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 この命題を次の二点で 問います。
 
 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。

 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?


 (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。

 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる
 一つ松
 吾(あ)夫(せ)を

 一つ松 人にあり≫せ≪ば
 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を
 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を

 一つ松 吾夫を

 ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~
 (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)

 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ
 一本の松
 我が背子よ
 もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように
 服を着せように ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。
 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?

 (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?
 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。
 これが かれこれ千五百年 経つ。
 
 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。
 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。

 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。
 うんぬん。
 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

A 回答 (104件中11~20件)

1人の作者(創造主)が物語に秩序を与えていく展開「は」、


分析を助けてくれ得るのでしょうが、そもそも、「連歌」の様に、
複数の作者達が添削の様に介入し得ますのは、
日本語独特の文法の融通がそれを許しているからですので、
日本語の文法を考えて頂く際には、
矢張り、「連歌」の仕組みへの言及もが必要になる、と思われます。

因みに、人間社会で集団が纏まる場合にも、
フォルダの様な外枠やらリーダーやらが必要になるとは限らず、
『「同じ外的な目標」の共有』を志向した団結が有り得る、
という事情を鑑みますと、
作者達が「ハ格」への志向性を各文節に託していた御蔭で、
たとえ述語動詞の前の文節の順序がバラバラになっていましても、
という見方もが可能になるのでしょう。

従いまして、今迄の展開を振り返りますと、此の問答の過程では、
『尊敬の「二人称問題」』への言及が必要になっていない様ですね。
(是は奈良・平安時代の国文学に関わっていきます。)

但し、実際の作品への冒涜のつもりは御座いませんが、
次の様な事例に思い至りました。

つまり、『国境の長いトンネルを抜けると、雪国「が」広がっていた』
という語り方が採用されていましたら、其の場合に「は」、
其の後の文章が纏まる「外的な目標」が定まらなかったのでしょうか?

この回答への補足

 お礼欄での 雪国関連でおぎないます。

 ▼(あ) 国境の長いトンネルを抜けると、〔* そこ‐ハ〕 雪国「が」広がっていた。
 ☆ というふうに 《 A‐ハ B‐ガ C‐ナリ / C‐スル。》の構文として捉えたのですが いまもし 雪国をガ格ではなく ハ格で承けていたら どうなるか?
 ▼〔(あ)の変種〕 国境の長いトンネルを抜けると、雪国‐ハ 広がっていた。
 ☆ まづこれは ガ格で承ける関係主題が ハ格で承ける中心主題と同じであることを意味します。
 ▼(同上) 雪国‐ハ 〔それ(=雪国)‐ガ〕 広がっていた。
 ☆ 関係第二主題として 第一中心主題そのものを引き出したかたちです。

 では《(あ)の変種》は どういう意味になるのか?
 ハ格は あくまで中心主題であり 話し手(作者ないし登場人物)がまづ最初にこれを話題にしますよと言って提示するものです。つまり話し手の頭の中には そのハ格の主題がいちばんの話題になっておりますと言っています。
 つまり だとしたら いま列車に乗ってその土地へ近づいているのでしょうか そのときにすでにその目的の地は 雪国だという観念が起きていた。こういうことであり そのすでに持たれている観念をいま話題にしたいし しようとして言い出している。それが《(あ)の変種》の文例になります。
 読み手に対してその前にその観念のことを伝えているかいないか それは知りませんが たとえ伝えていなかったとしても 自分(主人公)の思いの中にはすでに期待や何やかやをともなって話題になっていると言いたい。このことを意味するし そういう表わし方も 自由であるようです。つまりそれは ハ格が そういう内面における思いがすでに先行していたということを あとづけによっても 示します。

 ハ格:第一中心主題を示す
  ⇒その主題がすでに相手とのあいだでも話題になっていたことを示すか
  またはなっていなかったとしても話題に成っていたと見なして述べるか
  たちになる。

 ガ格:関係第二主題を示す
  ⇒第一中心主題にかかわる何かがそこから引き出されて来るというので
  あるから その引き出されて来るときには 少なくとも聞き手には そ
  れが引き出されることが分からない。知らなかった。
   聞き手には このガ格がみちびく第二主題を聞くと或る種のおどろき
  がある。文例(あ)では 《雪国》という主題が それまでに話題にな
  っていなかったところへ出されて そういう新鮮さが醸し出される。
  (すでに一度でも話題になっていたとしても そういう表わし方をねら
  っている)。

 ☆ 一般に ハ格の主題は 既知のもので ガ格のそれは 未知のものだという説明がなされます。それは 第一とそこから派生する第二 言いかえると中心となるものとそれに関係するものといったつながりがあるからだと考えます。実際のところ 既知か未知かがそうでなくても 表現上 既知扱いと未知扱いとそれぞれなる。こういう仕組みになっているはずです 日本語のこの構文は。 

