 表音文字にしてしまうと、意味が一瞬、分からなくなります。こういう意味不明なものを若い人は「美」と感じるのかもしれませんね。ちょうどそれは詩の言葉が容易に解読できないことを面白がるのと同じようなものです。どこの国のものかわからない言葉でお店の名前を付けるのが、ファッションとなるのも、意味が分からないことそれ自体に価値があるからなのでしょう。

 これは外国ではあまりお目にかからない現象に思えたのです。漢字のTシャツを着ている外国人は似たような遊びを行っているのでしょうが、小規模だと感じておりました。
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この回答へのお礼

御回答ありがたうございます。

>こういう意味不明なものを若い人は「美」と感じるのかもしれませんね。

iacta-alea-estさんは、視点がおもしろいのですね。言葉の魔法である詩がわかりにくい、それはさうです。私は散文人間ですので、なほさら判りません。詩歌は宗教に近いのでせうか。「漢字のTシャツを着ている外国人」の指摘もおつしやるとほりで、楽しい実例に心がなごみます。

お礼日時:2016/01/14 21:38

>これは猪突先生に怒られてしまうかもしれませんね。

漢字も元は中国のものですから。

とんでもない! 漢字は表意語なんで、表音語には足下にも及ばない芸当ができる。日本人はこれにさらに音読みよ訓読みを付与してみせたので、その漢字に新しい座標軸が付与され、漢字を最初に考案した国よりも多次元な世界を手に入れた。私は漢字崇拝者です。

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1189536 …



http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1208847 …

を参考にして下さい。
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この回答へのお礼

御趣旨は以前に拝見しました。欧米では専門家でなければ意味がわからない言葉が、日本語では、漢字の音訓のおかげで、小学生にも理解できるといふ指摘ですね。まさにおつしやるとほりです。

ローマ字は20ちよつと覚えればすむのに、漢字は途方もない数を勉強しなければならない、教育の時間と労力の無駄だ、などといふ主張への見事な反論です。基礎をしつかり習得することで、学問の世界が特権階級の占有物ではなく、民衆のものになります。格好をつけて、カタカタことばやアルファベットの略語を多用しようとするのは、みづから知識の世界から断絶してゐることになります。

お礼日時:2016/01/14 21:28

盛況ですね。

猪突先生に、巫女弟子さま、ブラジュロンヌさん、こんにちは。そして主人のプラポチ様も改めて、こんにちは。今週の私は忙しく、あまり頭が働かないようです。今週の私はずっと通訳みたいなことをやっていますが、私はそれが生業ではないので、おそらくプロの方から言わせると当たり前と思われることも、やや疲弊致します。それほど正確にやらないでもいいんですが、14時間くらい何か国語かのチャンポンが続きます。やっと一日が終わり、数時間許された睡眠を取ろうとするのですが、「今日は自分はうまく話したなあ」と悦に入っていたら、眠っている間に、日中のことを思い出し、「あっこれを間違えた」「あっなんて自分は馬鹿なんだ」と分かり、何とも悲しい気持ちになります。完璧に言語を操ることは難しいものです。日本語でさえも、厳密には間違っていることがあるのですから。日本人だからどうにか言い繕っているだけです。

 こういう今週の私の状況も、何かしら♯12以降の猪突先生のお話と関係することがあるのではないかと思って書いていたのです。上に書いたように私は結構ミスを連発しているのですが、ある地点で、外国語が母国語と錯覚する瞬間が訪れます。すると自分が話せる言語は周囲も話せるものだと錯覚し、日本人に外国語で話しかけはじめるのです。あんた、これくらい分かるだろう、と。タクシーのお釣りなどで、一瞬、仏語で話しかけたくなります。しかしふっと我に返って、日本語に切り替えます。カタカナ外国語の濫用は、結局こういうことなのではないかとも思います。聞くところによると、言語を使用する脳の部位は二つあって、母国語は脳の内奥で使うのだそうです。内奥に一旦入り込むと、もう自分では客観的に管理制御し切れなくなり、だーっと捲し立てることはできても、不正確です。こうした錯覚を利用して、マーケティングを行っているのが、昨今の日本の広告代理店です。

 昔、お正月のテレビの企画で、困っているおばあちゃんに英語を教えるというものがありました。外国人タレントが呼ばれて来て、「一体、何を困っているのでしょうか?」とリポートしていましたが、蓋を開けてみたら、スーパー等で人参が「キャロット」などカタカナ表記で困っているというんです。キャロット・ジュースではなく、人参の絞り汁と書いてもらわないと分からないということでした。世代の差があります。私が学部生の頃(もうかなり前)、広告代理店の人に話を聞いたら、こうやって外国語を使うことで、世代を囲い込んでいるのだそうです。ある程度の英語を使っても大丈夫なのが、若い世代。片言がそれより上の世代。アレルギーがあるのが、ご年配。若い人だけに売ろうと思ったら、英語で表記すればいいのだ、というのです。

