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 この命題を次の二点で 問います。
 
 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。

 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?


 (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。

 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる
 一つ松
 吾(あ)夫(せ)を

 一つ松 人にあり≫せ≪ば
 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を
 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を

 一つ松 吾夫を

 ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~
 (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)

 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ
 一本の松
 我が背子よ
 もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように
 服を着せように ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。
 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?

 (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?
 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。
 これが かれこれ千五百年 経つ。
 
 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。
 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。

 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。
 うんぬん。
 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

A 回答 (104件中71~80件)

他の方からの参加に協力を賜って格好が悪かったので、


自分の説明不足に反省を致しました。

そこで、更に申し上げます。

Directory構造の下では、フォルダをコピーさせますと、
当然乍ら、コピー元とコピー先とのフォルダの作成時刻(TimeStamp)が食い違ってきますよね。

従いまして、それ等のフォルダに収納されているファイルの作成時刻にも、
影響が及ぶ筈ですので、「時制の一致」の発想を見逃せなくなります。

そう考えますと、「連歌」との違いを類推して頂けるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 直前のNo.42でのやり取りでは間に合いませんか?

 ただし今回おっしゃるところの
 ★ 作成時刻(TimeStamp)
 ☆ をめぐっては――PC の仕組みや決まりをわたしが知らないのでなのかも知れませんが―― どのように文表現における論理思考のもんだいとからんで来るのかは にわかには分かりかねています。

 ましてや連歌との兼ね合いは なかなか分かりません。
 あるいは 連歌をこの時制の一致の問題について引き合いに出すのは 果たしてよい事例であるのかどうか これすらも――申し訳ないながら――わたしには分かっていません。

 これが偽らざる現状です。とお応えするしかいまは能がありません。

お礼日時:2011/04/03 08:29

先の方からの投稿への協力を致します。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3% …
此処の方がDirectoryの内容を詳しく伝えてくれています。

つまり、ディレクトリは間接話法の様な階層構造の事で、
其の中へフォルダやらファイルやら「もが」含まれています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 それなら話がつながりました。(PC などにうといです)。