補足日時:2011/04/28 10:36
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 主題――あるいは いまは副次的な主題――が混雑しているように思えます。
 ★ ~~~~
 作者達が「ハ格」への志向性を各文節に託していた御蔭で、
 たとえ述語動詞の前の文節の順序がバラバラになっていましても、
 という見方もが可能になるのでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ これも 微妙です。
 ★ 作者達が「ハ格」への志向性を各文節に託していた
 ☆ ここがおかしいです。精確ではありません。
 ハ格の中心主題性――つまりその中心主題であることが 論述〔の述語〕と対応するという仕組み――は 文そのものにそなわっているものです。ほかのガ格などの主題やそして論述が仮りにハ格への志向性を持つと見てそう表現した場合 その場合にも それは文そのものの構え(つまり構文)じたいがそのように成り立っているということです。
 話し手が 構文をつくるわけではありません。構文はすでに成っています。構文を借りておのれの思想を表わします。それだけです。

 ですから
 ★ 1人の作者(創造主)が物語に秩序を与えていく展開
 ☆ この《創造主》という表現も 大袈裟であり勇み足だと考えます。創作という表現は使いますが。
 ★ 秩序を与えていく
 ☆ の《秩序》も 《物語》じたいのであれば そうですが 文にとっての秩序ではないはずです。文の秩序は 構文としてやはりすでに成っています。この構文から外れないこと(外れても意味が通るようにすること)としての秩序形成はそれとしてあるかも知れませんが。

 ですから 副次的な主題がいくつかあると言ったのは こうです。
 1. ひとりの話し手による表現としての まづは 一文。これについて その構成がどうなっているかを問い求めて行くという副主題。
 2. ふたり以上の表現者がいる場合でも 一文という前提でその構成――つまり構文――を問うという(1)と同じ副主題。

 3. 連歌の仕組みについて考えるという副主題。――これは 構文ないし言語の文法の問題ではなくなります。文学の問題に移行します。

 4. したがって
 ★ 「連歌」の様に、 / 複数の作者達が添削の様に介入し得ますのは
 ☆ というところは その介入の範囲が あくまで一文づつに限ってその構文について問うのであれば 言語にとっての文法の問題ですが 連歌という文学形式を問うのであれば それは 構文とは別物になります。
 ハ格の中心主題性(その効力)に似たかたちが その文学形式として参加者=作者たちにとって成り立っているかに見えるかも知れませんが それは 文芸としての取り決めによるものです。別ものだと考えます。

 5. あるいは次の事例は もはや言語にとっての文法とは別だとしなければならないでしょう。
 ★ ~~~~
 因みに、人間社会で集団が纏まる場合にも、
 フォルダの様な外枠やらリーダーやらが必要になるとは限らず、
 『「同じ外的な目標」の共有』を志向した団結が有り得る、 / という事情
 ~~~~~~
 ☆ これも同じくハ格の中心主題性の効力に似たかたちが取り出されるのかも知れませんが 事情は違うと考えます。ハ格は 構文として文に現われたなら それとして効力を発揮します。《リーダーの存在の有無やその集団の目標の共有のあり方》にかんしては それぞれいろんな場合が有り得るでしょう。決まっていません。ですから これは 別の副主題です。それとしてきちんと論じる必要があります。

 6. ★ 『尊敬の「二人称問題」』――☆ という副主題。これは 構文とは別です。

 7. ★ ~~~
 『国境の長いトンネルを抜けると、雪国「が」広がっていた』
 という語り方が採用されていましたら、其の場合に「は」、
 其の後の文章が纏まる「外的な目標」が定まらなかったのでしょうか?
 ~~~~~~
 ☆ まづ 《其の場合に「は」》のハ格は 副次主題を取り立てる役目を担います。中心主題のほかにという意味です。
 ガ格は それでは どこまでの《効力》があるのか? 基本的に言って ガ格は 中心主題から引き出された第二主題です。ハ格主題の関係主題です。
 ハ格がそれとして述べられておらずにガ格だけが現われる場合 これは あくまでハ格が省略されているというのが 構文の成り立ちです。言いかえると 話し手の心の中にすでに持たれていると考えられます。
 ▼ 国境の長いトンネルを抜けると、〔* そこ―ハ〕 雪国「が」広がっていた。
 ☆ というように その土地・その場所のことを話し手(書き手ないし登場人物)は 第一主題として持っていたということでしょう。《そこ》なる中心主題から 《雪国》という関係主題を引き出して来た。もしくは それは目の前に見る事実ですから 引き出されて来たと言うべきでしょうか。
 ガ格の効力は ハ格のそれに従属します。

 8. A‐ハ B‐ガ C‐ナリ / C‐スル。の構文は 文字資料に残る文例の初めからしっかりと出来上がっていたわけではありません。歴史を重ね表現形式が練られた過程で 出来上がったものと思われます。言いかえると 初めから潜在性として成り立っていたと見ても それほど言い過ぎではないと考えます。


 ☆ 連歌は 直接に文法とはつながらないという(3)項を問います。どういうふうにつながっていると見るのでしょうか? 《文芸としての取り決めによる別ものです》という(4)項が わたしの側の理由です。

お礼日時:2011/04/28 06:17

バラバラの句が動的に纏まる仕組みの御蔭で、


『特定の個人による「本歌取り」に留まらず、
本歌取り元の作品の歌人による直接的な介入もが、
「連歌」によって許されています』ので、
其の時には、『関係詞の「叙述用法」』と違い、
『「時制の一致」への更に連鎖的な一致の反芻』を警戒せずに済んでいる筈です。

