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次の文章の中の論理的におかしな点を指摘してください。

《「清潔はビョーキだ」の著書がある東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授も、座り派の増加について
「清潔志向が行きすぎてアンバランスになってしまっている」と指摘する。「出たばかりの小便は雑菌もほとんどいない。その意味では水と同じくらいきれいだ。なんで小便を毛嫌いするのか。ばい菌やにおいを退けすぎて、逆に生物としての人間本来の力を失いかけている一つの表れでないといいのですが」》(朝日新聞2000年3月26日付)

質問者からの補足コメント

  • この記事ではまず、清潔志向の行きすぎを指摘しています。
    それなのに、「小便は汚くない」と続けてしまっています。
    そして、最後はやはり清潔志向に対する苦言になっています。

    この首尾一貫しないところが、論理的におかしいということが
    一点あると思います。

      補足日時:2019/10/29 11:38
  • もう一点は、この記事はそもそも、男性が立っておしっこをしたときに、飛び散った
    おしっこのことが問題になっているはずです。

    それなのに、出たばかりのおしっこについて論じている文章を引用しています。
    ズレているというより、無関係なことを論じています。

    このことも、論理性が足りないと言えないでしょうか?

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/29 12:19
  • 日本などは、昔からそういう傾向はあったと思いますが、思い込みが強い
    ところがあって、明らかに矛盾している論理でなければ、その人に好意を
    持っているとか、容姿端麗だとか活舌がいいとかいったことで、その言論
    を正しいと思ってしまうことが往々にしてある、と。

    そういうことを何度も繰り返しているうちに、自分の中の「道理」が混乱
    してきて、訳が分からなくなってくるし、「洗脳」されやすい頭脳に変化
    してくるのではないかと心配しています。

    信頼のできる先生の指導で、基本を押さえ、「質の高い文章」を読むように
    心がけるべきかと思っています、こんな時代だからです。

      補足日時:2019/10/31 19:36

A 回答 (19件中1~10件)

No.19=17=15です。

おはようございます。

朝日新聞の記者さんの主張は下記です。
 藤田さんは
  東京医科歯科大学の教授であり
  『清潔はビョーキだ』の著書があり
  座り派の増加について指摘している
藤田さんはの主張は下記です。
 清潔志向が行き過ぎてアンバランスに
 なっていることは人間本来の力を失い
 かけている現れである。
にゃぽりさんの主張は下記です。
 人間本来の力とはちんぽである。男よ
 立ち上がれ。そして小便をするのだ。
 その後便座を下げずに置き女に対する
 優位を示せ。

『女性登用内閣の登場と封建的男尊女卑体質が抜けない日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会』http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/ …

 4つの角が同じ大きさの四角形は正方形である。を統計で示します。向かい合う2辺を組にします。組が2つできます。一方をAとし他方をBとします。1か2か3か4か5か6の目が出る正6面体diceを用意し一方をaとし他方をbとします。aのdiceの出た目がAの組の2辺の長さとしbのdiceの出た目がBの組の2辺の長さとします。
 diceを振って出た目る目の組み合わせは36通りありそのうちaとbが同じ目を出したときの6通りの正方形があります。他の30通りは長方形です。4つの角が同じ大きさの四角形は十中八九正方形ではありません。

 まさにいさんおはようございます。No.18からにゃぽりさんへの怒りを感じました。良い怒りです。私はあなたに共感しています。あなたが私の代わりに怒っているようで嬉しいです。
 No.17のお礼commentを読んでへーそっかーと受け流しました。確かに私もにゃぽりさんへの怒りを感じたほうが良いような気がします。合致した回答が出来ないように質問が変わることに慣れて自分が虐げられていることに鈍くなっています。あなたに共感したときに気付きましたありがとうございます。
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NO.14お礼


>cyototu先生「いい年をして、論理的整合性しか考えられないということは恥ずかしいことだ」
 うん、まあ、 cyototu先生は理系であって、業務範囲には法則の例外なんてあんまり無いです。
であるにもかかわらず、上記のような発言されたということは、そもそも論理的整合なぞあり得ないこと(たとえば、複雑系とか人間の感情とか)をやらかしたから、上記のような指摘を受けたんじゃないの?そう思うのですが。付帯状況わからんので想像でしかないけど。
 私は工学系です。よって、用語に対する概念の不一致があちこちにあるので、用語の意味を相当厳密にすり合わせない限り、意見の不一致は多発。これ、しなたないこと。

