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神は愛だと言いますが、私には実感が湧きません。
むしろ、この世の多くの不幸を見ると、とてもじゃないけど、神が愛だなんて思えません。

神が愛だという人は、どうしてそう言えるのでしょうか、その根拠を教えて欲しいです。


昨日、あるプロテスタント教会の牧師様にもメールで質問したのですが、返事なしです。
彼も、おそらく、説教では「神は愛だ」などと信者に向かって言っているのでしょうけど、彼自身、本当のところは分かってないのじゃないかしら、と思います。

皆、本当は分かっていないのに、分かった振りをして、神は愛だと言っているだけじゃないのかしら、と思います。

本当に解っている人がいれば、チャンと詳しく教えて欲しいと思います。

本当に解っている人、誰かいますか?

質問者からの補足コメント

  • 牧師様からも返事が来ないし、回答して下さった内容も、私の質問に直接答えたものはないし、結局、みんな、本当のところは何も解っていないと感じました。
    がっかりですが、そんな所が本当なのかも知れないですね。
    何か正解が得られると期待したのが間違いだったようです。

    解っていないのに解ったように振舞う、それは、正に偽善でしょう。
    でも、世の中って、そんなものなのかもね。

      補足日時:2020/08/27 20:05
  • 期待したような回答は、誰からも得られませんでした。
    結局、みんな、神の愛など実感していないのでしょうね。
    だって、実感していれば、自分の体験談として紹介は可能ですものね。
    それさえもない、と言う事は、誰も神の愛など実感していない、という事でしょう。
    だのに、神の愛を説く人がいる。
    不思議です。
    皆、偽善者なのかな?

    質問の内容が高度すぎたのかも知れません。

      補足日時:2020/08/29 09:53

A 回答 (14件中1~10件)

あくまでも私の個人的な解釈ですが、例えば「三平方の定理が成り立つ根拠」とか「相対性理論が正しいと言う根拠」と言ったものと同じような意味で「神が愛である根拠」を求めるのであれば「ない」と思っています。

「神が愛である」と言うのは証明したり根拠を求めたりするものではなくて「神が愛である事を信じてあげる」あるいは「神が愛でないはずがない」と信じる事だと受け止めています。そうして世の中の出来事を見て「やっぱり神は愛だ」となるのだと思っています。


例えば親子関係が良好な人(ある程度普通な人と言うべきかもしれませんが)であれば「親は自分を愛してくれている」と考えるものでしょう。実際には自分にとって苦痛にしか思えない事(勉強を命じる事等)を指示する事もあるわけですが、そんな場合でも「親は自分の事を考えてこう言ってくれているんだ」と考えて逆に感謝するはずだと思います。


質問文にもあった「この世の多くの不幸」を見ると確かに「神は本当に人間を愛しているのか」と疑問(と言うより不信)に思えてしまいますが、これも「愛なる神がこの世をこんな状態にしているのは何か理由や事情があるはず」と考えれば「この世が不幸だから神は愛ではない」と言った事にはならなくなります。


なお私自身は「この世の不幸は神ではなく人間のせい」と思っています。人間には自由意志があるわけですから「神が人間の意志を無視して行動させる」と言った事はできないでしょうし、仮にそんな事をしたら人間はロボットのようなものになってしまって人間としての価値を発揮できなくなると思います。
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この回答へのお礼

示唆に富んだお話し、ありがとうございました。

お礼日時:2020/08/30 11:22

現世利益が必要なら、新興宗教が必要なんじゃないですか。



私は、キリスト教の教義を説明しているだけです。

苦しんでいる人、困っている人たちのために時間をとって、できることはしてゆく。そこに共感が生まれます。人に与えることが喜びになる。それが、神の愛に繋がります。それが、実感を得る、唯一の方法です。

教会にいらしているなら、奉仕活動から始めるのが、定番です。自分に何ができるか。小学生に勉強を教えてもいいし、老人に食べ物を配達しても良いです。人に喜んでもらうことが、自分の喜びになるのが、人間的な成長ひいては、愛を実感することに繋がります。
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この回答へのお礼

>人に喜んでもらうことが、自分の喜びになるのが、人間的な成長ひいては、愛を実感することに繋がります。

⇒ なるほど。
分かるような気がします。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2020/08/29 09:17

聖書によれば、イエス・キリストは、”私は神の国で君たちの場所を用意している”と言って、去ってゆかれた。

最期に、”世界中に私の言葉を広めなさい”だったそうです。

私の言葉を広めることで、貴方たちは糾弾され、殺されることもあるだろう。(今でも中国では布教したら刑務所行きです。イスラム教の国でも、サウジアラビアは微妙です。)

だから、キリスト教徒たちは、助け合わなくては生きてゆけない。困っている人の話に耳を傾ける。神に許された、そして、神に愛されているということが、大切です。

親の力を借りることなく、独立して生きるように教えるのが、愛です。問題が起きたときに、いつも、親を頼りにするようでは、腐ります。本当の友達もできないでしょう。
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この回答へのお礼

>神に愛されているということが、大切です

⇒ だから、「神に愛されている」という実感を得たくて、実感を得る方法を質問したのですが、質問に対する回答になっていないですね。

お礼日時:2020/08/28 10:30

キリスト教にも、その土地土地の下味がついていて、私が知っているのは、アメリカのプロテスタントです。



まず、前提として、人間は、エデンを追い出された、アダムの末裔であり、すべての人は罪びとです。キリストが生きていたころのユダヤの人たちも例外ではなかった。エルサレムをローマ帝国に占領され、律法を守りながら救世主を待っていたが、彼らが待っていたのはローマ帝国をやっつけてくれるリーダーであって、神が望んだような、敬虔な暮らしをしていなかった。