『「時制」を知り<せ>ば、連ねざら<まし>を…』
と古来の方々は考えていなかったでしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 わたしが神秘的という言葉を使うのは ひとつにですが 文章を読んで分からない けれどもわたしの見落としやら理解不足があるように感じるということを言おうとする場合です。

 今回理解がとどかないと思うところは:
 ★ ~~~
 『特定の個人による「本歌取り」に留まらず、
 本歌取り元の作品の歌人による直接的な介入もが、
 「連歌」によって許されています』
 ~~~~~
 ☆ この内容がうまく把握できません。
 ★ バラバラの句が動的に纏まる仕組み
 ☆ というのは あくまでひとりの話し手(作者)による文についてわたしは言っています。
 ★ 「本歌取り」に留まらず・・・直接的な介入・・・連歌
 ☆ という場合には 一人の作者ではなくなっているのではないですか? 
 本歌取りのその歌だけに絞れば 一人の作者です。それ以外の場合には 構文としての主題からははづれます。論理思考うんぬんは 一つひとつの文から始まります。ひとまとまりの思想についてももちろん言っているのですが いまは言語の使用規則としてのような文法――今は構文――についてのそれです。
 連歌という表現のかたちは 問題が別と考えるのですが どこか見落としていますか?



 ★ 『「時制」を知り<せ>ば、連ねざら<まし>を…』 / と古来の方々は考えていなかったでしょう。
 ☆ つまり 文法にこだわらずに(文法ということをまだ知らずに) 表出および自己表現をおこなって行ったということだとわたしも思います。

 今回はよく分かりません。

お礼日時:2011/04/27 04:06

因みに、次の様な説明もが可能だ、と思われますので、


夜分に畏れ入りますが、追記を致します。

そもそも、『関係詞の「叙述用法」』は直前の単語を参照していますので、恰も「連歌」に似ている様にも見えるのですが、その「叙述用法」にも、「時制の一致」の仕組みが適用されますので、『「大過去」よりも前の更に「昔」』という様な配慮を盛り込み続けられないせいで、関係詞節の中の単語を先行詞に選んで別の関係詞節を連ねられないでしょう。

それに対しまして、最後で自然に纏まってくれ得る展開に期待する「成り行き任せ」の発想の下では、優先順位制御による拘束力が比較的に弱い御蔭で、「本歌取り」の際にも、
『「引用先の文章の時制との一致」への配慮』が求められませんね。

つまり、松尾芭蕉翁が残された御意見の通りに、
『「造化」に従ひ「造化」に帰』りましたら、自ずから展開が進んでいく、
という見方が、日本では古来から受け継がれてきたのでしょう。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 すでに参考資料としてかかげたものの中から 次を引きます。日本語が文として生成するその初めのあり様を想像したものです。
 ★ 最後で自然に纏まってくれ得る展開に期待する「成り行き任せ」の発想
 ☆ とは微妙に違うということを示したい。前回のお応えに述べたとおり 話し手の意志による文の統括という側面にも思いを致すべきだと考えます。成り行き任せというのは おのれの主観の中から その思いに任せて主題を次から次へと表わし出して来るその側面に当てはまるでしょうね。

 ☆☆(【Q:日本語とはどういう言語か。】趣旨説明) ~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html

 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

 と声を発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。

  HA.....SI。

 というふうにさらに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態をみづから 取り立てようとしたことになる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

  ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   ’u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

 とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。

 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。
 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《うるはし》という初めに提示されていた主題は けっきょく文と成った姿においては 論述――論述も 主題であることに変わりない――を担うことになった。
 いづれにしても 心の思いを無造作に一つひとつ主題として提示していくおしゃべり方式から成ったものであろう。
 しかもこのとき ことばによる表現が 自己表現として文である限りでは 何らかの思想(意志表示)が伴なわれており それによって文を締めくくるというのが 原則である。
 上の文例は うるはしの《し》が 存続法(終止形)において断定法をになっている。動態用言(動詞)とともに論述をになう・この場合は 状態用言(形容詞)であり その存続法に活用している。活用させているのは もちろん話し手である。

 最初から終わりまで《成り行き任せ》なのではないということ。これを問うています。

 ちなみに 語彙の選択あるいは いわゆる修辞法(レトリック)によって文表現を飾ることなどなども 話し手の意志による表現の方法論であり技術であると言えるかも知れません。
 ★ 『「造化」に従ひ「造化」に帰』りましたら、自ずから展開が進んでいく
 ☆ という命題には 人間の主観における自然という側面とその基礎の上に人為的文化的に意志行為をおこなうという側面と ふたつの要因があると見ておかねばならないと考えます。

補足日時:2011/04/26 13:50
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この回答へのお礼

 次の文を分析してみます。
 ★ ~~~~~
 【 d 】 そもそも、
 【 E 】 『関係詞の「叙述用法」』‐ハ
 【 F 】 【 f-1 】 直前の単語を参照しています‐ノデ、【 f-2 】 恰も「連歌」に似ている様にも見えるのです‐ガ、
 【 G 】 【 g-1 】 その「叙述用法」にも、「時制の一致」の仕組みが適用されます‐ノデ、 【 g-2 】 『「大過去」よりも前の更に「昔」』という様な配慮を盛り込み続けられない‐セイデ、【 g-3 】 関係詞節の中の単語を先行詞に選んで別の関係詞節を連ねられないでしょう。
 ~~~~~~~~
 ☆ いろんなふうに分析できる。というのが 非線形の構文の特徴だと考えます。
 (1) A-ハ B-ガ C-ナリ/ C―スル。の構文として見るなら:

