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 この命題を次の二点で 問います。
 
 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。

 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?


 (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。

 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる
 一つ松
 吾(あ)夫(せ)を

 一つ松 人にあり≫せ≪ば
 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を
 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を

 一つ松 吾夫を

 ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~
 (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)

 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ
 一本の松
 我が背子よ
 もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように
 服を着せように ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。
 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?

 (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?
 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。
 これが かれこれ千五百年 経つ。
 
 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。
 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。

 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。
 うんぬん。
 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

A 回答 (104件中21~30件)

元々インターネットは軍事用の連絡の目的の為に作られていますので、RIPの仕組みが重要なのでして、是が分かりませんと、前々回の内容の意味が伝わりません。



優れた知能が備わっている筈なのに、説明が無ければ、
こういう内容が簡単に分かりませんか?
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この回答へのお礼

 次の回答にて お答えしています。

お礼日時:2011/04/23 05:56

インターネットに特定の管理者がいなくした目的は、


特定の拠点への攻撃による崩壊の予防でして、
「全世界のネットワークの一元的な中枢が存在していない」
という事実が評価されて、実際に、
『ノーベル賞授章「候補」』にノミネートされたことが御座います。
http://www.47news.jp/CN/201003/CN201003120100024 …
http://jp.techcrunch.com/archives/20110301intern …

確かに国家的に制御している地域もが存在していますが、
そういう地域が海外のネットワークを支配し得るのではないですね。

あくまでも特定の地域の内外での遣り取りを制御しているだけですので、
電気通信による情報の遣り取りを特定の国家が制御している、という事実は、
インターネットの中枢の不在と関係しません。

つまり、寧ろ、特定の地域による支配を阻止するべく、
「OSI参照モデル」が機能してくれているのです。

例えば、RIPというプロトコルはネットワークの全体的な動向を窺わず、
お隣さんとの結び付きの維持に拘っていまして、
その『「連歌」的な経路選び』が安定の冗長化を助けてくれています。
http://okwave.jp/qa/q479249.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 わたしの書いた内容は 素通りですか? 一部分のみを取り上げるのですか?



