

先に質問として投稿されている、北海道の小学2年生の救助に関連して、
この質問を読んで真っ先に思い出したのが、アルカイダ系の武装組織「ヌスラ」に拉致・拘束されているとみられるフリージャーナリストの安田純平さんのことでした。
こうなってしまったら、最早安田さんにとっては、「進むも地獄、退くも地獄」=助けられなければ地獄、助けられて帰国しても地獄、なのではないか?無事に帰ってきても、だれもこの小学生のように、「まぁなんにしても無事でよかった」と言ってはくれない。
みなさんは「いかなる場合、いかなる条件下に於いても、国は国民を守らなければならない」とお考えでしょうか?
あるいは「ばあいによる」のでしょうか?
(「救助活動をする」=「カネがかかる」)
つまりどういう場合には「血税」を使っても助けるべきであり、どういう場合には「血税」を使うことは許されないのか?
お考えをお聞かせください。(尚当質問文はハコブルさんの質問に回答した文章を転用しました。ご了承ください)
No.17
- 回答日時:
#15です。
>何故「助けたい」という気持ちが、北海道の小学生と、高遠さん、安田さんの場合ではこうも異なるのか?という疑問です。言い換えると何故「自己責任」をいう人はこうも非情になれるのか?それは単に身代金の多寡の問題では無いように思います。
:
おそらく、「危険なことは承知で好きなことをやっているのだから」という考えが根底にあるように思います。
この場合、ボランティア、あるいは写真報道に対して、どの程度「好きなことをやっているのだから」という感覚を持つか、ということが関係してきそうです。
また、「危険性」という点でも、高遠さんの場合よりは安田氏のほうが認識しやすかったはずですが、それを承知で彼は出かけている。
小学生の場合は、危険を承知していたわけでも、好きで(自主的に)出かけたわけでもない点が大きな差異でしょう。
「身代金の多寡」を例に出したのは、救助する側のキャパシティの限界も考慮する必要があると思うからです。
どんな場合であれ、我々は、そのキャパシティの範囲内で様々な問題を解決することしかできないのではないでしょうか。
たとえば、米国人の人質で、要求が身代金ではなく核ミサイルであっても応じる必要があるだろうか、ということ。
まあ、極端な例のほうがわかりやすいので、こうした例を挙げるわけですが、それをはねつける方針に対して「非情」という評価が妥当か否か、ということでもありますね。
猪突猛進的にすべての要請に応えるべきだという主張が絵空事であることは明白だと思います。
このように言える人は、たとえば、ホームレスに対して自宅を開放する覚悟がなくてはならないでしょう。論理としてはそうなるはずです。
しかし、キャパシティの問題として、それが無理なように、救助への注力にも、自ずと段階があることは認めざるを得ないのではないでしょうか。
緊急性や、生きている確率などを、その基準として挙げたわけですが、「危険なことは承知で好きなことをやっている」と認識される場合、その緊急度が低下してしまうのは致し方ない、ということでもあります。
決して自己責任だから放置して良いという意味ではありません。注力の度合いに、ある程度の差がつくのはやむを得ないのではないか、ということです。
>この質問でNo.1の回答にあった、「日本人の美質である、人様に迷惑をかけないという内的規範(不文律)を破ったものへの制裁」という意識が働いているのか?
:
まあ、本人が自覚しているかどうかは別にして、他人に迷惑をかけずに生きている人など一人もいないわけですし、個人的にそういう発想はしたことがありません。
あくまで、できることしかできないわけなので、どのようにパイを分けるか、その基準を検討していくしかないように思います。
深夜にご回答をありがとうございます。
わたしの実感として、これは単に救援に対しての「温度差」「濃淡」の問題では無いように感じています。
なるほど北海道の小学生に対し、高遠さんや、安田さんに対しては、大人であること、危険を承知であったということ、(内戦地へ出向くわけですから危険を知らないわけはありません)などで、反応が鈍くなるのは仕方がない、しかし「自己責任」をいう人は、もっと攻撃性を持っているように見えます。それを「非情」であると言ったのです。
繰り返しになりますが、わたしは、不可能事を可能にせよと言っているわけではない。国のキャパシティーを云々する以前に、国民自らが国に「放っておけ」と喚いているように聞こえる。これでは仮に奔走すればなんとか助かるかもしれないものでも、国民の後押しを受けて、政府は怠慢を決め込んでいられる。
現実問題として「助けられるか?」ではなく、心情として「助けたいか?」です。結果を問うものではありません。
「自己責任論」は、なにもこのような「人質問題」に限定されるものではなく、20代30代のホームレスが、行政に頼ることも、NPOなどの支援組織に頼ることも「潔しとせず」頑なに「自己責任だから」と自らを追いつめている。
質問である「救助の妥当性」に拘らずにご意見をお聞きしたいと思いましたが、やはり「自己責任論」については再度改めて問いを立てた方がいいのかもしれません。

No.16
- 回答日時:
国を親、国民を子、と思えば、、、
いかなる場合でも国は国民を守らなければならないと思います。
いかなる場合でも、です。
この視点に立てば、妥当とか妥当でないとかの考えは国(親)の言い訳に聞こえます。
わが子の不始末はわが親が責任を取る。
当然の事です。
責任を取らなければ"その"資格はありません。
難しく考えても、答えは出ないのではないでしょうか。
問います。
答えは出ましたか?