 何とも安易ではないでしょうか。私は日本語で、しかも漢字でつけてくれた方がありがたく感じるのです(これは猪突先生に怒られてしまうかもしれませんね。漢字も元は中国のものですから。しかし漢字もまた日本人の脳味噌の内奥に浸透してしまった外国語なのでしょう)。ところが今は、せっかく日本語で、漢字で物品の名前を付けても、ローマ字表記にしてしまうのがNowでヤングだというご時世です。いやはや、私の趣味ではないようです。漢字にせよ、ひらがなにせよ、墨書なんかかっこいいと思いますけれどもね。

 あまり頭が働かないので、やや文章が冗長になったことを御許しください。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>今週の私はずっと通訳みたいなことをやっています

御多忙のなか、回答を寄せていただき、ありがたうございます。cyototuさんがほめていらつしやるとほり緻密な論理構成に感服いたしますし、それと同時に感性も優れてゐて、私のやうな運転手には真似すらできません。翻訳は苦手で、外国語カテゴリでも、訳せ、といふ質問には回答しません。翻訳出版をなさるのでしたら、教へください。安ければの条件付きですが、購入したく存じます。

>言語を使用する脳の部位は二つあって......不正確です。

先ほど飲んだばかりです。おもしろさうな内容に思へるのですけれど、論旨が把握できませんでした。よろしければ具体的に御説明くだされば助かります。もう一杯飲めばわかるかもしれません。

>こうやって外国語を使うことで、世代を囲い込んでいるのだそうです。

こちらの広告代理店のお話は理解いたしました。売込みの対象者に合せてゐるのですね。

また楽しい話をお聞かせください。

お礼日時:2016/01/14 21:17

「ほな、さいなら」か〜。

これは、あたしにゃ「お茶の子さいさい」の話だね。元々「これにて失礼」の前置き「さようならば」に、またその前行き「ほな」を付けて、前置きと前置きだけで、肝心な部分を取っ払ってしまった言葉だ。そのうちに「ほな」だけになっちゃうのかな。いや、東京界隈の標準語と呼ばれている方言では、とっくに「ほな」だけ、すなわち「じゃあね」が使われている。これも「それではね」から「そんじゃあね」となって「じゃあね」と略しっぱなしだ。

前置きだけの言葉では、「おおきに」「どうも」「だんだん」がある。皆そのあとの「ありがとう」の肝心な言葉がとっ払われてしまった。

これって、日本人の省略のし方の典型で、日本人はテレビジョンをテレビと略すがアメリカ人は決してテレビと言わず、TVと略してる。マクドも同じだ。日本独特の文化だ。でも、最近新聞じゃDV(ドメスティック・バイオレンス)などアメリカの真似をして日本の文化を壊そうとする動きが目立つ。先日も新聞でEVって見出しが出てたので、てっきりエロビデオのことかと思ったら、エレベーターだと。こりゃビックリしたね。何でマスコミは日本の文化がそんな嫌いで憎いんだろうか。

「ありがとう」だって、メルシーと同じで、元は相手に感謝する言葉じゃなくって、神に感謝する言葉だった。だから、ありがとうと言われて、「いや、とんでもない」って答えたら神に対する不敬、不遜な言葉なんだが、みな平気で使っている。

「さいでやんす」も賽の言葉と紛れて、「神の思し召しでやんす」なんて語源説がそのうち出て来るんだろうね。
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この回答へのお礼

>「ほな、さいなら」か?。これは、あたしにゃ「お茶の子さいさい」の話だね。

賽づくめですね。「ぢやあね」は便利なので私も使ひます。東京界隈ではなく、広島県東部の福山市に住んでゐます。

>新聞でEVって見出しが出てたので、てっきりエロビデオのことかと思ったら、エレベーターだと。

この略し方は読解困難です。どんな解釈をするかで、人間性や嗜好が判断されてしまひさうです。

>「さいでやんす」も賽の言葉と紛れて、「神の思し召しでやんす」なんて語源説がそのうち出て来るんだろうね。

回答番号16の方は、cyototuさんを頼りになさつてゐるやうですので、今後も楽しいコメントをよろしくお願ひします。ありがたうございました、神様に。

お礼日時:2016/01/14 20:59

「賽は投げられた」と


関西弁の「ほな、さいなら」とは関係あるのかどうか?ですね(違)。
あるかも?

最近では「さいなら~~」とか「バイバ~イ」よりも
どうせ又一緒に頑張るんやし、遊ぶんやし、これからも宜しく頼る気あるんやし
「約束する必要すらない」ループがあって別れの挨拶じゃなくて、
結界破り?『共に生きている』受け入れの挨拶「お疲れ様です」を多用してて、
何気に深い言葉ではないかと今気付きました。

「頂きます」「ご馳走様でした」も結界破りの言葉。
お箸を料理と人間の狭間に置くのは命を扱う神域と人間界にある結界ということらしいです。
神も人間が居なくなれば寂しいはず。
神様は人間ほど苦労も自慢もなされないが
置かれた状況に共に生きている。
共に生きれなくなると賽なら?
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この回答へのお礼

miko-desiさんの関西弁は堅苦しさが抜けて、いいですね。

>「ほな、さいなら」とは関係あるのかどうか?