>近頃の風潮として違和感を持っていることは、
>「矛盾がなければよく、何らかの繋がりがあればよい」というものです。
そういう風潮、知りません。ソース求む
現代数学では、「矛盾がない論理が正しい、という証明はできない」
※不完全性定理(チューリング停止定理) のこと。
真逆ですよ? (当然、矛盾がある論理は間違い。)
以下は余談。
 矛盾がなければその論は正しい、といった人は、私の知る限りでは、安本美典さん。
 歴史の解明(=今更追試できない事象に対する研究。)に統計を持ち込んだ人。
余談終わり。

>そうして進めていった「理路」がどういう経過を辿っていったかが、
>吟味されないうちに何らかの結論が出てしまい、その結論は
>論理的に矛盾がないから「正しい」となってしまう。
そうなった具体例があったとして、たいていは
・吟味されないために、論理の矛盾に考えが及ばなかったため見逃した
ということじゃないの?
※反論どうぞ。ただし、統計による事実を要求します。
※※なお、論理の矛盾と議論の矛盾は別扱いとします。
   前提がコケた場合に妙ちくりんな結論が出たとき、論理の矛盾とみなすかどうか
   という問題に帰結。私は、「みなさない」という立場。ソコを明確にしただけ。



>「その意味では」というのは、「雑菌がほとんどない」という意味であるという
ことはお分かりだと思います。
そうですよ?そこ、私は否定していませんよ?尿内に、仮に、雑菌1兆匹/ミリリットルいようと、それを「ほとんどいない」と言ったとして、そういう論法は認めるという立場。
論理の問題部分は、あくまで、
雑菌がほとんどない=清潔である。という部分。
この2つが同じであるかどうかを明確にしないまま、同じである、と結論付けていいのですか?

>一般向けの、しかも生活習慣についての話を、むりくり数学的論理にはめ込もうとすることは、「非論理的」ですよ。
???。古代ギリシアで明確になっていることの範囲のことしか書いていないつもりですけど?
※詭弁について、すでに古代ギリシアで存在したことはお忘れなきよう。
まあ、前提の誤りと論理の誤りを分けることは現代数学かも。
古典論では、どちらにせよ「議論の誤り」なるから、ソコつついても意味ないと思うが。
※古典論なら、前提が誤っている時点で論議の誤りが確定。現代数学では、そうじゃないです。


NIO.17 お礼
>問いは「文章としての」論理のおかしさを指摘せよ、というものです。
全く意味ワカンナイ。
質問文には、「次の文章の中の論理的におかしな点 」
とあるので、
「文章としての」論理のおかしさと、「文章の中の」論理のおかしさが、一致するかどうか。
私は、一致しないという立場。

で、「文章としての」論理のおかしさ、ですが、「論理の断絶」は、普通ここに含まれるでしょ?
極端な例を挙げれば、
風が吹けば桶屋がもうかる
というやつ。
同じことやってる。
・出たばかりの小便に雑菌はほとんどいない。
 ※まあ、認めるとする。第3者の研究でNG出たらアウト、という、崖っぷち論理だけどね。
・よって、出たばかりの小便は清潔である。
引用範囲で書いてあることは、これだけ。
「文章としての」論理の正しさ(=論理の断絶の回避)のためには、最低限、以下の論理が必要であるはず。
・清潔である、とは、雑菌はほとんどいないことである、(=ほかのファクターは関係ない。)
うん、見事に、文章としての論理、オカシイ。
清潔である、と、雑菌はほとんどいない ことがイコールであるとの記述がない。

まあ、「論理の断絶」を突き詰めると、ものすごく「くどい文」になることは間違いないので、通常、ほどほどにするけれど、そこ、ツッコメというの?言われたってやりたかない。私自身の文章、そこまで耐えられないから、ヒトの文章にそこまでツッコミたくないです。