★ 「哲学」の欠点だと思います。
こんばんは。
>国を親、国民を子、と思えば、、、
いかなる場合でも国は国民を守らなければならないと思います。
いかなる場合でも、です。
なるほど。守る努力はするべきでしょう。けれども、昔からあるストーカー事件などで、いったい過去どれだけ救える命をむざむざ死なせてしまったか?身代金とか国政的な政治交渉などというレベルではない。
そもそも市民を守らなければという意識がほとんどなかったとしか言いようがない。
>難しく考えても、答えは出ないのではないでしょうか。
>問います。
>答えは出ましたか?
>★ 「哲学」の欠点だと思います。
わたしは質問に対して、「正解」を求めているのではありません。質疑を通じて、特定のことがらについての考えを深めていきたいという気持ちです。
「ひとが人の肉を喰うことの是非について」
「様々なデザインからなにが見えてくるかについて(形態と中味の関係について)」
「ネガティヴな言葉の魅力について」
「いのちの軽重について」
答は出ません。考える過程が目的ですから。
先の「ダークでシニカルな言葉」について回答をいただきましたが、ちょっと理解が困難と思い、解読を怠りました。
お詫びします。
そしてここでのご回答にお礼を。
No.15
- 回答日時:
#10です。
>どのような状況を「緊急」と捉えるか。真夏であれば熱中症の心配もある、都会であれば交通事故に巻き込まれる恐れも。子供の場合は場所によって異なった緊急性が発生するでしょう。
:
そう判断するほうが妥当なケースも当然出てくるでしょうね。
『あとは、個別の事案を緊急と判断するか否か、という問題に収斂していく。』と述べたのは、そういう意味です。今回は間違いなく緊急性があったと判断すべきであった、と申し上げた点に絞っていただければ(同意するか否かは別ですが)論点を共有できます。(つまり論理的応酬が可能になる)
>そもそも「救出が必要なのか?」という疑念が、少なからぬ国民の間で共有されているのではないか?ということです。
:
それは間違いないでしょうね。
2004年、高遠菜穂子さんら3人が人質となった(その後解放された)イラク人質事件を想起します。このときは、米軍のファルージャ攻撃に同調してイラクに派遣されていた自衛隊の撤退が条件だったので、安田氏の場合とは若干ニュアンスが異なるかもしれませんが、日本人の一般市民が人質となる事件の走りだったように(確証はありませんが)記憶しています。
たしか、このときに「自己責任」という言葉が日本中を(やや大げさに言うなら)席捲し、少なくともテレビでは、自己責任だから要求に応じる必要はない、という見解が優勢であることに基づいた報道をしていたはずです。
そうした中、今は亡き筑紫哲也氏だけは、自己責任という概念は適用すべきではないと主張していたことが印象に残っている。
各局、結構、熱を入れて報道していたような記憶がありますね。
もっとも、高遠氏は人道支援のボランティア活動を長年イラクで行なっていた方なので、安田氏とは同列に論じられないかもしれませんが。
いずれにせよ、彼女のようなボランティアに対しても、人質になったのは自己責任である、という風潮が強かったわけで、安田氏の場合ならなおさらそうした傾向が強くなっている可能性は高そうです。
ここで本来の質問内容を再確認してみたいのですが、
>「いかなる場合、いかなる条件下に於いても、国は国民を守らなければならない」
:
このご質問に無条件でイエスと答える方がおられるとすれば、それは「きれいごと」になると思います。
たとえば、実際問題として裏工作で身代金を払っている国は多数あるはずです。その場合、金額の交渉が折り合わずに殺害されてしまった人質の存在は容易に推測可能でしょう。
仮にですが、その要求金額が、たとえば1兆円だった場合に、「なぜ要求どおりに払わなかったのだ」と、その国を批判することが果たして可能でしょうか。
このことからも、「ばあいによる」しかないのは明らかでしょう。
そして、「どんな場合か」について検討してみるしかないわけです。
この点を無視してしまうと論議にならないでしょうね。
こんばんは。
