質問させていただきます。
日本最古の物語と言えば、紫式部の「物語の出で来はじめのおや」という言葉が有名なように、『竹取物語』だと一般的に考えられています。
しかし、物語集としては『日本霊異記』がより成立年代が古いとも考えられているとおもいます。
日本最古の物語は『日本霊異記』ではないのでしょうか。
そこで以下の点を質問させていただきます。
一、「物語」の定義……万葉集などとは違い和歌が中心ではないお話?『霊異記』のように漢文ではなく仮名文字で書かれたお話?
二、実は正確には『日本霊異記』が最古の物語である?

物語の定義が人によって違うことは承知しておりますが、それにしても『日本霊異記』もなかなか面白く、これこそ最古の物語ではないかと疑問に思っておりました。
よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

『竹取物語』が最古の物語とされるのは、創作性が高いからでしょう。

つまりここで言う物語とは、「その大部分が個人の手で、創作された物語」を指しているようです。

『古事記』『日本書紀』の神話・伝説や、『日本霊異記』の説話なども、物語には違いありません。が、これらは既存の伝承を記録したものと考えられています。記録者が手を加えた部分もあるでしょうが、それほど多くはなさそうです。

もちろん『竹取物語』も、昔話などを下敷きにしているはずです。が、かぐや姫に求婚する貴族の愚行などはどうみても、作者自身が話をふくらませています。古い物語にしては、創作部分の占める割合が大きいので、物語の祖とされているのでしょう。
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Q日本霊異記中巻第二十七縁の現代語訳を教えて下さい

訳が分からないので現代語訳を教えて下さい。
お願いします。

尾張の宿禰久玖利は、尾張の国、中嶋の郡の大領なりき。
聖武天皇の国食しし時の人なり。
久玖利が妻は、同じ国、愛知の郡、片わの里にありし女人なり<こは昔、元興寺二ありし道場法師の孫ぞ>。
夫に隋ひ柔らかに儒かにして、練たる糸・綿のごとし。
麻の細きてづくりを織りて、夫の大領に着せたり。てづくりのうるはしこと比なし。

時に、その国を行ふ主は、稚桜部の任なりき。国の上、大領に着せたる衣のうるはしを視て、取りていはく、「汝に着すべき衣にあらず」といひて、返さず。
妻問ふ、、「衣をいかにしつる」といふ。答ふらく、「国の上、取れり」といふ。また問ふ、「その衣を心に惜しとや思ふ」といふ。答へていはく、「はなはだ惜し」といふ。妻すなはち往きて、国の上の前に居て、乞ひていはく、「衣賜へ」といふ。ここに国の上いはく、「いかなる女ぞ、引き捨てよ」といふ。引かしむるに動かず。

女、二つの指をもて、国の上の居る床の端を取り、居ゑながら国府の門の外に持ち出づ。国の上の衣のすそを、つだつだに捕り粉き、乞ひていはく、「衣たまへ」といふ。国の上、おそり煩ひ、その衣を返し与ふ。取りて持ちて家に帰り、洒ぎて浄め、その衣を牒み収む。呉竹を捕り粉くこと練糸のごとし。

大領の父母、見て大きにおそり、その子に告げていはく、「汝、この妻によりて、国の司に怨まれむ。行ふ事、大きにおそろし。国の司をすらにも是くするを、事の咎、動もあらば、われらいかにせむ。寝み食ふことあたはず」といふ。そゑに、本の家に送りて、またかへりみず。

しかして後に、この嬢、その里の草津の川の河津に至る。衣洗ふ時に、商人の大船、荷を載せて過ぎむとす。船長、嬢を見て、言ひ煩し嘲しもちあそぶ。女、「黙あれ」といふ。女いはく、「人を犯す者は、頬痛く打たれむ」といふ。船長聞きていかり、船を留めて女を打つ。

女、打たるるを痛しとせず、船の半引き居ゑ、船下りて水に入る。津のほとりの人を雇ひて、船の物持ち上げ、しかしてさらに船に載す。嬢いはく、「礼なきがゆゑに船を引き居ゑつ。なにのゑにか、諸人、賤しき女を陵がしむる」といふ。船の荷載せながら、また一町ほど引き上げて居う。ここに、船人大きにおそり、長跪きてまうしていはく、「犯せり。服なり」といふ。そゑに女、聴許しつ。その船は五百人して引けども動かざりき。そゑに知る、その力は五百人の力より過ぎたることを。

経に説きたまへるがごとし。「餅を作りて三宝を供養すれば、金剛那羅延の力を得む、云々」とのたまへり。ここをもてまさに知れ、先の世に大きなる枚餅を作りて、三宝衆僧を供養し、この強き力を得たりしといふことを。