 とてもこの主題をすっかり解くことは 一回分の文章ではむつかしいですね。
 
 たとえば アメリカ発の《生成文法》という考え方がありました。(いまもありますか?)
 これによれば 文の成分を取り出し基本的なものと飾りのものとを区別し あとは具体的な文例についてそれらの成分分析を ちょうどツリー状にして明らかにしようとしていますね。
 ★ ~~~~~~~
 つまり、ディレクトリは間接話法の様な階層構造の事で、
 其の中へフォルダやらファイルやら「もが」含まれています。
 ~~~~~~~~
 ☆ というようにだと思いました。
 つまり そのツリー状の分析においては それぞれの成分が確かにきちんと互いにつながっていることが分かります。《時制の一致》にしても そのような論理的な連絡が きちんと成分どうしの間で取れているかたちになります。

 けっきょく どうでしょう 日本文も生成文法を当てはめて分析するところまでは行なわれているようですが いかんせん 文じたいには――ということはそれを表現する日本語話者じしんには―― 成分どうしのあいだの連絡関係をきちんと意識した痕跡はむしろないようであるのかも知れません。
 文の成分分析は出来るが 成分どうしの間での特に論理的な連絡は きちんとは取れていない。おそらく話している途中では或る程度その連絡はゆるやかでよいという考えがあるのかも知れません。

 こういうことでしょうか?
 話し手は どの言語においてもとうぜんのごとく その言説というのでしょうか 話す文ごとにそれの行為主体として統括する立ち場にあります。いわば文の外で・その背後で 話し出されていく文を――むろん成分ごとに――統括しています。
 ただし日本文では 何々ハだとか これこれガだとかのように提示して行くその主題ごとにきちんと統括していたとしても 全体の文としては――ということは 主題どうしの間の連絡具合いについては―― 二の次になっているかも知れません。それで間に合って来たからです。

  文は人なり。:このハ格は 主格( S )=ガ格であるが

  文は人が語る。:このハ格は 対格(目的語 O )=ヲ格である。

 というように融通無碍なようですから 日本語の話し手は 歩きながら個々の主題についても 全体の文意についても――歩きながら――統括するかたちでしょうか?
 そうだとすれば それと比べて確かに欧文は 初めにおそらく文意がでなくても 文の構えが全体として統括されて話し始めるということでしょうか? ゆえに時制の一致も それに注意が向けられるようになる。

 いやあ どうでしょうか。

お礼日時:2011/04/02 12:23

俳諧の様に情緒的な短詩型文学の構成にも、


雄弁な論理思考が必要になっているのでしょうか?

そもそも「連歌」には"Directry"構造的な性格が乏しい、と思われますので、
《時制の一致》が誕生しなかったのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 ▼ ディレクトリ 【directory】 ~~~~~~
 http://e-words.jp/w/E38387E382A3E383ACE382AFE383 …

 ハードディスクフロッピーディスクCD-ROM記憶装置ファイルUNIXMS-DOSWindowsMac OSフォルダ
ハードディスクやフロッピーディスク、CD-ROMなどの記憶装置で、ファイルを分類・整理するための保管場所。
 UNIXやMS-DOSで使われる用語で、WindowsやMac OSでは同様の概念を「フォルダ」と呼ぶ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ そもそも「連歌」には"Directory"構造的な性格が乏しい、と思われますので
 ☆ なおまだこの意味がよく飲み込めません。ほかにこの性格がある文学の形態は なんですか?

 ★ 俳諧の様に情緒的な短詩型文学の構成にも、 / 雄弁な論理思考が必要になっているのでしょうか?
 ☆ 表現の主体が 一人の人間であれば――つまり俳諧ならそうですから―― まだ分かりやすいようです。
 でもけっきょく およそ言葉による表現であれば それを表現する人間が思惟しそこで推論をみちびいているのですから その思考過程に論理が含まれるのは ふつうのことだと考えられます。
 《雄弁》かどうか 《情緒的》かどうかは そのあとの文学的なわざであり 表現主体の意図の問題ではないでしょうか。

 ここまでのお話において《時制の一致》という主題を持ち出して来ることは いかにも唐突だと捉えますが いかがでしょう?
 

お礼日時:2011/04/02 06:14

http://okwave.jp/qa/q6633236.html
上記のページに投稿して頂いている御意見とも関係性が有りそうだ、
と思われましたが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ次のわたしの文章を見てください。
 【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html
 ☆☆(そのNo.2お礼欄)~~~~~
  ○(α) わたしは あなたの思想を中身がそのままではリスペクトしないが あなたがその思想を公共の場においても表現するその意志の自由については 誰よりもリスペクトします。
