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 この命題を次の二点で 問います。
 
 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。

 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?


 (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。

 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる
 一つ松
 吾(あ)夫(せ)を

 一つ松 人にあり≫せ≪ば
 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を
 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を

 一つ松 吾夫を

 ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~
 (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)

 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ
 一本の松
 我が背子よ
 もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように
 服を着せように ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。
 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?

 (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?
 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。
 これが かれこれ千五百年 経つ。
 
 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。
 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。

 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。
 うんぬん。
 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

A 回答 (104件中1~10件)

bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。

しかし論理的であることが「素敵である理由を論理的に示す」ことは多分困難ではないでしょうか。「論理的であることは好都合である場合に限る」のだと小生は考えます。いっそう好都合であるならば論理的でなくても構わない傾向もあるかも知れませんね。この趣旨から小生の考えをお示しします。的外れかもしれませんがお許し下さい。
言葉・文章が厳密であることが望ましい社会とは、リーダーの命令とその聞き取り易さがその群れ全体の行動・利害を大きく決定する社会、すなわち狩猟・遊牧民社会でありましょう。そのような歴史を持つ国々の言葉は格変化・時制などにうるさい傾向が認められます。一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異議語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。
旧日本軍では通常の日本語が軍事に不向きであることに気付いており、「軍隊日本語」なるものを兵士に使わせることに腐心したそうです。戦記物などの軍人用語のあれです。また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。テレビでも「第一グループは○○○・・・・です」など主語と述語の間に地名を30も入れて平気です。主語・述語を先に述べてから地名を入れる工夫をする積りは全くないようです。言い落しのない文章が言い訳として大切であり、聞き取り易い文章であることを捨てているようです。自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。
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この回答へのお礼

 ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 まづ
 ★ bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。
 ☆ にかんしてですが ちょうどいま【Q:信仰は どんな得があるか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6596814.html
 という質問をあげています。コギト(われ考える)の思考――そこでは 一般に論理思考が骨格となる――よりも ヒラメキ(直感および直観)のほうが言わば次元が高くて大事だという話を取り上げています。たとえば 次のような図式でそのことを捉えています。

 ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ
  _______________________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ このようにたぶん前提としてのご指摘じたいは 的外れだと思いますが それは揶揄した物言いではなく 本文はまじめなご回答だと受け取りましたので しっかりとお応えしてまいります。
 
 と言っても けっきょく見解は互いに一致していると言っていいほどではあります。
 ★ 自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。
 ☆ つまりはその素地が――潜在的な表現の能力が―― もとからあった。そのことをちょっと想い起こし頭の隅においておくとよいがなぁと思ったものですから この質問を挙げました。
 もっと細かく言いますと 《時制の一致》が日本文にはないという質問がいまほかに挙げられていたものですから それにちなんで あぁ見落としてはいけない事実があったなぁと想い起こしたのでさっそく設問したという次第です。

 ですからあとは わたくしも 日常の生活が互いに見慣れた顔ばかりのところでは 論理を追い求める表現はあまり要らなくなったのではないかと趣旨説明で触れましたように
 ★ 一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異義語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。
 ☆ といったところではないかとやはり思われます。

 ただ少し思ったことは 次のご指摘では いわば情感の共同性が自然に養われて来るのでは必ずしもなく 人為的におしえるようになったのか でした。
 ★ また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。

 ☆ ですから わたしなりに結論めいたことをしるせば もし《ヒラメキ(直感および直観)》がイメージないし情感・感性やそして言葉としても互いに大事にされ理解されているのならば あとは さらにその内容をいかに論理的にほかの言語を母語とするような誰にも分かる表現に置きかえるか その度合いは 情況などに応じて必要なだけ対処すればよい。

 あぁ やってはいけない《自分の田んぼへの水の引き過ぎ》をやらかしました。とふり返って思ったのですが 生来の厚顔無恥から書き直しはしないことにしました。あしからず。

 でもこれに懲りずまたご回答をお寄せくださいませ。

お礼日時:2011/03/22 10:10

そもそも、「時制の一致」は複文の時系列の調整の為に開発されておらず、


関係詞とか間接話法のthat節とか等の『フォルダ的な「階層構造」』の境目を明らかにするべく発生している筈ですので、従属節を下位の階層に置かない仕様の言語の下では、
「時制の一致」が必要になっていない、
という事情への着眼が望ましいのでしょう。