   【 E 】‐ハ 【 F 】‐ガ 【 G 】‐ナリ。

 というかたちである。【 F 】‐ガのガは 逆説の接続詞だと言われるわけですが そういう見方に限られるとは限らないわけです。

 (2) 【 E 】‐ハのハ格活用は みづからがみちびき提示する主題である【 E 】をこの文の中心となる第一の主題として取り立てる役目を担っている。(話し手がそう担わせた)。
 したがって 一応の効力としては 文の最後までその【 E 】の中心主題性が有効である。その意味は この文で論述が来るとその論述としての答えに対応する問いが 主題としてこの【 E 】でありつづけることを示している。
 すなわち【 E 】‐ハは 【 f-1 】の《参照しています》や【 f-2 】の《見えるのです》とに対応するだけではなく その【 F 】のふたつの論述を乗りこえてさらに【 G 】の論述である《別の関係詞節を連ねられない〔ものである〕でしょう》とも対応する力を持っている。
 これは 日本語の構文が 柔構造であることを物語る。我がままであるというほどに自由である。

 (3) ちなみにという見方になりますが そのように柔構造でありながら しかも論理的な仕組みを形作っていないとも限らない。 
 すなわち 【 f-1 】+【 f-2 】としての従属文である【 F 】は そして【 G 】節の中の【 g-1 】+【 g-2 】のひとまとまりの従属文は ともにそれぞれあたかも【 E 】を先行詞とする関係節であるかに捉えても不思議ではない。英文の which や that といった関係代名詞が省かれているだけである。

 (4) ノデ / セイデ は そして時には ガも 一般に接続詞とされる《文条件》(文と文とを条件づける条件詞)である。
 ソモソモは あたかも文の外から話し手によって評言を与えるというかたちである。これは 一般に間投詞と呼ばれる《超文条件》である。文の外から文の中身を条件づけるゆえ。


 ★ 松尾芭蕉翁が残された御意見:『「造化」に従ひ「造化」に帰れ』
 ☆ これは いろんな条件を必要としませんか?
 (5) 《造化》と言ってしまえば 《創造主》という装置で話が行なわれていると言わねばなりません。《絶対》観が問われるでしょう。

 (6) 初めの造化は 被造物のことを言うのでしょうか? あとの造化は むしろ創造主ないし非経験=非思考の場を指し示していると言うべきでしょうか?
 作られたもの・見えるもののありさまを見て知って それに従いつつ しかもその奥の何ものかについて 為し得れば畏れを持って 臨めと。

 (7) さらにただし そのように造化に従い造化に帰るというとき そのように行なうのは人間であり その人間は自然に従うのであるにもかかわらず むしろおのれの意志によって努めてそうするという要素が どうしても 抜けきらない。ここでも人為(文化)と自然(非文化)の問題が横たわっていると見られます。
 どうでしょう?

お礼日時:2011/04/26 14:38

有り難う御座います。

更に面白みが増して参りました。

前回の内容への御指摘を踏まえまして申し上げます。

其処で私が申し上げたのは「人間の振る舞い」の事では御座いません。

集合の動向が纏まる際に、前提条件の枠組みの確保が必要になっていない、
という典型的な事例を御覧になって頂きたい、と願いまして、
私はそれ等のURLを紹介させて頂きました。

つまり、たとえ頑丈な鞄の様な「部品群」が先に準備されていませんでしても、
「名詞+助詞」やら「連体形・連用形の活用」やらによって、
後方の直ぐ近くに有る単語(敢えて直後とは申しませんでした。)との繋がりが維持されていましたら、必ずしも意味が崩れはせず、風呂敷が柔らかく変形してくれる様に、文末で纏まっていくのです。

確かに鳥の群れの事例への御意見には食い違いが含まれていましたので、
両方を並べての紹介を迷いましたが、
不都合な事例を省く卑怯な遣り方を避けたい、と思いまして、
それ等の両者を並べてみました。
(但し、勿論乍ら、魚群の挙動の方に重要なポイントが御座いまして、
善悪の評価を抜きにして申しますと、「会衆」の様相に似ている、と言えましょう。)

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 ですが 次の表明はいったい それではいまの主題をどういう条件(情況?)のもとに捉えて考えようとしているのか? これが分からなくなります。
 ★ 其処で私が申し上げたのは「人間の振る舞い」の事では御座いません。

 けれども
 ★ 集合の動向が纏まる際に、前提条件の枠組みの確保が必要になっていない、 / という典型的な事例
 ☆ これが自然界のことがらだとしても そこに見られるという法則のようなものを 人間とその社会にも当てはめて捉えようとしているのではないのですか?
 ★ 勿論乍ら、魚群の挙動の方に重要なポイントが御座いまして、 / 善悪の評価を抜きにして申しますと、「会衆」の様相に似ている、と言えましょう。
 ☆ この《会衆》とは どういう意味でしょう? 人間の ではないのですか?
 それとも 人間のではあるが 個々の人間の振る舞いではなく 一定の集団をひとまとめにして飽くまでそのひとまとまりとしての動きを問題にしているのだ。――こういうことですか?

