プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 自己との和解そして世の中との和解 これが――さまざまなきっかけを
とおして いかなるかたちにおいて起きるにせよ―― 個人にとっての《前史
の終了 すなわち 後史への突入》だと考えられます。

2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれ
るか?

3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題
に心から同意することと同時なのではないか?

4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷とし
てあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないの
だ。この認識とそれに見合った身における感性的な秩序のようなものが成り立
つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。




5. 人びとの中には 一生のあいだについぞこの和解を見ない場合もあるの
だろうか?

6. 死を前にした心境において 和解の境地は得られるものだろうか? つ
まり人は遅くとも死の直前には 自己に立ち帰り世の中とも解け合い 結ぼれ
たしがらみは無くなっていると言えるだろうか?

7. 言いかえると人びとの中には 死んでも その無明のうちに過ごす前史
が終わらないという場合もあるだろうか?

8. 死ぬまで 《悪》なる観念に悩まされつづける魂は 存在するだろうか?

質問者からの補足コメント

  • ★  [ 自我としてのこの我 ] と [ 人類の一員としての我 ]
    ☆ 粗い解釈ですが 《個性》と《自然本性》と呼び換えます。

    理論としてではなく 表現から誤解が生じやすいのではないか。

    どちらにも《我》が入っています。とすると 自然本性の一つの能力としての
    《意志》が どちらにも含まれるように錯覚しやすい。

    つまり 個性としての意志と本性としての意志といったようにふたつの意志が
    ある。つまり われが二人いるかのように見られかねない。

    言いかえると そうではなく 個性も 自然本性なる意志のはたらかせ方によ
    って 生じたわけです。本性に付け加わった褒められるべき栄光と褒めたもの
    ではないゴミとです。

    二項対立が あたかも相い容れない二元論であるように見られてしまいがちで
    はないでしょうか。

    それに――昔の議論ですが――《自我》は 存在全体なるわれをも意味し得る
    のでは?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/28 20:19
  • ご回答をありがとうございます。

    二点 いづれも 互いに了解・・・でいいですよね。


    保留させてもらった《悪》の問題について お礼欄に書き込むことが
    出来ればと思っています。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/29 00:56
  • №8《無意識》論です。

    次の用語を言いかえてみます。:
    (α) [ 人類の一員としての我 ] :先天的われ;先験的・超経験的・恩恵的。
    (β)  [ 自我としてのこの我 ]:後天的われ;意志行為的・人為的・ときに作為的。

    (α): 超経験の場(チカラ)とつながる経験存在としてのわれ(霊我=アートマン?)
    (β): 自然本性(身と心)の内の心(精神)の中の意志による思考および行動が
        その歴史を築いて特には記憶なるアーカイヴに蓄積されている。その性格。

    無意識は 《意識的起動から自由である》にもかかわらず (β)に所属するか?
    ★(A№4) 「無意識的に同意できるような思考回路」を自らの脳に組み込む
    ★ 無意識的記憶として蓄積される
    ★ 人は、本質的に、その無意識によってはじめて、自ら腑に落ちる言動が可能に
    なるきっかけを得る

    ☆ これを 良心(α)なるめぐみが しのぐか。

      補足日時:2017/05/29 10:18
  • 4.
    ★★(同上)3. ただ、「神」の視点からすると、所詮同じだよ、と。 / ど
    ちらが正しいということにはならないのかもしれません。
    ★ ここはむしろ謙虚に述べているところです。
    ☆ そうでしたか。

    ★ つまり、
     ☆存在としては互換可能性はないのだと知る。
    ★ というのは(わたしにすれば)詭弁という解釈も不可能ではないものであり、
    ☆ そうですか。
    ★ 何より、
     ☆免れたことのとうとさ。
    ★ といった視点は不合理だということになりますね。 / ただ、別の視点から見
    た場合、その見解は、一応筋が通っているだろう、と申し上げただけ。
    ☆ そうでしたか。ここは かなり隔たりがあるようです。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/29 23:45
  • 末尾の《基体》は 《うつは(器)》と言うと分かりやすかったです。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 19:19
  • 別の視点を導入してみます。次のような理解は できますか?