因みに、此の内容は、
私のブログの中で可也の過去に触れられている内容だったのですが、
御蔭で、誤解を減らす為に必要になっている追記もが分かりました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ええ 和文では ト格によって引用される従属節は――いわゆる直接話法としてであれ間接話法としてであれ――そのまま体言相当句として扱われ 主節との関係で 時系列の観点からは留意することもないように文は言い出されていると思われます。
 言いかえると 主節と従属節といった関係すらあまり考慮しなくてよく それぞれがひとまとまりの主題であり論述主題であり それらのあいだの関係としてのみ成り立っていると思われます。それらのあいだで時制の調節を必要とするという観念が起きないものと思われます。

 あるいはさらにつけ加えるならば 時制という観念がそもそもあいまいであったと考えられます。
 論述用言(述語動詞)は 存続法(終止形)としてその存続という時制を示し そこに補充用言(助動詞)のムによって推量法に活用させれば 存続の時点よりあとの時制を示します。つまり 行か‐む(行こう)という推量法活用によっていわゆる未来時制を示します。 
 あとは 完了法の補充用言のツかヌを用言に添えて 完了という時制を表わします。これが過去時制になるようです。
 回想法のキなどは そのままその存続としての現在時からすでに起こったことを想い起こしているという法判断(法活用)であると見られます。
 といった時間の区分から出発しているものと思われます。

 ひとつの文の中に論述用言がいくつかあってそれにともなうそれぞれの時制が互いのあいだで調整されなければならないとしたら それは 文の背後にひかえて文を統括する主体としての話者格〔われは言う〕が担います。
 これはメタ話法というわけですが 線形言語において間接話法とその時制の一致が決まりとして出来たのは このメタ話法としての文表現の統括が メタではなくその文表現そのものの中に明示的に表わされるようになった結果なのではないか。つまり時系列をそれとして明らかにする時制の調整が明示的になされるようになった。
 それによって線形言語で 話者格としてのメタ話法が消えたのではなくなおも統括主体としてありつづけているということですし 非線形言語においてはこのメタ話法によって 文表現の統括という全体的な調整がおこなわれており そこにおいて時制の調整も――つまりは 言外において・言外から――なされるようになっている。こう考えられます。

お礼日時:2011/05/01 06:00

額縁に収まっていないからこそ、


絵巻物語は漫画のコマ割りの様に展開し得ますので、
『間接話法的な枠組みを「文頭で」拵えておく遣り方』を、
将来の日本語に当て嵌めていくのは酷く勿体無いです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97% …
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この回答へのお礼

 つづきますね。

 ▼ (ヰキぺ:ラプラスの悪魔) ~~~
 世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、
 その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、
 その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その後 量子力学による知見も書いてありますが これは《知る》ということですよね? 認識論であり それに限られているのではないのですか?
 知ったから どうなのでしょう?

 このようにラプラスの悪魔ないし神の知性による認識を仮りにでも行動の前提とするということ すなわち
 ★ 『間接話法的な枠組みを「文頭で」拵えておく遣り方』
 ☆ これは あくまで認識の問題に限られるのではないですか? しかも仮定の話です。これは・つまりこのような前提のもとに自己表現をすることは
 ★ 絵巻物語〔が〕額縁に収まっていない
 ☆ という場合の前提のあり方におけるそれと 表現という行為としては 何ら変わりないと見ます。つまり前提の中身は 一方がいわば《全知》で 他方が《脳天気》であるのですが それがいづれも自己表現のための前提であるという点では 何ら変わりがありません。全知にしても無知にしても 仮りの前提であるに過ぎないと考えます。
 要は 自己表現の中身が勝負です。
 人間が全知であるのでもないでしょうし 枠組みが取っ払われているからと言って その言語の構文という或る意味で制約からまぬかれているわけでもない。こう考えます。

お礼日時:2011/04/30 20:51

率直に申しますと、


「時制の一致」は「不完全性定理」の対象の典型です。
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この回答へのお礼

 お手上げです。
 そんなふうに考えたことはなく いまどういう論点が潜むかも分かりかねています。
 おしえてください。

お礼日時:2011/04/30 19:31

すいません。


時制の問題の明確化の為に、
次の文章を無理矢理に作ってみました。

"I thought that 破格を受け入れて議論を進めて参りますと、
収集がつかなくなりましょう.", 我想。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ですから もし主観から外に・おもてに言葉としてその破格が出てしまう場合には 或る程度それが定着するまでの時間が必要だと思われます。
 その過渡期では たしかに収拾がつかなくなる場合が 少なからずあるでしょうね。
 主観の外に出ない場合 つまり破格としてのメタ話法が内面にとどまる場合 このときには 特別に収拾のつかないようないざこざは起こらないはずです。
 けれども過渡期においていざこざが起こっても その破格の用法が多くの人びとによって使われ続けたなら それも受け容れられるようになるでしょう。これは 理屈ではありません。言語にとってそういう成り行きは ふつうの現象だと考えます。