 それは おかしい。一人ひとりの人間の行動があって集団の動きも成り立つものです。魚と人間とでは わけが違う。本能によって行動する動物は その行動にほとんど選択の余地がないはずです。人間の場合は たとえ選択の余地を――社会力学の関係から 上司やお二階さんの意向(つまり空気)に従わざるを得ないかたちにおいて――無くされていたとしても それは あぁ選択肢もない状態にされている この自由の封鎖は何なんだと考えるほうの余地をつねに残しています。

 つまり
 ★( a ) ~~~~~~~
 つまり、たとえ頑丈な鞄の様な「部品群」が先に準備されていませんでしても、
 「名詞+助詞」やら「連体形・連用形の活用」やらによって、
 後方の直ぐ近くに有る単語(敢えて直後とは申しませんでした。)との繋がりが維持されていましたら、必ずしも意味が崩れはせず、風呂敷が柔らかく変形してくれる様に、文末で纏まっていくのです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 基本的に言って 自由意志を持つ人間の場合には 
 ★ 文末で纏まっていくのです。
 ☆ ではなくて 
 ○ 文末で〔もしくは 文における論述において〕話し手はその思想を纏めるのです。
 ☆ となります。連歌のように その百句なら百句の全体としてたとえ作品だと言っていても必ずしもそこにまとまった思想は無いし 無くてもよいという場合であってさえ 文であるならその論述においてつねに話し手は その意志のもとに 思想をまとめるものです。
 それ以外には たとえば自動筆記があったとしても 自動筆記をおこなっているという前提のもとに 論述のまとめを捉えるでしょう。その論述のまとめが 或る種の仕方で夢遊病のごとくであるからまとまっていなくても 自動筆記をおこなったのだという話し手の意志のもとに《まとまらなくてもよいという思想》をまとめたと見なすことになります。
 これが 人間とそのおこないです。
 ★ 其処で私が申し上げたのは「人間の振る舞い」の事では御座いません。
 ☆ というのは ほんとうにそうなのでしょうか? もしそうなら何故上の( a )のような説明がなされるのでしょう?

 ★ たとえ頑丈な鞄の様な「部品群」が先に準備されていませんでしても、
 ☆ 部品は 語としてどの言語においても同じ性格のものです。《頑丈な鞄》かどうかは 語については 関係ないと見ますが どうでしょう? 《語》としてなら どの言語でも 条件は同じです。語彙がすくない場合があるとしても それとして準備されています。

 ★ 「名詞+助詞」やら「連体形・連用形の活用」やらによって、 / 後方の直ぐ近くに有る単語(敢えて直後とは申しませんでした。)との繋がりが維持されていましたら、
 ☆ これも 《文における論述において話し手がまとめる》ということと同じです。主題をどのように提示するかということを表わす格活用としてのハ格ガ格などの助詞 あるいは 用言(動詞・形容詞など)を話し手のどのような気分(思想)のもとに表わすのかというそのかたちである法活用としての未然形(不定法)や連用形(概念法)や終止形(存続法)などなど これらの格活用および法活用といったその活用を あくまで話し手がえらんで用います。《用います》は 存続法(終止形)の用法のひとつとして断定法に活用させています。そういう気分( mood =法)を表わすかたちを取ります。
 そのように論述において一般に法活用が――最後の最後としての――思想のまとめ方を担うのは どの言語でもまったく同じです。
 

補足日時:2011/04/26 05:04
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この回答へのお礼

 そうして主題を提示する格活用のほうは 初めにはたとえばハ格が中心主題を提示しますという役目を持って言い出されたのが 今度は線形論理においてはほかの主題との意味連関を――この場合は おのづと と言ってもよいでしょうが――持つようになる。結果的にそうなる。

 あるいはまた 主題どうしのそのような連絡が出来上がるのは むろん論述における一般に用言の語との意味連関からです。論述の用言の意味に それぞれの主題の意味は収れんしていきます。
 
  〔論述の用言の〕意味‐ニ→ 収れんして行く。
  〔それぞれの主題の〕意味‐ハ→ 収れんして行く。

 まとめると:
  格活用: 文においてそれぞれの主題に添えられる主題提示格

       ・ハ格:その文の中心主題として提示しますよという気分。
       ・ガ格:中心主題にかかわる主題を取り出しましたという気分。
       ・ヲ格:提示したい主題と何かが 全面的に・立体的に対峙
        していることを表わしたい気分。
       ・ニ格:ヲ格の内 その主題を一点のもとに捉えた形に表わし
        たい気分。広く奥深いものであってもそれをまとまった一つ
        のものごととして捉えるかたち。
       * (例)大空ヲ行く雲。/ 大空ニ浮かぶ雲。

  法活用: 論述に用いられる用言をどういう気分(=法)で話し手が表わすか

       ・その用言(動詞)を話し手がその表わすべき気分の不定のままに
       示す活用形⇒不定法(未然形)(英語の不定詞)。
       ・その用言を概念として扱う気分のときには⇒概念法(連用形)。
       ・話し手がその主観を表明するということの限りで その主観の
       内容を 聞き手に要請する気分の場合⇒命令法(命令形)。
       ・・・