 ★ ~~~~~
 インターネットに特定の管理者がいなくした目的は、
 特定の拠点への攻撃による崩壊の予防でして、
 「全世界のネットワークの一元的な中枢が存在していない」
 という事実が評価されて
 ~~~~~~~
 ☆ もしこういう理由でしたら こうも考えられますね。
 すなわち 管理拠点への攻撃の可能性がゼロであれば 管理をしてもよいと考えているのだと。

 その点は どうなんですか?
 攻撃による崩壊を予防しなくても済むのなら 一元的な管理中枢を設ける場合もあると言うのか。それとも そういう考え方はいっさいしないというのか。

 論理思考や自由といった問題は そのあたりにかかわっていると思うのですが。


 こう言ったからという理由で インタネットにけちをつけたと言われたら どうしましょう。



 さすが
 ★ RIPというプロトコル・・・の『「連歌」的な経路選び』
 ☆ については コメントできるまでには分かりません。あしからず。

お礼日時:2011/04/23 03:37

すいません。


私の表現に簡単に誤解をなさいますね。

別段に「連歌」等への好き嫌いを語っている訳ではないです。
一々、此処迄の無駄な説明を要求するのは、何故ですか?

「立体主義絵画」と「連歌」との共通性を考えて頂いただけで、
価値観の違いを主張なさいましたが、
『「立体主義絵画」の視覚的な醜さ』は分かり切ったことです。

それに対しまして、『「連歌」等の短詩形文学』には、周知の通りに、
「五七五七七」のリズムとか「季語」とか「枕詞」とか等の「型式」が御座いますね。

つまり、「型」によって整形されていますので、
独自の規則が其処でも成り立っています。

確かに、短詩形文学は庶民の日常生活に直接的に役立ってくれ難い、
という事情を踏まえますと、『現代日本の「義務教育」』の国語科の中で、
短詩形文学的な発想の存在が指導されている理由は、
「短詩形文学」の特殊性に注目しているからだ、
という見方もが有り得るのかも知れません。

従いまして、古来の日本にも「論理思想」が存在していてほしい、
との願いもが起き得るのでしょうが、そもそも、
「短詩形文学」が誕生し得た理由は、日本語の文法的な構造に有ります。

つまり、倒置を除きますと、日本語では、述語だけが末尾に固定化され、
其の前の語順を比較的に自由化させ得ますので、其の御蔭で、
部分的な省略さえもが許されて、「短詩形文学」が出来上がったのです。

因みに、話は変わりますが、インターネットには特定の管理者がいません。
果たして一体何故なのでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 一々、此処迄の無駄な説明を要求するのは、何故ですか?
 ☆ わたしが馬鹿で何も理解できないからです。その限り無駄とは思えません。


 言語の構文などのことを軽くとらえてはならないと考えます。
 たとえば ラテン語は 語順がまったくと言っていいほど自由です。

 (羅文): Paulus laedit Petrum.
 (英訳): Paul  hits  Peter.
 (漢訳): Paul   打  Peter。
 (和訳): パウロ-が 打つ ペテロ-を。

 ここで Paul-us(パウロ-が)は 主格( S )に活用しています。Petr-um(ペテロ-を)も 対格(目的格: O )に活用しています。したがって この文の語の順序を入れ替えても 同じ意味で文意が通じます。

  ○(羅文):Paulus Petrum laedit.
       Petrum Paulus laedit.
       Laedit Paulus Petrum.

 むろん英文や漢文は――活用語尾を落としたか もともとないので―― 語順によって それぞれの語句の格関係(≒意味連絡)を示すかたちを採っています。

  ○(英文): Peter hits Paul. 
  ○(漢文):〔変更して〕 我打他。// 他打我。

 とすれば 打つ主体が変わっています。(《他》=かれ)。つまり語順が一義的に 主‐述‐対(つまり S-V-O )の格関係を示すかっこうです。
 ちなみに

  ○(和文):われはかれを打つ。

 という文において ハ格は 主格を表わしますが〔われ‐ハ(主題提示格) われ‐ガ( S ) かれ‐ヲ( O ) 打つ( V )。〕

  ○ かれは われが打つ。

 としますと ハ格は 対格を表わします。主格は われがのガ格です。意味としては《かれ‐ハ(主題提示格) かれ( O )‐ヲ われ( S )‐ガ 打つ( V )》というふうに ヲ格が現われます。
 何が言いたいかと言えば 日本語の構文は ハ格やガ格がまづ基本的に言って話し手の言いたいこと(文)の主題を提示するのであって わづかにそのあとそれと同時に 主述対の格連関をも表わすということです。
 つまり 

  (α) A‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スル。(日本文・韓国文)

 の構文は その構造の中に
 
  (ω) S - V - O.  (英文・漢文)

 の文型を含むと言えるようです。含むほうの構文(α)は 非線形であり 含まれる文型(ω)のほうは 線形であるようです。
 語順が自由なラテン文は――現代語でも ロシア語がまだそうですが――線形の文型に近寄って行っています。けれども 非線形構文の要素を残しているとも言えるのではないでしょうか。文頭に持って来た語句( Paul-us か Petr-um か Laedit か)が 主題として提示されているかたちだと考えられます。
 英文でもないわけではなく いつも例に出すのは これです。

   ○ Regret, I had a few.

 対格(≒ヲ格)が 主題として提示される恰好です。

 ☆ よって 論理思考という主題をめぐって 日本語の文法――特に構文――の生成やその特徴と そして短詩形文学の生成やその特徴との間に つながりがあるかどうかは そんなふうに一概に言えるとはとても思えません。
 (語が 子音終わりのものがない。基本的に二重子音のかたちもなくみな開音節つまり母音終わりであること――つまり語の形態素が 一子音+一母音( C+V )から成っており 一拍が明瞭であること――が 五七調あるいは短詩形を成り立たせているかに思われます)。
 (五七調は 一般に語が二拍か三拍かであること。石(いし)の二拍や頭(あたま)の三拍であること。そこへ 一拍の活用格――ハ格やガ格やノ格やヲ格や二格――が添えられ そのまとまりとして 2+1⇒三拍か 3+1⇒四拍かに成る。四拍の場合などには 活用格を省くという手もあります。
 よって おおむね語句のひとまとまりは拍数が 2+3⇒5 / 3+2⇒5 かあるいは 3+2+2⇒7 / 3+4⇒7 かこういった組み合わせに成るからだと考えられます)。





 ★ 因みに、話は変わりますが、インターネットには特定の管理者がいません。 / 果たして一体何故なのでしょうか?
 ☆ お隣の大国では いるのではないですか? それが答えだと考えます。


 * ひとつご助言を申し上げますと 具体的な事例・文例・作品例を挙げて説明していただくのが いちばんだと思います。


  

お礼日時:2011/04/22 12:04

「立体主義絵画」でも「連歌」でも


外側の枠を固定化させずに、例外に中心を移行させて、
全体の流動化を促し続けています。

先の枠への入力でも触れました通りに、
日本語では論理的な弁舌が高く評価されず、
寧ろ「省略」の技術の練磨が賞賛されてきたのです。

何故なのだ、と思われますか?
日本の大人には常識ですよね。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ 外側の枠を固定化させずに、
 ☆ 固定するのも自由 させないのも自由です。どちらの方法に拠ってもいいものは生まれるでしょうし いいものです。どちらの方法においても 悪い表現は悪い表現です。

 ★ 例外に中心を移行させて、 / 全体の流動化を促し続けています。
 ☆ これも 一法であって それ以上の道ではないと考えます。全体を固定させて いい表現を得ることもできましょうし 《例外》やら《中心》の位置づけやら すべて自由であるでしょう。

 ★ ~~~~~
 先の枠への入力でも触れました通りに、
 日本語では論理的な弁舌が高く評価されず、
 寧ろ「省略」の技術の練磨が賞賛されてきたのです。

 何故なのだ、と思われますか?
 日本の大人には常識ですよね。
 ~~~~~~~~
 ☆ どうやら わたしが《論理的な弁舌》をひけらかしている。こうおっしゃりたいようです。《饒舌》に過ぎると。
 ★ 寧ろ「省略」の技術の練磨が賞賛されてきたのです。
 ☆ なるほど そう言えば あなたの文章表現は どこもかしこも《省略》が満ちあふれているようです。道理でですか よく分かりました。
 ★ 日本のおとなの常識
 ☆ についてまなんで行きます。これからでは遅いと思いますけれど。