そのうち、「ほな、賽投げ」に変化するかもしれません。

>神も人間が居なくなれば寂しいはず。

いはれてみれば、さうです。箸は神と人の間の結界だつたのですね。戦にかぎらず、さまざまな場面で神との関係を論じてくださり、ありがたうございました。

お礼日時:2016/01/14 20:47

№14です。



そういったご議論がすべて クリスマスツリーのカザリの部分だと思います。

樅の木と言いますか カエサルの境地を問題にすべきではないかというのが 
回答の趣旨です。

▼(ヰキぺ:ウェルキンゲトリクス) ~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7 …
§ 1 生涯

20歳前後で族長となり、ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争において
それまで統率の執れていなかったガリア諸部族をまとめ上げて対ローマ統一部
隊を組織すると、ガリア各地でゲリラ戦やローマ軍の兵站線の寸断、焦土作戦
などを展開し、ローマ軍を苦しめた。
アウァリクム包囲戦でアウァリクムを陥落させられたが、ゲルゴウィアで反撃、
ローマ軍に勝利した(ゲルゴウィアの戦い)。
しかし、最終的にはガリアの都市アレシア(現在のディジョンに近い地域)に
追い詰められ、ローマ軍に包囲された。突破作戦を決行するも失敗し、部下達
の保全を条件についに降伏、投降した(アレシアの戦い)。
その後、ウェルキンゲトリクスはローマへと送られ、6年間トゥッリアヌムに
投獄された後、カエサルの凱旋式が行われた際に処刑された。

≫カエサルは基本的に敵に回った人間でも処刑することがなかった(蛮族に対し

てもやや基準が厳しいが、人質の倍増で済ますことがほとんど)が、若くして

統一組織のないガリアの諸部族をまとめあげてしばしばローマ軍を打ち破った

彼に対してだけはそうはしなかった。≪

▽(絵):"Vercingétorix jette ses armes aux pieds de César"
(1899年フランス人画家リオネル・ロワイヤル作。ル・ピュイ=アン=ヴレ、
クロザティエ博物館所蔵)
アレシアの戦いにて、カエサル(赤いトガをまとう人物)の軍門に下り、勝
利者の足元に武器を投げ捨ててみせるウェルキンゲトリクス(馬上の人)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

▲(ヰキぺ:カエサル) ~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4 …

ルビコン川を渡る際、彼は

 「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。
 神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、
 賽は投げられた」

と檄を飛ばしたという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「賽は投げられた」の回答画像15
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この回答へのお礼

昨日は昼前から仕事で帰りが遅くなつたのでお礼ができませんでした。

>そういったご議論がすべて クリスマスツリーのカザリの部分だと思います。

誤解があります。私が「クリスマスツリーのカザリ」のやうな議論をするとでもお考へなのですか。いつたいどんな読み方をなさつてゐるのでせうか。気を確かに持つてください。そして真実を見きはめてください。私の文面は「クリスマスツリーのカザリ」などではなく、「七夕のカザリ」です。

今回の質問はiacta-alea-estさんの復帰祝ひです。私としては「賽は投げられた」といふ言葉が「iacta alea est」といふスエトニウスの標準テキストが正統であることを示さねばなりません。「カエサルの境地」は二の次です。cyototuさんが兵士にとつては「賽は投げられた」なんて言葉よりも重要なものがあるとおつしやつてゐるのはそのとほりなのですが、やはりaleaが真ん中にくるラテン語の語順は格好いい。たすてん先生も同じことを書いてくださいましたが、iacta-alea-estさんも本物の芸術家なのでせう。

ラテン語は独学で、大学3年生の夏休みに文法の勉強とカエサル『ガリア戦記』を読みました。ウェルトキンゲトリクスについての記述は第7巻に出てきます。ちよつとした情報であればウィキペディアも有用ですが、「カエサルの境地を問題にすべきではないか」とおつしやるのでしたら、きちんとした資料から論じるのが筋ではないでせうか。

カエサルは全軍の兵士を勇気付けるための集会を開き、神神に言及しました。
「さよう、不滅の神々の恩寵と、諸君の勇気とによって、すでに敗北の恨みを晴らしたのだ。もはや敵の歓喜も、長つづきはしないし、われわれの苦しみも長びくことはあるまい。」
(カエサル『ガリア戦記』第5巻52節 国原吉之助訳 講談社学術文庫193ページ)
さらにガリア平定後の凱旋においても、神々への感謝の生贄を喜んでゐます。私が『ガリア戦記』を読んだかぎりでは、他の回答者のみなさんの御意見が適切に思へます。実際のところはカエサルにしかわかりませんし、ぶらげろさんの見方が正しいのかもしれませんけれど。

お礼日時:2016/01/14 20:42

№7です。



間違ったならその自分を嗤おうと決めての投稿です。

カエサルは ガリア侵略において例の Vercingetorix なるケルト人たちに
抵抗に遭い 長期戦を最後の最後でかろうじて勝ちをおさめたとか。

でも それでも・そしてそれなら 運も味方であり自信を持ったかと思わ
れます。

あとは ルビコンを渡るだけだったのでは?

