電子書籍の厳選無料作品が豊富!

§ 1 それゆえ ひとは 神の霊が去っても 心のすなほにて起ち上がる

▲ (旧約聖書 ハバクク書2:4) ~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Hab&c …

△〔ギリシャ語セプトゥアギンタ〕  ~~~~~~~~~~~~~~~~

  もし神なるわが霊が
  そのひとにおいて縮こまってしまい
  そこにやどりつづけることが無くなったとしても
  こころのまっすぐなひとは
  われを思うまこと(非思考の庭)の中から立ちあがり生きる。


△ 〔ヘブル語聖書〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ かのひとのたましひは
  みづからの内に這いつくばって まっすぐに立つことができない
  しかも
  そのひとのまこと(非思考の庭)にあってすなほなる者は 生きる。


▽ (新共同訳 1987) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、高慢な者を。
  彼の心は正しくありえない。
  しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

▽ (口語訳 1955) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、その魂の正しくない者は 衰える。
  しかし義人はその信仰によって 生きる。

▽ (KJV) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~

  Behold, his soul which is lifted up is not upright in him: but the just
  shall live by his faith.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ すなわち 和訳はいづれも 人をよい人と悪い人とのふたつに分けているよ
うです。ですが そうではなく 同じひとりの人について語っているのではない
か? 

つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではない
か? 

そう捉えるなら おおきな意味での《信じる》によってひとは生きる。と言える
のではないか。

もっと細かく言うとすれば すでにその人は 人も神も仏も(?)何もかもを信
じ得なくなっている。そこにおいて そこにおいても 心の奥底の《すなほ》に
よって やおらかれは・かのじょは 起ち上がる。

 
これを問います。


§ 2 関連して こころのきずがなほらないことがあるか

▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか? 
信仰の有る無しにかかわらず。
それでこそ普遍神である。

人間の・おのが能力と努力だけによってはなほすことが出来ない場合がある。という
含みを持たせていますが。

A 回答 (10件)

~~~~~~~~~~~~



心身並行説(しんしんへいこうせつ、英: Psycho-Physical Parallelism)または単に並行説は、心身問題に関する考え方の一つで、この世には心的なものと物的なもの、という全く異なる二種類のものがあり(二元論)、かつその両者は並行して進行しており、心的なものは物的なものに影響を与えない、とする考え方のこと。
対比される考え方として、心的なものと物的なものがお互いに影響を及ぼしあっているという相互作用説、そして心的なものは物的なものに完全に付随して生まれているという随伴現象説がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/心身並行説

~~~~~~~~~~~~


スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[11]と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[12]」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[13]人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[14]、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

バールーフ・デ・スピノザ
https://ja.wikipedia.org/wiki/バールーフ・デ・スピノザ

~~~~~~~~~~~~~

今回は愚痴です。ブラジュロンヌさんとは関係のない話です。
それにしても次から次と私はよほど話しかけやすいのか
バカにされているのか


たぶん私が心身並行説に言及すると今度は
スキゾとか統合失調症とかの話になりそうだから

やっぱりユングとか言っておく。

最近はアドラー心理学とか言うのが人気らしいけれど。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(№9お礼欄) ~~~~~~~~~~
神は かたちがありません。有るか無いかという経験合理性の見
方を超えているのですから 有形か無形かも測りがたい。

≪永遠≫も≪無限≫も 同じです。

その神に似せてつくられた。という表現で聖書記者はしるした。

ここから出発して行って欲しいと思います。
~~~~~~~~~~~
☆ 神――つまり聖霊です。父も子も霊です――は 身と心とを
超えている。のです。