質問の仕方が曖昧だったかもしれません。
結果として助けられた、助けられなかったということは、様々な要因や偶然が重なりあっての結果ですから、それを予め何が何でも助けろ。とは言えません。また救助方法を云々するのでもありません。
人々の心情として、何故「犠牲にしたい」という気持ちが生じるのか?を「自己責任論」という、(おそらく日本独特の)観念と併せて考えてみたいという質問です。結果ではなく、何故「助けたい」という気持ちが、北海道の小学生と、高遠さん、安田さんの場合ではこうも異なるのか?という疑問です。言い換えると何故「自己責任」をいう人はこうも非情になれるのか?それは単に身代金の多寡の問題では無いように思います。この質問でNo.1の回答にあった、「日本人の美質である、人様に迷惑をかけないという内的規範(不文律)を破ったものへの制裁」という意識が働いているのか?
そのようなことをくさぐさ思っていることでした。
ご回答をありがとうございます。
No.14
- 回答日時:
★(№13お礼欄) ~~~~~~~~~
>自己責任論というのは 言葉じたいにすでに≪アパシー≫
を醸し出してしまっている嫌な雰囲気を帯びていますが
穏健人から見てその真意は こういうところにあるのでは
と考えるんですがねぇ。
>自己責任論派に対して こちらがアパシー状態になっち
ゃっても困ると思うんですがねぇ。
すみません、この辺りの意味が読み取れませんので、説明を
お願いします。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 次のくだりを承けて思ったところです。
★★(№11お礼欄) ~~~~~~~
確かに、わたしは世に蔓延している「自己責任論」という奇
態な観念をどうしても受け容れることが出来ない。
またおそらく「自己責任」だと非難している人たち自身、そ
の実態をよくわかっていない。しかしこの「自己責任」なる
ものが、どれだけ日本人を委縮させ、アパシーを助長させて
いるかを再考すべきだと考えています。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり ≪汲み取ってやるべき意味内容がない≫と言って
いますよね?
≪気持ち≫としては 分かり合える部分があるのではないか。
つまり 警告無視したのち その事実についても無視してい
るではないかという物言いを言おうとしているのでは?
これを放っておくならもう どちらもアパシーの張り合いに
なるかとおそれます。
こんばんは。
「自己責任論」については、端から取るに足らぬ意見だと言っているのではありません。
これも憲法問題や沖縄の基地問題同様に、ある種の日本的なメンタリティーとして、批判的に考える必要があると思います。
ただ、わたしとぶらじゅろーぬさんの間には、この「自己責任論」に対する視点のずれがあるようにも思います。
ぶらじゅろーぬさんは、「気持ちとしては分かる」のではないか?といわれますが、「自己責任論」にシンパシーを感じているなら、
わたしが100%賛同できるような発言をするとは思えません(笑)
ぶらじゅろーぬ的自己責任と、巷間流布している自己責任とは異なるものだと感じています。
ですからぶらじゅろーぬ的自己責任論には共感可能ですが、己の行動に殉ぜよといった人命を犠牲化するごときものには反対ですし、
無批判ではいられません。
No.13
- 回答日時:
№11を承けます。
★ 「穏健派」的な立場はなにやら居心地が悪い
☆ そうですから ここは敢えてけんか四つに組んでみま
しょうか。
★ 救助に関しては、率直にお礼を述べればいい。当然だ
と身を反らす必要も無ければ、自分の不明を恥じる必要も
ないと思います。
☆ ≪警告を無視し 自分でも無謀だと分かっている危険
を冒し 拘束されたところから解放され助けてもらった≫
なら わたしなら恐縮します。
〔ちなみに わたしの妹は 一時期精神がもうろうとして
いたとき 見舞いに行く程度ですが必要なものをそろえて
やっていたら 世話をして欲しいと頼んだ覚えはないと言
いました。
あまりにも極端な振る舞いに際しては こちらはまったく