折節で笛やラッパで士気を《鼓舞》することはあっても もう神々はむし
ろ神々を自分たちに従えるだけであり 賽を投げることに特別のピッタリ
としたタトヘの効果があるのでないかぎり その場では言わないでしょう。

▼ 卑劣な政敵が呼んでいる
☆ こういう言い方は よほどのことがあってその場で一時的に口にする
ことはあっても まづきちんとした情況にあっては言わないと思われます。
〔カエサル自身が〕ただの簒奪者なら別でしょうけれど。


問い方を変え得るものなら そういった観点からの事態の解明を俟ちます。
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この回答へのお礼

ルビコン川を渡るのは、規約違反といふことであつて、必ずしも戦争になるわけではなく、通報削除とか、退会処分とか、厳重注意ですむ可能性もありました。実際上はそんなことではありませんでしたけれど。

>運も味方であり自信を持ったかと思われます。

宮本武蔵の境地ですね。「神々を自分たちに従える」といふ御指摘は、異なりますけれど。

「大きく容貌のきわだって美しい男」がアポロンなら、ローマ建国に関連づけて、ローマ維新をめざしたのでないか、といふ見方もできるのですが、みなさんの御意見では、やはりパンのやうです。

以前ヘブライ語の三人称命令法についての質問をなさつてゐました。今回も回答番号4でギリシャ語とラテン語の三人称命令法の話題が出ました。私の見解は以前回答したとほりです。名文句の決定版はiacta-alea-estさんが採用なさつてゐるとほりでいいのではないかと私は思ひます。

お礼日時:2016/01/13 10:16

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Aベストアンサー

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そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね?
「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか?
もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか?

あともう一つ、現象的意識が「現れる」という表現がよく見受けられますが、
現象的意識を「感じる」「受け取る」という言い方は不適切なのでしょうか?

質問ばかりで申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。

反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか?
また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…?
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Aベストアンサー

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識によるからです。ですから、物事の意味理解は全て反省的意識によると見てよいのではないかと思われます。私には、反省的意識と機能的意識は同一としか考えられません。


例えば生まれたての赤ん坊の意識はほとんど純粋に現象的意識でしょうし、
5+7=12などの単純な計算はほとんど純粋に反省的意識によるのではないでしょうか。


>「質感を持たない主観的体験」
難しいですが、無いように思います。


感覚ではなく現象、感じるではなく現れる、と表現するのは現象学や純粋経験論的立場をとっているためではないでしょうか。
感じる「私」の存在は実は前提ではなく、ただ経験(現象)あるのみとしか言えないというアレです。


参考になる所があれば、ぜひしばらくお付き合いください。

思い付きなので参考までに。
「現象的意識」は感覚的なものについての意識、「反省的意識」は言語的意識ではないでしょうか。
(雑過ぎる分類な気もしますが。)


例えば、あるものがある形をした赤いもので、手触りはさらさらしていて、味は酸っぱくて甘い、といったことは感覚的意識と思われます。しかし、これは「りんご」であるという判断は少なからず反省的意識によるものでしょう。「りんご」という概念=言葉で括られた感覚的意識の記憶を想起する必要があり、その「言葉の括り」の認識は反省的意識による...続きを読む

Q古代ギリシャの伝説では、超古代に、神々の戦争があり、勝った神々(ゼウス

古代ギリシャの伝説では、超古代に、神々の戦争があり、勝った神々(ゼウス神ら)が、今宇宙を創造したとありますが、これを真実だと思いますか。

真実だとして、勝った神々は愛、真、善、美の神々だと思いますか。

負けた神々の方が、愛、真、善、美の神々だったと思いますか。

どちらも、愛、真、善、美の神々だったと思いますか。

どちらも、愛、真、善、美の神々ではないと思いますか。

Aベストアンサー

 愛、真、善、美というのは創造された客体存在の境域の内部の事だと存じます。
 そういう原理理念とそれに対する原理理念があって、始めて客体存在があるかの(そんざいするかの)如く現れるのだと存じます。
 従って愛、真、善、美とそれに対立する原理理念をブレンドした原理以前の世界が創造者の世界だと存じます。
 だからどちらでもないと存じます。
 神話の神々の戦争をどう解するかはいろいろありうるでしょうね。原理理念的命名の象徴ではなく、神(一:いつ)の中の出てくる力、意志かもしれませんね。

Q奇蹟の言い広めの禁止について

ルカによる福音書(新共同訳)