    神:神の法  = 永久法・・・・・・・・最終原因
             ↓            ⇊
    人:自然本性  = 自然法・・・・・・・ (α) [ 人類の一員としての我 ]
             ±(プラスマイナス)    ±
    人:意志の自由度 ≒人定法 ・・・・ ・・(β) [ 自我としてのこの我 ]



    ☆ 永久法などについては ヰキぺなどを参照ください。
    人定法は 実定法で出ています。

    法と宇宙の法則とがまぎらわしく これまで持ち出さなかったものです。
    またわたくしとてしては じっさいあまり理論としても議論としても持ち出
    したくないものです。
    (規則は それに反する行為にまつわる咎めの意識を醸し出すだけだと 思
    われるからです)。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/04 13:47
  • ☆☆(№2お礼欄) ~~~~
     ★ 貴方の言う和解とは全てを受け入れるということでしょうか。
     ☆ これは どうでしょう。どうなんでしょう。いかがお考えに
     なりますか? 

     このスレッドで答えが出るといいと思います。
    ~~~~~~~~~
    ☆ こんなことを書きましたが 《すべてを――特にはすべての人を
    ――受け容れるということ》は とうとく大事であると考えます。

    【Q:《すべての人に対してすべてのものになりました》とは】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8811185.html
    ☆ これは わたしの問い求めですので。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/11 08:13

A 回答 (25件中1~10件)

私は興味深く読みました。


善の損傷という発想はありませんでした。
貴方の言う和解とは全てを受け入れるということでしょうか。
6にある柵はその時に無くなっていると思いたいですね。
それが旅立ちであるのなら。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 私は興味深く読みました。
☆ ありがたいです。特にこのところ ゾンビにいちゃもんをつけられ
ていまして。ありがとうございます。

★ 善の損傷という発想はありませんでした。
☆ そうですか。 《善の欠け( privatio boni : absense of good )》
のことです。

悪と呼ばれる現象は起きていますが それは 《悪》という何かが発生
するというのではなく もともとあるのは《善なるもの(たとえば 生
まれつきそなわった自然本性)》であり これが 損傷を受け 欠ける
ことだという捉え方だと思います。


★ 貴方の言う和解とは全てを受け入れるということでしょうか。
☆ これは どうでしょう。どうなんでしょう。いかがお考えになりま
すか? 

このスレッドで答えが出るといいと思います。

★ 6にある柵はその時に無くなっていると思いたいですね。 / それが
旅立ちであるのなら。
☆ なるほど。わたしのかんたんな考えでは その死のときを思ういま 
この今において なくなっている(つまりは それにわづらわされなく
なる)という状態を 夢見ますが これも どうでしょう。

お礼日時:2017/05/28 16:33

#25です。



>道をゆづった。というだけのことです。無理が通れば道理が引っ込む。引っ込んだだ
けであって道理は 無理からつねに自由でありつづけます。

まあ、それは切り口の問題でしょうね。
引っ込むという動作を強いられたわけですが、それでも完全に自由だと言い張るのか、その程度の不自由は不自由のうちには入らない、と捉えるのか。
道理さんの性格次第で見解がわかれるんじゃないですかね。
少なくとも、どちらかであると断定は難しいでしょう。
状況判断として見た場合にですが。
いずれにせよ見解の相違ということになると思うのですけどね。
新たな論点に繋がるまでは。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

うけたわまりました。
★ 新たな論点に繋がるまでは。

お礼日時:2017/06/05 00:12

#25です。



1.
>★★ 我々は [ 人類の一員としての我 ](α) でありさえすれば摂理の要件を満
たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] (β)が存在しなければなら
ない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )
☆ ゆえに:
★★ (α)は 摂理にとっては (完全に)自我(β)から自由な我
☆ であると言えると。