身と心とが互いにどうあるか。の問いより先に それらを超えて
いる何かが想定されている。

これをどうするか? について自分の見解を明らかにしないかぎ
り 話はすすみません。

お礼日時:2016/07/05 20:19

integral 積分



永遠と瞬間と無限と近似

個人的関心では微分かな。



それはともかく

ヘブライズム
ヘレニズム

けれども今までローマの要素が欠けていると思って、
なんとなくローマ法大全を見てみたのですが、


trinitate

とか書いてました。

私は道徳には関心があるのですが
それに比べると法への関心が低い。

~~~~~~~~~~~~~

CJ.1.1.0. De summa trinitate et de fide catholica et ut nemo de ea publice contendere audeat.


DOMINI NOSTRI SACRATISSIMI PRINCIPIS IUSTINIANI CODEX

LIBER PRIMUS

http://www.thelatinlibrary.com/justinian/codex1. …

~~~~~~~~~~~~~~~~


イドラ(ラテン語: idola、ラテン語イドルムidolumの複数形)とは、人間の先入的謬見(偏見、先入観、誤りなど)を帰納法を用いて説いたもの[1][2][注釈 1]。16世紀から17世紀にかけてのイギリスの哲学者、フランシス・ベーコン(1561年-1626年)によって指摘されたもので、「偶像」「幻影」などと訳される[1][2]。ラテン語で偶像を意味し、英語のアイドル( idol )の語源でもある[2][注釈 2]。
注釈[編集]
^ ギリシャ語では単数形エイドーロンeidōlon、複数形エイドーラeidōla。大谷(2004)

https://ja.wikipedia.org/wiki/イドラ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

イドラはエイドーロンだったのか。知らなかった。


クルアーンといえば
偶像とか似像とかのギリシャ語のエイコーンとかエイドーロンとかホモイオーマとか
アラビア語だとどのような言葉になるのでしょうね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

神とその似像については №7のお礼欄に書いたところを思って
います。

神は かたちがありません。有るか無いかという経験合理性の見
方を超えているのですから 有形か無形かも測りがたい。

≪永遠≫も≪無限≫も 同じです。

その神に似せてつくられた。という表現で聖書記者はしるした。

ここから出発して行って欲しいと思います。

お礼日時:2016/07/05 09:49

~~~~~~~~~~~~~~~~



従って被造的存在 の三位一体的構造の原因は, 神の三位一体に存する。 この
ことは人間存在 の探究において , 一層重要な 意義をもっている。 アウグスチヌ
スはr創世記� 1章 26節で「我々は人聞を我々の像(i mag o) と類似(si usiltn do)
じよって造ろう」と神が語り給うと ころの「我今」という複数を神のペルソナ
の三位と 解するのである。
そこから, アウグスチヌスの生涯にわた る探究の課題である「神と 魂とを知
りたい」という問題が , 実は三位一体的構造の問題であるということが明らか
と な るのである。 つまり, 創造主な る三位一体の神と , その似 像 として造られ
た三位一体的構造をもっ私の魂を知りたいということ な のである。

アウグスチヌスの三位一体論的思惟について
村上一 三

http://jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-content/uploads/s …

~~~~~~~~~~~~~~~

1:26 et ait : Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram : et præsit piscibus maris, et volatilibus cæli, et bestiis, universæque terræ, omnique reptili, quod movetur in terra.