 すなわち
 ☆☆ ~~~~ 
  ☆ 基本的に言って 自由意志を持つ人間の場合には その思想の表明が
  ★ 文末で纏まっていくのです。
  ☆ ではなくて 
  ○ 文末で〔もしくは文の論述において〕話し手がその思想を纏めるのです。
  ☆ となります。
 ~~~~~~~

 ★ 〔必ずしも意味が崩れはせず、〕風呂敷が柔らかく変形してくれる様に、〔文末で纏まっていくのです〕。
 ☆ 《風呂敷》は ですから主題に添えられる格活用と論述の用言をいじくって形作る法活用とによってその役目は担われていると言ってよいはずです。つまり風呂敷を 話し手がしかるべき形に変形させ活用するということになります。その結果 意味連絡をも文末で(もしくは論述において)話し手がまとめるということです。
 文が文として成り立つということは 話し手がその構文(文を構えること)を人為的に意志によって成り立たせるということを意味します。これが 文化です。言葉としての《文》化であり そこからさまざまな文化――あたまを耕す(田返す)こととその成果――が生成し発展します。
 《さかなの群れ》とは わけが違います。


 * 《格 case 》とは 箱( case )というから《風呂敷》に譬えられるかも知れませんが もともとは 《そこに落ちた。落ち込むかたち》のことです。文の中で主題どうしのつながりを格子に譬えると その格子のつなぎ目の一つひとつに《落ち込んだ》そのかたちを言います。《中心主題として ほかの主題たちとつながって行きますよ》というその落ち込みが ハ格です。話し手が 落ち込ませたものなわけです。
 

お礼日時:2011/04/26 05:50

たとえ枠組みやら中枢やらが備わっていませんでしても、


下記のページの事例でも紹介されています通りに、
集合は動的に纏まり得ます。
http://www.geocities.jp/heartland_ayame_4533/com …
http://www.nature-sugoi.net/topics/t4/page3.html
http://blog.goo.ne.jp/show_ito/e/250b530404cd058 …
http://www.cs.tsukuba.ac.jp/H18Syuron/200430163. …
http://www.cs.tsukuba.ac.jp/H14Syuron/015381.pdf

従いまして、それ等の内容からも窺われます通りに、
必ずしも、枠組み作りやら中心構成やらを、
集合化の過程の途上で優先させなければいけない訳では御座いませんでして、CGによるシュミレーションが明らかにしてくれ得た様な特殊な科学的原理に則っているのだ、と言えましょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 素朴に疑問を掲げます。
 1. 人間は 鳥や魚と同じ行動をするのか? 人間の社会と 鳥や魚の群れとを同じ現象と見てよいのか?

 2. リーダーは 魚にはいないと言っているが 鳥にもいないという説( a )と鳥にはいるという説( b )がある。

 ( a ) ▲ (人工生命(1)=第一の資料) ~~~
 インスピレーションーー鳥の群は、驚くほど統制の取れた振る舞いをするが、しかし≫一羽一羽の行動はあくまで分散的で、近くの鳥の行動にしか反応していない≪。個々の鳥たちの行動に、近くの鳥の行動に反応する簡単な規則を与えてやれば、鳥の群全体が自然なふるまいを引き起こすのではないか。
 
 『群知能』・・・のメカニズムはまだ解明されていない。

 ( b )▼ (浅草文庫亭=第三の資料)~~~
 空を飛ぶ≫鳥の群れにはリーダーがいて≪、他の鳥たちは「リーダーについていこう」というプログラムで飛んでいるので群れが成り立っている。

 一方、場合によっては何万匹にも及ぶ魚群。そっちにはリーダーがいないんだって。
 ~~~~~~~~~~~~

 3. では 人間は人間どうしで何故殺し合いをするのか? 

 4. リーダーがいる・いないを別として どうも《自己組織化》のことを言っているようだ(第四・第五の資料)。
  4‐1. それには 生物物理化学の現象と 人間の社会現象との異同を明らかにして話を始めなければならないのではないか? ひとつには 自由意志の問題である。

  4‐2. もしたとえ自然の現象に見られる法則が 人間とその社会の現象に当てはまると見た場合 その場合でも では何故 人と人とのあいだに《まなざしをあたかも上からそそぐ側とあたかも下にあってそそがれる側とがある》のか? これを解明しなければ話は始まらないのではないか? 
 これは ボスザルがいるという行動様式の問題でもあると考えられるかも知れない。(いまこのように動物行動から人間を見るというので 例に出したまでであって そのように動物と人間とを一緒くたに見る見方にわたしは関心がないのですが)。
 (聞いた話では ミシェル・フーコの言う《権力現象》とは このまなざしをめぐる上下関係のことであるようですが どうですかね)。

  4‐3. もし自己組織化ということが 人間の身体にも当てはまるのであれば おそらくその《組織化》が言うなれば《和》の問題につながっているとは考えられるはずである。そしてその場合にも おそらく社会という構造現象にあっては この和ないし自己組織化という〔まづ取り上げるところの〕心性に 中には さからう向きも出て来るということ そういう問題ではないのか?
 これが――もしそうだとしたら―― 社会が一階と二階との二層構造になったという《アマアガリ傾向》の問題だと見られないか? 
 
