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 この命題を次の二点で 問います。
 
 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。

 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?


 (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。

 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる
 一つ松
 吾(あ)夫(せ)を

 一つ松 人にあり≫せ≪ば
 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を
 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を

 一つ松 吾夫を

 ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~
 (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)

 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ
 一本の松
 我が背子よ
 もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように
 服を着せように ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。
 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?

 (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?
 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。
 これが かれこれ千五百年 経つ。
 
 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。
 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。

 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。
 うんぬん。
 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

A 回答 (104件中31~40件)

通信よりも拙い義務教育レベルの話題に言及したくは御座いませんが、


致し方が無いのでしょうか?

叙事詩の辻褄合わせは、
その世界の歴史観に秩序を与えています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづわたしに関するかぎり 批判するに躊躇なさらないでください。ぼろくそにコテンパンに言っていただいてかまいません。知らないものは知らないのですから。

 この回答としましては 叙事詩ですよね 主題は。
 何かその叙事詩の作品を一例挙げてもらえば分かりやすいかとも思いますが どうでしょうかねぇ。
 つまり細かくは:
 ★ 叙事詩の≫ 辻褄合わせ ≪
 ☆ という言い方・見方が まだしっくり来ていません。
 ★ その世界の≫ 歴史観 ≪ に ≫ 秩序を与え ≪ています。
 ☆ このへんのことも どういうことであるのか。
 
 叙事詩でなくても詩作品でなくても 一般に芸術作品は その一編ごとに作者の思想を表わします。
 なぜその表現を《辻褄合わせ》と見るのか?
 《思想》は それを伸ばせば《世界観》であり《歴史観》です。むろん《秩序を持った》内容として述べます。(詩は 抽象的・象徴的な表わし方になるのが多いでしょうが)。

 すなわち
 1. 芸術作品は 基本的にひとりの作者の自己表現として成る。
 2. 作品はそれとして そこで作者の思想が完結している。

 3. 世界観ないし歴史観は それとして《秩序立った》内容を持つと捉えられる。
 4. 思想は その世界観の全体を言う場合もあれば その一端が表わされた部分的なものを言う場合もある。
 

 ☆ こういった内容であり背景事情であるかと考えます。 


 * 叙事詩《アポロンの生誕》の例があるにはあります。
 【Q:「自分を閉じ」た事の有る方、集合!!】 その回答No.5です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4731792.html

お礼日時:2011/04/19 10:09

一連の「叙事詩」の様な秩序の管理者と「連歌」の詠み手達との相違点を、


先ずじっくりと考えてみて下さい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 あくまで PC 音痴の者の見るところですが 
 ○ 言葉による交通・通信において 表現行為とそしてその行為の場の整備といった行為とは 別だと見ます。作品とそしてその作品を表わすことを可能にした道具や技術とは 別だと考えます。
 
 ○ 自己表現としてではありながら 一編のまとまった作品であるなら――それは 作者の意志の表明であり思想(生活態度)の現われだということですが―― そこに《管理》といった概念は無縁だと考えます。

 ○ むろん道具や技術も そこに作り手の思想が入って来ます。ただし自己表現を互いに発表し伝え合うその交通のための道の整備としてだと見ます。縁の下の力持ちといった位置づけなのではないでしょうか。道路の整備には確かにそれを管理する技術や不断の努力がおこなわれているはずです。

 この考えに従うなら
 ★ 一連の「叙事詩」の様な秩序の管理者
 ☆ という捉え方には違和感があります。《管理》という概念がどうしてここに入って来るのか。腑に落ちません。
 ★ 「連歌」の詠み手達
 ☆ 先の叙事詩なり詩作品なりそのほかもろもろの芸術作品については 一般に ひとりの作者がいると見なされます。複数の作者がいるというときには それでも一人ひとりの作者がいるということが 前提となっているはずです。この前提の上に もしまとまるものならば 合作・共作として発表するかたちをとるのだと考えます。
 たとえば総合芸術と言われる映画 この映画は やはり大きくは(枠組みのごとき役目と個々の演出とにおいて)監督というひとりの作者のもとに表現がなされると見ます。その限りで演技者は 監督のための協力者であり あるいは原作があるという場合でもその原作者も協力者に成るはずです。原作を改編している場合が少なくありません。
 ただしこれとても 監督が それとして《秩序》を導き出そうとしているとは見ることが出来ても それもあくまで作品として表現しているのであってその秩序を《管理》しているとは思えません。ですから管理は その監督作品の表現を可能にする道具や技術が必要であり実際用いられるわけですから それら裏方の協力作業のすべてについて言われるということだと考えます。