001 Genesis - Genesis

Biblia Sacra - Vulgatae Clementina - (LVC)
http://lvc.ibibles.net/001Genesis.htm#001-1


~~~~~~~~~~~~~~~~~

PDFからのコピペの文字化けを直す体力が無い。


類似?

と思ったけど、

ラテン語とアウグスティヌスか・・・。


とりあえず休みます。休むと何回言うのだろう。
体力が続かない。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▼ 我々の像( imago ) 〔の〕「我々」という複数を神のペルソナの
三位と 解するのである。
☆ そう解しても不都合ではないようですが げんみつには違います。

クルアーンでもアッラーフ(単数形)は 預言者ムハンマドの口をと
おして ≪われわれは≫と語っています。

これは 言語学的に≪尊貴の複数≫と言われているものです。

昔の一般に本の著者は ≪われわれは≫という複数形を≪わたしは≫の代
わりに使っています。これは 共同性をあらわすもののようです。

三位一体なる神という説が出て来たのは 共観福音書およびヨハネ福
音で≪父なる神≫とその≪神の子≫という言い方とそしてふつうに≪聖霊
(または 弁護者など)≫という言葉が現われていることから 解釈し
たものです。

イエスは ≪父のものはわたしのもの わたしのものは父のもの≫だと
かあるいは ≪父とともにわたしが 聖霊をきみたちに送る≫だとか言
っているので 一体説が帰結されます。

このトリニティの仮説を持つと そうすると あのマムレの木の下に
旅人が三人 アブラハムのもとをおとづれた。これも 神の三つの位
格に対応しているといった見方が出されました。
――その程度の問題です。

▲ (創世記1:1) べ‐レシート バラ― エローヒーム エト・ハ
ー・シャマイーム ワ‐エト‐ハー‐エレツ
☆ エローヒーム(神)は 複数形(‐イーム)で バラ―(創造した)
は 三人称・単数形です。

お礼日時:2016/07/03 15:53

雑談になりますけれど、



三位一体は「同じ」だから


エイコーンみたいに
似ているとなると

話がややこしいと思う。
ニカイア信条とか。

とにかく似像でも
三位一体で同じだ

ということなのだろうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

≪類似≫です。

絶対と相対とのあいだには・神とわれわれ人間とのあいだには 絶対
のへだたりがあります。

それだから 絶対と呼ぶナゾの何ものかの想定が成り立っているし 
じっさい認められています。

つまりは 三つの位格の一体とそして三つの行為能力の〔時間的なズ
レを伴なった〕一体とが いくらかは似ている。似ているが しかし
いかに似ていないかについても思いめぐらさねばならない。
――という意味での類似性です。

神にあっては 然りは然りであり 否は否であるとなります。
人間にあっては 然りが 否に変わったりします。その逆も。

それでもなお 人間の能力行為の三つに分かれた担当とそれらの協業
については あたかも神の三位一体に似ている。

たとえば天網恢恢疎にして漏らさずといったコトワザが成り立つかに
見られています。

お礼日時:2016/07/03 11:42

~~~~~~~~~~~~~~



Rom 1:23
And changed the glory of the uncorruptible God into an image made like to corruptible man, and to birds, and fourfooted beasts, and creeping things.


1:23 καὶ ἤλλαξαν τὴν δόξαν τοῦ ἀφθάρτου θεοῦ ἐν ὁμοιώματι εἰκόνος φθαρτοῦ ἀνθρώπου καὶ πετεινῶν καὶ τετραπόδων καὶ ἑρπετῶν

https://www.blueletterbible.org/kjv/rom/1/1/t_co …
~~~~~~~~~~~~~~



23:ローマの信徒への手紙/ 01章 23節
滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html


~~~~~~~~~~~~~~


Rom 1:20
For the invisible things of him from the creation of the world are clearly seen, being understood by the things that are made, even his eternal power and Godhead; so that they are without excuse:


1:20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασιν νοούμενα καθορᾶται ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους

https://www.blueletterbible.org/kjv/rom/1/1/t_co …


20:ローマの信徒への手紙/ 01章 20節
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html


~~~~~~~~~~~~~~~~


εἰκών

ὁμοίωμα

εἴδωλον


~~~~~~~~~~~~

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
エイドロン
エイドロン
eidōlon

「似像」「幻影」「形象」を意味するギリシア語。デモクリトスは,外界の事物からはがれた薄皮で,目に印象を与えて知覚を起すとした。

https://kotobank.jp/word/エイドロン-35970

~~~~~~~~~~~~~~




イコノクラスム(英語: iconoclasm, ギリシア語: εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である[1](英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが[1]、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/イコノクラスム

~~~~~~~~~~~~~~~



エイコーンを偶像か似像か
イコンの問題がどういう理由で解決したのか調べようとか思っていたら

パウロの文章を読んでいたら
力とか書いてあるから
調べることが増えて
疲れたから休む。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (ローマ初:23) 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間
・・・などに似せた像と取り替えた
☆ のは ≪不義によって真理の働きを妨げる人間(同1:18)≫です
よ。