訳が分からないので現代語訳を教えて下さい。
お願いします。

尾張の宿禰久玖利は、尾張の国、中嶋の郡の大領なりき。
聖武天皇の国食しし時の人なり。
久玖利が妻は、同じ国、愛知の郡、片わの里にありし女人なり<こは昔、元興寺二ありし道場法師の孫ぞ>。
夫に隋ひ柔らかに儒かにして、練たる糸・綿のごとし。
麻の細きてづくりを織りて、夫の大領に着せたり。てづくりのうるはしこと比なし。

時に、その国を行ふ主は、稚桜部の任なりき。国の上、大領に着せたる衣のうるはしを視て、取りていはく、「汝に着...続きを読む

Aベストアンサー

尾張の宿禰久玖利(すくね くくり)は尾張の国中嶋の郡(こおり)の大領である。
聖武天皇が国を治めになった時の人である。
久玖利の妻は、同国愛知郡(こおり)の片わの里にいた女である。(これは昔元興寺にいた道場法師の孫である。)
夫に従ってやわらかでなよなよとし、練った糸や綿のようであった。
麻の細糸の手作り布を織って、夫の大領に着せた。手作り布の美しさは、くらべるものがないほどのものであった。

時に、その国の政治をおこなう長官は、稚桜部(わかさくらべ)の任であった。
国守は、大領に着せた衣が美しいのを見て、取り上げ、「おまえに着せるような衣ではない」といって、返さない。
妻が夫にたずねて「衣はどうなさいました」と、答えて「国守に取り上げられた」と。重ねてたずねて「あの衣が惜しいと思いますか」と、答えていう「たいへん惜しい」と。妻はすぐに行って、国守の前にすわって、願っていう「衣をくださいませ」と。その国守がいう「どういう女か、ひきづり出せ」と。引きづり出そうとしたが、動かない。

女は二本の指で、国守がすわっている座席の端を持って、すわったままで、国府の門外に持ち出し、国守の衣の裾をずたずたにもみくだき、願っていう「衣をくださいませ」と。国守はおそれてめんどうに思い、その衣を返して与えた。取って家に持ち帰り、洗い浄めてその衣を折りたたんでしまった。呉竹を手につかみもみくだいて練り糸のようにした。

大領の父と母は、それを見てたいそうおそれ、その子に告げていう「おまえがこの妻によって、国司に怨まれ、処分を受けることをたいそうおそれている。国司さえもこのようにするのに、そのようなことが何かにつけてあったなら、われわれはどうしたよいか、寝るも食べるもできやしないよ」と。そこで妻を実家に返して、もうかえりみなかった。

それからのちのこと、この女は、その里の草津川の船着場に行って衣を洗っていた。時に、商人の大きな船が、荷物を載せて通りかかった。船長が女を見て、ごたごたといってひやかしからかった。女がいう「おだまり」と。重ねて女がいう「人によけいな悪いことをする者は、ほおをひどくひっぱたくよ」と。船長はこれを聞いて目をむいて怒り、船をとめて女を打った。

女は打っても痛がらず、船を半分陸に引き揚げて置いたので、船の後部は下がって水につかった。船長は、船着場の近くの人をやとって、船の荷物を陸に運び上げ、船を水に浮かべてから、改めて船に載せなおした。女がいう「無礼なことをするので、船を引き揚げて陸に置きました。なぜみなさんは、つまらないわたしのような女をからかうのですか」と。船に荷物を載せたまま、なおも一町ほど引き揚げて置いた。ここに船人はたいそうおそれ、ひざまづいて申し上げていう「悪いことをいたしました。おっしゃるとおりでございます」と。そこで女はゆるしてやった。その船は五百人で引いても動かなかった。それで、女の力は五百人を超えていたことがわかった。

経に説くように「餅を作って三宝に供養すれば、金剛那羅延(こんごうならえん)の力を得る、云々」と。これでよくわかるはずである。先の世で大型の餅を作り、三宝や多くの僧に供養して、この強力を得たのであるということが。

訳出典:図説日本の古典(3)日本霊異記P71~P72 小嶋瓔禮 集英社

尾張の宿禰久玖利(すくね くくり)は尾張の国中嶋の郡(こおり)の大領である。
聖武天皇が国を治めになった時の人である。
久玖利の妻は、同国愛知郡(こおり)の片わの里にいた女である。(これは昔元興寺にいた道場法師の孫である。)
夫に従ってやわらかでなよなよとし、練った糸や綿のようであった。
麻の細糸の手作り布を織って、夫の大領に着せた。手作り布の美しさは、くらべるものがないほどのものであった。