お礼日時:2011/04/18 06:40

更に追加を致します。



LocalAreaNetwork(LAN)側で、
クライアントシステム(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9% …が操作される際に、
利用者(私達)はWAN側の規格の機能を自覚していませんよね。

寧ろ、利用料を契約者が支払い、
単純にユーザー達が手元の機器の操作の手順を把握していさえすれば、
通信の利用の際に、故障等の異常が介在していない限りの下で、
上級階層の仕組みに任せさせて貰えます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC% …

つまり、奇しくも、連歌への参加者達が1つの文章を拵えず、
たとえ『全体の線的な辻褄合わせ」』の可否を自覚せずとも構わない、
という関係性が、其処からも窺われ得るのです。

従いまして、深い考察の価値が含まれているのだろう、
と私は考えまして、『「通信」の仕組み』に言及しています。
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この回答へのお礼

 こういうことでしょうか?
 
 ひとりの人の自己表現という言わば文体がある。その文体の現われとして 文のひとまとめとしての文章がある。これが 発言であったり主張であったりする。また論文であったり芸術作品であったりする。
 つまりは要するに 作品はひとりの人間の自己表現として完結するのが 基本である。 
 しかるに 連歌をたとえに持ち出すなら あきらかに複数の人間がまとまって 言わばひとつの作品の主体となっている。
 ★ 『「通信」の仕組み』 
 ☆ もそうなっているであろうと。


 ひとつだけ違うように思います。通信の仕組みにおいては 《作品》を成すわけではないということです。自己表現そのものでもない。いわば自己表現を その通信というネットワークの場において おこなうことが出来るようにする仕組みであり装置であるということだと思われます。