 というのは ただの社交辞令です。ウソを書いてすみませんでした。

 饒舌であろうとなかろうと よい表現のもとによいことを伝えられれば それでよいと考えます。
 そんな《常識》による秩序などは 一刻も早くわたしがこわして見せましょう。

お礼日時:2011/04/21 10:02

本当に学術的な回等の紹介を望んでいらっしゃるのではないのでしょうか?



利己的な理解の支援を求めていらっしゃるのでしたら、
酷く勿体無いと感じられないですか?

現時点の知識では、気の毒乍ら、誤解の域を殆ど越えられないですよ。

日本語の自由な語順は他者達からの参入をも許し、
「連歌」の形式を生み出した訳ですが、
後の時代に於いて、日本語は他者達からの参入への依存からも卒業し、
「俳諧」という短詩形文学へと昇華したのです。

前々回には、理解しやすい様に配慮しまして
「秩序の破壊」という表現を採用しましたが、
残念乍ら予想通りの誤解が露呈しましたので、
酷い落胆を覚えました。

若しかして、「連歌」の場合にも、
最初に参加者達が全体の筋書きを覚えている、
と誤解なさったのでしょうか?

「連歌」と「尻取り遊び」との類似性には既に触れていますので、
日本語の情緒性が其処から理解して頂けたのではないか、
と私は勝手に考えていました。

そもそも、「尻取り遊び」に参加する際に、
参加者達は全体の筋書きを教えられていますか?
いませんよね。

それと同じ様に、「連歌」の場合にも、
隣接部位との辻褄合わせだけに配慮しさえすれば、
最終的に自ずから全体的な混沌が出来上がるのです。

此の段階は、入門以前の準備の領域に留まっています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 本当に学術的な回答の紹介を望んでいらっしゃるのではないのでしょうか?
 ☆ 初めの趣旨は その説明にあるとおり二点のみに関する確認です。
 さらに《日本人の論理思考》という主題で広げていただいたと思っております。ただしその問い求めが どこへ行こうとしているのか 分かりません。早くおしえて欲しいというのが ホンネです。