補足
小便は不潔である だとして、
「おつり、は量的に大したことない、だから、清潔志向の行き過ぎである」
という論理は別におかしくないでしょ?
こういう論理(途中の論理のルートが真逆でも結論は正しい)についての論議がない状態で結論出していいの?
当初質問は、こういうことを質問しているものとばかり思っていたけど、違うの?
※細かいことをいいます。
  小便が何らかの理由でズボンを直撃した場合。藤田理論からの演繹では、そんなもん乾くから無害。ほっとけ。
  そうなると思うが。
補足の2
NO17お例文
論理の断絶という観点において、一般の人相手にするなら、一般人でもわかるようにブレイクダウンして書けという意味ですよ?
(専門家相手なら、ある程度、はしょっていい。)
だたらこそ、雑菌がほとんどない=清潔である。と書いたら、そりゃ槍玉もいいところ。
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この回答へのお礼

問いは「文章としての」論理のおかしさを指摘せよ、というものです、というのは
間違いでした、失礼しました。

それにしましても…繰り返しになりますが、文章の中で記者は藤田教授の著書の中
の文章を二つ切り取って引用しています。

「出たばかりの小便は雑菌もほとんどいない。その意味では水と同じくらいきれいだ」
と言っているのであって、「他の意味では清潔であるとは必ずしも言えない」と論じ
ている可能性はあると思います。

仮に藤田教授が、「雑菌がないことが清潔ということの定義である」と論じていたと
しても、引用された文章では、それが確定できないと思います。

確定できないことを事実として論を進めることは論理的でないと教わっています。

しかし、文章の支離滅裂さを指摘する人はいなくて、清潔の定義のことのみが指摘され
るのは何故かと考えてみましたが、それは、この藤田教授の考え方が根拠不十分として
異論が多々あるということが原因なのかなと思いました。

余談ですが、私は何の専門家でもないばかりか、論理のロの字も分からない人間でした。
だから論理について勉強しようと買った一冊目の本の冒頭にあった問題を、「どんなも
んかな?」と思い質問したというわけです。
これから、勉強を進めてゆくうちに色々分かってくることもあるでしょう。

お礼日時:2019/11/18 03:23

No.17=15です。

おはようございます。
 課題文章が用意され論理的でないところを挙げる依頼です。しかしNo.15は依頼に反する結果になりました。どこを指してそのお礼commentが理屈をこねることとしているのか分かりませんでした。
 理屈には2つの意義があってその1つがこじつけの理由や現実を無視した条理です。その意義で使っています。そうでないと論理的であると考えるのは間違いであると繋がらないからです。
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この回答へのお礼

繰り返しになりますが、この文章は新聞に載った記事で、一般の人の一般家庭内の問題に
ついてのものです。

問いは「文章としての」論理のおかしさを指摘せよ、というものです。

「清潔」ということの定義についての非論理性を指摘せよという問いではありません。

お礼日時:2019/11/17 00:10

「我田引水」とはこのことですね。


「きれい」「汚い」を毒性のある細菌の有無だけで論じることのバカらしさですね。
それじゃ毒性のない消毒済みの泥を顔に塗りたくって、「私、きれい?」とやればたぶん多くの人がキ○ガイだと思うでしょう。
藤田紘一郎と朝日新聞は「きれい」の意味をもう一度辞書で調べてみるといいですね。
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この回答へのお礼

藤田教授には、批判的な意見が多いようですね。私としては、著書を読んでいないので
何とも評価はできませんが。

また、知り合いに昭和一桁生まれの新聞記者がいたのですが、「文章を書ける人間がい
なくなった」と嘆いていました。彼の文章を見たことがありましたが、本当に整った、
美しい文章だと思いました。

プロとしての技術の問題ですが、その基準すらあやふやになっていると考えざるを得な
いという感じな昨今です。

お礼日時:2019/11/09 12:28

きれい←ーー・ーー→きたない


免疫つかない    免疫つく
 清潔だと免疫つかない。汚れに触れて免疫をつけよう。そのために立って用を足しはねて小便がつくようにしよう。出たばかりでは雑菌がなく清潔なのですぐに拭き取ってはいけない。程よく雑菌が繁殖して汚れに変わりそれに触れて免役がついたあと雑菌が繁殖しすぎて免役が追いつかなくなって病気になるまえに掃除をしよう。