 ★ ~~~
 連歌への参加者達が1つの文章を拵えず、
 たとえ『全体の線的な辻褄合わせ」』の可否を自覚せずとも構わない
 ~~~~~
 ☆ ということが そのまま当てはまるとしても それだけでは済みません。なぜなら 連歌は その全体としてやはり 表現物であり作品であるからです。連歌は 舞台でもなければ装置でもないと言わねばなりません。参加者に場を提供しただけだということではないはずです。
 連歌は ただの場ではありません。作品を作り上げるそのいとなみでなくては 連歌という芸術行為のジャンルを成さなくなります。
 成さないという定義であるなら それとして場であるということでしょう。つまりはたとえば句会という場が たしかに作句がそこで行なわれるのですが その作品としてのいとなみは まったく問題にしていないという場合に当たります。その句会は ただの場として機能しています。
 いづれにしましても 通信プロトコルは 場のほうに属しています。裏方なのではないでしょうか?

お礼日時:2011/04/17 13:14

話の展開を少し巻き戻します。



「連歌」との比較の為に「襷リレー」の事例に言及しましたが、
私がそれ等の共通性を見落とす可能性が有り得る、と思われましたか?

真面目に纏めている過程の途上で、
もしそんな小学生レベルの見落としを致すのでしたら、
OSI参照モデルの詳細への理解には及べていません。

私が「襷リレー」の事例を引用した目的は、「比較」でして、
「連歌」と「襷リレー」との相違点を『殊更に探って』頂くと、
『「隣接部位との連結」の方式の多様性』が分かりやすかろう、
と考えまして、それ等を並べてみました。

若しかして「塞翁が馬」の言葉を引用させて頂いただけで、混乱しましたか?

読解が手抜きになっているからなのか、内容が難し過ぎるからなのかが分かりませんが、わざわざの追加説明を提供させて頂きませんと、直ぐに利己的な解釈を為さいますね。

別段に「襷リレー」ではなく、「伝言ゲーム」を比較対象に挙げましても、
同様の比較が叶ったのでしょうが、「伝言ゲーム」との比較の場合には、
「誤り訂正符号」の仕組みにも言及せねばならなくなり得よう、
と警戒しまして、其の展開の回避の為に、「襷リレー」の方を採用しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E3%82%8A% …

因みに、OSI参照モデルの事を勉強なさると宜しいのでないか、と申しましたが、
必要なのはOSI参照モデルの概略と違います。

他の方々が聞いて下さっている際には
此処迄の殊更な詳細説明が必要になりませんので、
少々の落胆を覚えましたが、仕様が無いのでしょうから、
再度の強調を致します。

必要なのは、OSI参照モデルの中に属す全プロトコルです。
特にLDAPとかL2TPとかSIPとかHTTPdとかSTUNとか…

そもそも質問者の方々が教えようと為さいますと、
こういう指摘を避け難くなりますから、御容赦を御願いします。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 基本的ににわかには無理なことを要求なさっています。質問者が
 ★ OSI参照モデルの詳細への理解には及べていません。
 ☆ ということは 分かり切っています。なぜなら たとえば質問趣旨に沿って――それが利己的であると言われるなら 甘んじて受けるわけですが―― 能格言語の例を挙げても 回答者さんにその《詳細への理解に及べている》とはわたしも思いません。ただその概略をお示ししたのみです。
 つまりはそれによって――バスク語のことが分からなてくも 概略によって―― 英文とは違った構文を成す言語が 世界にはあるということが分かっていただければよいわけです。つまりは 論理ないし思考には 人によっても違いが生じるでしょうが 言語によってもその外枠として或る程度は違って来ているということ これを問題にしています。それが この質問の趣旨だからです。

 しかるに このような問い求めに際して コンピュータ言語としての通信における論理思考の主題があると回答者さんは 提起なさったわけです。
 それについて何も知らない質問者に 《その詳細が分からなくても 概略において これこれの通信方式がありそれはあれそれの論理思考に成っている》といったように おしえていただくと いちばんありがたいということなのです。そうではないでしょうか?


 あるいはたとえば 有価証券の評価にあたって 直前の成績との比較が出たときに いやいや必ずしも短期的な比較対照のみによるのではなく 中期的な趨勢における評価もしますよとわたしは言いました。同じように連歌も 直前の句との連携だけではなく けっきょく広く過去の作句事情やら果ては文学全体の歴史にも顧慮することになるのではないかと――解説からはそう読めますと――お応えしました。
 それに対しては いや ともかく直前の句との対比のみの場合をいま取り上げたいのだとお返しになりました。
 ただそうした場合の話の進展は 必ずしもはっきりしていません。それは わたしが参照すべき解説についてただ概略のみを読んで反応してきたからなのでしょう。
 
 ここで最初の言葉が生きます。《にわかに分かれと言われても むつかしい》 これです。一つひとつの中間の結論というものもあるはずだとは思うのです。それも示してもらえていないというのが 生徒としての不満です。


 ★ ~~~
 「連歌」との比較の為に「襷リレー」の事例に言及しましたが、
 私がそれ等の共通性を見落とす可能性が有り得る、と思われましたか?
 ~~~~~
 ☆ いえいえ わたしのほうがその《共通性が分からない》のです。襷リレーは 言わば句の外側にある襷が受け継がれるのみです。連歌は 句の内側にある部分的な語句が受け継がれます。共通性はないように考えますが その見落としはどこにあるのでしょう?
 そして何よりも 連歌や塞翁が馬の場合に それぞれその部分要素が受け継がれることと そして今の論理思考の問題と どういうつながりがあるのでしょう?
 表現の主体が変われば 思考としての論理には一貫性が或る意味で無くなるのは仕方がないと考えます。これは 触れていたかどうか いま定かではありませんが 複数のあいだでの同時通信という主題ではありました。
 ですが これとしても 論理思考という主題がどこへ行こうとしているのかが見えて来ません。プロトコルの作成ということになれば それ以前に 自然言語のあいだにおける翻訳の問題が 論理思考にとっては まづ立ちはだかっているのではないか。と つまりこれは わたしの単なる推測ですが お応えしました。