  4‐4. だが この一階から二階へ上がりたがるという心性および現実の行動は 問題の深さを示しているように考えられる。一階のふつうの人間たちのあいだで 《和》を乱す心性および行動があったから それを一段上から治めようという考えが現われたのか それとも 一階〔だけの社会であったときにそ〕の自己組織化の和を どこかのへそ曲がりが わざと壊してやれと思って 壊しつつ上から束ねてやるからだいじょうぶだぜと言って アマアガリをついにモノにしたのか?

  4‐5. このアマアガリ・シンドロームは 江上波夫によれば 世界広しと言えども 農耕民からは現われなかった。遊牧騎馬民から出た。と言う。――という問題提起もある。ただしたとえそうだとしても 農耕民もすでに世界史の過程では そのシンドロームに罹ってアマアガリの真似をして来ている。国家を作り上げている。

  4‐6. 言いかえると 国家のなかった時代に 人びとは戦争をやらかしたのかどうか。所有という概念の発生 つまり 所有物の多寡ないしそれによる格差はおのづと発生したと考えられるが それによってあたかも自動的にちょっとのへそ曲がりによって 争い・戦いは起こるに到ったか?

  4‐7. でもそのけんかは 社会が一階のみであったときには それこそ自己組織化がはたらいて おさまることはおさまったのか? つまり 全体を一段高いところから束ねるという発想(アマアガリ心性)は 農耕民のあいだでは現われなかったのかどうか。


 ☆ 以上のような疑問と問いかけに答えることが
 ★ 必ずしも、枠組み作りやら中心構成やらを、 / 集合化の過程の途上で優先させなければいけない訳では御座いませんでして、
 ☆ の見解には 伴なわれていてしかるべきである。こう考えますが いかがでしょう?
 

お礼日時:2011/04/25 05:39

「ハ格」を冒頭に据える表現「は」一部の事例であって、


たとえ直接目的語やら間接目的語やらが主語の前に据えられていましょうとも、それが倒置だとは見做されませんよね。

そもそも、日本語の語順の優先順位が固定化されていない理由は、
時制等の階層構造の為の枠組みを拵え得る単語(S+V)の不在です。

特に「連歌」の流れは何処の句の「境目」で区切られましょうとも、
其処からをスタートにする事が可能になっていまして、
リズムが崩れない範囲の裡で、スピンオフの連鎖の様に、枠からはみ出させ得るのです。

因みに、かつて、或る銀行の役員の方が、
欧米語の文章構成の方式を『「鞄」の中に荷物を詰め込む遣り方』に譬え、
そして、日本語の文章構成の方式を、
『荷物群に「風呂敷」の形状を合わせさせる遣り方」に譬えていらっしゃいました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 1. ことばによる表現は 一つひとつの文から成る。
 2. 文が おのれの思想ないし意思表示を担う最小の単位である。

 3. 文は 主題とそれについての論述とから成る。問いと答えである。
 4. この文が集まってさらに一定の思想が表わされた場合そのひとまとまりを 文章という。文章は さらにその中で段落ごとに部分的な思想を形作るが 大きくそれとしての主題とそして論述が述べられるものである。

 5. 文章としての主題と論述が明らかに表わされているのであれば 一つひとつの文における主題と論述は 必ずしもそれとして形に成っていなくても かまわない。と見られるに到ったであろう。

 6. 求愛という主題をめぐって 一文ごとにそれでも主題を提示する構文(α)があり そうではない文型(ω)も形成されるに到った。

  (α) 〔わたし‐ハ〕 きみ‐ガ 好きだ。
  (ω) I love you.

 7. 《求愛》という主題が 《鞄》であるでしょう。すなわち
 ★ 欧米語の文章構成の方式を『「鞄」の中に荷物を詰め込む遣り方』に譬え
 ☆ た。《荷物》とは 線形論理で表わされるような意味連絡がそのまま明らかな文成分でしょう。《詰め込み方》が S-V-O の文型です。

 8. (α)文例について
 ★ 日本語の文章構成の方式を、 / 『荷物群に「風呂敷」の形状を合わせさせる遣り方』に譬えていらっしゃいました。
 ☆ という評言をどう当てはめるか迷いますが 大胆にわたしの考えをそのまま述べますと:
 (あ) ハ格によって―― 一般に最初に――提示する主題(《わたし‐ハ》)で自己表現を始めます。あるいはつまり 自己表現をこれから始めますという挨拶をも兼ねています。
 (い) A-ハ B-ガ C-ナリ/ C-スル。の構文は そのハ格でみちびく中心主題に〔そのときの主観内容として〕関係する第二主題を ガ格でみちびきつつ 提示します:《きみ‐ガ》。
 (う) あとは 副次主題を省けば(あるいは もしそれらがなければ) 論述という主題が来ます:《好きだ》。
 (え) さらにそのあと 線形論理として伝える(つまり聞き手が把握する)意味連絡を捉えることが起こります。
   (α‐1) わたしが好きなの‐ハ 〔それ‐ガ〕 きみだ。
   (α‐2) 〔わたし‐ハ〕 わたし‐ガ きみ‐ヲ 好く(愛する)。
 (お) 言いかえると 英文例(ω)は (α‐2)の 主題提示の部分(=〔わたし‐ハ〕)を すでにその二人がそこにいるという文脈(情況)にゆだねてしまって表現としては行なわずに あとの残りの部分(=《わたし‐ガ きみ‐ヲ 好く(愛する)。》)だけで文表現をおこなうに到ったかたちである。
 (か) ちなみに 二つの基本主題(ハ格とガ格)から ほかの主題格をになう活用格が派生します。ヲ格・ニ格・ノ格 / カラ格・ヘ格・デ(ニテ)格・・・