なるほど。
★必然性は(摂理にとって)皆無である
のだから、ということですね。
ただ、[ 人類の一員としての我 ]というものが独立して存在しているわけではない、という点にご留意いただきたいと思います。
その意味での「見立て」という表現ですので。
★完全に)自我(β)から自由
ではあり得ない。

>《身と心とから成る現実の自然本性たる我》つまり [ 自我としてのこの我 ](β)
なる生命体の内に生きるかたちで (α)は実現する。

☆内に生きる
という表現は誤解につながるので避けたいところですが、大まかに言うと、そういったことです。
ただ、これは、
☆’生命体の内に生きるかたちでしか (α)は実現し得ない。
と解釈していただくこともできるはずで、そうすると、
>その結果 《摂理から見て(α)なる我は (β)の自我からまったく自由であ
る》と。

は言えない、ということがご理解いただけるように思います。

2.
>★ 自然法=永久法 という捉え方ですが、その実態はあくまで不明であるとい
う立場。
☆ ここはですね。連続説に拠って《最終原因と直結する我》を立てるなら そ
ういう等号での理解になります。

むろん、そうですし、であればこそ「見解の相違」でしょう、と申し上げている。

3.
>★ [ 人類の一員としての我 ] にしても、あくまで「見立て」であって、それが
実態としてどういった我であるのか理解可能だと言ってるわけではない
☆ そうなんですか? つまりヒラメキや良心(ヤマシサ反応)は (α)から
(β)へのハタラキカケではないかと見ているのですが?

この問いについては、無意識が絡んできますから、そこは分けてお考えください。
☆ヒラメキや良心(ヤマシサ反応)
を生じせしめる機能は(α)によって付与されている。
経験事象において、それを実行する過程は(β)における無意識操作として実現する。
およそ、こういった関係性になるのではないかと思います。
しかし、ここにきて、押さえておかなければならない点が浮上したようです。
つまり、
[ 自我としてのこの我 ]= [ 自我として(だけ)のこの我 ]
ということではない、ということです。
[ 自我としてのこの我 ]= [ 自我によって統御されているところの、経験事象におけるこの我 ]
といったイメージになるでしょうか。
なぜ、ここを押さえておく必要があると思ったかというと、
☆ヒラメキや良心(ヤマシサ反応)は (α)から(β)へのハタラキカケ
というのは、信仰に分類される現象と言うほうが適切と思うからです。
経験事象におけるそれは、経験世界からの刺激を受け止めた結果として無意識的に生ずる、というわけです。
むろん、そうした仕組み自体は(α)から付与されたわけですが、実際の過程において、
☆(α)から(β)へのハタラキカケ
として機能するわけではない。

>つまり:
★ 自然法=永久法〔は〕 不明であるからこそ永久、ということでもある。
★ 「信仰」という範疇においては、これしかない、といった趣の構図です
☆ において。

(私の表現不足に起因して)誤解があるといけませんので注釈しておきますが、前者と後者は別のことを言っています。
前者については、
☆(α)から(β)へのハタラキカケ
というより、自然法と永久法は同じもの、あるいは繋がっているという捉え方です。
後者の場合は、おっしゃるように
☆(α)から(β)へのハタラキカケ
となると言えるように思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
☆☆’生命体の内に生きるかたちでしか (α)は実現し得ない。
★ と解釈していただくこともできるはずで、そうすると、
☆☆>その結果 《摂理から見て(α)なる我は (β)の自我からまったく自由であ
る》と。
★ は言えない、ということがご理解いただけるように思います。
☆ ここは 次のように解釈します。:

☆☆ 《摂理から見て(α)なる我は (β)の自我からまったく自由である》
☆ と同時に (β)なる我(自我)におけるわが自由意志の自由度は (α)なる我
にさからうことが出来る。つまりは そのとき (α)なる我は (β)なる我に負け
たかたちとなるのですが しかも その(β)なる自我からまったく自由であり続け
ていると。

負けたから消えてなくなったわけではなく また隷属するようになったわけでもない。

道をゆづった。というだけのことです。無理が通れば道理が引っ込む。引っ込んだだ
けであって道理は 無理からつねに自由でありつづけます。

まぁ 摂理から見てではなく 人間たるわれから見ての場合には 悪貨が良貨を駆逐
したとするのなら どこかへ追いやられたのだと思えたとしても 仕方がありません
が。

お礼日時:2017/06/04 23:29

#23です。



>そうだとしたら (α)なる我は 《自我》だとか《自我を発揮する》だとかと
は なじまないかたちで《最終原因と直結する我》である。のではないですか?