 にゃぽりさんおはようございます。
 まさにいさんもおはようございます。割とわかりやすくて良かったです。出たばかりの小便は清潔なので触れても免疫がつかないという指摘がなるほどです~と膝を撃ち抜きました。
 例外があってはダメの具体例のまえに三角形の3つの角が同じだと3つの辺の各々も互いに同じ長さなので例外がなくてよいを言った方かよさそうです。
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この回答へのお礼

理屈を捏ねることが論理的であると考えるのは、基本的に間違いだと思いますよ。

お礼日時:2019/11/09 09:49

No.6お礼文


>ダウト一個目→「その意味では」水と同じくらいきれいだ、と書かれてあるので、
>論理的には問題ないと思います。
「その意味では」がダウトになるのは、そこじゃないです。
順番に書くと、

〇〇である と言うためには、例が1つあればよい場合と、例外があってはダメな場合があります。
数学での例:
 3つの角が等しい三角形は正三角形である  は正しいけれど、
 4つの角が等しい四角形は正方形である   は間違いでしょ?長方形を示せばよいから。
 ですので、
〇〇である と言うためには、例が1つあればよい というのと、
〇〇ではない と言うためには、例外があってはダメ
はイコールであるという関係にあります。
 数学でない場合、多少の例外はokであることが普通なので、 あまり厳密に考えたらまずいけど、その辺は適当に判断。

で、
「清潔の行きすぎ」 というのは、肯定側が例を挙げればok。
よって、「小便のしぶきが衣服に着くのを嫌う」という事例は、
小便は清潔であろうと汚れていようと、やりすぎの事例となっているのでok。

「小便は清潔である」は、否定側が例を挙げればok。肯定側は、「清潔である」といえるためのそれ以外の項目も大丈夫、という必要あり。

「清潔である」ための条件の1つ、雑菌について。
尿療法の場合、排泄したてを飲むわけだから、「出たばかりの小便は雑菌もほとんどいない。 」
のであれば、それで問題ないけれど、
「トイレでの尿が衣服に着く」場合、衣服はかなり長い時間着ているから、とてもじゃないけど
「出たばかりの小便」だけでの判断はまずいです。

次に、
「清潔である」ための条件は、雑菌だけでよいか。
普通に考えてNG。
裏付けとして、
水道で飲めると判断するための検査項目は約50項目。
河川のきれい/汚いは、項目1つに集約するならBOD(≒有機物の混合量)。
 大腸菌群数(≒雑菌の多寡)も検査項目だけど、BODが大きいほど繁殖しやすいという関係がある。菌の繁殖時間がたっぷりあるからそうなる。
 よって、BODとなる。pHや重金属でNGは、かなりレア。

だからこそ、最初に戻って、
「その意味では」という語句は、論理ゴマカシの危険ワード筆頭みたいなもの。
「その意味では」とは、それ以外の意味において成立しない、という意味で考えればok.。

>「その意味では」水と同じくらいきれいだ
と書いた場合、「それ外の意味が成立しない。それでも水がきれいといえるか」。そこが論点でであり、論理をゴマカス場合の要点。「その意味では」の範囲では、主張通りであるのに決まっているから、そこには目をつけません。
よって、ここで、NGが2つです。(排出したて、雑菌以外の要素無視。それでいいのか?)

そして、注意しなければならないのは、
これ、あくまで
・「小便は清潔である」(衣服についた小便で、衣服を通常着ているであろう時間経過後)
の部分が論理破綻しているだけだということ。
「清潔の行きすぎ」かどうかについては論理破綻していません。