 定着するかどうかまったく分からないその過渡期の最中において では どうするのか?
 成り行きにまかせます。おそらく賛否両論の議論が沸騰している場合もあるでしょう。そこまでに到らない場合にも 成り行きにまかせます。そういうものだと思います。

 ★ I thought 〔that 破格を受け入れて議論を進めて参りますと、収集がつかなくなりましょう.",〕 我想。
 ☆ という主観語をさらに重ねても メタ話法としての主観は厳然として存在します。つまり内面と外面とのかかわりは つねに はたらいています。表現のあるかぎり。おもてに出た表現に《 I thought./ 我想》などなどの主観語がいくらつらねられても 同じです。メタ話法の〔われは言う〕は つねにはたらきが有効であり そのいざこざに対して最後の砦になります。
 この最後の砦は いざこざを起こしている他方の側にしても そのまったく同じメタ話法として成り立っているいわば自由意志のことですから これは互いにとうとばねばならず そのまま認めなくてはならないということになります。
 つまり メタ話法を説明に出す場合 収拾がつかなくなるということはまぬかれます。つまり最後の砦です。いわば司令塔の役目を果たしていると考えます。一人ひとり誰もにとってまったく同じあり方としてはたらくのですから 言語は その見えない司令塔を持つことにおいて 社会的な交通の基礎かつ潤滑油になっているのでしょうね。

お礼日時:2011/04/30 15:47

”Their studio made intense promotional efforts of new films,which would be released.”,he said.



こういう事例が雄弁に伝えてくれ得るのはないでしょうか?

因みに、日本語でメタ言語的に語る遣り方は、
あくまでも、外来語群を翻訳する為に採用された「破格」です。

そもそも、日本語は後方で纏める仕様になっていますので、
フォルダのディレクトリの様な階層構造が備わっていません。

従いまして、『「師匠曰く、~」という形式』の表現は、
本来の日本語と違っています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いまの焦点は 趣旨説明の(1)で 反実仮想の語法が 文法として時制の一致という決まりから見れば《深刻な的外れ》であるかどうかにあります。
 その(1)を わたしが 時制の一致を表わす論理思考だと言ったのは 勇み足であったとすでにおことわりしています。けれども それでは お呼びでない議論であったかと言えば そうではなかろうと ひと言 反論した。そういう情況です。

 今回のご議論は 趣旨が明確ではありません。《深刻な的外れ》ではないが やはりおかしい。問題があると言うのか? それともやはり深刻な的外れだと言わねばならないという議論のつづきであるのか? これがはっきりしません。

 ただし議論の項目としては わたしの側から提出した《話し手という存在》が取り上げられています。その主観が文表現に対して持つ〔と考えられ得るところの〕関係でありその効力です。メタ話法という名で呼んだものです。
 いわく:
 ★(あ) 日本語でメタ言語的に語る遣り方は、 / あくまでも、外来語群を翻訳する為に採用された「破格」です。
 ★(い) 従いまして、『「師匠曰く、~」という形式』の表現は、 / 本来の日本語と違っています。

 ☆ (あ)については 《メタ言語的に語る遣り方》が そのメタ言語の部分をも外に・表に言葉として表わすのかどうかで 話が違って来ます。ですが いづれにせよ 問題はほとんどないと考えます。
 なぜなら メタ言語の中身をメタ話法という主観の内にとどめおき隠されたままにしているのであれば それはまったくそのままどの言語の文法にも あてはまることである。ということが 一つの理由であり。
 もうひとつには たとえ表に出されたとしても そしてそれがこれまでの歴史には見られないもの・つまり伝統的にはないものであったとしても それはただ
 ★ 「破格」です。
 ☆ というに過ぎないからです。その目的が《外来語群を翻訳する為に採用され》るということであれ何であれ 《破格》という言語現象は れっきとした言語にとっての文法であるからです。破格であっても あるいは破格であるからこそ その用法がやがて定着すれば それが文法の取り決めになります。それだけのことです。
 また非線形なる構文を持つ言語の文法とは そういう自由度を持つ。こう言えるはずです。何のおかしなところもありません。
 (い)の文例も まったく自由に起こり得ます。

 ★ ~~~~
 ”Their studio made intense promotional efforts of new films,which would be released.”,he said.