4章31ー37節 汚れた霊に取りつかれた男をいやす
  38ー41節 多くの病人をいやす
5章12ー16節 重い皮膚病を患っている人をいやす
  17ー26節 中風の人をいやす
6章 6ー11節 手の萎えた人をいやす
  17ー19節 おびただしい病人をいやす
7章 1ー10節 百人隊長の僕をいやす
  11ー17節 やもめの息子を生き返らせる
8章22ー25節 突風を静める
  26ー39節 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす
  40ー56節 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女
9章10ー17節 五千人に食べ物を与える
  37ー43節 悪霊に取りつかれた子をいやす

13章10ー17節 安息日に腰の曲がった婦人をいやす
14章 1ー 6節 安息日に水腫の人をいやす
17章11ー19節 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
18章35ー42節 エリコの近くで盲人をいやす

ルカによる福音書に記述されている主の奇蹟の中で
5章12ー16節 重い皮膚病を患っている人をいやす
8章40ー56節 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女
の2カ所に関してのみ、これらのことを言い広めることを主が戒めています。
5章14節
イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。
ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、
人々に証明しなさい。」
8章56節
娘の両親は非常に驚いた。
イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
何故、この2カ所だけ奇蹟の行いを言い広めることを禁止しているのか、
また各教会ではどのように理解しているのかをご存知の方がいらしたら教えて下さい。
よろしくお願いします。

ルカによる福音書(新共同訳)

4章31ー37節 汚れた霊に取りつかれた男をいやす
  38ー41節 多くの病人をいやす
5章12ー16節 重い皮膚病を患っている人をいやす
  17ー26節 中風の人をいやす
6章 6ー11節 手の萎えた人をいやす
  17ー19節 おびただしい病人をいやす
7章 1ー10節 百人隊長の僕をいやす
  11ー17節 やもめの息子を生き返らせる
8章22ー25節 突風を静める
  26ー39節 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす
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Aベストアンサー

キリスト教は、プラトン主義と言われます。

どうしてか。

紀元前427年 - 紀元前347年の人です。

イエスがいたとされた時代より、ずっと前の人で、ギリシャにいた哲学者です。

いいことをすれば、「いい人だ」と他人から善い評価を受けてしまいますよね。
善い行いをするのは、善い人だと評判を得るためにやるのか、本当に善い人だから善い行いをするのか、善い行いをすれば毎回褒められる(徳を得る)と、本当にその人が善人だったからなのかわからないですよね。

そこれ、プラトンは考えた。
<その人から全ての徳(善い評判)を奪ってみても、善人だったら、その人は本質も善人だったということになる> と。


善いことをしても褒められず、評価されない。それでも善いことをし続けるか?

今までの善い評判を奪い、つまり 紫の衣を剥ぎ取り、鞭打ち、十字架にかけても、その人が最後まで善人だったら、その人は評判を得たいから善いことをしていたわけじゃないとわかる。 と。

そうプラトンは考えた。


新約聖書の元となる小説を書いた人は、プラトン哲学に影響を受け、それで旧約の話も交え、ユダヤとヘレニズム文化を融合させる物語を作ったのかもしれない。

ユダヤ人は古くからディアスポラして、各地に住んでいたわけですが、ギリシャ方面だけでも本国ユデアの8倍ものユダヤ人が住んでいたそうです。
生まれがギリシャでギリシャの文化で育った、ユダヤ人が本国の8倍以上もギリシャだけでもいたので、プラトン哲学の精通しているユダヤ教聖職者もいたんでしょうね。

新約聖書の内容は、旧約に精通していないと書けない内容なので、一般のユダヤ教徒が書いたのではなく、ギリシャに住むユダヤ教の祭祀か律法学者 あるいはラビが書いたのだと思えます。
今のように誰でも聖書が手に入るという時代ではなかったので、細かなところまで知っているってことは、作家はそれらのどれかの地位だったと伺えます。


話は戻って、小説の中では、イエスは多くの障害者を完治させていきます。
その当時 障害を持った人は神から呪われているとされたので、障害が消えたってことは、信仰を深くしたことで、神は呪いを解いたってことですね。


もし、信仰が深くなくても癒されるとしたら、信仰すること自体価値が無い。 となる。
ここがポイント。


例えば「私は無くした手をイエスによって、再生させてもらった。え? 信仰なんてありませんよ。 誰だってお願いすれば、やってもらえます」と言えば、信仰することになんら価値は無いわけです。


聖書作家が言いたいことは、「信仰が深くあれば、無くなった手すら生える」 みたいなこと。

だから今でも障害を持った人は、奇蹟が起こったという地に巡礼で行くわけです。
巡礼したところで、無くなった手が生えたなど一例もありませんが。
信仰が無いから神の呪いは解けない・・・・。なわけないですね。 
あくまでも小説内でのみ可能なことですから。
まあ 巡礼して一心に祈れば無くなった手が生えてくるという期待を胸に、いつかはと巡礼を夢に描いて生きるってのも、希望に満ちた人生だと思います。