▲ (ローマ書1:20) 世界が造られたときから、目に見えない神
の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通し
て神を知ることができます。
☆ については わたしはよく分かりません。


三位一体論において ひとの≪身と心≫なる自然本性の内の心(精神)が
≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫の三つの行為能力から成り これは≪父なる神
と子なる神とそして両者から出る聖霊なる神≫という三つの位格の一体に
似ているとは――アウグスティヌスをとおして――知り得ましたが。

お礼日時:2016/07/03 11:19

~~~~~~~~~~~~~~~



yaddhi kulaputrāstathāgatena kartavyaṃ tattathāgataḥ karoti| tāvaccirābhisaṃbuddho'parimitāyuṣpramāṇastathāgataḥ sadā sthitaḥ|


Home › Canon Texts › › › Saddharmapuṇḍarīkasūtram ›

15 tathāgatāyuṣpramāṇaparivartaḥ|

http://www.dsbcproject.org/node/4269


~~~~~~~~~~~~~~



nirvāṇabhūmiṃ cupadarśayāmi

vinayārtha sattvāna vadāmyupāyam|

na cāpi nirvāmyahu tasmi kāle

ihaiva co dharmu prakāśayāmi||3||

tatrāpi cātmānamadhiṣṭhahāmi

sarvāṃśca sattvāna tathaiva cāham|

viparītabuddhī ca narā vimūḍhāḥ

tatraiva tiṣṭhantu na paśyiṣū mām||4||



Home › Canon Texts › › › Saddharmapuṇḍarīkasūtram ›

15 tathāgatāyuṣpramāṇaparivartaḥ|

http://www.dsbcproject.org/node/4269





~~~~~~~~~~~~~~~~

Nomenclature, orthography and etymology[edit]
Adhiṣṭhāna(m) is a term with multiple meanings: seat; basis; substratum; ground; support; and abode.[1] The Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary Online holds the following semantic field for adhiṣṭhāna:

[noun] standing by, being at hand, approach
standing or resting upon
a basis, base
the standing-place of the warrior upon the car
a position, site, residence, abode, seat
a settlement, town, standing over
government, authority, power
a precedent, rule
a benediction (Buddhism)[2]

Adhiṣṭhāna
https://en.wikipedia.org/wiki/Adhiṣṭhāna

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

久遠常住の箇所を探そうとして
力尽きた。


サンスクリットがわからないからなあ。


住がまさか加持なのではないか?とか
思ったり。

とにかく休んで後で読み返すことにしよう。

メモ書き。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~



仮現説(かげんせつ、ギリシア語: Δοκητισμός, Dokētismos、ラテン語: Docetismus、英語: Docetism)、またはキリスト仮現説とは、キリスト教の神学、キリスト論において、「イエスの身体性を否定する教説」を言う。つまり、「イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目にそのように見えただけであった」という見解である。当時の主流派(正統派)教会からは、異端であるとして排除された。語源は、ギリシア語の δοκεῖν(dokeīn、~であるように見える)という語である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/仮現説


~~~~~~~~~~~~~~~

イコン(ギリシア語: εικών, ロシア語: Икона, 英語: Icon, ドイツ語: Ikon)とは、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像(多くは平面)である[1]。"εικών"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による(ειは中世・現代ギリシャ語では「イ」と読む)。古典ギリシャ語再建音ではエイコーン。正教会では聖像とも呼ぶ[2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/イコン

~~~~~~~~~~~~~~~~~
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 仮現説
☆ については 三位一体説なる立ち場に立ちます。

イエス・キリストというのは 人間イエスが神の子キリストであると――想
定して――捉える信仰の・その説明段階における見方です。

ナザレ村のヨセフを父としマリアを母としてそのコイトスによって生まれた
男のイエスが 同時にマリアが聖霊なる神によって身ごもったかたちで生ま
れたのだと想定する見方です。

いわゆる現人神といった見方です。ただし その神の受肉は 神の独り子キ
リストが成ったことなので 現人神が何人もいるということではありません。





▲(ヰキぺ:加持) ~~~~~~
元はサンスクリット語のadhisthana(アディシュターナ)の訳語で、他にも
所持・護念などと訳される場合もある。

本来の意味は仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生(人々)を守ると
いう。

仏の大悲の力が衆生に加えられ、一方衆生の信心が仏に伝わることでその効
果を発揮するとされる。
~~~~~~~~~~~~~
☆ この説明にもとづき 質問の趣旨との違いを述べます。