前回スルーした論理破綻箇所。 ダウト一個目より論理がメンドイため前回放置しました。
ここ。
>ばい菌やにおいを退けすぎて、逆に生物としての人間本来の力を失いかけている
人間本来の力 とは、免疫力の意味にとります。
これ、ばい菌に触れるからこそ免疫が付く、という意味ですよね?
藤田理論だと、「小便にはばい菌がない」であるので、
・小便に触れても触れなくても、ばい菌に触れる機会に変化は無い
となりますよね?
それなのに、免疫力の低下可能性? 何故低下する? 小便は不潔であってはじめて意味わかる文章になります。(あくまで、定性的な範囲で。定量的には、ばい菌が多い順を考えた場合、小便はどの位置なのかが重要。それ書いてないにおで定量的なことには踏み込まない。)

備考

当初質問は、
・論理的におかしな点  です。

よって、論理の前提(たとえば、「出たばかりの小便は雑菌もほとんどいない」 )に対するイチャモンは、本来NG。(議論に対するイチャモンなら、前提のイチャモンok。)
よって、前回、
・論理的におかしな点ではなく、前提がおかしい  (= 前提がおかしいというのは論理的にオカシイのとは違う 。前提がオカシイ場合、結論がオカシイが論理がオカシイのではない。)
と書きました。


ですから、論理的におかしな点と、結論に対するオカシさは、必ずしも一致しません。

今回、論理的におかしな点の筆頭は、
「部分肯定(否定)を全体肯定(否定)にすり替える」 (必要条件と十分条件を意図的に混同)

次いで、
「因果関係不成立」(何故、ばい菌がない状態を避けて免疫力が下がる?その部分の記述がない。)

オマケ。
・この記事はそもそも.......おしっこのことが問題になっているはずです。

問題になっている部分とは、
・行き過ぎた清潔志向。

おしっこのことは、単なる例示としてとらえるべき。
・おしっこ以外にもいろいろ例があるけどいちいち例示しているだけのスペースがない。
・でも、台所のスポンジみたいな見逃しが多数。だから、部分的なことだけ志向している。意味ない。行き過ぎ。
となるところ、

・免疫力が下がる可能性あり。  何それ?雑菌見逃しが多数あるのに免疫力下がるんか?


という、わけわからん結論があるので違和感増し増し  となっているんじゃないの?


で、相手の論理の撃破を狙うなら、
「部分肯定(否定)を全体肯定(否定)にすり替える」
の部分を狙い撃ちしたほうが撃破は簡単なんじゃないかと思う。
ただ、藤田さんの論の本丸撃破は、まあ無理で、「小便は清潔である」を否定しても、あまり意味ないです。でも、そこくらいしか指摘のしようがないので指摘している。そんな感じ。
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この回答へのお礼

言いたいことがたくさんあって、面倒なので後回しにしていました。

まず第一点が、「論理」というものは何かということを考えたときに、近頃の
風潮として違和感を持っていることは、「矛盾がなければよく、何らかの繋が
りがあればよい」というものです。

そうして進めていった「理路」がどういう経過を辿っていったかが、吟味され
ないうちに何らかの結論が出てしまい、その結論は論理的に矛盾がないから
「正しい」となってしまう。

私は(勉強始めたばかりではありますが)、「理路」というものは何を根拠に進め
てゆくものなのかといえば、「道理」ということになると考えます。それは、常
識であったり、経験から得られた哲学であったりするわけです。

cyototu先生の投稿を読んだことがあるのかどうかは知りませんが、私の目から
見て実に「理路整然」としている文章に思えます。
彼は、ある時こう言っていました。「いい年をして、論理的整合性しか考えられ
ないということは恥ずかしいことだ」と。

さて、質問で引用した文章は、あくまで記者が書いた文章です。藤田教授の著書
からの引用はあるものの、学術的論文ではなく、男性が座っておしっこをするこ
とが「清潔志向の行きすぎ」ではなかろうかという、一般の人向けの文章である
という基本的な構造を理解しておられないのではないでしょうか?

「その意味では」というのは、「雑菌がほとんどない」という意味であるという
ことはお分かりだと思います。そして、「それは健康な人の」ということが前提
であることがむしろ「常識的である」と思います。

一般向けの文章だからです。一般向けの、しかも生活習慣についての話を、むり
くり数学的論理にはめ込もうとすることは、「非論理的」ですよ。

お礼日時:2019/11/04 22:16

尿は腎臓で漉しきれなかった栄養分を含んでいる。


便器に潜んでいる菌、大気中に潜んでいる菌によって菌が増殖される。
それが人体に付着されると菌が増殖する。
手に付くといずれ口に接触する。
また、尿にはアンモニアが含まれる。
アンモニアは人体にとって有毒である。

もっと勉強せよ。
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この回答へのお礼

おしっこの勉強はこのくらいにしておきます。

お礼日時:2019/10/30 02:32

東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授も←も!!!!!



