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国家権力は、民衆を教育し、組織の歯車であることを求め、そのようにしてきた。
現代もそれは全く変わっていない。
このような指摘は、昔から数多くあります。

国家権力が民衆一人一人の人生を大きく決定づけていることは事実であると言える
と思う。

1.国家が国民の自由を制限していることにならないのだろうか?

2.この点は、おそらく学問によってその裏付けがなされていると思う。
それは、どういう論理になるのでしょうか?

3.その論理が正当であるという根拠は何なのでしょうか?

4.その他、思うところをお聞かせください。

A 回答 (13件中11~13件)

国家が大きな家族の様なものだと見たら、


1.国家が国民の自由を保障している。国民の安全を守りつつ、国民が出来るだけ自由に振る舞える様にフレキシブルに取り計らっている。
2.学問のことはちょっと分かりませんが、リーダーを自らの国家集団の中から選出して立て、責任と権力を与えると言う方法は、今の所悪い手ではないと思う。
問題は、愚民政策というか、民衆には知らしめない、知らしめると民衆は平静でいられなくなるから、一部のしっかりした人間だけが知っているシークレットが存在するという点。国民皆がしっかりすれば、透明な社会は実現すると思う。
世の中には敵がいる。国家が守ろうとするもの、つまり国民の敵が内外にいる。そして何より、自分の中にさえ敵は潜んでいる。その中で国家がどれほど働いてきたかは想像出来ないが、その実態は、表に現れた情報だけでは全像は遥かに遠く、掴めないものであると思う。
総理大臣も、ニートも、病人も、金持ちも、貧乏人も、皆家族の一員だと言うことです。そんな差異のある中で、尊厳を持って生きるとはどう言うことかを考えなければなりません。みんな一緒でないから、尊厳が現れる。差異なく皆等しければ尊厳は表現されないだろう。

3.論理的正当性よりも事実認識に基づく方が良いでしょう。

4.不満のある人は、社会や時代の所為にする事がままある。出来るだけ自分の欲望や我儘、我執、悪癖を離れて、客観的事実を見ようと努め、しかも明るく朗らかな気持ちで楽しいことを探すべきだろう。世の中には危険が多いが、行くべき正しいその道は真っ直ぐであり、その方角には危険がないと言われる。

もし問題をみつけたなら、円錐を、円だとか三角だとか呼ぶ様に、その一面だけを見ないで、全像を把握するくらいの気持ちでそれと向き合うべきです。我見を排し、しかも自らの眼で物事を見極めなければなりません。そうでないと、問題でないものを問題視し、問題を問題視することなく放置してしまうからです。
その様な難しいことはできない、と言う人は、まずは自分のことから、自分の出来ることから始めるのが良いと思います。
それが健全というものではないでしょうか。

こう言うと、じゃあ過去の大きな戦争はなぜ起こったのか?国家の所為ではないのか?と叫びたくなるかもしれません。しかし、それには、その様な指導者の存在をゆるした国民の責任はどう問われるのかと言う視点が欠けていると思います。軍隊の人も含め、全ては国民一人一人がしっかりするところからです。
だから、まずは自分のことから始めなければならないのだと私は考えます。遠回りに見える様ですが、世界の諸問題もまた、還元すれば各自の問題であるのです。私はそう見ています。
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この回答へのお礼

政府というものが基本的に、国民のために働いている、すなわち「善である」と考える人が
圧倒的に多いのは、それが学校の教育で教えられるからであることは間違いないでしょう。

私がそう思わないのは、私が学校の勉強をしなかったし、軽んじていたからです。その代わ
りに、例えば横山光輝の漫画を夢中になって読み、そこから「権力者とか役人は自分の小さ
い利益しか考えない人間ばかりだ」ということを学び取ったからです。

ですから、国家権力にあるものを家族の中の父親とか母親という風に捉えることは私にはで
きません。

民主主義ですから、我々一般大衆は、政治家・役人等を税金という報酬を払って雇っている
と捉えるのが現実的だと思います。

民が主人なので、選挙で政治家を選ぶということは、仕事をさせる業者を選ぶということで
国民に責任があるという論理はないと思います。

自分らが選んだ政治家だから、自分らにも責任がある、なんて自らを責める必要など全くな
くて、いい仕事をしなければ、また、社会を悪くしたら、それは、料金を取ってロクな仕事
をしなかったということですから、責めて馘首すればいいのです。