時に、その国の政治をおこなう長官は、稚桜部(わかさくらべ)の任であった。
国守は、大領...続きを読む

Q栄花物語と源氏物語の万葉集について

栄花物語 月の宴には、
昔、高野の女帝の御代、天平勝宝五年には、左大臣橘卿、諸卿大夫等集りて、万葉集を撰ばせたまふ
と孝謙天皇の勅撰とありますが、

源氏物語 梅枝には、
嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻
と嵯峨天皇が撰んだとも読めるようにあります。

このほぼ同時期に書かれた二つの物語の相違はどう解釈されているのでしょうかお教え下さい。

Aベストアンサー

>栄花物語と源氏物語の万葉集について

「栄花物語」の記述については一昔前は妄説の類いとして無視されていたのですが、近年「万葉集」19巻の成立に関して橘諸兄(左大臣橘卿)以下が大伴家持に命じて、19巻のもとになる資料を提出させたのではないかとの説が出ており、再評価されているのが現状です。なお、「万葉集」の詞書に年が書かれている和歌の中の最後の歌は、天平勝宝五年(752)の7年後の天平宝字3年(759)の因幡国庁での大伴家持の歌ということも関連します。
「源氏物語」のほうは、嵯峨天皇が古万葉集から抄出(書き抜き)させ、4巻にまとめたものと考えられています。もともと万葉集の原型の巻数については15巻説から数十巻説まであり、現在の20巻になるまでに紆余曲折があったと考えられ、また、一度に完成したのではないとの説が有力ですが、4巻は少なすぎ、後代の勅撰集が20巻というのも万葉集に倣ったとされていますから、「源氏物語」の文を万葉集の成立を記述したものとは考えられていません。

以上、参考程度に。

Q万葉恋歌に同じ種類の恋物語を紹介してください

最近万葉恋歌を読んだ、ほんとに大好きなんです。何回読んでもまだ読み足りない。同じ種類の物語を紹介してください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

万葉集の後を慕って、和歌を集めたという、古今和歌集で活躍する、在原業平の東くだりの物語である、”伊勢物語”。あるいは、時代が下って、新古今和歌集での第一の歌詠みである西行法師の”山家集“は、万葉集と同じように、詞書も長く、物語として読むことができます。

万葉集がお好きなら、”古事記”を歌物語として読むことも可能です。

どの人の、どの歌に心惹かれたか、教えていただけると、嬉しいですね。とても興味があります。

恋歌では、

人言を  繁み言痛み  おのが世に

         いまだ渡らぬ     朝川渡る  (但馬女皇女 巻2:116)

が、私のお気に入りです。

結局は、ふられてしまうようですが、鮮烈な歌です。

Q紫式部が源氏物語を書いた理由、と、清少納言が枕草子を書いた理由

こんにちわ、初めまして。
学校の課題で、紫式部が源氏物語を書いた理由、と、清少納言が枕草子を書いた理由を記録に残されている根拠を使って書く、という課題が出たのですが、図書館などで本を見てもあまり「創作動機」については記されていません。ちょっと詳しめに、もしよろしければ作文形式でお返事ください。
どうかお助けください。宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

枕草子については、跋文に書かれていることから類推するのが一番でしょう。
ただ、枕草子が枕草子として成立した理由は「つれづれなる里居のほどに」「目に見え心に思ふことを」「書き集めたる」が「心よりほかにこそ漏りいでにけれ」とあるんですが、書き始めた理由は「ない」んですよね。
単なるメモですから。大げさな「書き始めた理由」なんてないんです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/maku2.htm#319

源氏物語については「書いた理由」は、現代では「分からない」が正解ですよ。
土佐日記のように「おとこもすなるにきといふものををんなもしてみむとてするなり」という動機は見当たりませんから。
「源氏物語」は、物語なので作者が書いた動機を入れるのは変ですしね。
また、「記録に残されている根拠」と言っても、当人の談でなければ「根拠」とは言えないでしょう。

#3さんがおっしゃっているように「文献に拠っていれば、作者自身の述べるところでなくともかまわない」というのであれば、源氏物語に関しては、『無名草子』もありますよ。
このあたりが参考になるのではないでしょうか。
http://www.asahi-net.or.jp/~mq9k-ymst/KYkobun/sakuhin/murasakisb/kaisetu.htm
http://www.f-izumi.com/~bk8s-sndu/mei37.html
http://www.f-izumi.com/~bk8s-sndu/genji.html