 けっきょく とどのつまりは こういった質問者の側の手順をすべて端折って コンピュータ言語における規格またそこにおける問題解決の手法について――論理思考という主題を出すのなら―― まなべ。こういうことでしょうか?

 もしそうでしたら 詳細に入る前に その理由を最初に分からせてください。自然言語のあいだにおける翻訳の問題などにとっては プロトコル作成における《翻訳》問題の処理の仕方をまなべば こんなに利点があるのだといったふうにです。

 それともまづ先に
 ★ OSI参照モデルの中に属す全プロトコル 
 ☆ をまなべ。その有益なところは そのあとである。ということでしょうか?

お礼日時:2011/04/17 12:55

残念乍ら、常識から酷くずれています。



OSI参照モデル等は対応製品によって作られたのではなく、
複数のメーカーの製品の動きを連動させる為の規格に属しています。

つまり、複数の作者が作品群を提供する際に、
隣接する部位の間での連結が順調に展開するべく、
作者達が責任転嫁の為に其の規格に準拠させているだけです。

確かに『読解の際の「当事者意識」が乏し過ぎるのは仕様が無い事だろう』とは思われますが、質問者が教えるのではなく、もう少しの冷静な分析が必要なのでしょう。

因みに、ネットワーク関係の異常の発生が認められた際に、
問い合わせをなさると、よく盥回しにされる展開が経験されやすいのですが、
其の理由は上記の「責任転嫁」問題に関わっていて、
IPv4の在庫が枯渇しますと(http://itpro.nikkeibp.co.jp/network/v4kokatsu/in …、それに伴ない、関係の全規格の調整もが必要になっていくのでしょう。
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この回答へのお礼

 分かります。そういう趣旨で申し上げたと思います。

 つまり わたくしはプロトコルと言えば はじめから規格が統一されているというのではないとヰキぺで聞いたものですから やはり互いに《翻訳》が必要であるらしいと見たまでです。

 そうして翻訳と言えば コンピュータ言語のその前に 実際に話されている世界の諸言語のあいだのそれがあるので そこから始めることになるのではないか。単純にこう感想として述べただけです。



 あとは 日本語〔および韓国語 あるいは能格言語としてのバスク語やコーカサス諸語〕では 英語の構文に合わせて 翻訳をおこなうとなると きわめて機械的になるだろうと思うものですから そこらへんは どうなっているのか 関心があったというのみです。
 おそらく強引にでも 《規格》に合わせて行くものだろうと受けとめてはいます。ハ格とガ格の問題は 二重主語といったかたちで線形の考え方を採らざるを得ず そのようにして英文の S-V-O 文型に当てはめるということをちらっと聞いたことがありましたから。

 
 ですから この主題で素人のわたしが口を出すことは 次の一点です。
 論理思考には モノ・コトの全体を捉えつつもその成り立ちや仕組みに注目し これを要素部分に分けてみたときその部分要素どうしのつながり具合いに注目し焦点を当てる このような線形的な論理思考がひとつにはある。
 そして そのモノ・コトの全体をつねに捉えつつ要素となる部分はあくまであとで(もしくはあくまで部分として)取り上げるような情況論理とも言える非線形の論理思考。
 これらふたつがあるのではないか。