驚きもせず(一たん驚いたのがすぐに吹っ飛んでしまって)
しっかり相手を見守っていました。ということで 次につ
なげます〕。
つまり ≪助けてくれと言った覚えはない≫と言われたら
どうなるか。(じっさいは――拉致した側の要請によるに
しても――助けを求めている場合が多いと思いますが)。
つまりここは気持ちの問題です。助かった・ありがたいと
いう気持ちを 表わして欲しいというのは ≪穏健・一般
人≫派の思いです。敢えて言えば 多数派だと思います。
もしそういう振る舞いを見せてくれる冒険家ならば 互い
の気持ちが通じましたから たとえば おまえさんは運の
強い人間だ もしまた行ったら注意をおこたらず仕事に励
んでくれよと言って送り出します。
そのときには:
★ 「人命は何より重たい」という(観念論)以前に、大
事にすべきなのは、「無関心ではいられないこと」「知ら
ずには(為さずには)済ませられないこと」という強い意
識(意志)を持った人達の足を引っ張っるべきではない。
ということだろうと思います。
☆ ということが 自然の振る舞いに近い現実となって現
われて来ると思います。
自己責任論というのは 言葉じたいにすでに≪アパシー≫を
醸し出してしまっている嫌な雰囲気を帯びていますが 穏
健人から見てその真意は こういうところにあるのではと
考えるんですがねぇ。
自己責任論派に対して こちらがアパシー状態になっちゃ
っても困ると思うんですがねぇ。
ぶらじゅろーぬさんの上記の意見に対して、別に異論はありませんよ(笑)
>☆ ≪警告を無視し 自分でも無謀だと分かっている危険を冒し 拘束されたところから解放され助けてもらった≫
なら わたしなら恐縮します。
まぁそれが自然な反応だと思います。
>〔ちなみに わたしの妹は 一時期精神がもうろうとしていたとき 見舞いに行く程度ですが必要なものをそろえて
やっていたら 世話をして欲しいと頼んだ覚えはないと言いました。
>あまりにも極端な振る舞いに際しては こちらはまったく驚きもせず(一たん驚いたのがすぐに吹っ飛んでしまって)
しっかり相手を見守っていました。
そうですか。素敵なお話ですね。
>つまりここは気持ちの問題です。助かった・ありがたいという気持ちを 表わして欲しいというのは ≪穏健・一般人≫派の思いです。敢えて言えば 多数派だと思います。
>もしそういう振る舞いを見せてくれる冒険家ならば 互いの気持ちが通じましたから たとえば おまえさんは運の強い人間だ もしまた行ったら注意をおこたらず仕事に励んでくれよと言って送り出します。
これには全く同感です。ただこれはぶらじゅろーぬさんの考え方であって、必ずしも多数派の意見であるとは思えません。
>自己責任論というのは 言葉じたいにすでに≪アパシー≫を醸し出してしまっている嫌な雰囲気を帯びていますが
穏健人から見てその真意は こういうところにあるのではと考えるんですがねぇ。
>自己責任論派に対して こちらがアパシー状態になっちゃっても困ると思うんですがねぇ。
すみません、この辺りの意味が読み取れませんので、説明をお願いします。
再度のご回答をありがとうございます。
No.12
- 回答日時:
No.7です。
>>行動には自らが全て責を持つと言う基本から始まります
>人は、すべての言動に対して、責任を負うことが可能でしょうか?
>言い換えれば、国民は、彼・彼女の行動の結果を、すべて、自己責任の名のもとに無視しても構わないということでしょうか。
論点のすり替え
>余談ですがわたしが文学部の学生のころには「自己責任」なる言葉を聞いた覚えがありません。
>自己責任とは、単なる「責任」という昔ながらの言葉と、どのような差異があるのでしょうか?
>わたしにはどうも「自己責任」という言葉は「見殺しの論理」に聞こえてなりません。
>例えば被災地(国内・国外)にボランティアに行った人が予期せぬ災害に出会って、救助を必要としてる。
>この場合、その人の「行為の動機」や「それが滞りなく遂行された場合の利益」は視野から外され、
>結果として、間抜けな事態に陥ったということを以て裁くというのが正当でしょうか?