で聖書作家が言いたいことは、<信仰が深かったから効果があった>ってこと。

いくらイエスが強い魔法使いでも、魔法をかけられる側に信仰が無ければ、無効。
なにも変化しない ってこと。

だから、奇跡的なことが起こったら、「イエスって人が魔法で治してくれた」と言いふらさず、黙って自分がいかに信仰深かったかを示す。
治った体を祭祀に見せれば、祭祀は「信仰があなたを救った」 と言ってくれるわけです。
(上記で書いたプラトンの義人の証明理論が、ここで使われているわけです。)



こういう物語があります。
マリアの両親は子供ができませんでした。
そこで、子供を授けてくださいと神にお願いしようと神殿を訪れたら、祭祀に「子供がいないということは、お前たちは神に呪われるからだ。 神から呪われたものは、神殿に入ることは許されない」と追っ払われた。

信仰が深くなく穢れたものが神殿に入ると神の住まいが汚されるってわけです。

それで二人は信仰が浅いから子供に恵まれないと知り、必死で信仰を深くしたところ、マリア誕生。



というわけで、奇蹟は信仰が深くない人には起きないってことです。


「イエスってすごいマジシャンがいて あっという間に治療してくれる」となると、信仰が無くても治るって勘違いされ、 信仰が深かったがゆえに、奇蹟が起こった って重要なことが伝わらないじゃないですか。

徳を得た つまり病気を治してもらうために信仰する とかだと、真の信仰じゃないじゃないですか。
条件つき信仰だから。
神がすばらしいからじなく、自分が利益を得るために信仰をするのだから。
神中心ではなく自分中心だから。


なんで、2回だけイエスがやったといわず、信仰により回復したことをみんなに見せろって言ったのかは。。。。

全部に対して、「私が治療したのではなく、自分の信仰によって癒されたことを みんなに見せなさいと言った」って重複しちゃうと、。。。
文章作成能力が下手な作家ってなるじゃないですか。

たとえ、作家が毎回書いたとしても、編集者が重複した部分をカットしたんじゃないかと。

文章に書かれていなくても、行間に同じことがある と読者が読み取れる部分は、カットされる。


そういうことじゃないかな と思います。

だから 2回だけ他人に言うなと言ったわけじゃないと思います。

キリスト教は、プラトン主義と言われます。

どうしてか。

紀元前427年 - 紀元前347年の人です。

イエスがいたとされた時代より、ずっと前の人で、ギリシャにいた哲学者です。

いいことをすれば、「いい人だ」と他人から善い評価を受けてしまいますよね。
善い行いをするのは、善い人だと評判を得るためにやるのか、本当に善い人だから善い行いをするのか、善い行いをすれば毎回褒められる(徳を得る)と、本当にその人が善人だったからなのかわからないですよね。

そこれ、プラトンは考えた。
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Q神々安定のパーティーを考えてください。


・光ホルス ・究極エキドナ・クリシュナ・光レイラン・赤ホルス・光カグツチ
・ムラクモ・究極ギガンテス・究極千代目

・究極オロチ・ヘライース・光ラクシュミー・ジークフリード・闇ネプチューン

・究極緑おでん×2・光パール・光フレイヤ・光アルテミス・光セレス
・アヴァロンドレイク×2・ゼウスディオス・木諸葛亮・究極バステト

・究極イザナギ・究極白メタ・究極黄ヴァル・究極ゼウス・究極ヴァーチェ
・女トール・レモンドラゴン・究極インドラ

・闇ヨミ・呂布・光リリス・パンドラ・堕ルシ・闇ヴァンパイア

すべてレベルMAXです。プラスは全然ありません。
神々安定周回(高速より安定を取ります)パーティーを考えてください。
LF光ホルス Sオロチ 緑おでん イザナギ ヨミ
or
LF 光パール究極アテナ Sフレイヤ アルテミス アヴァロン 緑おでん
で行ってるのですが、なかなか安定しなくて 笑

だれか助けてください。
ヨロシクお願いします!!

Aベストアンサー

10回に1回ぐらい事故るのですが

LFクシナダ、エキドナ、アテナ、メイメイ、ヘラクレス・・・

ヘラクレスのスキル貯めが時間がかかる

ゼウスの時にエキドナの威嚇とヘラクレスの4ターン神1.5エンハンス

保険が、クシナダの聡明なる神護・・・

エンハンスと変換がある方が安定すると思う・・・

提示されたモンスターだと私には無理っぽい・・・

Qアルケーの神がものを言ったとか。奇蹟ではないか?