加持は ≪ひとは こころが余所から傷つけられるということはない≫にかん
しては特に何も語っていない。

≪こころのきずがなほらないことがあるか≫については 加持としての癒しや
守りが想定されていて 同じようである。

≪ひとは 神の霊が去っても 心のすなほにて起ち上がる≫については おそ
らくブディズムでは 想定外なのだと思われる。ブッダのチカラの外で心が
癒えるということは 想定していないらしい。

普遍神とわれとの関係(つまり信仰)では 神からわれへのはたらきかけと
いう向きのほかに:
▲ 衆生の信心が仏に伝わる
☆ という別の向きは 考えていない。普遍神からの一方的な心の支えと癒
しであり さらにはその普遍神が去ったあとにも ひとの自然本性がその心
においてなお起ち上がり生きるという事態が捉えられている。

普遍神による支えは あくまで主観の問題です。その主観の中で もし神が
去って行ったと思ったあと それでも――あくまで主観的なものですが――
普遍神の外においてなおその余韻がはたらいてのごとくそのチカラにおいて
われは起ち上がる。

こう問うています。


サンスクリット文については根気がつづかなかった。

お礼日時:2016/07/03 10:59

~~~~~~~~~~~~~~~



gre 37d
εἰκὼ δ’ ἐπενόει κινητόν τινα αἰῶνος ποιῆσαι, καὶ διακοσμῶν ἅμα οὐρανὸν ποιεῖ μένοντος αἰῶνος ἐν ἑνὶ κατ’ ἀριθμὸν ἰοῦσαν αἰώνιον εἰκόνα, τοῦτον ὃν δὴ χρόνον ὠνομάκαμεν.


eng Jowett
Wherefore he resolved to have a moving image of eternity, and when he set in order the heaven, he made this image eternal but moving according to number, while eternity itself rests in unity; and this image we call time.



You are here: BP HOME > BPG > Plato: Timaeus > record

Plato: Timaeus

https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page …


Bibliotheca Polyglotta
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php


~~~~~~~~~~~~~~~


追記。全文から探そうとして大変だった。
左側に項目があった。Time
    • good
    • 1
この回答へのお礼

№1のお礼欄で言ったことと同じです。

永遠と時空間との関係。よく分かるようには書いていないように
思います。

お礼日時:2016/07/01 21:07

永遠の似像が時間



だとすると、


時間から解放されて

永遠を求める

そして、永遠を思う心は神から与えられている

偶像と言っていいのかどうか、偶像から神へ。

気になるのは、


無常とか
否定形を使いたがる仏教と比べると、


ニーチェは永遠を求めすぎのような気がする。

キリスト教の影響なのか、古典ギリシャなのか、なんなのか。

まあ、仏教といっても面倒なのは

久遠常住とかいう

法華経だけれど。


~~~~~~~~~~~~~~~~

法華経や涅槃経では、この久遠実成の説をさらに推し進めて、釈迦仏は涅槃して滅度の相をあらわすが、それは仮の相であって実には滅度せず、つねにこの世に存在(生まれることもなく、また滅することもなく存在)しているのだ、とも説く。これを久遠常住と言う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/久遠常住

~~~~~~~~~~~~~~~~~


サンスクリットまで調べるのはいつの日になることやら。


前回の書き込みで混ざりましたが、
宮沢賢治のほうはエスペラントです。

~~~~~~~~~~~~

エスペラント(Esperanto)とは、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、いわゆる国際補助語としては最も世界的に認知され、普及の成果を収めた言語となっている[要出典][1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/エスペラント