自己責任について話しを深めたいなら、別スレッドを上げた方がいいですよ。
>>行動には自らが全て責を持つと言う基本から始まります
「人間の行動は、無責任で良いと言う視点から始まります」が上記の逆に近い書き方ですが、それは社会的にありえないでしょう。
上記は単に、最初の時点でどの立ち位置か明確にしたまでです。
書いた内容は書いたまでです。
「それでは・・・」となるのは、質問者様の中にある自己矛盾に引っかかったのでしょう。
論点がずれたことさえ気がついていない。
一つ一つ明確にして行き結論を導くより、自分の中の矛盾に触れたので脱線が先に来ている。
相手の話しを理解するより、気になっている自己矛盾の解決に走るなら話しが延々と終わらないので、相手がそれに付き合うのは苦痛が伴うのを分からない。
もっとご自分を理解された方が、私としては話しがやりやすいのです。
質問者様は、ここを自己矛盾の解決の場と考えておられるなら私は引き下がります。
「新たな視点の獲得により、目先のものだけでは無く多くのことを自分で解決できるようになる手がかり」程度にしか、文字だけの付き合いでできるものでは無いと、私は考えていますので。
こんにちは。
K:行動には自らが全て責を持つと言う基本から始まります
G:人は、すべての言動に対して、責任を負うことが可能でしょうか?
>論点のすり替え
でしょうか?
人は(原則的に)自由であり、それに伴って責任が生じます。自由と責任は分けることはできない。一方で、ひとは日々の歩みを進めながらも「すべての落とし穴を見つけることはできない」-責任を負うべき領域は、彼・彼女のすべての行動に帰することはできないという考えです。
卑近な例を挙げるなら、散歩に行って交通事故に遭ったということもあるでしょう。海水浴に行ったら高波にさらわれた。健康に充分留意していたにもかかわらず病気になった・・・自由な行動に対しては、常に予期せぬ災難が自由の領域を上回る範囲で発生し得ます。何故なら「自由な行動の選択の対象は」予測不可能な「他者」或いは「自然」への働きかけでありコミットであるからです。
「散歩をする自由」に対し「交通事故に遭ったという責」を負わせることはできません。
ですから、
G:言い換えれば、国民は、彼・彼女の行動の結果を、すべて、自己責任の名のもとに無視しても構わないということでしょうか。
自由な選択としての危険地帯での取材活動乃至ボランティアに関して、予めの危険を根拠にそれを「しない」「させない」でいれば、そもそも「自由で主体的な行為」とはなんでしょう?
自由には当然責任が伴う、が、同時に不可避的な災難も生じうる。
>「人間の行動は、無責任で良いと言う視点から始まります」が上記の逆に近い書き方ですが、それは社会的にありえないでしょう。
という立場ではないことをご理解ください。
>自己責任について話しを深めたいなら、別スレッドを上げた方がいいですよ。
それについては、今後の成り行きを見て再考したいと思います。
ご回答をありがとうございます。
No.11
- 回答日時:
次のように考えてみました。
◆(回答№7) ~~~~~~~~~
(あ) 問題は「本人が自分の人命を軽んじたこと」にある
と思います。
(い) 自らの命を軽んじる者が、その行動において起こし
たことの責任を他者が全て補える訳ではないと言うことです。
(う) つまり、物理的な限界は必ず有ると言うことです。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (あ)は 無謀にも危険を冒したと本人自身がいちばん
よく知っているはずだと言っているのだと思います。
(い)は その事情いかんにかかわりなく 国は救助すると
いう本筋を言った上で言うのがよいと思います。
とは言うものの そのような国による助けを当然だとあらか
じめ見越して危険を冒す行為は――そしてその冒険者の行為
を当たり前だと言わんばかりに≪自己責任≫をないがしろにし
てよいという人びとの発言にかんしては―― やはり無謀で
あり またその無謀さに触れない発言は言い過ぎではないか。
と言っているものと思います。
(う)の≪物理的――つまり資金を含めた救助手段にかんす
る――限界がある≫というのは 最終の結果を見てそう言わ
ざるを得ない場合があるということではないか。
つまり≪コウモリ≫派のわたしめは 次のように両者の言い分
を批判します。
≪自己責任≫論が 自業自得だと言うのみだとすれば 社会的
共生としての人間性をないがしろにしていると言います。
自己防衛は 相互の自己防衛であり得ますし 共同の自己防
衛である性質のものであると。
しかし 同じくこの人間の社会性を別の意味でないがしろに
する場合があるのではないか。
つまりそれは 国の助けは当然だと言っても 無謀だと分か
っているところを強引に行動しましたといった反省の言葉を
あとで言わない・言えない本人がいるとすれば そういう場
合であり あるいは そういう本人の態度をそのままよしと
する人びとの発言です。
(この場合の社会性は 気持ちの問題に過ぎないかも知れま
せんが)。
(G_Rさんは ≪自己責任論≫派を批判してややもすると こ
ちらのほうに片向いているかに見えるかも知れません。まだ
はっきりしません)。
警告無視で危険を冒したとしても 無条件で国は助ける。
助かった人が警告無視でしたと一言も言わないとしたら そ
れはおかしいではないかと言う。
シンプル・イズ・ベスト!???