 ▲ (アルケーの御言葉) ~~~~~~~~ 
 アルケーの神は申された。
 ここにいるあなたがた皆にゆーておきます。
 もしここに死人の体に触れその死人を生き返らせたなどとゆー男がいたなら、その男はいかさま師であると思うが良い。
 ・・・(中略)・・・
 ここにいるあなたがた皆にゆーておきます。
 この世界に奇跡など起こすことは出来ません。
 何故なら万物の根源、宇宙の法則、アルケーがそのよーに定めたからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 
 このように
 ▲ アルケーの神は申された。
 ▲ アルケーがそのよーに定めた
 ☆ これらは もしその声が聞こえたとしたら・また定めたという行為が分かったとしたら それは奇蹟ではないだろうか?


 神がコトバをしゃべったとか 何かを定めたとか その声を聞いたとか その行為を見たとか これらは 明らかに奇蹟ではないか。
 奇蹟ではないと どうやって証明するのだろうか?

 つまり 声を聞いた人間などはひとりもいないのだから。

Aベストアンサー

う~ん、確かに・・・
矛盾してる。


ついでに
心停止した人(昔の人から見たら心臓止まったんで死体)に心臓マッサージをして回復させた人はいかさま師になってしまう可能性があるなぁ
医者は詐欺師かぁ、なんというか・・・


大概の宗教は自分とこの神や使者が成したとされる奇跡以外は認めんものよのぅ
特に一神教は認める訳にはいかんだろうからなぁ。
それが軋轢を生むんだけどね

Q神道において、どこまでを神々の御加護と考えればいいのか

私は神道に興味があり、その結果、
日々のさまざまな良い出来事を神々のおかげであると考えるようになってしまいました。
ここで、重要且つ、うまく行き過ぎている出来事を神々のご加護に違いないと考えるのは良いことかもしれませんが、
私は極端な人間ですので、ちょっとした物が手に入ったり、飯がうまかったりしただけで、
神々のご加護かもと考えてしまいます。
如何せん、一切、神通力などという高等な力は持ち合わせていないので、
そういうのが分からないのです。
そのためか、神々が不快に思うことも分からないので、作法でよく後から後悔したりもします。
どのように基準ラインを探せばいいのでしょうか?

Aベストアンサー

>>どのように基準ラインを探せばいいのでしょうか?

神道の神に限らず、キリスト教でも、仏教でも多くの信者さんがいる組織のトップは「忙しい」のです。もちろん聖徳太子のように、いやそれ以上に、同時にうん千人とかうん万人の相談事に対処可能ですけど、日々の細々としたことにまで「ご加護」するのは無理ですね。
だから、「ちょっと体調悪ーい。風邪ひいたようだ。○○様、治してください。お願いします。」とか「明日の映画のチケットがどこかに行ってしまった。○○様、探してください!」なんてお願いは無視されるでしょう。

その方の「人生の転機」あるいは「生命の危機」っていうようなときに、人智を超えたパワーを使うことが基本でしょう。とはいえ、人間は100年余りも生きれば、誰しも死ぬわけです。どんなに素晴らしい人でも、恋人でも「最後は死ぬ」ので、不治の病になったとき、神に祈っても無駄なことも多いのですけどね。

ですので、個人的なことで祈ると「風邪ぐらい自分で努力して治せ!」とか「この日本を指導する神のトップグループの私に、探し物をしろというのですか?」って、神様は不快に思われるようですよ。

でも、ささいなことにでも感謝するのは、良いことだと思いますので、「ご飯がおいしい。お天と様、大地の神、ミミズ様、お百姓様、配達してくれたヤマトのおにーちゃん、ありがとう」っていうのはOKですね。

基本的に、プラスは感謝、マイナスは「自分の努力不足あるいは、もっと大きな失敗をしないための予防接種・神からの警告」って考えればいいと思います。

>>どのように基準ラインを探せばいいのでしょうか?

神道の神に限らず、キリスト教でも、仏教でも多くの信者さんがいる組織のトップは「忙しい」のです。もちろん聖徳太子のように、いやそれ以上に、同時にうん千人とかうん万人の相談事に対処可能ですけど、日々の細々としたことにまで「ご加護」するのは無理ですね。
だから、「ちょっと体調悪ーい。風邪ひいたようだ。○○様、治してください。お願いします。」とか「明日の映画のチケットがどこかに行ってしまった。○○様、探してください!」なんてお願いは...続きを読む

Qコイン投げは決定的な出来事?

コイン投げは、決定的な出来事なのでしょうか?
決定論、非決定論の立場から、ご回答願います。

Aベストアンサー

 
問題が、少し曖昧でよく分からないのですが、これは、コインを投げると、その結果は、決定論的に決まっていて、自由意志などの入る余地はないという質問なのでしょうか。一応、そういう問いとして,回答させて戴きます。

まず、物理学的に考えます。古典力学で考えると、この力学の世界は、初期境界値が決まっていると、その後は、すべて「決定論」で決まります。コインを投げるときの手の振り方などは、大脳の運動野などで、決まってきますが、この運動野の細胞の働きも決定されているとなり、決定論になります。

次に、量子力学で考えると、コインが宙を飛んで着地するまでのあいだの運動が、大気との摩擦や風の影響で決まる、その決まり方が、微細な部分で、量子力学的不確定性によって決まる場合があり、「確率的に」決定的となります。