大斎院選子内親王から上東門院彰子に「退屈しているので、何か物語を貸してください。」という依頼があったので、彰子が「どれを差し上げたらいいかしら。」と紫式部に相談をした。
紫式部が「新しく作って差し上げては?」と申し上げたら、彰子が「じゃあ、あなたが作りなさい。」と言われた。
それで、源氏物語を作って差し上げた。

という話ですね。
尤も、源氏物語は、紫式部が上東門院彰子に仕える前から書いていた…とされていますから、説としてはどうでしょうか。

当時は、「紙」が高価なものでしたから、随筆や物語を書く、書き留めるだけの「紙」を手に入れることができたから書いた…という言い方もできるのではないでしょうか。

枕草子については、跋文に書かれていることから類推するのが一番でしょう。
ただ、枕草子が枕草子として成立した理由は「つれづれなる里居のほどに」「目に見え心に思ふことを」「書き集めたる」が「心よりほかにこそ漏りいでにけれ」とあるんですが、書き始めた理由は「ない」んですよね。
単なるメモですから。大げさな「書き始めた理由」なんてないんです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/maku2.htm#319

源氏物語については「書いた理由」は、現代では「分からない」が正解ですよ。
土佐日記のよう...続きを読む

Q万葉集の4321と4322

万葉集の4321と4322の全釈、注釈、評釈ってなんなんでしょうか?

本やネットで調べているのですが、なかなかヒットしません。 ぜひ、わかるならば教えてください

Aベストアンサー

回答行き違いになりましたので改めてを補足を書いておきます。万葉集巻20(防人)の歌です。
4321は「畏きや命(みこと)被(かがふ)り明日ゆりや加曳(かえ)が斎田嶺(むたねむ)を*妹(いむ)無しに」が原文で現在次のように読下されています。「畏きや命被り明日ゆりや草(かえ)がむた寝む妹なしにして」作者は(物部秋持)  大意は「恐れ多くも、天皇の詔を頂きいよいよ明日からだ!防人として草に起き伏しをする日が続くのだ、ああいとしい妻よ往かねばならない」作者(物部秋持) は國造の丁(よぼろ)で丁は足腰の達者な者、二十歳から六十歳までの男子で公役に使役される者とされています。「畏きや」の(や)は詠嘆の助詞で(命)に続きます。「被り」は(かがふり)で(こうぶる)他動詞四 蒙る 受けるの意 「明日ゆりや」の(ゆり)は(より)のこと。 (や)は下の(寝む)にかかります。加曳(かえ)が斎田嶺(むたねむ)の「加曳(かえ)」は(かや)の訛で(草)のことで、(むた)は一緒にの意。
4322 は「我が妻はいたく戀ひらし飲む水に影副へ見えて世に忘られず」が原文で
「我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)副(さ)へ見えて世に忘られず」が読み下しです。大意は「遠く離れて暮らす妻はいたく私を恋い焦がれているのだろう。 呑む水にまで妻の顔が映る、ああ何で忘れようぞ忘れられない恋しい限りだ!」作者は若倭部身麿(わかやまとべのむまろ)で
主帳(ふみひと)の丁とされています。主帳(ふみひと)は郡の役所の書記役。
こんなところがお答えですが、4321番の(加曳(かえ)が斎田嶺(いむたね)については異説もあるようですがこれに付いては触れませんでした。 なお原文の意味は万葉仮名自体でありませんのでご承知おきください。補足 「いたく戀ひらし」(らし)は通例、終止形で受け(戀ふらし)になる。ここではその形になっていないが理由はわからない。方言という説もあります。
「影副へ見えて」の(かげ)を(かご)とするのは東国(遠江、駿河)地方の方言。そうすると前の「いたく戀ひらし」も同じと見るべきか(私の独断です。)「世に忘られず」の(世に)は決して、少しも、全くなど下に打ち消しの言葉を伴い打消しに用います。例えば「ー逢坂の関は許さじ」などです。ご参考まで。(前回答に一部タイプミスがありますので此れを回答と致します。悪からずご容赦ください。)

回答行き違いになりましたので改めてを補足を書いておきます。万葉集巻20(防人)の歌です。
4321は「畏きや命(みこと)被(かがふ)り明日ゆりや加曳(かえ)が斎田嶺(むたねむ)を*妹(いむ)無しに」が原文で現在次のように読下されています。「畏きや命被り明日ゆりや草(かえ)がむた寝む妹なしにして」作者は(物部秋持)  大意は「恐れ多くも、天皇の詔を頂きいよいよ明日からだ!防人として草に起き伏しをする日が続くのだ、ああいとしい妻よ往かねばならない」作者(物部秋持) は國造の丁(よぼろ)で丁は足腰...続きを読む


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