こんにちは。
ぶらじゅろーぬさんのような見方が、まあ一番「穏健」なのかとは思います。
けれどもわたしは「穏健派」的な立場はなにやら居心地が悪い(苦笑)
>とは言うものの そのような国による助けを当然だとあらかじめ見越して危険を冒す行為は――そしてその冒険者の行為
を当たり前だと言わんばかりに≪自己責任≫をないがしろにしてよいという人びとの発言にかんしては―― やはり無謀で
あり またその無謀さに触れない発言は言い過ぎではないか。と言っているものと思います。
「救助されるであろうことを見越している」ということはないと思います。現に後藤健二さんは2014年に「政府の渡航中止の勧告を振り切って」現地に赴きました。
救助されたことを当然と思う人はいないと思います。けれどもそれによって今後の彼の行動や発言が制限されるべきではない。
救助に関しては、率直にお礼を述べればいい。当然だと身を反らす必要も無ければ、自分の不明を恥じる必要もないと思います。
>(G_Rさんは ≪自己責任論≫派を批判してややもすると こちらのほうに片向いているかに見えるかも知れません。まだ
はっきりしません)。
確かに、わたしは世に蔓延している「自己責任論」という奇態な観念をどうしても受け容れることが出来ない。
またおそらく「自己責任」だと非難している人たち自身、その実態をよくわかっていない。しかしこの「自己責任」なるものが、どれだけ日本人を委縮させ、アパシーを助長させているかを再考すべきだと考えています。
「人命は何より重たい」という(観念論)以前に、大事にすべきなのは、「無関心ではいられないこと」「知らずには(為さずには)済ませられないこと」という強い意識(意志)を持った人達の足を引っ張っるべきではない。ということだろうと思います。
ご回答をありがとうございます。
No.10
- 回答日時:
パイの分け方の問題にならざるを得ないので、「ばあいによる」としか言えないと思いますが、基本的には、「緊急の場合」「危機が差し迫っている場合」を基準にしてみたいです。
あとは、個別の事案を緊急と判断するか否か、という問題に収斂していく。
『山林に迷い込み、低体温症での死亡も十分予測可能な7歳の子供』
個人的に、これは緊急事態と判断します。
しかし、たとえば、
・山林ではない
・暖かい時期で低体温症で死亡の危険性が低い
・健康な大人である
など、条件がひとつでも替われば緊急事態からは外れる可能性が高い。
このような場合なら、二次被害の危険性を(本当に高いならですが)回避するため翌朝まで捜索を延期する、といった判断も、ある程度は納得できるのです。
しかし、今回は違った。
つまり、緊急事態であるのにカネの出し惜しみをした、と判断せざるを得ません。
かの質問では、行政批判というより、そうした価値判断を放置しているも同様の我々自身の精神性について考えてみるきっかけにしたいという目論見もありました。
安田氏の場合は、「緊急の場合」と判断すべき材料に乏しいことや、身代金という特殊事情が絡んでくるので一概にコメントするのは難しい。
たしか、以前にも一度、人質になっていますよね(その後解放)。
血税の使い方以上の問題を孕んでおり、同列に論じると紛れが生じてしまうと思います。
こんばんは、はこぶるさん。
>『山林に迷い込み、低体温症での死亡も十分予測可能な7歳の子供』
個人的に、これは緊急事態と判断します。
しかし、たとえば、
・山林ではない
・暖かい時期で低体温症で死亡の危険性が低い
・健康な大人である
など、条件がひとつでも替われば緊急事態からは外れる可能性が高い。
このような場合なら、二次被害の危険性を(本当に高いならですが)回避するため翌朝まで捜索を延期する、といった判断も、ある程度は納得できるのです。
どのような状況を「緊急」と捉えるか。真夏であれば熱中症の心配もある、都会であれば交通事故に巻き込まれる恐れも。子供の場合は場所によって異なった緊急性が発生するでしょう。
>かの質問では、行政批判というより、そうした価値判断を放置しているも同様の我々自身の精神性について考えてみるきっかけにしたいという目論見もありました。