だからこその、
★自我を発揮する以前
という表現なのですが、
>《見立てる》も何も (α)なる我は 自我から自由な我ではないのですか?

というのは、非知論者らしい解釈ですね。
一理あると思います。
ただ、その伝に則って正確に言うなら、
☆(α)なる我は
何ものからも自由、ということのはずですよね。
しかし、 [ 人類の一員としての我 ] 自体が、 [ 自我としてのこの我 ] に対比させることによって成立している概念なので、
(完全に)☆自我から自由な我
と言うことはできません。
当初の設定がそうなので、ということであり、そうした設定自体に(非連続説という)異論がお有りなわけですから、
(完全に)☆自我から自由な我
と言えるか否かについて見解が分かれるのも当然のことなのでしょう。

>別の視点を導入してみます。次のような理解は できますか?

神はあくまで宇宙摂理の象徴として(の表現)より認めていませんので、神定法としての永久法という概念自体は検討対象外です。
つまり、自然法=永久法 という捉え方ですが、その実態はあくまで不明であるという立場。逆に言うなら、不明であるからこそ永久、ということでもある。
 [ 人類の一員としての我 ] にしても、あくまで「見立て」であって、それが実態としてどういった我であるのか理解可能だと言ってるわけではないのです。
ただ、「信仰」という範疇においては、これしかない、といった趣の構図ですし、それはそれとして否定しているわけではありません。
信仰自体は、否定されるべきものではないからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ (α)なる我は(完全に)自我から自由な我
★ と言えるか否かについて見解が分かれる
☆ これは あんがい結論は 互いにとって明確なのではないでしょうか?

★★ 我々は [ 人類の一員としての我 ](α) でありさえすれば摂理の要件を満
たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] (β)が存在しなければなら
ない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )
☆ ゆえに:
★★ (α)は 摂理にとっては (完全に)自我(β)から自由な我
☆ であると言えると。

ただし この(α)が (α)だけでこの地上に生まれて来るわけではない。

《身と心とから成る現実の自然本性たる我》つまり [ 自我としてのこの我 ](β)
なる生命体の内に生きるかたちで (α)は実現する。

その結果 《摂理から見て(α)なる我は (β)の自我からまったく自由であ
る》と。




★ 神はあくまで宇宙摂理の象徴として(の表現)より認めていませんので、神
定法としての永久法という概念自体は検討対象外です。
☆ そうですね。基本的に言おうとしたことは 三つの概念の層があるのではな
いか? です。その構図です。

個々の概念としては 永久法は 《最終原因》なる概念をふくむという見方です。

★ 自然法=永久法 という捉え方ですが、その実態はあくまで不明であるとい
う立場。
☆ ここはですね。連続説に拠って《最終原因と直結する我》を立てるなら そ
ういう等号での理解になります。

ふつうは そこまでは到らず 《自然法は 永久法を分有する》という見ます。

永久法のチカラが 自然法〔の主体である我〕に 指先を伸ばしてのように接せ
られているといったカカハリ(ハタラキカケ)のことを 《分有》と言うと思い
ます。

★ [ 人類の一員としての我 ] にしても、あくまで「見立て」であって、それが
実態としてどういった我であるのか理解可能だと言ってるわけではない
☆ そうなんですか? つまりヒラメキや良心(ヤマシサ反応)は (α)から
(β)へのハタラキカケではないかと見ているのですが?