~~~~~~~~~~~~

法華経はサンスクリットです。


一応、念のため。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 永遠の似像が時間
☆ これは もっと具体的なものごとに例を採って説明しないと
なかなか 納得が行かないと思います。

(神秘思想のままでよいという場合があるとすれば それを別と
してになりますが)。

つまり 神の似像が 人間である。です。
つまり この神は 新約でやっと明らかになった・やはり三位一
体の神だと考えられます。

そして――どうしようもなく それは後付けだと言われても仕方
のないごとく―― 人間のことについて人間の側から神とくらべ
ることになります。

光に例をとって 光源とその発耀とそれら両者のマジハリとして
のあたたかさや明るさという三つのことが 三位一体なる神との
類似性として説明されるものと考えます。

あたかも 永遠としての光とそして時空間における光との類似性
だと見ます。



エスペラントは 嫌味がない〔つくりに成っている〕と感じてい
ます。

お礼日時:2016/07/01 12:49

~~~~~~~~~~~~~~



Der Geist der Rache: meine Freunde, das war bisher der Menschen bestes Nachdenken; und wo Leid war, da sollte immer Strafe sein.
„Strafe“ nämlich, so heisst sich die Rache selber: mit einem Lügenwort heuchelt sie sich ein gutes Gewissen.
Und weil im Wollenden selber Leid ist, darob dass es nicht zurück wollen kann, — also sollte Wollen selber und alles Leben — Strafe sein!
Und nun wälzte sich Wolke auf Wolke über den Geist: bis endlich der Wahnsinn predigte: „Alles vergeht, darum ist Alles Werth zu vergehn!“
„Und diess ist selber Gerechtigkeit, jenes Gesetz der Zeit, dass sie ihre Kinder fressen muss“: also predigte der Wahnsinn.
„Sittlich sind die Dinge geordnet nach Recht und Strafe. Oh wo ist die Erlösung vom Fluss der Dinge und der Strafe „Dasein“?“ Also predigte der Wahnsinn.
„Kann es Erlösung geben, wenn es ein ewiges Recht giebt? Ach, unwälzbar ist der Stein „Es war“: ewig müssen auch alle Strafen sein!“ Also predigte der Wahnsinn.
„Keine That kann vernichtet werden: wie könnte sie durch die Strafe ungethan werden! Diess, diess ist das Ewige an der Strafe „Dasein“, dass das Dasein auch ewig wieder That und Schuld sein muss!
„Es sei denn, dass der Wille endlich sich selber erlöste und Wollen zu Nicht-Wollen würde —“: doch ihr kennt, meine Brüder, diess Fabellied des Wahnsinns!
Weg führte ich euch von diesen Fabelliedern, als ich euch lehrte: „der Wille ist ein Schaffender.“
Alles „Es war“ ist ein Bruchstück, ein Räthsel, ein grauser Zufall — bis der schaffende Wille dazu sagt: „aber so wollte ich es!“
— Bis der schaffende Wille dazu sagt: „Aber so will ich es! So werde ich’s wollen!“


Von der Erlösung.

Also sprach Zarathustra.
Ein Buch für Alle und Keinen.

Zweiter Theil.

http://www.nietzschesource.org#eKGWB/Za-II-Erloe …


~~~~~~~~~~~



20:4 οὐ ποιήσεις σεαυτῷ εἴδωλον οὐδὲ παντὸς ὁμοίωμα ὅσα ἐν τῷ οὐρανῷ ἄνω καὶ ὅσα ἐν τῇ γῇ κάτω καὶ ὅσα ἐν τοῖς ὕδασιν ὑποκάτω τῆς γῆς

Exo 20:4

Thou shalt not make unto thee any graven image, or any likeness of any thing that is in heaven above, or that is in the earth beneath, or that is in the water under the earth:


https://www.blueletterbible.org/kjv/exo/20/1/t_c …

~~~~~~~~~~~~~~

4:出エジプト記/ 20章 04節
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

新共同訳
http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~

考察は次。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

よく分かりませんでした。

お礼日時:2016/07/01 21:05

