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 日本語を勉強中の中国人です。タイトル通りですが、真なのか偽なのか、真偽の判断基準は何でしょうか。

 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (12件中1~10件)

真・・・正しい


偽・・・間違い

例えば、「日本の首都は東京です。」
これは正しいので ”真” になります。

「アメリカの首都は東京です。」
こんなの正しいわけがない!つまり ”偽” になります。

っていう質問でいいのですかね?^^;
違ったらごめんなさい><

この回答への補足

 ちなみに、まじめなご回答をお願いできませんでしょうかね(>o<)。

補足日時:2013/04/03 21:16
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この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。「本当」と「正しい」、「嘘」と「間違っている」はそれぞれ意味が違うと思います。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/03 21:12

特定の定義に一致するか否か、です。


この現実世界との対応は、考える必要はありません。
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この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。「特定の定義」は何でしょうか。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 17:26

客観的証拠です。



それが客観的であるか否かの真偽は人間の限界となります。
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この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 17:27

真偽の判断基準は、理念的には明快ですが、


現実には困難というか不可能です。

例えば科学的真実とは、実証性、再認性、客観性
を言いますが、これはそれで満足する他方法が
ない、というに過ぎません。

例えば、鍋に水を入れ、それに火をかけます。
するとお湯ができます。
これが果たして、真実か。
我々は、これが繰り返し実証され、再認されており
客観的真実であることを知っています。
しかし、千兆回繰り返して同じ結果が出たからと
いって、それが真実だということにはなりません。
理念的には千兆と一回目に、お湯が出来ないことだって
否定できない訳です。

科学の理論だってあてになりません。
光だって、粒子から波になり、現代は量子になっています。
科学的理論が認めている、というのは理由には
なりません。

真実には、神だけが知る真実と、人間がそれでしょうが無いと
諦める真実がある、というだけです。

尚、証拠の有無は根拠になりません。
その証拠が嘘かもしれないし、証拠の評価を誤るかも
しれないからです。
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この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。参考とさせていただきます。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 17:52

No.1です。


まじめな回答ですか。
まじめに答えたんですけどね。

私の中で、真が正しい、偽が間違いだと言いました。
文章で示した方が分かりやすいと思ったので、
わざと明らかに間違っている文章にしたんです。
別に嘘をつくつもりで回答したわけでもありませんし。
それを不真面目だと言われてしまっては困りますね

日本語の難しい言葉を使って説明した方が良かったのですか?
それでしたらwikiにも辞書にものってるはずです。
それで分からないから質問をしたのではないのですか?

(自分ではそんなつもりはないですが)
ふざけた回答してすみませんでした
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。No.1のご回答を「あなたの質問はわかりやすい言葉で言えば所詮こういうレベルの質問でしょう」のように捉えております。違いますか。「真」を「正しい」、「偽」を「間違い」と捉えられたのはmayucya様のご自由で、ご意見をお伺いすることができたのは嬉しいことです。私は「真」を「本当」、「偽」を「嘘」だと捉えております。別にmayucya様は嘘をつくつもりで回答したとは言っておりません。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 18:17

 こんにちは。




 《ウソ・イツワリでないこと》と《ウソ・イツワリ》とは おのおのワタシにおける感性が識別します。

 具体的には やましさ反応によります。

 ウソをつくときひとは 心に動揺をおぼえ 顔をあからめ 言葉もしどろもどろになります。これが ヤマシサ反応です。

 この感性としての反応が どの人にも共通にあると認められるかぎりで ウソでないか・ウソかとしての真偽の判断基準とされます。


 


 《事実》というのは どの人が見ても聞いてもあるいは考えてもそうであると認められるモノゴトです。

 誰の目にもお日さんが見えているとすれば この太陽は 事実としてあるとされます。

 太陽が赤く見えるか黄色く見えるかは 人によって地域によって違うようです。

 一定の地域の人がおおむねそうだと認めるなら それぞれどちらも真実だと見なされます。

 では 太陽を マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)とかアマテラスオホミカミ(天照大御神)として神格化しこれを信じ祀るのは 事実か真実か 真か偽か?