そのように思います。そこで今回は、ハコブルさんの質問より更に微妙な人命救助の問題を考えてみたいと思いました。
>安田氏の場合は、「緊急の場合」と判断すべき材料に乏しいことや、身代金という特殊事情が絡んでくるので一概にコメントするのは難しい。たしか、以前にも一度、人質になっていますよね(その後解放)。
以前にも人質になっていると聞いています。けれどもわたしはそれを以て、2度目はない。ということは妥当ではないと思います。
一度で懲りなかった志を評価します。それは使命感でもあったでしょう。だからといって「それに殉ぜよ」と言ってはならない。
結果として助けることが出来ないかもしれない。それでも出来る限りのことはすべきであると思います。
「自己責任」というのは「殺害不可能だが、犠牲化可能な存在」として扱われているように思えます。
つまり生殺与奪の権を、拘束者の手に委ねるということ。
>血税の使い方以上の問題を孕んでおり、同列に論じると紛れが生じてしまうと思います。
安田さんの問題は、「救出方法の困難さ」という「手段」の問題以前に、そもそも「救出が必要なのか?」という疑念が、少なからぬ国民の間で共有されているのではないか?ということです。であれば端から救助は覚束ないでしょう。「成功しなかった」で皆が納得するはずです。
ご回答をありがとうございます。
No.9
- 回答日時:
こんにちは。
★ 妥当な救助とは? 妥当ではない救助とは?
☆ 人命第一の原則のもとに 個々のケースを見て判断するもの
と思います。(回答を逃げた)。
★ 「いかなる場合、いかなる条件下に於いても、国は国民を守
らなければならない」とお考えでしょうか?
☆ はい そう考えます。
市民政府――民主制による国民主権のもとなる国家の公務員――
は 無条件に・いついかなる時にも 国民の生命の安全・生活の
安定を守るものと考えます。
捕らえられたジャーナリストを救出するのは その仕事としての
知る権利のための行動ゆえにといった条件づけを必要としない。
条件づけをしてはいけない。
また 人の行動は 無謀だと考えられるときその大方の見方にお
いて無謀である。
ジャーナリストの行動にしても それがいくら無謀であっても
それを侵す自由を誰も奪うことができない。と同時に自由意志な
いしその行動につねにともなう責任をまぬられることもないと考
えます。
自分自身が行動の無謀さについては いちばんよく知っているは
ずである。
救出のあとに この向こう見ず野郎め 無謀すぎるではないかと
言ってやっても まったくふつうで自然な人間の思いと振る舞い
だと捉えます。
こんばんは、ぶらじゅろーぬさん。
>捕らえられたジャーナリストを救出するのは、その仕事としての知る権利のための行動ゆえにといった条件づけを必要としない。
条件づけをしてはいけない。
そうですね。(わたしの誤読の可能性もありますが)「条件」を充たしているかいないかという場合「救助妥当と判断し得る」「条件」とはなにか?また誰がそれを決めるのか、という問題になります。
>また 人の行動は 無謀だと考えられるとき、その大方の見方において無謀である。
彼ら・彼女らは、単なる気まぐれの思い付きで、わざわざ危険な場所へ赴いて取材活動をしたりボランティア活動をしているのではなく、そこには「決意」と「熟慮」があったはずです。志(こころざし)は、しばしば無謀と謗られます。
>ジャーナリストの行動にしても それがいくら無謀であってもそれを侵す自由を誰も奪うことができない。と同時に自由意志な
いしその行動につねにともなう責任をまぬられることもないと考えます。
責任は常に自由の背面に伴っています。自由で主体的な選択の結果である利益を享受すると同時に不利益も進んで受け入れなければならない。それは自由と責任が一対のものである以上当然だと思います。
一方で拉致・拘束され、人間性をはぎ取られた人の姿を目にして、尚「自己責任」であるからという「非情な倫理観」がどうしても理解できません。
拉致・拘束され、非・人間的な扱いを受けて、なおそれに甘んじよということは誰が言えるのでしょうか?