つまり:
★ 自然法=永久法〔は〕 不明であるからこそ永久、ということでもある。
★ 「信仰」という範疇においては、これしかない、といった趣の構図です
☆ において。

お礼日時:2017/06/04 20:15

#22です。



>[ 自我としてのこの我 ](β)は、
 ☆(α)なる霊我のやどる基体(器)
ではありません。
~~~~~
☆ 《基体(器)》問題は 基本的には保留しますが そのまま議論の中に
用いたかたちで 応答せざるを得ないと思います。

確認ですが:
 ・(α)なる霊我 
 ・〔(α)なる霊我のやどる〕基体(器)=(β)
☆ ですよね?

文面での遣り取りは、ほんと難しいですね、お互いに。
記述内容としては、
・[ 自我としてのこの我 ](β)≠(α)なる霊我のやどる基体(器)
・(α)なる霊我のやどる基体(器)=[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
です。
ただ、
☆霊我のやどる基体(器)
という表現自体が、そぐわないと思っていまして、やどるかやどらないかという議論を始めてもしょうがないので、暫定的にそのまま使っている次第。

★[ 自我としてのこの我 ](β)

★[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ](α)
という対比の構図をお示しした箇所ですので、そのように受け止めていただければ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★★ [ 自我としてのこの我 ](β)
★ と
★★ [ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ](α)
★ という対比の構図をお示しした箇所ですので、そのように受け止めていただ
ければ。

つまりそうしますと 《自我を発揮する》のは どちらの《我》なのですか?

つまり:
★★ 「我々は [ 人類の一員としての我 ](α) でありさえすれば摂理の要件を
満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] (β)が存在しなければな
らない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )
☆ というとき (β)なる我が 自我を発揮する。はずです。

そうだとしたら (α)なる我は 《自我》だとか《自我を発揮する》だとかと
は なじまないかたちで《最終原因と直結する我》である。のではないですか?

《見立てる》も何も (α)なる我は 自我から自由な我ではないのですか?

お礼日時:2017/06/04 01:15

#21です。



1.
>★ つまり、「そんなものは論理的根拠とは言えない」
☆ と反論する問題ではないと思います。

反論、あるいは否定はせずに、一方的に批判だけする、といった方なら、相手にする必要はありませんよね。
同じ論理の土俵に乗ろうとしないわけですから、相撲になりません。
つまり、想定は想定でも根拠はありますよね?
無いと思うのですか?
という問いに答えない理由がわからないので、二重の意味で見解の相違と言わざるを得ません。

2.
>★ [ 自我としてのこの我 ](β)は、・・・あくまで、
★★[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
★ であり、
☆ 勘違いなさっていますか? 

というか省略しすぎだったかもしれません。
省略しない文が以下です。

[ 自我としてのこの我 ]は、
☆(α)なる霊我のやどる基体(器)
ではありません。
☆(α)なる霊我のやどる基体(器)は、
あくまで、
★[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
であり、そうした視点で見た場合の「我」です。

★[ 自我としてのこの我 ](β)

★[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ](α)
という対比の構図をお示ししたわけですが、若干、斟酌していただかないと、誤解されて仕方ない構文ですよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ つまり、想定は想定でも根拠はありますよね? 無いと思うのですか?
☆☆(№21お礼欄) 認められる内容の想定および知の仮構です。


2.
★ ~~~~~
[ 自我としてのこの我 ](β)は、
 ☆(α)なる霊我のやどる基体(器)
ではありません。
~~~~~
☆ 《基体(器)》問題は 基本的には保留しますが そのまま議論の中に
用いたかたちで 応答せざるを得ないと思います。

確認ですが:
 ・(α)なる霊我 
 ・〔(α)なる霊我のやどる〕基体(器)=(β)
☆ ですよね?

そこで:
☆☆(α)なる霊我のやどる基体(器=β)は、
★ あくまで、
★★ [ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]=(γ)
★ であり、そうした視点で見た場合の「我」です。
☆ (γ)は (β)だということでいいですか?

でも 次では違いますよね?
 
