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愛情を注ぐ、と云う表現が有ります。
愛が欲しい、なんて云ったりもします。

博愛、と云うと私の言葉で言えば“与え心”です。
渇愛、と云えば愛に飢えていると云う事です。

疑問に思ったのは、愛を求める心は「愛」と言えるのだろうか、と云う事です。

与え心を愛とした場合、愛を求める「渇愛」と云う心は、なんといえばいいんでしょうか。
これも愛ですか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (9件)

"Love Is Wanting To Give Her The Stars and Moon"



「愛とはあの人に夜空の星や輝く月を捧げたいと思うこと」

「与えたい」ということも自己の「欲」です。

身近な例を挙げれば、あなたやわたしの愛を欲していない人にも、わたしたちは愛を与えよう=受け取ってもらいたいとう気持ちを持つ事があるはずです。

無論、「愛」は利己的です。
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この回答へのお礼

“与え心”も欲 !
“愛欲”? あ ~~。

愛も欲望でしたか。
「愛」は利己的。?

それじゃあ、博愛って何なんだ~?

お礼日時:2016/05/13 15:25

相手の状態によっては――そうすることによってその相手がわれを


取り戻し自分のチカラを自由に発揮することができるようになると
踏んだときには・と言っても 次のような振る舞いは 相手の状態
が待ったなしであるときに限りますが――

渇愛の動きをこちらが見せてやることも 愛として考えられましょ
う。

相手によりましょうし その時の状態によります。





愛は 相手本位です。

もっともそのように愛の行動を起こすことは 自分の我欲です。自
己チューであり アマエであり 我がままに振る舞っています。

ただし 《迷惑にならず過度のお節介にもならない程度に》と条件
づけていますから この点も大事でしょう。




細かい《手段》をおおしえしましょうか。

《我がまま》が 自分本位にならないためには 相手からの働きか
けがあった場合が よろしい。適しています。

さらには 相手が何らかのかたちで こちらに《攻撃》して来た時
をねらうのが いちばんです。アグレッシヴに成った時という意味
です。

言わばカウンターパンチを浴びせるわけです。そうすると 迷惑に
はならず お節介でもなくなります。



相手がこちらに対してアグレッシヴになる時を俟つのか?

そうですが その状態を相手の思わくに従ってこちらが作り出すこ
とも出来ます。

相手に《あたまにカチンと来るような言葉をあたえる》ことがよろ
しい。
あるいは 相手に王様になってもらうこと。

そうすると たいてい条件がととのいます。




ほかに知りたいことがあれば そう言ってください。





われが我れに還るというのは たましいのやすらぎの問題ですから
タマシヅメ(魂鎮め)という儀式(おこない)です。

そうして この魂鎮めのためには 昔からまづタマフリ(魂振り)
をおこなうものとされています。

まづ先に相手の魂をゆさぶるということです。
つまり 《カチンと来る》ようにさせなければなりません。
うんぬん。うんぬん。

これが 日本人の古来より伝えられた愛です。
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この回答へのお礼

今回は何を言おうとしているのか分かりませんでした。何度も読み返して見たんですが。残念。

有り難うございました。

お礼日時:2016/05/13 13:42

渇愛は、愛を欲しているので「欲」でしょう。



自身がやるのでは無く、他者に求める全ては「欲している」ので
全てが「欲」からでしょうね。
さすれば、他者への不満は「欲」から発しているのです。

ネットの世界は、そこが見えやすいですね。
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この回答へのお礼

やっぱり欲ですか。
一口に欲望と言っても、それこそ色々と取り上げられると思います。
欲望と欲求は同じ意味に使われますが、“欲望”は精神に使いやすく、生理的には欲求がいいですね。

ところが、渇愛と言う精神には欲望と言うよりも、欲求と言った方がなんかしっくりするように思います。

こんなふうに考えていると、人は愛が“必須”なんだなと思えてきます。
有り難うございました。

お礼日時:2016/05/13 13:37

★ 今回は、「渇愛」と云った“愛”を求める心も“愛ごころ”なの


だろうか、と云うものです。
☆ ですから 目的による。という回答です。

相手をどう見るかの問題です。
(主観に過ぎませんが すべては主観です)。
(確信をもって・自信をもって行動します)。
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★(№4お礼欄) この理論で行けば、この世の人間の残虐行為


もすべて“愛故に”と云う事になってしまいます。
☆ 《残虐行為》が 《その人の持ち前のチカラを発揮すること
が出来るように 手助けすること》ですか?
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この回答へのお礼

愛ゆえに、なんてよく言いますね。

今回は、「渇愛」と云った“愛”を求める心も“愛ごころ”なのだろうか、と云うものです。

お礼日時:2016/05/12 23:20

みんな愛。

すべて愛。です。

その心は 愛とは ほかの人のことが気になって・しかも
その人が持ち前のチカラを十二分に発揮しておのれと身の
周りの人たちが やはり自由にそれぞれの持ち前の能力を
発揮することが出来るように 迷惑やお節介し過ぎになら
ない程度に手助けすること。だからです。

すなわち たとえばその相手の人に対して おまえは嫌い
だだとか あなたとは絶交だだとかと言ってやることが
その人の能力と努力とを最大に発揮するようになると確信
したなら そうすること。それが 愛だと考えられるから
です。
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この回答へのお礼

この理論で行けば、この世の人間の残虐行為もすべて“愛故に”と云う事になってしまいます。

お礼日時:2016/05/12 22:52

愛(あい):自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。



主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。

しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。

そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識)である(社会生命性の自覚化による他我)。
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この回答へのお礼

そうすると、「渇愛」という心理は真には“愛”とは云えない、と受け止めました。

これで、よろしいでしょうか。

有り難うございました。

お礼日時:2016/05/12 22:47

「恋は奪うこと、愛は与え続けること。

」といいますね。
ちなみに、愛の反意語は「無関心」です。
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この回答へのお礼

私はだいぶ前に愛は与え心、恋は求め心であると気付き、それ以来そのように主張してきましたが「恋は奪うこと、愛は与え続けること」と云われてるんですね。なるほど。

また、愛の反意語は辞書には「憎」、憎むこととありましたが。

有り難うございました。

お礼日時:2016/05/12 19:58

私は哲学者でもなんでもないですが回答させていただきます。


というより愛に答えがあるといえばあるし、無いといえばないと思います。
しかし、この渇愛については「私は渇愛してます。」というより「あの子は渇愛なのではないか?」という本人が気づいていない局面での第三者が思う様子という感覚で私は思っています。
言葉足らずですみません。
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この回答へのお礼

knhlさんご自身は愛には飢えていないお方だと思いました。
でも、それだからと云って満たされているお方だ、とも思いませんでした。

また、答えがあるといえばあるし、無いといえばない、という感覚に興味を持ちました。
有り難うございました。

お礼日時:2016/05/12 19:51

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