 ★ 利己的な理解の支援を求めていらっしゃるのでしたら、
 ☆ ですから 《日本人に論理思考がそなわること》の確認が 初めの趣旨であり それが《利己的な理解の支援を求めること》であると言うのでしたら それは甘んじて受けます。そのとおりですから。ですが 《そなわっていない》という内容の回答を寄せていただくこと これも歓迎です。

 ★ 現時点の知識では、気の毒乍ら、誤解の域を殆ど越えられないですよ。
 ☆ そう見えるのでしたら そうなのでしょう。ただし段階を踏んで・踏み固めて進んで来てはいません。わたしからの応答がよほどちゃちなものだったのでしょう。でももうそろそろ鼻をひっつかまえられて 誘導されることにはいい加減嫌になっています。それよりは誤解のままでかまわない こういう心境です。

 ★ 日本語の自由な語順は他者達からの参入をも許し、
 ☆ これは まちがいです。その言語の語順がどうであれ文法がいかにあれ 《表現の自由》は 政治的に社会力学的にはばまれることはあっても 参入をゆるさないということはありません。誤解です。
 ★ 「連歌」の形式を生み出した訳ですが、
 ☆ ですから 連歌が この自由やあるいは論理思考の主題といったいどういうふうにつながるのか お聞きしたいところです。先行する秩序の破壊をするかしないかは 直接につながりません。秩序を守る場合にも 自由は 得ようとすれば出来ないことはありませんし 秩序の破壊ゆえに論理思考が生きているというのも 一面的な理解だと考えます。
 それに連歌は 《優雅な形式》になったとすれば それはむしろ社会としての秩序の創造的・必然的な破壊を目指すものではなく むしろ体制としての秩序に組み込まれて行ったに過ぎない。こうも考えるとすでに述べています。
 連歌にこだわる意味が 明らかではありません。

 ★ 後の時代に於いて、日本語は他者達からの参入への依存からも卒業し、 / 「俳諧」という短詩形文学へと昇華したのです。
 ☆ 俳諧の良さを では 言ってください。その作り手本人にとって有意義であることと 芸術作品として良いこととは 必ずしも一致しません。あらたな秩序の創造を目指してのふるい秩序の改めにとって 俳諧は 良いとも悪いとも言えないところでいとなまれている。こう見られます。
 《参入》如何については 論理思考や自由の主題とどうつながるのか。参入は自由 表現も自由 この原則があれば 連歌だの俳諧だのと ここで持ち出す意義について まったく分かりません。見放してもらってかまいません。

 ★ ~~~~~~
 前々回には、理解しやすい様に配慮しまして
 「秩序の破壊」という表現を採用しましたが、
 残念乍ら予想通りの誤解が露呈しましたので、
 酷い落胆を覚えました。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《誤解》や《落胆》の中身 これについては 一切と言ってよいほど明らかになさらないのですね。段階を踏んで一歩一歩共通の理解を――異同それぞれについて――確かめ合って進むということをして来ておられない。

 ★ ~~~~~~~
 若しかして、「連歌」の場合にも、
 最初に参加者達が全体の筋書きを覚えている、
 と誤解なさったのでしょうか?