この「も」は、何????? 

どこにかかってくる?????

かかる… 飛び散る… おしっこ????

東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授をもってしても

歯が立たない→奥さんかな?

「あなた、また汚したわね!!!!!」

立って用を足すと飛び散らせてしまう。。。

ときにトイレを汚すこともあるのだろう。。。


男性がトイレに座って用を足す理由
https://meikaij.com/life/dansei-toire/
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この回答へのお礼

>この「も」は、何????? 

この記者は、他にもそういう考えの人を知っているということでしょう。

奥さんが怖くて、こういう表現になったのでしょうか?

お礼日時:2019/10/30 02:31

NO3です。

お礼ありがとうございます。
追記させていただきます。

「この記事ではまず、清潔志向の行きすぎを指摘しています。」
  ↑
 この点は、ご指摘の通りだと思います。

「それなのに、「小便は汚くない」と続けてしまっています。」
  ↑
 「小便は汚い。」と言う認識が、実は「誤解」である、と言う意味で、
 「小便は、(実は)汚くない。」と指摘しています。

 「汚くないもの」を「汚い」と無条件に断定してしまう「過度の清潔志向」が
 問題では?と言っています。

「最後はやはり清潔志向に対する苦言になっています。」
  ↑
 苦言は「その通り」だと思います。

 生物が本来所持している「免疫性」「抗菌性」のようなものが、
「清潔志向」の過度の進行によって、普段の生活が「無菌室での生活」
 のようになり、退化してしまうのでは無いか?と言う「警鐘」の意味が
 あると思います。

 最近見なくなりましたが、食器洗剤のCMで、台所のスポンジに
 一晩でどれだけ雑菌が繁殖するのか、と言った半分「恫喝」めいた
 CMがありました。

 これなんかは「清潔志向」の過度の強調でしょう。

 「洗剤で食器を洗う。」という行為は、食器の汚れを「浮き上がらせて」
 洗い流すことなので、「雑菌が食器に付着する」ことを意味しません。

 恐怖心を煽って、洗剤を売ろうとする「浅ましい商魂」です。
 (記憶では、日本資本ではなかったs。)

 そういった風潮は、私も、違和感を感じます。
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この回答へのお礼

「論理」というものを今勉強しています。それは、自分の考えを正確に人に
伝えたいし、人の主張を正確に理解したいし、更に、世に蔓延る詭弁に騙さ
れたくないと思ったからです。まあ、論理学の入り口に入ったくらいのレベ
ルではありますが。

一般的な感覚では「そんな細かいこと」と思われるようなことでしょうけれ
ど、補足等に書いたように、この文章は論理性の足りない文章ではないかと
思います。

そんな文章ではありますが、要は、あなたが書かれたようなことを主張した
かったのでしょうね、この学者も記者も。

この主張には私も賛同します。そして、その通りに、清潔志向は更にエスカ
レートしています。

お礼日時:2019/10/30 02:28

確かにそうですね。

最初に申し上げたように、行き過ぎ→アンバランスと命題=断定判断しておきながら、藤田先生自体、行き過ぎゆえに、人間本来の力を失いかけている一つの表れでないといいのですが、と「いいのですが」と曖昧な判断に終わっている、ところが変ですし、アンバランスや人間の本来の力とは、清潔にしすぎて免疫力低下をいってるのでしょうけれど、今一つ、論の対象を誤魔化してるところがあるんですよね、
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この回答へのお礼

章の終わりとか、書物全体の終わりに、このような「警鐘を鳴らす的な終わり方」
というのは、珍しくないとは思います。

ただ、繰り返しますが、文章が切り取られているので藤田教授の正確な論理は判断
できないと思っています。

お礼日時:2019/10/30 02:15

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