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一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。
日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。

A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」
皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。

B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」

A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」

B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」

Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか?

Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか?

まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。

A 回答 (30件中1~10件)

 何だかどこか湿っぽくかつ他方では どこかとんがり帽子をかぶったみたいな議論にもなってしまったようにも思われます。



 で 出しゃばりました。

 まづ《論理》の問題です。

 人びとそれぞれのそれこそ些細な気分や独り善がりであってもの気持ちやさらには思い込みやでさえ それらを論駁するのではなくまづは受け留めて互いの話し合いを何とかしてなめらかにすすめるということ これは これも 論理です。

 つまり《論理》には現実に ふた種類があるというわけだと思います。たとえば:

 ▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~
 幾何学の精神( l'esprit de géométrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。

 前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。

 ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙( déliés )であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。
  (パンセ 前田陽一・由木康訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 つまり 幾何学の精神としての論理のほうが 優位だということはありません。あり得ません。《線形論理人間》はあり得ません。



 

 でしたら ことは 初めからコミュニケーションの問題であり 実際には相互理解をどう得て行くかに絞られるようです この場合。

 シンライ関係を築き合いお互いにバカ話をするまでにねんごろになっていればよいのですが まだそうでない場合には どうするか?


 ぎこちないでしょうが つねに・絶えず・もしどうもおかしいという感じが拭い去れないとすれば きちんと言葉にして尋ねてみればよい。これではないでしょうか。

 論理――四角四面の論理――をふりかざすクセに対しても あるいはすべては相手(こちら側)を思いやるという相手の善意なる繊細の心に頼るクセ(エートス)に対しても 心のうつくしさだけに頼るのではなくまた頼り切ってしまうことなく そして論理人間の氷漬けをどうにかして溶かす方法を――問答よりも先に――考えてみるということ。

 現代日本人の情況としては こんなところではないでしょうか。




 質問者さんだって
 ★★(趣旨説明欄) どこか論理がおかしいですよね? // 会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、 //  最後の言葉は論理的に正しいですか
 ☆ などと言っていますから おそらくその論理は一面的なものではないかと 天に唾することをおそれずに言えばそう思われて来ます。



 蛇足ですが:
 A さんは B さんの申し出を ことわるのではなく 《みなさんのご批評をうかがって料理について未熟者だという思いを新たにしました。ほんとうです。ですから わたしが批評するということはいまはまだ考えられません。それでもよろしいのでしたら よろこんでご馳走になりたいと思います》と受け留め答えればよかったと思います。

 でも B さんのことが嫌いであれば 無理をすることもないと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>(パスカル:幾何学の精神と繊細の精神)

ここでの説明を読む限りでは私ははっきりと捉えにくいです。それとも、哲学カテを読む程度の人はこの程度の説明でもガチッと理解できるのでしょうか?

三木清が、「哲学がむつかしいと言う人がいるが、哲学も学問である以上、読んですらすらと意味が解るということでもあるまい」というような意味のことを書いていました。やっぱり読んで意味が解るというのはある程度の哲学書を読み込まないとダメのようですね。

>繊細の原理はきわめて微妙( déliés )であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。

私のような凡人は見逃して当然、ということでしょうね。
ありがとうございました。
質問閉じますよ~。

お礼日時:2013/07/02 11:57

こんにちはです。


お礼、ありがとうございます。


☆☆☆☆☆☆
NO20の
☆∧はどういう意味ですか?
◇「∧」は、「かつ」、「and」の意味です。「連言」といいます。
なので
(I)∧(II)は、「(I)かつ(II)」となります。
平たくいえば、
「(I)と(II)を同時に満たす」
くらいの意味でしょうか。


NO22の
☆形式論理的観点から考えるのと意味論から考えるのと見方が違って来るということですね。
◇はい、異なる場合があります。
《私のおじいさんは、私の息子である》
すこしズルが必要ですが、
おじいさんが私の娘と結婚すれば、私のおじいさんは、私の[義理の〕息子になります(笑)。
私のおじいさん≠私の息子
が破れる例です。



☆☆☆☆☆☆
形式的な論理の危うさの例

例1
(I) 「3×3」は三文字である
(II) 3×3=9である
(III) よって、「9」は三文字である(?)


例2
(α) 人は地の「塩」である   新約聖書のありがたい言葉。絶対の真理(?)
(Β) 塩は水に溶ける
(γ) よって、人は水に溶ける(?)