  ☆ とやったら どういう用法になるでしょう? これは単なるタテマエとしてのアマテラス語ではなく スサノヲ人間語としても言っていると見てよいと思います。一般的に言って。ただ上っ面だけの言葉ではないと思います。

 まづ考えられることは このリスペクトの事例は 《和》の主題と案外重なっていると言ってよいのではないでしょうか? 相手の存在とその自己表現(その自由)を互いに保証し守ることは リスペクトの内容でもあり 和のとうとび目指すところでもありますよね?
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この(α)の事例は おそらくそのまま西欧の歴史的な思想の系譜に合っていると考えますが しかも 互いに互いをとうとび共生するという和の思想についても あまり表現されることもないようですがそれにもかかわらず その基礎を成しているとわたしは考えます。
 そうしますと――それに対する批判は起こしていただけばよいと思いますが そうしますと―― たとえば
 ★★ 要素還元論
 ☆ だけだとは必ずしも言えない。なぜなら そのふたりの互いに対立する対話の過程において 要素としても捉えられるところの個人とそしてその全体としての情況とその両方を見ているからです。
 ○ 「木を見て森を見ない」ではなく あるいは「森を見て木を見ない」でもなく 《木を見て森を見ている》。
 ☆ と考えられるからです。
 
 もしこうだとしますと 
 ★★(【Q:「森を見て、木を見ない。」】趣旨説明欄) 『自然への没入に耽る東洋思想的な立場から全体を眺望する事は、 / 果たして既に可能になっているのでしょうか?』
 ☆ これは 《森を見て木をも見る》そのあと 《自然との関係》において それへの《没入》もあればあるいはそうではなくそれとの対立ということもある。こう考えられます。


 ★★(同上の質問・No.5補足欄) 『和(自己主張を慎み合う調和)を以って尊しと為す』、という発想
 ☆ 同じく初めからの推論にもとづくならば このお考えもやや違うのではないかとわたしは思います。

 1. 《自己主張》ないし自己表現を互いに尊重し合います。
 2. ただし 権威者ないし権力者つまりは一般にお二階さんもしくはそれ相当の人物がいる前では 《空気を読む》ことが往々にしておこなわれ 自己の考えを持つこともあるいは発表することも決して控えなければならないわけではないけれど その空気の支配者こそが《相手の思想の表現の自由をみとめない〔傾向にある〕》ゆえ 控えることがある。
 3. 《つつしむ》というのはむしろ おのれの考えがまだまだ洗練されていないことを畏れて 相手やみんなの考えに耳を傾けますと言っているその態度のことだと考えます。
 4. 以上のように 木でもありつつ木を見て森をも見る。そこに調和を捉えようとする思想(生活態度)だと考えます。

 ★★(同じくそのNo.3補足欄) 唯物論的な「相対無」』 / 『東洋思想的な「絶対無(NULL?)」
 ☆ 唯物論は 目に見える(科学の目に見える)質料(モノ)を究極の何ものか(《物自体》)とするのではなく つまりは《相対的な存在としての有》を人間には捉え得ない何ものかとするのではなく 《絶対としての物質》をそれとする思想です。《物質》とは 物の怪であり けっきょく言うとすれば《絶対無》のことです。これを《第一原因》と見る一種の信仰です。
 つまりは唯心論は この第一原因に《精神(世界精神)》を置く見方であり 信仰です。むろん精神と言っていますが 《絶対無》と同じであり 《絶対有》と言っても同じ何ものかです。
 つまりは 大雑把に言って 唯心論は 有神論であり 唯物論は 無神論であり どちらも非思考において第一原因を想定する信仰のかたちです。
 絶対無は 《欠如》とも言われます。

 ★ 連歌
 ☆ は分かりません。なぜこの場へ 連歌を主題として持ち出して来るのかが分かりません。
 一句ごとに別の人間がその表現主体となっているわけでしょう? 表現者としては 一人の人を取り上げるのでなければ その表現について批評することもむつかしい。
 ただし 作品としては 合作のごとき全体としての連歌が取り上げられるのでしょうか?

お礼日時:2011/04/02 06:01

「和を持って尊しとなす」考え方は、論理思考に相反していますでしょうか?

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この回答へのお礼

 さくらいみさとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。おおきくひろい主題として問い求めておられると思いますね。その問い求めの一端を ちょっと別の角度からわたしなりに述べてお応えとします。

 (1) 《和》とは何か?
 
 韓国の人たちが 安寧(アンニョン)ですかと表現して こんにちはを表わします。ユダヤやアラブのセム系では 平安(シャローム・サラ-ム)を!と言って あいさつします。
 そのように おそらく世界の人びとはどこでも誰でも やわらぎを持ったやすらかな生活の共同をもとめているし そのように生きようとしていると考えます。
 定義したことにはなりませんが そういったナラワシがあるということは 定義すべき中身が 現実にあるということかと考えます。

 (2) サラ-ムを!とあいさつするイスラームの信仰とは何か?

 ▲(2-1)(アブラハムの信仰) ~~~~~