 線形の論理が優先されるならば 文表現においては 要素となる文成分ごとの互いの意味連絡が 当然のごとく優先されてそのようなかたち(文型)を採るはずだ。
 もしそうではなく初めには文成分ごとの意味連絡にこだわることはないとすれば 話し手はあたかも気分に任せて自分の気になっている主題を一つひとつポンポンとその対話の場に投げ入れるはずである。(そしておそらく こちらのほうが 言語の発生の初めのかたちであろうとも考えられる)。これは 主題の提示を優先させるというあたかも非論理的な人間論理をもとにしていると思われ その相手との人間関係(顔色)やそれを取り巻く情況ないし社会的な力学といった情況論理を優先させている。非線形の人間論理であろうか。

 コンピュータ言語は 線形論理に基づかざるを得ないのかなと感じられる。
 これだけです。

お礼日時:2011/04/17 10:36

先程の欄のURLを訂正します。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6671463.html”が適切なURLです。
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この回答へのお礼

 技術にかんすることは分かりません。
 プロトコルについてでしたら そのそれ以前の問題となるであろうことを 直前のお礼欄に書きこみました。
 ともかくわたしの立ち位置では そういう課題がまづあるとお伝えしています。

お礼日時:2011/04/16 10:40

対話の仕組みの根本を解析して、


OSI参照モデルが出来上がっていますから、
学ばない内での回答は誤った展開を導きます。

因みに、只今の私は下記の問題の解決を優先させて頂いております。
http://okwave.jp/question/new?cid=383
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この回答へのお礼

 そうですね。
 次の指摘に注目しました。
 ▼(ヰキぺ:OSI 参照モデル) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85% …

 ただしOSI参照モデルは、本来はOSI準拠製品用の参照モデルであり、OSI以外の通信プロトコルはOSI参照モデルに準拠して作られた訳ではない。
 例えばいくつかの教科書では、OSIの7階層を、SNAの7階層や、TCP/IPなどを含むDARPAモデルの4階層と対応付けして説明しているが、これらは全て参考資料(二次資料)である。
 厳密にはそれぞれ各層の定義・範囲・役割なども異なり、個々のプロトコルをどの層に位置づけるかも著者により異なる。
 なおIETFは、インターネット・プロトコル・スイートと構造の開発はOSIに準拠する事は意図しないと述べている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 文字どおりに受け取るしか分からないわけですが もしこのようでしたら けっきょく人間の言語が民族ごとに分かれているという情況と同じようであると思われます。つまりそれは 異なる言語どうしのあいだで翻訳が必要となるという事情のことです。

 ★ 対話の仕組みの根本
 ☆ のおそらく外枠には この翻訳という作業の必然性が横たわっていると考えます。

 つい昨日のこと 同じ日本語で述べていてもすでに翻訳の必要な場合がもろに現われました。
 はじめはまったくわざと誤解していると受け取っていたのですが 必ずしもそうでもなさそうと思われて来ました。
 いわゆる論点をすり替えるといった場合には その誤解は確信犯であるのでしょう。そしてそういう場合であるにしろないにしろ くせが習慣となってくると つねに自分の都合のよいほうへ議論をみちびこうとする。そのときにわざとそうしているという自覚はやがてなくなって来た。――そういう情況であり状態に落ち入っているように受けとめました。

 コンピュータにおけるその言語間の共通性をどのように捉えどうするのかよく分かりませんが ですから そのプロトコルの以前に 話したり書いたりする言葉における翻訳が つまり翻訳も 論理思考とその普及には重要である。こう考えています。

お礼日時:2011/04/16 10:38

一見しますと同類にしか分類できそうにない様な事項さえもが、


別の種類のプロトコルに依存せざるを得ない、という関係が、
集積されて、『「通信」の全体的な仕組み』が成り立っていますので、
論理的な伝達手段の根本を探る際には、
『OSI参照モデルの「詳細」』への深い理解が優先されなければ、
誤解を避け難いでしょう。

因みに、「太陽の搭」のデザインの考案者の方が仰った通りに、
日本らしい芸術的表現には衝動が盛り込まれていますね。

自己の虚構的な文学作品の登場人物にさえも、
敬語を使っていた、という古代日本の振る舞い方もが、
成り行き任せの態度の建設的な投影です。
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この回答へのお礼