その時に、神がしたのは、人々を罰することではなくて、たった一人の愛する子供であるイエスを人間界に送ることだった。そして、イエス・キリストが過去・現在・将来、すべての人間の罪を、贖う(チャラにする)ために、十字架にかかった。彼が罪と共に死ぬことで、人間すべてが許され、また、神とつながることができた。

これが、神から人間への無償の愛、と考えられています。

だから、神は、愛なのです。
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この回答へのお礼

イエスの磔刑だけ?
それ以外に、神は、日常的には、神の愛を送ってくれていないのかなぁ。

お礼日時:2020/08/27 11:57

君の命を救ってくれただろ!イエス・キリストは君のために身代わりになり十字架に架かり死んでくれた、イエス・キリストを神と崇めることが

できれば、イエス・キリストのように蘇ることができる、信じるか信じないかは、、、、、、、、、
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無条件・無制限の赦しであり、それが神の証だからです。

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自分の理解の範疇で答えます。



「神は愛」というのは「創造主の主な特質は愛」と同義だと思っています。

子供を育てる時、親は怒る事もありますが、人格形成に最も必要とするものは愛情であることを知っています。これが感じられるようにしないと、子育ては思うようにいきません。

何事かを成し遂げようとする時、力や恐怖や抑圧で進めたものは必ず失敗に終わります。歴史はそう証明しています。愛がベースにないと、永続するものをつくることはできないと思っていますし、その先にあるのは希望だと思います。

人にそのような性質があるのは、創造主の最大の性質が愛であることの証明ではないかと思いました。

生命を支える水・炭素・酸素・窒素などの完璧な循環システムについて考えても、地球は見事な化学処理プロセスによって、自らの出す廃棄物全てを完全にリサイクルします。そこには創造主の愛情や意思が感じられるように思います。

多種多様な生き物について考えれば、これほどの種類が必要なのだろうか?と思えますが、多様性にあふれているからこそ、私たちはそれらを楽しむことが出来ています。まるで、命を存分に楽しめ、と言われているようです。私は多様な色彩によって助けられた経験があります。

これらを考えたとき「神は愛」というのが納得できた気になりました。


最後に、多くの人々に支持されている進化を受け入れることは一種の信仰であることが、納得のいく説明で私の資料には述べられていました。
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この回答へのお礼

大変、参考になりました。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2020/08/25 10:16

神は愛だと言った人間を寡聞にして知らない。



キリストは「信じるものは救われる」と言ったのであり、誰でも無条件に救うなどと言わなかった。
ブッダは「自分を拠り所にし法を拠り所にせよ」と言っただけである。
念仏を唱えていれば神が現れて救ってくれるなど一言も言わなかった。
(もっとも法とは「この世の真理」というほどの意味であり、神とは違う)

宗教の目指すところは
「社会と自分の幸せの追求」
である。
もし人間がクモのような生き物だったら
「自分の幸福の追求」
だけでよかったろう。
しかし人間は社会的動物である。
社会がなければ生きられない。
社会が良い社会であって自分の幸福も追求できる。
自分の幸福を追求できる社会はよい社会である。
このように、社会とのかかわりが避けられない。
なので「社会もよくし自分も幸福になる」となる。
社会とはつまり身の回りの他人のことであり、彼らの幸福なくして自分の幸福もあり得ない。
ここに宗教的な「愛」の概念が生じる。

ところで、キリスト教は三大世界宗教の一つであり、同じ三大世界宗教のイスラムとともに栄えている。
仏教は三大世界宗教と言われながらその信者は5億人ほどと言われ、20億人を超えるキリスト・イスラムに大きく水をあけられている。

その違いはキリスト・イスラムが一神教なのに対し仏教は無神教であることにある。
キリスト・イスラムなら「神のみ心のままに」で心を大いなる者に委ねることができる。
仏教ではそうはいかない。
「自分を拠り所にせよ。法を拠り所にせよ」
自分の欲の構造を知り、それを払いのけた先にある「自分を取り巻く社会」の真理を見出さなければならない。
自力解決型であり、落ち込んだ人間には冷たいのである。
もしそれができるようになれば自分も大いなる力を得られるようになっても、である。

つまり神とは人類全員が到達すべき理想像であり、自分の心を預けることのできる大いなる者である。
そして宗教的な「愛」という概念がある以上、それは神と直結していたほうが信者を導ける。
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この回答へのお礼

大変、参考になりました。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2020/08/25 10:19

イエス.キリストを世に送った事が神の最大の愛の証拠としていますね


ヨハネ3章16節とローマ5章8節を読むとわかります
「 神は実に、そのひとり子をお与えに・・・・」長文なのでカットします

ヨハネ14章3131に イエスが
・・・・父を愛しており、父の命じられた通りに行っている事を世が知るためです」
とある事から
キリスト教徒の愛は、神への愛が中心である事が分かります

アホな牧師に、聖書を読み直せ、と、言ってあげてください

更にキリスト教の歴史も、ね
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage5.html
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愛は無償(見返りを求めない)と言えば


マザーテレサですが

やってあげたのにやってくれない
神の世界では当たり前の事なのでしょうか

マザーテレサはどうでしょう
やってもやっても
やり尽くしても 目の前の病人は死んで行く

JesusやOh my God!など 神の名を用いて感情を表現しますが
愛から来ているのかもしれません

宗教的にどうのこうのではなく
心の儲け話として 引用しても 罰は当たらないでしょう
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