 〔ムハンマドは 『聖書』の話を受け継ぐ限り〕ユダヤ教徒の主張に反論するだけでは彼らを説得できず かえって彼らからムハンマドの主張は ユダヤ教の模倣だと反駁された。
 そこでムハンマドは モーセよりもはるかに古く アラブにとっても民族の始祖とされるアブラハムの意義に注目し 彼こそ一神教の信仰心あつい預言者で 《純正な人》であり 《神に帰依する人(ムスリム)》であり 彼の信仰は神にたいする絶対的な《服従・帰依(イスラーム)》であって ムハンマドの説く宗教とはアブラハムの宗教 すなわちイスラムであると宣言した。
      (『コーラン』2・124藤本勝次ら注 )

 ▼(2-2)(クルアーン(コーラン) 4・125)~~~~~
 宗教ということになれば 善行にはげみ 自分の行動を神にゆだね 純正の信者アブラハムの教えに従う者にだれがまさるであろうか。神はアブラハムを友となしたもうた。
      (藤本勝次ら訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (3) 前項(2-2)の説明

 《宗教》は 子音三つの構成として《D-W-N》から成る語であり これは 動詞として《告白する》の意があります。
 《純正の信者》のうち 《純正な人(HaNiiF < H-N-F)》は その三子音の語として《認める・認めさせる》の意です。
 《信(信仰)》は どういうわけか《倦む・疲れる》の意もある《ことば・語る(M-L-L)》という動詞と同根です。
 そういう形に仮りに基づいて この(2-2)のくだりを 次のように 解釈したことがあります。

 ○〔(2-2)の解釈例〕~~~~~
 〔自己存在の〕告白(D-W-Nからなる語≒《宗教》)〔の表現〕にかんして美しい(=正しい。(H-S-Nから成る語)〔と思われる〕者は誰か。

 自己の顔(=行動・意志)を アッラーフ(唯一の神)に 〔そうすることが健全・安寧(S-L-M)であるとして〕ゆだね それが美しくあり 〔そして〕この信仰(M-L-L)からはづれる者がいれば それを 〔話し合いを通じて〕認めさせる(H-N-F)者としてのイブラーヒーム(アブラハム)に自ら従う者のほかに〔誰がいるか〕。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (4) 前項(2-1)の説明

 《 S-L-M 》という三つの子音から成るかたちの語は ヘブル語でもシャロームと挨拶するかたちに現われており この挨拶はアラブ語で《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》と言うのと同じです。どちらかが訛っているだけです。
 イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《〔やすらぎへ〕身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れてわたしは〕 すこやかならしめられた( muSLiM < S-L-M )》というわけのようです。ムスリムの初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞です。

 (5) イスラームとしての非思考(信仰)や それにもとづきムスリムらが互いにサラ-ムをと挨拶するのは 論理思考を逸れていない。

 と考えます。もし数論としての論理でないとしても 人間論理である。こう考えます。

 (6) ★ 「和を持って尊しとなす」考え方は、論理思考に相反していますでしょうか?
 ☆ どうでしょうか?
 ただし この命題を ただ単にあたま(=アマテラス概念ないしアマテラス人格語)によって人びとの上からたまわっても ありがたくもおもしろくもないのでは? 
 アマテラス人格語(ないし科学語)は 精確でしょうが 骨だけであって血も肉もない。それらがあるのは あやまち得る生きたスサノヲ人間語でしょう。

お礼日時:2011/04/01 12:24

「秩序」の構成には、『「例外」の排除』が伴ないやすいので、


それと「調和」とは異なっていませんでしょうか?
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この回答へのお礼

 まづ《秩序ないし秩序作用》は その前回述べたのは 《身体=精神》としての記憶行為のそれです。主観内面におけるものを言ったまででした。

 ですから その内面の秩序に合った意志による自由な選択が 外面における行為としてなされる場合もあれば――つまりそれを ふつうのコトと見ますが―― 秩序に逆らって《自由に》選択する意志行為も出て来ます。

 このようにおのれの記憶野における秩序に逆らって――ということは わが心に逆らってということと同じ意味ですが――取る意志の選択は まづおそらくは確かに自分の嫌いな人間を世間から追い出そうとするでしょう。組織の隅っこに・あるいは社会の周縁に追いやります。仕事や職から干そうとします。
 つまりは 広くいぢめの現象であり ときに《第三項》とも言われたりする《例外》をつくることであり その例外者のさらなる排除に行き着きます。

 むろん
 ★ それと「調和」とは異なっていま
 ☆ す。つまりは 心の内面における秩序(心がやわらがしめられていること)としての調和があり そこからのなお内面における思惟やそしてそこから外面に出る自己表現の行為としては 調和にもとづいておこなう意志行為もあれば そうではなく それらの秩序や調和にさからって意志する・秩序を乱す行為もがあります。