 こういう事例が雄弁に伝えてくれ得るのはないでしょうか?
 ~~~~~~~
 ☆ ですから ひとつに――いまの焦点としては―― 《 he said. 》という主文の論述における法活用(話し手の気分ないし意思表示)とそしてメタ話法ともいうべき話し手の存在(その主観)とのかかわり方が 大きく言語には広い意味での文法として活きている。こういう問題がありますと言っています。
 むろん メタ話法が 表わされた主文の法活用ないし時制を統括しています。

  〔われは言う〕: he said.

 そしてそのあと 主文《 he said. 》の時制とその賓格(ヲ格ないしト格がみちびく主題節)における時制との一致(ないしその違いの明確な表示)が留意されて来ます。ここではさらに引用節の中にも 時制がふたつあって そのあいだの調整がなされているようです。
 そこで
 ★ こういう事例が雄弁に伝えてくれ得る
 ☆ というのは どういうことでしょう? 時制の一致という決まりについて それが守られていることを雄弁に伝えてくれますが それは最初からそのとおりですと言って来たことであり そのほかにどういうことを雄弁に伝えてくれていましょうか? もうひとつわからなかったところです。どうでしょう?

お礼日時:2011/04/30 14:34

『我(が)思ふ故に我有りと我思ひたり。


と表現しただけで、
「我思ひたり」という過去時制が
其の前の間接話法的な文章の時制に影響を与えていない、
という事情の存在は明らかになりましょう。

”つまり、日本語の場合には英米語と違い、
中心の「S+V」が文末に置かれますので、
間接話法と直接話法との峻別が存在していない故に、
末尾の述語動詞の時制を意識しますと、
意味が分からなくなります。”I said.

※末尾(I said)に中心が据えられている事情に、
是非とも注意して下さい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 なお反論をこころみます。
 ★ 『我(が)思ふ故に我有りと我思ひたり。』
 ☆ この場合 従属節は 永遠の現在を言っているかのような内容ですから 文例が違うと思うのですが おそらく和文は ト格による引用においてその従属節を言わばひとまとまりの体言として扱っているのではないか。こうも考えられます。ならば時制の調整は要らないという意味です。

 主観としての法活用 とも言うべき話法と言ったのは こうです。

  メタ話法(われは言う):文〔直接話法 / 間接話法〕

 あるいは


 話し手(文の統括主体):表わされた文
 _____________________
 
 1.〔われは言う〕:行け!
 2.〔われは言う〕:われは言った。行け! と。(直接話法)
 3.〔われは言う〕:われは かれはすでに行ったと思っていた。(間接話法)

 ☆ たしかに線形言語では (3)の《かれはすでに行った》というところの時点にかんして《思っていた》の時点との違いをおろそかにせずその後先が分かるように表示するための時制の一致という規則を持ちます。非線形言語だと考えられる和文では ト格による引用節を体言相当と見なして時点の特定ないし差異の明示を考えていない。
 けれどもこの文例(3)にかんしては 話し手のメタ話法〔われは言う〕が 文における論述《思っていた》の法活用(つまりおのれの気分)を言わせているわけですが そのほかにも 《思っていた》の時点との時系列関係をとうぜんのごとく統括している。〔われは言う〕その現在時と《思っていた》その過去時との関係をむろん承知している。
 そしてむろん線形文でもそのことは同じなのであるが 考え方としていま反論している論点というのは その線形文では 文法としての時制の一致のあり方は 言語一般における《メタ話法と文表現との統括関係》のあり方と似たところがある。こう言おうとしています。後者の統括関係にはむろん時制の見定めという要素も含まれるからです。

 つまり確かに線形文は 時制の表わし方について詳しく考え詰めたようです。一歩も二歩も先を行っています。
 ただし玉にきずなのは そのようにメタ話法を或る種の仕方で(つまり 時制や仮想現実法などにおいて) 文じたいの中に表わすようにしたために その話し手の存在そのものとしてのメタ話法のあり方があいまいになったかも知れません。いえ あいまいになったのではなく 実際の言葉の表わす世界に置き代えてしまったかに思えます。