 「連歌」と「尻取り遊び」との類似性には既に触れていますので、
 日本語の情緒性が其処から理解して頂けたのではないか、
 と私は勝手に考えていました。

 そもそも、「尻取り遊び」に参加する際に、
 参加者達は全体の筋書きを教えられていますか?
 いませんよね。

 それと同じ様に、「連歌」の場合にも、
 隣接部位との辻褄合わせだけに配慮しさえすれば、
 最終的に自ずから全体的な混沌が出来上がるのです。

 此の段階は、入門以前の準備の領域に留まっています。
 ~~~~~~~~~
 ☆ あいにくでした。《情緒》については 論理思考とからめて主題にしてください。あとは そのつど応答して来ています。どこが違っているのか その指摘もほとんど無しで来ているわけですから こんなことを言われても はあそうですかとお応えするしかありません。
 総じて言って あいにくでした。

お礼日時:2011/04/21 09:52

それでは、更にもう1つ。



パブロ・ピカソ氏達の立体主義絵画の事にも、思いを馳せてみて下さい。

此処で行き詰まりますと、
『「源氏物語絵巻」の凄まじさ』を理解出来ませんから、慎重に…。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ですが さらにもっとわが高みに登って来いとのお達しでしょうか。

 抵抗感をおぼえるのは わたしがこころが狭いからでしょうか。

 ★ それでは、更にもう1つ。
 ☆ の《それでは》というのは これまでのわたしの反応内容をよしとしたという意味でしょうか? 
 見直しをし考えをあらためたこともすでに含まれていますが それでも表題の《論理思考》についての問い求めに当たっての立ち場は 趣旨説明で述べたところから変わっていませんよ。
 コンピュータにおける通信とその通信を可能にする仕組みをめぐってもけっきょく 自然言語における表現の自由という原則(公理)が 当然のようにも 当てはまっている。こう 素人のわたしが 総括したことが お気に入らなかったのでしょうか?
 でもそれについての批判・訂正はないということですよね。
 
 そしてそれでもさらに頂上は もう少しだがまだだ ということでしょうか?
 ★ 此処で行き詰まりますと
 ☆ としても もういいやという気にならないでしょうか ふつうは?




 ピカソについては わたしの次の設問でのやり取りを挙げておきます。
 【Q:ピカソの作品 《ゲルニカ》について】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6412949.html
 【Q:われらが審美眼は 劣化したか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html

 前者は アンケートでしかなく 後者は きわめて長いやり取りになっています。ですからあまりよい案内ではないのですが 全体としてわたしの美についての見方を――むろんおそわりながら やり取りしながら――明らかにしています。
 結論は ピカソはわたしにとって ゼロです です。むしろ社会にとっては マイナスだと考えます。中立の視点で言えば絵画の技法などにおいて ほかの二十世紀の美術の大方の方法として そういう実験をおこなったという見方です。
 それは要らないというのが 主観です。セザンヌの手法まででじゅうぶんであると。


 ☆☆ 日本人は 論理思考をそなえている。
 ☆ この主題のもとにあることは分かりますが その主題の広げ方・掘り下げ方が ひとつには思わせぶりという意味で強引であり ひとつには段階ごとに踏み固めて行くという作業が そちらの側であいまいなままとなっている こう思われます。後者ゆえに 前者が増幅しています。

お礼日時:2011/04/20 09:44

しっかりと思い出して下さい。



「一連の辻褄合わせ」を敢えて意図的に壊す為に、
美しい形式が採用されているからこそ、
「連歌」の特徴が歴史的に高く評価されてきたのですよ。
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この回答へのお礼

 No.84で考え直しましたように 連歌の仕組みは分かりました。
 むしろまとまった思想は 二の次である。句ごとの連なり――つまりその連ならせ方にどんな知恵が用いられどんな知識がうかがえるか――が腕の見せ所であると。
 
 どう言いますか わたしの周りでは 俳句や連歌をめでる人間はいなかったという環境も影響しているでしょうか。わたくしもすでに遠ざかって来ていました。
 ただあらためてその特徴が分かって言うのですが そしてそう言ったからといって何でも無いことですが わたし自身は好きになれません。それは ただ教養を競い合うようなあそびだと思えるからです。へたをすると その教養のひけらかしに終わるかに思えます。
 それに時間を費やすなら もっと正面からの思想に意を用いるほうをえらびます。

 あそびの論理も分かりましたとは 述べておきます。


 つまり 
 ★ 「一連の辻褄合わせ」を敢えて意図的に壊す為に、
 ☆ という営為は 思想としての思索でもじゅうぶんに必要ですし おこなわれていると考えます。ただ