 あとは 話し合いです。対話の過程です。とことん 民主主義の井戸端会議です。どこまで行っても 話し合いです。なおも話し合いです。まだまだ話し合いです。ですが 話し合いです。いい加減 話し合いです。それでも 話し合いです。インタスサノヲイストのそういう意味での――人と人との中立的な関係もしくは間合いとしての――愛です。
 どこまで行っても 愛です。話し合いが出来なくても 間合いを取るというその愛です。すっぽんのごとく――ただし間合いを取りつつ―― 話し合いから離れません。

お礼日時:2011/03/31 09:53

「時制の一致」の考え方が応用されて、


FileのDirectoryが出来上がっています。
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この回答へのお礼

 ★ File の Directory
 ☆ って?

お礼日時:2011/03/31 09:31

『「我思う故に我有り」と我妄想せる故に我有り』と我考ふ故に…!?

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この回答へのお礼

 《われ あやまつならば(欺かれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》を参照してください。
 次のわたしの投稿をごらんください。

  *

 《主体》についてでしたら それはまづ基本として 近代も中世もそして古代も 区別がないというところから出発する必要があると考えます。
 デカルトの主体は アウグスティヌスの主体よりも その中身において 後退しています。その点を 参考までに お伝えしたいと考えました。

 認識の主体について 以下のような議論が出来るかと思います。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ・・・(ニ千字にて省略です)・・・

 ⇒【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】回答No.6&8&9です。
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html

お礼日時:2011/03/30 07:45

「縁起」を重んずる発想にも、「秩序」志向性が必要なのでしょうか?

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この回答へのお礼

 縁起あるいは縁起共生さらにあるいは空観 これはわざわざ《発想》として想起するかたちの思惟であったり理論であったりするのではないと考えます。
 《ものの見えたる境地》 おのぞみなら さとり の問題だと思います。

 その境地にはすでに――人間の自然本性として――《秩序》もしくはそのすでに作用じたいとして秩序過程が そなわっている。こう捉えます。
 秩序作用とは すでに神経組織などなどとしての自己組織化と言うのでしょうか 要するにわが記憶という行為能力にそなわっているそれです。

 記憶能力による秩序作用は 知解したものごとの知識や情報の整理整頓といったことにとどまるでしょうが したがって人はそこからさらに《秩序についての志向性》を意志による能力行為として 実際には持つ必要があるということかも知れません。知れませんが もしそう言うとすれば そのときには・そのときにも 記憶行為にすでに意志行為の基礎が据えられていると言ってのように すでに秩序を志向したかたちでわが意志の自由な選択がはたらくと考えます。

 むろん 自由意志ですから その記憶行為の作用にさからう場合もあります。
 秩序立った真善美ではなく その整合性などをいちど壊してしまって もっと刺激的なものごとをわれは意志するのだという場合が出て来るでしょうね。

 縁起共生は このアンチテーゼをもあたかもわが身に引き受けて 社会的な錯綜構造の中で おのれの自己表現をつうじて《自由》を模索します。むろんそれは 試行錯誤の道をたどります。
 インタスサノヲイスト 団結せよとなります。それは 見えざる絆であるはずです。境地ですから。

お礼日時:2011/03/30 07:32

階層構造の違いに特徴が有るのでは…

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この回答へのお礼

 それは 要素還元型による分析の 場合でしょうね。

 わたしは 人間の―― 一人ひとりの・つまりはおのおのの《わたし》の――自由意志のはたらく思惟や行為について考えるかたちです。
 その単位体としての主体行為が互いに・そして寄り集まって社会的に錯綜構造をかたちづくるその力学についても 考えます。
 ★ 階層構造
 ☆ というのは この社会構造のことを言うのではないのでしょう? 自然科学による――要素還元主義的な――観点や位相が階層を成しているその構造のことでしょう? わたしは 褒めたことではありませんが それには関心が薄く 実際その知識がとぼしい者です。あしからず。

お礼日時:2011/03/30 07:15
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