 すなわち 非線形文では 世界は主題提示から始まり主題提示に終わるとさえ言えるようなかたちでハ格が 話し手の存在やまた相手の存在を含めた世界を言葉の外においても――もともとそうであるごとく――捉えさせようとしている。ハ格などの格活用は 文の意味などから聞き手の注意をむしろわざと逸らそうとしているとさえ考えられます。いま何を言うかによりは あなたとのこの話し合いの場を大切にしていますよと言いたげです。風呂敷のたとえが出ていましたが 和文はやはりお風呂に浸かった雰囲気であり温泉気分のことばです。
 線形文は それでは シャワーでしょうか?

 線形文では このような《世界における存在》どうしであるという互いの認識をすでに言葉で表わされた文じたいの中に詰め込んでしまったかも知れません。湯船から出てしまっています。千歩も万歩も先を行って 行き過ぎた感がなきにしもあらず。
 非線形文は 線形文に或る程度なら近づくことができるでしょう。非線形というごとく・また非線形と言うからには そのような線形論理の意味連絡をしっかりと伝えようという表現のかたちをも 採り得るでしょう。言わば相転移を成し遂げます。けれども 線形文が非線形文のあり方に戻るのは 容易ではないと考えられます。どうでしょう?
 いわば線形文の表わす言葉の世界が もしそうだとすれば 大きな――ただし ワ゛-チュアルな――湯船であるかも知れません。そこにいい気分で浸かりうる文章は その表現されたことがら自体が そのまま現実であると思ってしまうかも知れません。思いたがることがよくあるのでしょう。原理主義とはそういう意味合いにもなりませんか?


 ★ ※末尾(I said)に中心が据えられている事情に、 / 是非とも注意して下さい。
 ☆ この場合は その《 I said. 》という主文(およびその論述としての法活用)に対してさらに文の背後に控える話し手の存在が言わず語らずにささやいている《 I say. 》なるメタ話法が統括主体となっているはずだという論旨です。
 それなら このメタ話法を持ち出すことは切りがないと言われるかも知れませんが 表に出た言葉(論述)としての主観(法活用)となおまだ後ろに控える主観(メタ話法)とは つねに対(つい)と成ってのように展開しているのであって しかも具体的な文に対してそのつど一回きりメタ話法を持ち出して説明するだけですから そのつど切りがあるということになります。決して堂々巡りなどでもありません。


 

お礼日時:2011/04/29 11:34

因みに、此処迄の時点で敢えて触れて参りませんでしたが、


たとえ反実仮想が英語の仮定法過去に似ていましょうとも、
それが根拠になって、日本語にも「時制」が有った、
と見做す考え方は、深刻な的外れです。

そもそも、少なくとも英米語では、外枠の述語動詞の時制の変化に、
間接話法の目的語の階層の動詞の時制を従わせていまして、
それを「時制の一致」と呼んでいますので、
時間的な配置によって動詞の活用形が変えられていない場合には、
「時制の一致」が行なわれていませんので、
古代の日本語からでの「時制の一致」を見出せはしません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 一点を除いてご指摘の内容に同意します。
 ★ 日本語にも「時制」が有った、 / と見做す考え方は、≫深刻な的外れ≪です。
 ☆ この評言に反論します。

 たしかに補充用言(助動詞)によって反実仮想のための或る種の時制を作り得たことが 《時制の一致》そのものではあるとは言えません。
 ただし弱い弁明としては 二点為し得ると考えます。
 ひとつに 
 ★ ~~~~
 少なくとも英米語では、外枠の述語動詞の時制の変化に、
 間接話法の目的語の階層の動詞の時制を従わせていまして、
 それを「時制の一致」と呼んでいますので、
 ~~~~~~
 ☆ という事情についてでしたら 趣旨説明に掲げたミヤズヒメのうたの外枠として《わたしはこう思う》という主文をおぎなえばよいわけです。苦しい弁明だと言われれば はいそうですと答えることになりますが まったくそういう弁明の余地がないというほどのことでもない。つまり
 ★ 深刻な的外れです。
 ☆ こちらの表現も 言い過ぎなのではないでしょうか。そういうための弁明です。