コインを投げる手の動きや、意志についても、大脳細胞の働きで、量子力学的不確定性が出てきて、これは、コインの落下運動の際の不確定性よりも、もっと大きな影響を与えます(大脳細胞が微細なため,量子力学的な効果が現れ易いのです)。ですから、量子力学的には、「確率的に決定的」で、一種の決定論ですが、確率の実際の広がりが非常に広く、ほとんど非決定的です。

また量子力学でも、確率で決まらない問題があるとされ、パラドックスの名前がついていますが、この辺りまで考えると,何か決定論的な要素はあるが、非決定に近いとなります。

物理学は、あくまでこの世界のモデルですから、「個別的一回的事象」については、法則の妥当性は、あくまで、法則の「普遍的適用性」という超越的な前提で成立しているだけです。

人間の意志が、コインの出方の結果に作用するかどうか、これは超心理学の問題ですが、明確な答えはありません。しかし、ユングの共時性の理論での宇宙だと、意志がコインの出方を左右できるということになります。物理法則とは別の法則が作用するということです。

他方、永遠の神の視点からは、一切の現象は、完了しているとも言えます。神あるいは、人間の意志もそれに参画していると考えられる、永遠における躍動としての可能性が、この完了性に干渉します。

永遠の視点からは、「決定論」、しかし、生の躍動などの時間というものの「生成構造」からは、「非決定論」です。

どれが答えなのか、というのは、宇宙を永遠的にも考えた結果の展望である、時間の生成構造を考慮したビジョンでの「非決定論」が妥当だとなります。

ただし、日常的次元では、決定論的に事象は起こっているように見えることが、一般的です。
 

 
問題が、少し曖昧でよく分からないのですが、これは、コインを投げると、その結果は、決定論的に決まっていて、自由意志などの入る余地はないという質問なのでしょうか。一応、そういう問いとして,回答させて戴きます。

まず、物理学的に考えます。古典力学で考えると、この力学の世界は、初期境界値が決まっていると、その後は、すべて「決定論」で決まります。コインを投げるときの手の振り方などは、大脳の運動野などで、決まってきますが、この運動野の細胞の働きも決定されているとなり、決定論にな...続きを読む

Qイザナギとイザナミ

(1)イザナギが淡路島にとても関係が深い。ということは、日本書紀から理解できました。そこで、イザナギに関係の深い場所と言えば、熊野なのでしょうか。
(2)イザナギは、イザナミと国産みをしますが、イザナギだけでたくさんの神を産んでいます。これは、異なった2つの(あるいは、それ以上の)神話をくっつけたのでしょうか。
 

Aベストアンサー

(1)熊野に関係が深いのは、イザナギではなくイザナミの方でしょう。「クマ」とは、奥まったところ、日常の世界とは違う常世の世界をあらわす言葉です。かつて日本にはいたるところに「クマ」の世界が拡がり、人はそれを感じ取っていました。暗闇を切り開き古い神を葬る。「もののけ姫」でもとりあげられたテーマです。古き神の奥津城として現在まで残っているのが紀伊半島の熊野です。
(2)淡路島と熊野が対峙していることを考えると、この地を行き来した海洋民の姿を思い浮かべることができます。イザナギ・イザナミの2神で産んだ神々とイザナギが1神で産んだ神々とは性格が大きく異なっています。くっつけたかどうかはわかりませんが、故意の作為は感じられます。

 なお、fayestさんも指摘しておられますが、九州にもイザナギの禊ぎ伝承地があります。
 出雲の熊野の地は、イザナミの埋葬地伝承があります(比婆山)。

 

Q現象学的思索

現象学的思索とは、「マフィアのボス」といったシンボル(?)を投下し、それ自身の発展を観察するという手法と考えてよろしいですか?

Aベストアンサー

「マフィアノボス」概念投下自体は、あまり関係しないかもしれません。

が、フッサール的に言えば、「マフィアノボス」のアプリオリな側面は、何かとまず考える(構成要素1)ことです。そして、イメージの中に潜む錯覚は具体的には何かと掘り下げる。(プロフィールに俺俺テーマの哲学引用文を書いて、括弧で著者名を書き添え、自己の権威付けを図るるるるとか言う醜く、イカ臭い飾りごとをしないということ・その態度です。)

社会学的に例示すると、社会の混沌期には、社会性を形づくる上で「血縁」が非常に重要な要素となるということですが、それをたとえば、現時点で地理的に「どの地域でこの考え・理論が正しい」といえるかとか、混沌とした社会の中で血縁関係を重視したとき新しい問題として浮かび上がる悲劇(逆に利点)とは何かと哲学的に取り扱い(構成要素2=他の学問への応用、もしくは関連する学問の基礎付け代行)、「結果を出す(構成要素3=作文)」ということです。

社会科学的に、たとえばデジタル革命に関してこのアプローチは、かなり頻繁に 使われているようです。


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