 通信のプロトコルは――分からずのまま言うのですが―― どうも自己表現の動態そのものではないようですね。それは 或る意味でとうぜんなことのようにも考えられます。なぜかと言えば 通信を可能にしその設備環境をととのえる役目なのですから 人間が自己表現するというそのコトとは別の問題になっているように思われます。

 ★ 日本らしい芸術的表現には衝動が盛り込まれていますね。
 ☆ ううーん。《衝動》は ひとつに 日本人でなくてもどの民族の人でも表現するでしょう。
 もうひとつに 衝動が盛り込まれているという言い方は 分かりやすいかどうかを別として 精確ではないように思います。自己表現はあくまで言葉を用いて その言葉に対応するような何かを示し伝えるということですから そこに何かを盛り込むか盛り込まないかの問題になっているとは思えず したがってけっきょく表現の全体として おのれの心にある意志の動きが何であるかを伝えようとするものである。
 あるいはつまり 人間にはこれこれこういった心づもりだとか心遣いであるとか あるいは心差し(志)だとかが あり得るんだなぁといった発見を互いに共有し合う。そういった役割をも芸術は担うのではないでしょうか? 
 言いかえると 衝動を取り上げるなら これこれの情況において人はこういった衝動を持つことがある。そのような衝動について わたしはあれそれの思いを心に持った。というような判断や取捨選択などなどの意志行為のあり方を捉えて人びとの共有するところとしようとするのが 芸術家であると。

 そのあとで 日本人に特有の繊細な表現がありうるのかも知れません。と考えるのですが どうでしょう?

 ★ 自己の虚構的な文学作品の登場人物にさえも、敬語を使っていた
 ☆ これは その時代の言語習慣についてそのままの情況を再現しているというだけのことではないのでしょうか? 

 ★ 成り行き任せの態度の建設的な投影です。
 ☆ 成り行き任せという態度を描写するにしても その表現が《建設的な投影》というかたちになっているということですか? それなら 上に触れましたように けっきょくその表現の全体として これこれの心づもりならそれとして読者の前に言い表わし得たというわざなのでしょうね。と思いますが 見当違いであるかも分かりません。

お礼日時:2011/04/16 05:22

色々な具体例もが含まれ得る、という意味ではなく、


分類の為に列挙を行なっています。

「襷リレー」の方式は、SMTPサーバ間でのメール転送のプロトコルの動作に類似してますので、「連歌」とは全く仕組みが違います。

「OSI参照モデル」を熟知なさらないと見えてこない、という内容は、
残念乍ら世間に酷く乱立しています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですか。むつかしそうですね。

お礼日時:2011/04/16 04:59

似た様な無常観を反映させた象徴的な諺を申し忘れていました。



それは「塞翁が馬」です。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ☆☆(No.73お礼欄) ~~~~
 線形論理と非線形論理とを合わせた人間論理です。あるいは狭義の論理思考と 人間の境地としての知恵なる人間論理 これらを合わせて 広義の(総体としての)非線形なる世界観。でしょうか。
 この世界観のもとには そうすると
 ★ 「連歌」・「尻取り遊び」・「絵巻物語」・「襷リレー」その他
 ☆ その他何でも入るはずです。遠近法にもとづくのもよし その見方をくづしてしまうのもよし 何から何まであらゆる思想が自由であるとなると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この思いっきり自由な世界観――もしくは《自由》そのものとしての世界観――のもとに この
 ★ 人間万事塞翁が馬
 ☆ も入るはずです。

 無常観だけではなく まぼろしのごとくにでも
 ○ 常世(とこよ)
 ☆ という思想もあり得ます。この現実のからだにおける復活という思想もあり得るのではないでしょうか? たとえば百年生きていちどわが人生を振り返り もう百年をその自省のもとに生きるという二百歳寿命説 これはニ百歳を生きるとすれば それはほとんど永遠という時空間であり常世であるという思想です。科学・医学が可能にするのではないですか?

お礼日時:2011/04/15 09:46
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