まあ、現在の日本の政治家は特徴がなくて、選択肢がないとは言えますが、それならばケツ
を叩いて仕事をさせる、このくらいの意気が国民になければ、変わりません。

これが、事実認識に基づくことの一つだと思います。

お礼日時:2017/11/02 22:47

「国家権力が民衆一人一人の人生を大きく決定づけていることは事実であると言える」


  ↑
 私も、その通りだと、思います。


1.国家が国民の自由を制限していることにならないのだろうか?
  ↑
 そう思います。

 しかし、逆に、国家とは、そういうもの、でしょう。
 一人一人が集まって、やがて、国家になる。
 国家になる、と言う事は、「個人の自由を制限する。」と言う事です。

 国家と言いながら、個人個人が「自由」なら、それはアナーキーだし、
 国家では有りません。

 殺人はダメ、強盗はダメ、交通違反はダメ、・・・・当たり前です。

2.この点は、おそらく学問によってその裏付けがなされていると思う。
それは、どういう論理になるのでしょうか?
  ↑
 論理も何も、国家に「属す」なら、理屈前の事で、
 「生きたいなら、ご飯を食べなさい。」と言われて、
 「何で?」と悩むようなもの。

3.その論理が正当であるという根拠は何なのでしょうか?
  ↑
 「正当」である必要は有りません。
 発想が、逆でしょう。

 自然数の、「1」の次が、何で「2」だ、と悩んで、
 「その正当性は?」と言ったところで、意味が有りません。

 国家の制限性を問題にするのなら、国家に属することを辞めればよい。

4.その他、思うところをお聞かせください。
  ↑
 私は、偏屈な、田舎者なので、

「学問とは、人の役に立って、人の役に立つものを、生み出すもの」であるべき、と
 思っています。

 ひとの役に立たず(自己満足で)、何も生み出さない(議論だけの中で遊んでいる)ものは、
 学問では、無いだろう、と思っています。

 人の役に立ち、何かを生み出すためには、「再現性」が必須です。

 しかし、この欄に、「再現性」は有るのだろうか?、と疑問に思っています。

 済みません。

 「David_Rossi」さんの事では、有りません。
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この回答へのお礼

国家の存在が、地球があるのと同様に、「人はそこに属し、従うことが当たり前」
という風に考える人ばかりであることが、私にとっては不思議ですね。

アナーキズムと言っても幅が広く、詳しい知識はありませんが色々のようで、即
テロリズムに結び付け、悪のレッテルを張ることも早計だと思います。

例えば私の思想は分類としてはアナーキズムに入ると思いますが、私は国家の有る
無しを問題としているのではありません。

クーデター等により、政権を破壊して一旦は自由を勝ち取ったとしても、民衆に権
力に頼りたいという心がある限り、次の政権が必ずできて、同じことになると考え
られます。

歴史は、その繰り返しだったとも言えるでしょう。

ですから、人類は長かったその「負の螺旋」から、抜け出さないといけないと切に
思います。
そのためには民衆が自律的に文明に関わり、改善すべき点は改善してゆかねばなり
ません。

国家にはもはやその力もなく、意欲もないでしょう。

長くなるのでこれくらいにしますが、文明というものは一般民衆が生きてゆく場で
あり、自由にやってゆく「権利」がそもそもあると思います。

大きな話?確かにそうです。
でも、文明は完全に行き詰っていると思います。

だから、大きな問題を放置し、考えないで、小さな事ばかりやっていても仕方がない
ですよね?

お礼日時:2017/10/31 12:17

質問するほどではないので、


悲劇は今も昔もどこでも人類共通しているのではないか?
喜劇は古典落語とかあるけれど、旬とか人それぞれとか分かれるのではないか?

Il y a
イリヤなのかイリアなのか悩むのですけれど
イリヤらしいですね。

で、人が生まれながらに持っている権利
とかいうものは、
所有権のほうなのでしょうね。

存在とか言っても。

人は仏になれるのかとかなんとか
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