完全無敵の《三段論法》を使っているけれど、
(III)と(γ)の結論は明らかにおかしい。
 例1では、「3×3」と3×3の意味が違っている。
 例2では、「塩」と塩の意味するところが違っている。
からです。
「3×3」と「塩」の意味・内容を考えないと、いけない。。。
同じ言葉・概念を使っているから、同じ意味・内容を表わしているとは限らない。
カビの生えるくらい古い論理学では、《媒概念曖昧の虚偽》とかいいます。

詳しくは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81
をご覧になってください。

「おっ」と思う内容があると思います。

ちなみに、
ここに書いてある分類を覚える必要はまったくありません。読み終えたら、この分類は綺麗さっぱり忘れてください。
ただ、こういう誤りがあるのだ、ということを頭の片隅においておくと、
発言の虚偽を見つけるのに役立つと思います。
ペテンに引っかかりにくくなります。

Wikipediaの参考文献にあげられている
野崎昭弘 『詭弁論理学』 中央公論新社〈中公新書〉、1976年
は、なかなかいい本です。

ではでは。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
リンク先の「詭弁」色々あるんですねえ。
私も若い頃、「飛んでいる矢は止まっている」とか「ウサギはカメを追い越せない」とかの詭弁を読んで、詭弁の素晴らしさ(?)に感服したことがあります。
ゆっくりと、時間をかけて読ませていただきます。勿論、詭弁術を習得して他人を操ろうという魂胆ではありませんので念の為。

私が以前、野崎昭弘著『詭弁論理学』を読んだのは、小泉首相が野党の質問に対して詭弁で煙に巻いていた時で、小泉氏の詭弁に負けないようにと野党にこの本を薦めたことがあります。政治家には詭弁に長けた人が多いですからね。

締めくくりとして書きたいんですが、皆さんそれぞれ非常に啓発的な回答を下さり、勉強する課題がいっぱい出て来ました。"料理の研究"はさておき、ここに寄せられた回答をもう一度ゆっくり読み、理解して行こうと思います。

ベストアンサーは1つしか選べません。私は"論理の専門家"じゃありませんので、とてもそんなおこがましいことは出来ません。で、申し訳ありませんが、ベストアンサーを選ばずに質問を閉じさせていただきます。

皆さん、どうもありがとうございました。

お礼日時:2013/07/02 11:24

擬人説(Personification Theory)



http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10 …

この回答への補足

「勘定理論」なんてあるんですか?
簿記の勉強をされてるのですか?いえ簿記研究家でしょうか?

補足日時:2013/07/02 08:42
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そもそもこの会話自体がAさんもBさんも全く論理的ではないです。

まあ日常会話ですから当然ですけど。

他の方の回答者への補足を見るに、Aさんの「私は料理研究家じゃないから」はBさんの批評に感服した上での謙遜のつもりで発言されたんですよね。で、それに対してBさんはそう解釈してくれなかったのは質問者さんは変だと感じている、ということかと思います。

まず、質問者さんに言いたいことは「他人はテレパシストではないから、あなたの言動の背景まで汲み取ってくれるとは限らない」ということです。
Bさんは「私は料理研究家じゃないから」を言葉通り解釈して「料理研究家ではないなら料理の批判をすべきではない」とAさんが言ったと解釈したのでしょう。これはむしろBさんのほうが論理的です。論理とは相手も言葉を正確に使うことを前提にしています。
つまり、「私は料理研究家じゃないから」は言葉通りなら「私」は「料理研究家」では「ない」という意味にしかとれません。そして、この言葉は他の人間にも波及します。Bさんは料理研究家じゃないけど他人の料理は批評していいがAさんは料理研究家じゃないから他人の料理の批評はしてはいけない、って論理的に明らかにおかしいですよね。
それを「私(A)の料理の腕前や分析力は料理研究家といえるほどの腕前ではありません」という風に解釈するのはある種の慣用的な表現であり、相手との共通認識に依存するわけです。
つまりAさんのこの発言は2通りに解釈可能なあいまいな表現なのです。BさんがAさんの会話の仕方をきちんと理解しているのなら、Aさんは謙遜の意味で言っているな、と分かるかもしれませんが、恐らくBさんはそこまでAさんのことを理解していなかったのでしょう。
逆に言えばAさんはBさんに期待しすぎたのです。AさんもBさんも全く別人です。相手も自分と同じ言葉の解釈をする人間とは限りません。
であれば、Aさんは他人との会話では極力誤解を招かないような表現を駆使すべきだったわけです。そして、慣用的な解釈だけではなく、言葉通りに解釈すると自分の発言がどういう意味合いを持つことになるか、それを踏まえて発言するべきでした。

例えば
「私はBさんほど適切に批評できる自信がありません。なのでご勘弁願えませんか」
と言葉通りの発言をすれば誤解されることはなかったでしょう。

私がBさんの立場ならAさんの発言を「料理研究家でなければ批評すべきではない(お前は料理研究家でもないのに私の料理の批評をするなんて変だと思わないのか?一緒にいたほかの料理研究家の批評を私は期待していたんだ)」と解釈してた可能性が高いです。
もし日ごろからAさんと付き合いが深くて、Aさんがそういう回りくどい表現をする人だと理解していれば、Aさんなりの謙遜だなと分かるかもしれませんけど。