 もうひとつに この時制の一致という文法項目は じつは必ずしも時制という観点からのみ見ては充分ではないのであって それは話法の問題として捉える必要がある。こう考えます。
 反実仮想もしくは仮想現実の想定 こういう主観想像の世界を表現するのだという話法だと考えられるからです。また広く話法が前提されることによって 時制の一致ないし時制の違いの明確化が表現の形式としても編み出されて来ると考えるからです。
 用言の法活用としての命令法(命令形)は もともとそのような主観要請の世界を表現するのだという話法にもとづくものであると捉えられます。
 時制がおそらく現在時に限られるので きわめて単純な形式にとどまっている。けれどもそのたとえば《行け》という命令法の表現は その外枠に話し手の存在がとうぜん控えています。話者の主観が控えています。話者による法活用そのものであり 話法の原形のようなものです 命令法は。
 
 【話し手の主観(もしくは 文の統括)】:〔我れは言う すなわち〕行け。

 《言う》と《行け》のそれぞれの時制が一致している。現在時である。

 というような文表現をめぐる事情――すなわち 話者の主観そのものとしての法活用(?)と言うべき話法があるという事情――からすれば ミヤズヒメのうたもその外枠に 主観法が控えていると見られる限りで 時制の一致という文法形態になりうると考えられないでもありません。その潜在性を否定することは出来ないのではないでしょうか。
 もっと単純に捉えるならば 日本語の話者たちは その主観ないし話しの主体であるわたしやあなたという特定をあまりしない。ふつうはしない。そういう慣わしにおいて いちいち間接話法を形式として採らないだけであるかも知れません。それとして時制の一致という形態が発達して来なかった。

 いくらか強引に進めており 勇み足なり見落としなりがあるかも知れません。取り敢えず このようにて。
 《的外れ》だとまでは言えないでしょう。

お礼日時:2011/04/29 05:48

関連する興味深い記述を見付けましたから、


熟読を為さってみて下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E5%B7%BB% …
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この回答へのお礼

 そうですね。
 どうですかねぇ。

 ▼ (ヰキぺ:絵巻物) ~~~~
 本の絵画形式の 1 つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。
 絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。

 § 構図・画法
  ・・・あたかも、建物の屋根と天井を取り払ってしまったようなこうした描写方法は『源氏物語絵巻』などに典型的に見られ、

  「吹抜屋台(ふきぬきやたい)」

 と称する。なお、「吹抜屋台」は絵巻物に限らず、画帖などにも見られる描法である。

 今一つ絵巻物に特徴的な画法としては

  「異時同図法」

 がある。これは、同一画面内に同一人物が複数回登場して、その間の時間的推移が示されているもので、『伴大納言絵巻』の「子どもの喧嘩」の場面と、『信貴山縁起絵巻』の東大寺大仏殿の場面がその代表例として知られる。後者を例にとると、登場人物の尼公(あまぎみ)が1つの画面に計 6 回描かれている。これは尼公が大仏殿に到着し、礼拝し、夜通し参篭し、明け方出発するという一連の時間的経過を 1 枚の絵で表現したものである。

 絵巻物が襖絵、掛軸、屏風などの形式と根本的に異なるもう1つの点は、作品全体を一度に視野に入れることができないという点である。
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 ☆ と抜き書きしましたが どうなんですかねぇ。
 

お礼日時:2011/04/29 18:03

詳しい御説明を送信して下さりまして、有り難う御座います。



但し、「時制の一致」が『関係詞の「叙述用法」』にも適用されている、
という事情を鑑みますと、
『単独の著作者が「S+V」の時制的な枠組みを拵えている』
という仕組みとの比較に適している表現技法には、
複数の作者達の集団による物が相応しいでしょう。

確かに「ハ格」への着眼は重要で、
現代国語の長文読解が苦手になっている受験生達の多くが、
「ハ格」の価値に気付いていない、
という問題がよく報告されてきた事情が伝えてくれています通りに、
日本語表現の中で「ハ格」を見落としてはいけないのでしょうが、
奈良・平安時代の有名な「某虚構長文」でも、
複数の他者達からの伝聞の内容の代弁であるかの様に、
『奇妙な「二重敬語」』を使っていますね。

つまり、たとえ文学的な技巧の1種に過ぎない様に見えましても、
日本語らしい短詩型文学向けの「文法」的な省略技法が、
魚群の動向の様な連絡網を、各語句「間」に提供してくれている御蔭で、
「連歌」が複数の著作者達による介入を受け入れて、
「短歌」から「俳諧」への過渡期を構成し得たのではないか、
と思われます。
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この回答へのお礼

 すまん。わからん。考え続けます。

お礼日時:2011/04/29 21:36
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