~~~~~~~~~~~~~~~~



3:11 σὺν τὰ πάντα ἐποίησεν καλὰ ἐν καιρῷ αὐτοῦ καί γε σὺν τὸν αἰῶνα ἔδωκεν ἐν καρδίᾳ αὐτῶν ὅπως μὴ εὕρῃ ὁ ἄνθρωπος τὸ ποίημα ὃ ἐποίησεν ὁ θεός ἀπ᾽ ἀρχῆς καὶ μέχρι τέλους


https://www.blueletterbible.org/kjv/ecc/3/1/t_co …


~~~~~~~~~~~~~

11:コヘレトの言葉/ 03章 11節
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。


http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

~~~~~~~~~~~~~~~


Now the nature of the ideal being was everlasting, but to bestow this attribute in its fulness upon a creature was impossible. Wherefore he resolved to have a moving image of eternity, and when he set in order the heaven, he made this image eternal but moving according to number, while eternity itself rests in unity; and this image we call time.





Tim gre 37c - 39e


You are here: BP HOME > BPG > Plato: Timaeus
Plato: Timaeus

https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page …

Bibliotheca Polyglotta
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php


~~~~~~~~~~~~~~~~~~


Oh wie sollte ich nicht nach der Ewigkeit brünstig sein und nach dem hochzeitlichen Ring der Ringe, — dem Ring der Wiederkunft?
Nie noch fand ich das Weib, von dem ich Kinder mochte, es sei denn dieses Weib, das ich liebe: denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!
Denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!


Die sieben Siegel.
(Oder: das Ja- und Amen-Lied.)
http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/Za-III


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


— gleichgültig zunächst, wohin, wozu, womit er wollte: der Wille selbst war gerettet.






Zur Genealogie der Moral.
Eine Streitschrift.

Dritte Abhandlung:
was bedeuten asketische Ideale?


28.

http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM-III-28



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


Kuṇḍa­la­kesi­therī­vatthu

Yo ca gāthā sataṃ bhāse,
anattha­pada­saṃhitā
;
Ekaṃ dhammapadaṃ seyyo,
yaṃ sutvā upasammati.

Yo sahassaṃ sahassena,
saṅgāme mānuse jine;
Ekañca jeyyamattānaṃ
,
sa ve saṅgāmajuttamo.

Anat­tha­puccha­kab­rāhma­ṇa­vatthu

Attā have jitaṃ seyyo,
yā cāyaṃ itarā pajā;
Attadantassa posassa,
niccaṃ saññatacārino.

Neva devo na gandhabbo,
na māro saha brahmunā;
Jitaṃ apajitaṃ kayirā,
tathārūpassa jantuno.

https://suttacentral.net/pi/dhp#103

~~~~~~~~~~~~~~~~

Sahassa Vagga

Dhp 103 Sahassavagga 8.4 Dhp 29 G-Dhp 305, P-Dhp 378

https://suttacentral.net/dhp

~~~~~~~~~~~~~~~~



A Comparative Edition of the Dhammapada

http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-T …


~~~~~~~~~~~~~~~~

出典を探す作業だけで疲れた。

ダンマパダも久しぶり。


ツァラトゥストラの第四部が
Digital Critical Edition of Nietzsche’s Works and Letters (eKGWB)

に無いのだろうか?

あと、力への意志も。


それからアウグスティヌスの

「永遠の現在」の出典も探している。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

コヘレトの≪永遠と時間≫の説が ティマイオスやツァラトゥストラと
どういう関係にあるかは 分かりませんでした。


▼ a moving image of eternity
☆ これが 分かりません。永遠と時空間とは 一たんまづは互いの間
に 絶対のへだたりがあるということを言わないと 話は始まらないも
のと思います。


ダンマパダには 根気がつづきませんでした。

お礼日時:2016/07/01 20:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す