 おそらくやはり光として太陽の神格化と見られるアミターバ・ブッダ(無量光仏=阿弥陀如来)こそが 《事実や真実を超えて 移ろい行かざる絶対の真理であり神である》と言えば これは 本人の主観において真実であったとしても まぁ 大げさです。悪意のない主張であるならば ただ誇張していると見ておけばよいのでしょう。
 (あるいは ほかの名前の神も 同じくその《真理》だとみとめれば よいわけです)。

 言いかえると そのアミターバ崇拝の人も アマテラス信奉の人も おのれのいだく神が 唯一絶対であると ちょっと思ったとしてもそれは やはりマチガイであると じつは・じつに みづからの感性が指し示してくれているはずです。そこには ヤマシサ反応が起きているはずです。(そのあと 厚顔無恥で鉄面皮になった段階では また話は違って来くるでしょうが)。

 

 このヤマシサ反応にもとづく感性としての《判定者》は あんがい 普遍的なはたらきをするもののようです。
 しかも どの人にも共通にそなわっているとすれば それは《良心》とも呼ばれて――なぜなら感性における知覚内容が 悟性において認識されそれぞれその理性概念としても記憶されるとき そう呼ばれ得て―― 或る程度の《真偽の判断基準》と見なされて行くようです。

 ヤマシサ反応が 人によって違うという場合があれば どうするか?

 暑い地域では 月が好かれ太陽はあまり好ましいとは思われていないようです。その地でかどうか分かりませんが 太陽を黄色いと見たとしても そして赤だと見るのは《真でなく偽だ》とその地域では言っていたとしても そのような色彩感については 同じモノゴトについて異種の見方が同等に存在しうるという潜在可能性のもんだいだと見ればよいはずです。

 太陽を白いと見る場合に対して ヤマシサ反応が起きたとしても それは 習慣として自然本性に後天的に付け加わった特殊な反応形態だと見るのだと思います。だましの反応もあり得るようです。
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この回答へのお礼

 ご親切に回答していただきありがとうございます。参考とさせていただきます。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 21:28

No.1さんの回答も 「真」と思います。

 わかりやすい言葉で砕いています。

自分の考えは 「真偽の判断基準は普遍では無い」 でその属している集団で形ができてきます。

例えば日本では豚肉を食べることはビタミンBがとれて健康に良いと言えば大抵の人が「真」と思うでしょう。
でもイスラムの国でそれを言ったら「偽」 になります。

これは極端な例でしたが普通の生活においても似たような事例はたくさんあります。不良の集団での「真偽」 、学生の中での「真偽」 経営者の「真偽」 従業員の「真偽」 さまざまですね。
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この回答へのお礼

 ご丁寧に回答していただきありがとうございます。参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 21:29

最終的には直感に頼るしかないでしょう。



あなたが本当に中国人なのか否か。その真偽も、文章を隅から隅まで吟味したとしても、不確かなので最終的には直感で決め付けることになります。

例えばの話ですよ。

回答としては、直感です。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。直感ですか。直感はあたらないものも多いような気がします。参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/05 22:23

「真偽」なる語は日本語では生活用語ではありません。


日常的に使うのは、
物事を問いただす 又は ことさらに明確にする必要のある場合です。
 「本当か嘘か」
 「正しいか間違っているか」
 「本物か偽物か」
 「事実か噂か」
 「確認したか否か」
というような意味のことを格式ばって言う場合や文章語で使います。

学術用語か哲学や宗教に関わって使用する場合は、
固有の定義や解釈に随います。

ということで、質問の意図が今一つ理解できません。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。『これは「真」だ』あるいは『これは「偽」だ』と人間が判断する時に、どういう基準にしたがって断を下すのか知りたいと思います。私は科学的な証拠だと思いますが、No.4さんのご回答を読んでそうでもないように考えました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/06 13:19

No9.です


前回の回答に述べた、
真偽なる語を用いる“主題と場面”により真偽の判断基準は異なります。

 誰が言ったから信頼できるという場合もあり、
 自分の眼で見なければ信用しない場合もあり、
 科学的根拠とされるものを盲信する場合もあります。

科学の分野であれば、理論なり再現性について、
術語や理論ごとに一定の前提や了解事項が共有されていて、その条件の下に真偽を判断します。
時代が進み新たな理論によって、前代の“真偽”の判断が変わる例があるのはそれ故です。

哲学や宗教に関わって使用する場合は、
真偽の基準を共有しない人たちの間では、判断基準が異なり判定が成立しません。

貴質問「真偽の判断基準は何でしょうか」と、お礼「私は科学的な証拠だと思いますが」・・・とありますが、
社会的事象は記録(目撃談)が判断基準ですし、自然現象は観測記録(目撃談)が真偽の判断に使われます。

No4.氏の内容は真偽の判断は不可であると言うに等しく、むしろ哲学的な範疇に及びます。
そのような主旨の質問でしょうか。

日常生活での審議の判断は、
話題に参加する人たちの間で共有される解釈に随います。
従って集団により真偽の判断結果がことなる事象が日常茶飯事です。

*「真偽の判断基準は何でしょうか」の直接的回答としては、
 「主題や場面による多様性があり、一意に決められない」ということです。
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。参考になりました。何度もご親切に教えていただき誠にありがとうございました。

お礼日時:2013/04/08 21:04

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