★★ [ 自我としてのこの我 ](β)
★ と
★★ [ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ](α)
★ という対比の構図をお示ししたわけですが、若干、斟酌していただかな
いと、誤解されて仕方ない構文ですよね。

お礼日時:2017/06/04 00:16

#20です。



1.
>つまり 《摂理によって生成して来た》と言うが おまえさんそれを見たんかいなと
必ず突っ込まれます。

まさか、本気でそんなことを言う人がいるとも思われませんね。
見たわけではないが、そう考えるよりないだろう、と論理的根拠を挙げているわけですから。
つまり、「そんなものは論理的根拠とは言えない」と言っていただかないと反論にはなりませんね。

そういう突っ込みに対しては、
・人類は「因」無くして、いきなり生まれるという「果」に至ったところの生物だと思うのですか?
と問います。
仮にノーであるなら、さらに次のように問うでしょう。
今、何らかの「因」があることには同意したわけですが、
★(人類発生の)原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうはずであり、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ない。
ですよね?
と確認後、

であるなら、「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
と言わざるを得ない、つまり、
わたしもあなたも見たわけじゃないが、
★[ 人類の一員としての我 ] は、
☆《摂理によって生成して来た》
ということになるでしょ?
と続けます。

こうした論理に合理性を認めるか否かという問題ですから、
☆(見解が)分かれる余地
は大有りでしょう。

2.
>☆ 人間にとっては (α)なる霊我のやどる基体として 身と心から成る(β)が
必要です。通底・交雑・錯綜・なじみは ないでしょう。

[ 自我としてのこの我 ]は、
☆(α)なる霊我のやどる基体(器)
ではありません。
あくまで、
★[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
であり、そうした視点で見た場合の「我」です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★★ 《摂理によって生成して来た》
★ 見たわけではないが、そう考えるよりないだろう、と論理的根拠を挙げているわけ
ですから。
☆ つまり 《想定》ですよね? そして 《生成》という経験事象つまり人知にかか
わる事象を言っているからには 知の想定ないし仮構知である。と考えられます。

★ つまり、「そんなものは論理的根拠とは言えない」
☆ と反論する問題ではないと思います。

つまり:
★ ・・・であるなら、「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバラ
ンスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
と言わざるを得ない、
★ ということが想定であり ここでの《生まれた》――これは 幅広い表現です――
を 《生成された》――これは 記憶という具体的な部位を言っています――というふ
うに特定して言う場合には 想定を知の仮構として説明するべきではないかという問題
です。

★ 論理に合理性を認めるか否かという問題で
☆ はないと考えます。認められる内容の想定および知の仮構です。見解をどう説明す
るかの問題です。


2.
★ [ 自我としてのこの我 ](β)は、・・・あくまで、
★★[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
★ であり、
☆ 勘違いなさっていますか? 