Bさんの「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」という発言については、わざわざ自分が作った料理の批評を他人にお願いするような人なら料理研究家なんだろう、という考えに基づいているかと思います。Aさんは日ごろから料理の練習をよくされている人なのでしょうか。であればBさんのこの解釈は妥当かと思います。


Aさんの非は自分の意図とは正反対の解釈が可能なあいまいな共通認識に依存した発言をしてしまったことかと思います。
BさんはテレパシストじゃないんですからAさんが内心でBさんに感服した、なんて理解できるわけないじゃないですか。
AさんだってBさんが内心なにを考えているか分からないんだから。

他人は他人の内心は分かりません。あいまいな言い方をしても分かってくれる、と考えるのは危険です。
質問文を見ても簡潔すぎて、質問者さんの言いたいことが分かりづらかったです。

料理研究家という言葉がキーになるのなら、質問文に「AもBも料理研究家ではない」「AはBの批評に感服した」などの前提の説明をするべきでしょう。また、AとBは親しいのかそうではないのか、など。
会話の解釈はお互いの立場で変わってきます。部下が上司に「お疲れ様です」といえば標準的な挨拶になりますが、普段から砕けた言葉で会話する親友相手に「お疲れ様です」といったらちょっとした皮肉にもなりえます。

論理を重視したいなら他人に共通認識に依存した慣用的な解釈を必要とする発言は可能な限り避けるべきでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
Aさんの方が論理的かと思っていたのですが、むしろAさんの方が論理的でないようですね。
日本人のコミューニケーションは以心伝心の部分が多いとよく言われますね。「日本人の意識構造」を書いた会田雄次氏も日常生活の中の具体例を挙げて、日本人のコミューニケーション法は「察しと思いやり」だと説明していました。
Aさんが純日本人的に行動し、相手にも無意識にそれを期待したということのようです。

論理の民族とされる欧米人が、もしこの質問文を読んだら、「Aさんは何を分けの分からないことを言ってるのか!」とBさんに軍パイを上げることでしょうね。

お礼日時:2013/07/02 08:36

モヤモヤ解消―アイテム


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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
モヤモヤからイライラに移行しそうです(^_^;)

お礼日時:2013/07/02 08:15

 No.23のお礼 ありがとうございました。



 もうここに引用しませんが A さんが B さんの提案に及び腰になったことが よく分かりました。

 お粗末でした。では。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
分かりやすいように簡略化することが、いつも正しいとは限らないということが分かりました。

お礼日時:2013/07/02 08:12

"Solipsism"(独我論):リンゴが2つある。

我々にはそう見える。でも当のリンゴ1には、リンゴ2が自分と同じリンゴだとは思えない。認識するリンゴは、自分の意識内にあるものしか「在る」とは思わないのである。だから通常、リンゴ1はリンゴ2を、リンゴ2はリンゴ1を、自分とは全く違うものとして認識しているのである。

"Egocentric particular"(自己中心的特殊規定):我々人間は、多かれ少なかれ、自分を中心にしてものごとを考える。誰でも、独立した個人である限り、これは避けられないことではある。ただ、個人差はある。マイナス方向に極端な場合が、いわゆる「ジコチュー」である。公平・公正な見方をする人は、実は、自分が極めて「ジコチュー」であることを自覚して、これから逃れようと日々切磋琢磨する。

"Perspectivism"(遠近法主義):列車の前に乗っている人と後ろに乗っている人とでは、同じ風景を見ているつもりで、全然違う風景を見ている。両者の見たものを共有するには、情報交換するしかない。我々は、こうして「互いの視点から見たものを接合する」ことによって(のみ)「神の視点」に近づくことができるのだという。

…というようなことに思いを致す機会を与えてくれた、この質問に感謝します。"Man is a thinking reed."(人間は考える葦である)。すばらしきかな車座の人々、語り合う人々、交歓する人々、人間バンザイ。…と、これが、寄せられた回答を閲覧させてもらった感想です。質問者様への回答になっていませんね。どうもすみません。
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この回答へのお礼

総括的な回答をいただき誠にありがとうございます。
結局そういうことなんでしょうかね。
私自身は"Egocentric particular"(自己中心的特殊規定)にあるように、公平・公正な見方をする人は、実は、自分が極めて「ジコチュー」であることを自覚して、これから逃れようと日々切磋琢磨する段階の人間であるようです。