 ★ 美しい形式が採用されているからこそ、
 ☆ にかなうかどうかは 保証の限りではありません。一般にふるい共同の観念ないし幻想に挑戦するというかたちになるのが その破壊作業ですから。柿本人麻呂を天皇賛美のうたをうたう宮廷歌人という通念を壊して捉えたのは わたしが初めてです。聖徳太子は この近年にその見直しが広く成されて来ていますが これについてもわたしはぼろくそに批判して来ています。ニーチェにしても ソシュールにしても構造主義ないしポスト構造主義にしてもそうです。
 《〈一連の辻褄合わせ〉を敢えて意図的に壊》しています。

 言いかえると 枠組みとして教養あふれるあそびという看板があるところで
 ★ 「連歌」の特徴が歴史的に高く評価されてきた
 ☆ という場合には それがいかに洗練されており《美しい形式が採用されている》としても かえって実地の共同幻想への批判は よわい側面を持つ。こういう結果ではないかと思われます。一般的に得られている《高い評価》というのは 得てしてそういうとこがあると思います。いわゆる《体制への組み込まれ》ではないでしょうか。保守としては それでよいし それがいちばん優雅なことなのでしょうけれど。

お礼日時:2011/04/19 11:23

更にもう1つ。



「通信」は、端末機器類同士の間での語り合いです。

自己紹介の後に、相手の機器の状態を尋ねてアポイントを取り、
そして、漏洩を防ぎ乍ら、徐々に情報群を貰う為に、
自分の情報処理能力の幅を相手に覚えて貰う。

単純でしょう。

但し、OSI参照モデルの各階層のプロトコルは、
隣接する階層との連携だけを維持させる様に規定されていまして、
全体への影響を把握させていません。

しかも、最初にインターネットが出来上がった際の理念の通りに、
若し中枢を仮想敵国に狙われるといけませんので、
秩序の一元管理の責任者を特定させてません。

此の完成度は素晴らしく、
若しかしますと、噂通りに、
将来的には、ノーベル賞の対象になるかも知れません。
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この回答へのお礼

 なるほど。少しづつ分かって来ました。

 自由な交通を可能にするために 部分的に・主題(課題)ごとに互いの条件を取り決め その諸条件ごとにしっかりと機能する仕組みにしているといったところでしょうか?

 ただそれでしたら ますます縁の下の力持ちとしての仕事でありそこにおける広い意味での論理思考であるようにも思われます。
 つまりその仕組みの上で 人びとは何を語り合うか。この次元での論理思考もあるように思われます。

 あるいはそれとも そのような《話し合いの場としての条件をめぐる話し合いとそこにおける言わばゆづり合い》 これとしての思想が問題にされてもよいし そこにこそ論理思考の出番があるということでしょうか?
 ★ 秩序の一元管理の責任者を特定させてません。
 ☆ これは 広く捉えてもまた基礎として捉えても 表現の自由のことだとは思うのですが その上に特別な思想がありますか?
 表現の自由は 一人ひとりの・自分の発言にかんする答責性(文章責任)を俟って完成する手はずになっています。《一元管理》などは もともと想定しません。秩序のためにと言ってその管理をしようとする動きは政治的に出て来ますが 基本的にコミュニケーションは 無条件に――それゆえ答責性を同時に帯びつつ――自由だという大前提に立つはずです。
 この原則は どこまで行っても原則だと考えます。

 重ねてこの原則というのは
 ○ 答責性を同時に伴なう表現の自由 これのみが プロトコルである。
 ☆ つまり プロトコルは一切ない これが 自然言語における表現と交通の原則だと考えます。いかがでしょう?

お礼日時:2011/04/19 11:02

因みに、当事者意識が乏し過ぎるからなのかは存知得ませんが、


有価証券取り引きに関する御意見の中にも、
遺憾乍ら、独特な偏見の残留が認められます。

理想的に考えますと、仰る通りなのですが、
現実に其の分野だけで勝ち抜いてこられたDayTraderの方々は、
綺麗事に拘らず、上場廃止決定銘柄の株をも狙って、
どんどんと売買を繰り返しています。

つまり、「キャピタルゲイン」を獲得した際に、
其の資金で次の銘柄の購入に着手するタイミングを考えますと、
企業の業績の分析よりも、
寧ろ、『道連れの「狼狽売り」』の憂き目に曝された銘柄を狙った方が望ましい、という場合もが有るのです。

是迄に私の様な指摘を受けていらっしゃらなかったのかも知れませんので、此のサイトの新参者の私が、こういう意見を申し上げてはいけないのかも知れませんが、今後にも皆様と協力し合える関係を維持させていく為に、こういう陳情もが必要なのではなかろうか、と思われましたので、殊更に強調させて頂いておりますから、何卒御容赦を宜しく御願い申し上げます。
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この回答へのお礼

 さて
 ★ ~~~~~~~~
 理想的に考えますと、仰る通りなのですが、