《基体(器)》といった規定は いま別としますが:
★★(回答№20) ~~~~
[ 人類の一員としての我 ] (α)と[ 自我としてのこの我 ](β)の定義の難しさを改め
て感じます。
そうした2つの「我」が現実に同時に存在するわけではないので、定義が難しいのは当
然とも言えるのですが、前者(α)は[ 自我を発揮する以前の我 ]のように言っても良い
かもしれません。
もっと正確に言うなら、
[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
とでもなるでしょうか。
~~~~~~~

お礼日時:2017/06/03 23:22

#19です。



1.
>[ 人類の一員としての我 ] は 《生成して来た》ものではないのです。《非知なる
ナゾ》を受け容れたときにわが心に成る《非思考の庭》のチカラ(霊我)なのです。
つまり そういう想定です。

そういう想定であることは了解しました。
私の場合、
★自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に
よって《生成して来た》
と(論理的に)捉えるわけですが、見解の相違ですね。

2.
>★★ 内部刺激によって生成されるところの記憶
★ は、無意志的・不人為的・ときに無作為的、と言える
☆ としても それは (β)の経験存在としてのわれ〔の身体=精神的な機能〕
であるしかないのです。
(β)と(α)とが じつは通底しているのだという想定もがあるとしたなら 話
は確かにまったく別になります。

[ 人類の一員としての我 ] と[ 自我としてのこの我 ]の定義の難しさを改めて感じます。
そうした2つの「我」が現実に同時に存在するわけではないので、定義が難しいのは当然とも言えるのですが、前者は[ 自我を発揮する以前の我 ]のように言っても良いかもしれません。
もっと正確に言うなら、
[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
とでもなるでしょうか。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★★ 自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)によって《生成
して来た》
★ と(論理的に)捉える
☆ というところには問題はありません。

問題は 《生成して来た》ということが 想定であり――なぜなら 人知を超えてい
る―― その上で生成つまり因と果との関係という人知にかかわることがらをなお想
定するからには 仮構としての知なのだということにあります。

つまり 《摂理によって生成して来た》と言うが おまえさんそれを見たんかいなと
必ず突っ込まれます。やはりなお《想定》であり 人知がからむからには《仮構知》
なのです。

ここで 見解は分かれません。分かれる余地がありません。


2.
★ [ 人類の一員としての我 ] と[ 自我としてのこの我 ]の定義の難しさを改めて感
じます。
☆ ええ。

★ ~~~~~
前者は[ 自我を発揮する以前の我 ]のように言っても良いかもしれません。もっと正
確に言うなら、
[ 自我を発揮する以前、と見立てた場合の我 ]
とでもなるでしょうか。
~~~~~~
☆ だとしますと その我(=α)には 記憶なるハタラキやそれを司る脳の部位が
あるかどうかは 分かりません。

あるかも知れないし無いかも知れないという表現では まだあいまいです。

先天的なわれ(α)には 記憶とか知解(思考)あるいは意志といった人間の精神と
しての機能は なじまないのです。もちろん 身のハタラキも 馴染みません。

なじむと言うとすれば (β)と(α)とが じつは通底しているのだという想定も
があるとなります。


ですが:
★★ 「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに
十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は
(摂理にとって)皆無である( B )
☆ 人間にとっては (α)なる霊我のやどる基体として 身と心から成る(β)が
必要です。通底・交雑・錯綜・なじみは ないでしょう。