私は、毎朝観ている韓国ドラマ「楽しいわが家」を想起しました。登場人物のそれぞれが暗い過去を背負っていてコンプレックスを抱いているのですが、本人たちは勿論それを自覚していない。相手に涙を流しながら必死で訴えるのですが、相手は別のコンプレックスを抱いた人間ですから、いささかも伝わらない。外から観ている者には両者の言い分が理解出来るのですが、当人たちには分からない。

今回は私がAさんの立場で、渦中の人間ですから、なかなかBさんの考え方が理解出来なかったのだろうと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/01 11:34

 ★(No.17お礼欄) A さんは自分のことを ★未熟過ぎる素人 と考えているのです。


 ☆ 他方 B さんは (あ) ひとつにそのようにはっきりとした説明としては聞いていなかったと言うのかも知れません。
 ――これは どっちもどっちではないかと考えます。

 (い) もうひとつに まづ仮りに B さんが どうも A さんは 《料理にかんして素人の中でも自分ではそうとう未熟な段階にあると思っているようだ》と推し測ったとしましょう。
 
 そのとき (い-1) けれどもやはりそれは謙遜で言っているのだから 《ほかの人の料理を食べてみて批評をすることは出来るのではないかな》と思って 今度は A さんに自分(= B さん)の料理を食べてみてくださいと誘った。
 ――これはこれで 誤解があったとしても A さんが自分の料理の腕前を低く見ていることがそうであるように 或る程度は自然だと思われます。謙遜のことばは 言葉どおりに採らなくてもよいというナラワシがあると言えばありますから。

 かもしくは

 (いー2) たとえ謙遜でないとしても 《料理にかんしての素人》と《その中でもさらに未熟な者》とは けっきょく同じ程度の腕だと思ってよいかなと考えて やはり B さんは A さんを試食に誘った。〔この (いー2)はすでに回答No.17に述べたものです〕。
 ――この場合は A さん・ B さんともども それぞれに言い分があると見てよいのではないでしょうか。



 あとさらに添えるとすれば
 ★ ~~~~~~~
  A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」

  B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」
 ~~~~~~~~~
 ☆ このくだりですけれど B さんは この A さんの発言のあとただちにこう言ったのでしょうか? 
 つまりたとえば
  
   B : そんなに謙遜なさらなくてもだいじょうぶですよ。
    たぶん お互いさま〔と言える料理の腕前〕なのではないですか。
    だいじょうぶですよ。

 といった合いの手を まづは打つということはなかったのでしょうか?
 この点が気になると言えば気になります。それが入れば A さんもさらに自分の腕前の程度について B さんに説明が出来たと思われるからです。
 
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
話を簡略化した方が筋道を見やすいだろうと思い、そうしたのですが、実はAさんの気持ちなどは省略しております。
AさんはBさんの批評に感服して、「自分より遥かに上だな」と思ったのです。それでBさんの誘いを受けた時、「自分などとても」と思い、多分、自分の醜態をさらけ出すことを避けたい気持ちもあったのだろうと思います。

それからBさんの「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」はAさんにとっては唐突でAさんは「何だこりゃっ?」って感じました。

>B : そんなに謙遜なさらなくてもだいじょうぶですよ。
    たぶん お互いさま〔と言える料理の腕前〕なのではないですか。だいじょうぶですよ。

 といった合いの手を まづは打つということはなかったのでしょうか?

そういう合いの手はなかったのです。

お礼日時:2013/07/01 11:15

NO17のお礼欄


☆A さんは自分のことを ★未熟過ぎる素人 と考えているのです。そういう捉え方を大半の回答者は何故できなかったのでしょう?

◇この質問に対して、形式論理、契約論的な観点から答えようとしているからです。
「A さんは自分のことを ★未熟過ぎる素人 と考えている」
質問者さんのこれは《料理家の意味》、つまり、《意味論》に踏み込んでいますよね。
だからです。

質問者さんは、いろいろな観点からの真摯な回答を、私以外の数多くの回答者さんから寄せていただいたことを感謝すべきですよ。
わたしは、そう思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>数多くの回答者さんから寄せていただいたことを感謝すべきですよ。

感謝していますよ。

意味論から考える必要があると言われた方がいました。
形式論理的観点から考えるのと意味論から考えるのと見方が違って来るということですね。

お礼日時:2013/07/01 10:41

>B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」



なんでBさんはこの言葉を発したのでしょう。
違和感はここから始まっていると思いますよ。
なぜAさんを料理研究家だと思ったんでしょう。
そしてなぜBさんは自分の料理に対して料理研究家(Aさんじゃなくてもよかった?)としての批評を求めたのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
貴方が疑問に思われた点が、正に私が疑問に思った点なのです。それで質問したんです。

お礼日時:2013/07/01 10:31

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