 現実に其の分野だけで勝ち抜いてこられたDayTraderの方々は、
 綺麗事に拘らず、上場廃止決定銘柄の株をも狙って、
 どんどんと売買を繰り返しています。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ このことに尽きるようです。

 《理想的に考える》というところを 《全体観に立つ》と言っていました。
 そして《部分を捉える見方。あるいは そのときその場に立っているすがたの方向や傾きを微分するかのように捉える見方》 これもあるということ。
 部分観ないし特殊な事例を捉える見方。

 文学作品や芸術一般は 概して その想像力を駆使して自由にどの見方にも立って表現を与えます。
 哲学思想は そのような特殊な事例をも出来るだけまとめて総体的に捉えようとするはずです。
 そういうことでよろしいでしょうか?

お礼日時:2011/04/19 10:43

大きな勘違いを為さっているようです。



そもそも、「連歌」に於いては、
全体の筋書きが提供されておらず、
寧ろ其の奇妙な仕組みの御蔭で、独特の趣きが出来上がるのですよ。

恐らく長年の内に御忘れになっただけなのでしょうが、
質問者の方の頃でも、蓋し、
こういう内容は中学校で教わっていらっしゃるのだろう、
私はと思いますよ。

通信迄に比較対象枠を広げますと、難し過ぎますか?
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この回答へのお礼

 《連歌 例》でグーグルの最初のサイトを見てみました。

 ▼ 〔鎖連歌の例(守武千句より)〕 ~~~
 http://www.e-t.ed.jp/edotori390172/bun-02.htm

 秋来ぬと七夕つめや欠けぬらん  

   「秋が来て七夕だというのに、肝心の七夕津女がいない」という意味。
  同時に「織女の真似をして機織りをしたら、爪が欠けてしまった」とい
  う意味もあります。次は、最初の「七夕津女がいない」という謎に答え
  を与える句を作ります。

 その朝顔は牛とこそ見め

   「その朝顔は牛と会っている」という意味。織女は朝顔姫という別名
   もあるのです。だから牛飼いに会いに行ったのですね。次は、「朝顔
   と牛が会う」という謎に答えを与える句を作ります。もちろん、七夕
   と離れなければなりません。

 朝露の垣根をくぐるかたつぶり  
  
    意味は分かりやすいですね。前の句とのつながりは分かりますか?
   「朝露の垣根」ですから「朝顔」が咲いていてもおかしくありません。
   「牛」はどうしたのでしょう……ちゃんと「かたつぶり(現代語のか
   たつむり)」が出て来ました。これは「蝸牛」と書くんですよ。

 疳の虫気(け)の有明の空  

    疳の虫(かんのむし:子供の腹痛です)のために徹夜で看病をして
   朝を迎えたということです。前の句とは「朝露」から「有明」、「か
   たつぶり」から「虫」が連想されているのです。

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 ☆ なるほど。作品を全体として捉え そのまとまった思想をかたちづくるのではなく したがって読者もそのように思想を捉えようとするのではなく その部分ごとの掛け合いの妙をたのしむといったところでしょうか?
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 そもそも、「連歌」に於いては、
 全体の筋書きが提供されておらず、
 寧ろ其の奇妙な仕組みの御蔭で、独特の趣きが出来上がるのですよ。
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 ☆ というように。だとしたら これは 文学と言っても 良くも悪くも余興に属しますね。
 言いかえると 文学なりあるいは広く世界観なりを身につけた人〔たち〕が そのいとなみから滴り落ちる余りものを吐露するといったところでしょうか。
 芸術として正面からいどむ作品ではないと。
 
 たしかに相聞のうたにしても その実地の場でも掛け合いが問題であって そのあとそのうたが芸術作品となるかどうかは二の次だと思われます。俳句なら むしろその表わされた言葉の背景にある作者の生活や人生のほうがうたわれており その文字としての作品だけに限るものではなく 限ってしまえば何のことであるか分からないほどだと思われますから。
 連歌は もっとあそびの要素が強いもののように受け取りました。実際の生活から一たん離れて 言葉の世界にあそぶというふうにです。

 なるほど そういうあそびの要素が 広い意味でも狭い意味でも《論理》ということには含まれるとは思われます。もしくは ひろく《あそび》が 論理をも含むものであり 人生をも含むということであるかも分かりません。


 ★ 通信迄に比較対象枠を広げますと、難し過ぎますか?
 ☆ これについて 次のご回答に移ります。

お礼日時:2011/04/19 10:35
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