お礼日時:2017/06/03 19:03

#18です。



1.
>▲(詩編 第1篇全) ~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/psalms.html
~~~。
☆ 善悪という表現は ふるくさいとしてもです。

興味深い内容をありがとうございます。
ただ、私のお示ししている命題の場合、
★最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ない。
という合理的前書きが源泉となっています。
★最終原因は神である。
とする立場の論理に当てはめようとすると、本質的な部分で矛盾が発生してしまいます。
一例を挙げるなら、
☆1:6 主は正しい者の道を知られる。
ではなく、
★人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理
は正しい者の道を暗黙のうちに指し示している。
とでもなりますかね。

2.
>★ 経験事象としての外部刺激による記憶から醸成されたところの無意識
☆ ではなく:
★★’ 内部刺激によって生成されるところの記憶
☆ であっても それは:
 (α) [ 人類の一員としての我 ] :《最終原因と直結するわれ》
はなく
 (β) [ 自我としてのこの我 ]:後天的・意志行為的
に属します。これは 断言できます。
★★’ 生成される
☆ と言っているからです。《生成》は 経験事象です。その基礎・基体
は (α)であったとしても 現象が起きているかぎりで (β)の領域に
属します。

☆《生成》は 経験事象
とおっしゃりたいのはよく分かります。
ただ、これは揚げ足取りと指摘せざるを得ないようです。なぜなら、
☆《我の生成=誕生》も 経験事象
となってしまうわけで、
★[ 人類の一員としての我 ]
という視点自体が否定されてしまうことになるからです。

実際、bragelloneさんとしても、
(α)と(β)を対比的に扱っているわけで、その中において、
☆  [ 自我としてのこの我 ]:後天的われ;意志行為的・人為的・ときに作為的。
であるなら、
★内部刺激によって生成されるところの記憶
は、無意志的・不人為的・ときに無作為的、と言えるはず。
つまり、(β)ではあり得ないでしょう。
このような対比自体を否定なさるのでなければ、(α)に属すると捉えるのが妥当です。
★[ 人類の一員としての我 ]
が、
★内部刺激によって生成されるところの記憶
を保持、あるいは生成していたとしても矛盾ではない、ということ。
後天的体験としての経験事象、あるいは後天的に発生するところの「自我」に拠らずとも、そうした記憶は生成され得る、という点にご留意いただければよろしいかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★★ 人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理
★ は正しい者の道を暗黙のうちに指し示している。
☆ 詩編を推しつけるためにではなく いちおう説明につとめます。

最終原因が擬人化され《主》とよばれます。
この主は 人に――(α)なるわれをとおして――ただしい者の道を指し示します。
そして 人がただしい者の道をあゆんだというその道(軌跡)を主はおぼえている。
――ということでしょう。


★★ 最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ない。
☆ これを仮構知だとわたしは言い換えましたが いまは 保留します。(茶の木
畑に入り込みかねません)。


2.
☆☆ 《我の生成=誕生》も 経験事象
★ となってしまう
☆ ですから (α)は 非思考の庭であると述べております。経験事象を超えた
(ということは 経験事象でもあり得る)ところの霊我であると。

[ 人類の一員としての我 ] は 《生成して来た》ものではないのです。《非知なる
ナゾ》を受け容れたときにわが心に成る《非思考の庭》のチカラ(霊我)なのです。
つまり そういう想定です。

[ 自我としてのこの我 ]が 生まれて来た人間たる経験存在のことです。




★★ 内部刺激によって生成されるところの記憶
★ は、無意志的・不人為的・ときに無作為的、と言えるはず。
☆ 表現で争わないとすれば・つまりそう言えるとしたとき それでも問題は残
ります。

《記憶が生成される》のは 内部・外部を問わず経験事象であり しかも (α)
なるわれは それを超えているということです。

非思考の庭で チカラがはたらいているかも知れない。でも どうなっているか
は われわれには分からない。そういうチカラが 霊我としてはたらいている。
または 作用などは実際にはなくて (β)の現実の記憶やわれに ちょっぴり
隠し味を振りかけている。だけである。かも知れない。

つまり:
★★ 内部刺激によって生成されるところの記憶
★ は、無意志的・不人為的・ときに無作為的、と言える
☆ としても それは (β)の経験存在としてのわれ〔の身体=精神的な機能〕
であるしかないのです。

(β)と(α)とが じつは通底しているのだという想定もがあるとしたなら 話
は確かにまったく別になります。

お礼日時:2017/06/03 16:27

#17です。



>★ 無意識論
☆ は 補足欄の上から三つ目で その重要性をおっしゃっています。

そうでしたね。
ここは、経験事象としての外部刺激による記憶から醸成されたところの無意識です。

他は、やはり、非知・非連続のお立場に立っての論理展開としか捉えることができませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲(詩編 第1篇全) ~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/psalms.html

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

 ☆ すなわち (α) [ 人類の一員としての我 ]

1:2 このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。

 ☆ 《最終原因と直結するわれ》であり そのわれを生きる

1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。

1:4 悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。

 ☆ =(β) [ 自我としてのこの我 ]

1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
~~~~~~~~~~~~
☆ 善悪という表現は ふるくさいとしてもです。



★ 経験事象としての外部刺激による記憶から醸成されたところの無意識
☆ ではなく:
★★’ 内部刺激によって生成されるところの記憶
☆ であっても それは:

 (α) [ 人類の一員としての我 ] :《最終原因と直結するわれ》

ではなく

 (β) [ 自我としてのこの我 ]:後天的・意志行為的

に属します。これは 断言できます。
★★’ 生成される
☆ と言っているからです。《生成》は 経験事象です。その基礎・基体
は (α)であったとしても 現象が起きているかぎりで (β)の領域に
属します。

お礼日時:2017/06/03 04:30

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