>救出のあとに この向こう見ず野郎め 無謀すぎるではないかと言ってやっても まったくふつうで自然な人間の思いと振る舞い
だと捉えます。
それは愛情でありある種のリスペクトだろうと思います。
ご回答をありがとうございました。
ー追記ー
ここでの「反論」によって、回答者を不快な気持ちにさせてしまいました。
正直なところ、反論のための反論ではなく、「人命」の価値について、様々なやり取りを通じて考えを深めることが出来ればという、
気持ちだったのですが、目くじら立てて反論される以上に後味の悪いものですね。

No.8
- 回答日時:
隣人がどういう状態なら、ボランティアで、または、自腹を切って(血税で)助けますかということになりますかね。
生活できないほど困窮していたら生活保護、命の危険があるなら救助が基本ですね。
増水する川の中州でバーベキューをしていた家族が、再三の警告にも関わらず中止せず、結局何人も死者を出しましたが、救助の姿勢を崩すことはありませんでしたね。そういうことだと思います。
安田さんの場合も、自己責任の部分があったとしても、救出する努力を惜しむことはありません。
しかし、身代金やさらなる犠牲が予想される場合はその対応には限界があるでしょうね。
おっしゃる通り、結果的に助けられなかったとしても、助ける努力はすべきであると思います。
>増水する川の中州でバーベキューをしていた家族が、再三の警告にも関わらず中止せず、結局何人も死者を出しましたが、救助の姿勢を崩すことはありませんでしたね。そういうことだと思います。
他の方の指摘にもありましたが、「本人が自分の人命を軽んじたこと」に関して、逆に言えば、生命を危険にさらすことを怖れている(わたし)に比べて、その危険を冒してもなにかをしようと考え、遠方へ出向いてその意思を実行に移したことを尊ぶべきではないのか。
生存本意で生きていないからこそ、そういう人の生命を重んじ、尊ぶべきだという考えです。
再度のご回答をありがとうございます。
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すみません。タイプミスです。
辺発(誤)
原発(正)
ソウイウメンタリティー(誤)
そういうメンタリティー(正)
失礼しました。
わたしは、彼らに、「助けられて当然である」という意識はないと思います。感謝の気持ちがないはずはないと。
「要は気持ちである」そうでしょう。何故ぶらじゅろーぬさんは、彼らに誠意がないと決めつけるのでしょうか?何によって、彼らが同胞である、そうではないと判断されるのでしょう。彼らは単に自分の気持ちに忠実な人たちであると思います。お礼と謝罪を求める気持ちは人情としてあるとしても、(彼らがそれすら拒否するとは思えませんが)、彼らの行動の規制はできないはずです。
過去に謝罪や感謝の気持ちを表すことへの「拒否」があったのなら、そこにはなんらか、「謝罪の強要」のような含みがあったのではないか。そのように推測します。
自己責任論は、ぶらじゅろーぬさんの「気持ち」のような素朴な庶民感情とは離れた、「お上」=政治的意図と共鳴し補完していることへの抵抗があります。
ご回答をありがとうございます。
直接この質問、あるいは頂いた回答への補足ではありませんが、最近足を運んでいないOkwebの「アンケート」で、「生活保護は廃止すべきでは?」という「お馴染みの」質問が為されました。
少なからぬ回答は、やはりというべきか「廃止すべき」そしてそれに拮抗する数であった回答をみて驚きました。生活保護が必要な理由として、「生活保護を与えないと生活困窮者が暴徒化しかねない」だから「治安・安全のために金を与えておく。いわば保険だ」という論です。「生活保護」を叩くために今度はこういう論法が主流を占めつつあるのか、弱者を叩くためであればどんな理屈でも持ち出すんだなあと、ウソ寒い気持ちになりました。国民が国民をどんどん狭い場所へと押し込んでゆきます。
>製薬は新興インドを象徴する産業だ。後発薬の世界シェアは2割に達し 米国では4割に及ぶ。
それが国の巨大産業に大打撃を与えることになっても、です。何故なら、その繁栄は誤った道をたどって得た繁栄であるからです。言い換えるなら、国民は(或いはその薬を利用する世界中の人たちは)経済発展の犠牲になっても仕方がないという考え自体が本末転倒なのです。