 9. 連歌は その一つひとつの句は 一般に文ではありません。文として完結させていない場合が多いはず。それぞれの未完結の文表現を一つづつ部分的に要素どうしのつながりを持たせながらかたち作りづくって行く。そしてつなげられた一まとまりをひとつの完結した作品とする場合だと見なされる。
 それでもそこで一文づつに区切れば 一文ごとには何らかの思想が表わされたと見なすことになる。全体としては おそらくまとまった思想はむしろない。
 したがいまして
 ★ ~~~~
 特に「連歌」の流れは何処の句の「境目」で区切られましょうとも、
 其処からをスタートにする事が可能になっていまして、
 リズムが崩れない範囲の裡で、スピンオフの連鎖の様に、枠からはみ出させ得るのです。
 ~~~~~~
 ☆ この評言は 構文ないし文型のもんだいではないと考えられます。別の主題になります。文および文章の表現をつうじて交通するときの場の整備のほうに関わって来ると見ます。

 こんなところではないでしょうか。

お礼日時:2011/04/25 06:58

下記のページの内容に関する情報の調査の糧の途上に留まっておりますから、


続きの文面の入力が遅延していますが、御容赦を御願い申し上げます。
http://okwave.jp/qa/q6687486.html
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この回答へのお礼

 分かりました。そういう事情にあることは分かりました。

 でもすでに 見通しとしてこれこれの結論を用意してはいるのだがというふうにも示してもらって進みたいとは思います。

お礼日時:2011/04/24 07:16

近隣との前後関係の整合性だけが維持されていさえすれば、


語順等の優先順位の制御は、必ずしも必要になりませんね。

だからこそ、たとえ日本語の語順への制限が緩くても、
それで構わないのです。

此の見方が西田幾太郎氏の御意見と同じなのか違うのかにつきましても、現段階では触れずに留めさせて頂きます。
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この回答へのお礼

 ★ 近隣との前後関係の整合性だけが維持されていさえすれば、
 ☆ という事態は 人びとが言語表現のおこなうための場の整備なのではないですかと尋ねています。

 ★ 語順等の優先順位の制御は、必ずしも必要になりませんね。
 ☆ これは 言語表現じたいにおけるその言語ごとの取り決め(文法)のもんだいです。

 《連歌の席にみながそろい すでにその連歌の創作には取り決めがありこれを守る》という《場の整備》と 《そこから一人ひとりが創作をおこなうその表現》とは 別ではないですか? と尋ねています。
 どちらにも論理思考はおこなわれるでしょう。

 それとも 場の整備 これがいちばんの問題であり これこそがコミュニケーションの中核であり むしろこれがあれば 論理思考による思索内容の饒舌は要らない というご見解でしょうか?

 【Q:日本語とはどういう言語か。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html
 ☆☆ (その回答No.4お礼欄) ~~~~~
  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  Q:《日本語》とかけて何と解く?

  A:ととのいました。――しょうゆ。

  Q:そのこころは?

  A:お肉にかけても美味しい「万能調味料」。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  * つまり さいしょに《こんにちは》と言ってあいさつしたときに そのハ格による主題提示をとおして互いのあいだに世界が世界として 全世界・全宇宙としてマ(間合い)がひろがる。万能調味料。 all-purpose seasoning 。富士山の日本晴れ。

  ● 《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》
  ○ こんにち‐ハ  〔お天気‐ガ      よろしいようで〕。

 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この事情により
 ★ だからこそ、たとえ日本語の語順への制限が緩くても、/ それで構わないのです。
 ☆ と考えます。



 ★ 此の見方が西田幾太郎氏の御意見と同じなのか違うのかにつきましても、現段階では触れずに留めさせて頂きます。
 ☆ たたき台としてでも まづ結論をと願いたいです。

お礼日時:2011/04/24 07:13

冷静な読解をなさっていないので、受け入れ難いのでしょう。


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

因みに、インターネットに単一の中枢が存在させなかったのが
資本主義共同体の軍事目的に起因していた、
という事情は紛れも無く「常識」でして、従来からのアナログ的な「国際電話」と違い、
インターネットへの接続を許している各国政府の機構が邪魔をする場合にもが有り得ますが、
それでも各拠点は中継の「結節点」に過ぎません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3% …

そして、中枢が存在していない故に、それ等の結節点群(ノード)は、
「連歌」への参加の場合と同じく、隣接部位のノードとの関係性の維持だけに拘っていまして、其の円循環(?)的な連鎖の御蔭で、世界中のネットワークの統合が実現しています。
http://patent.astamuse.com/ja/published/JP/No/20 …

従いまして、たとえ英米語の間接話法の様な階層的枠組みを先に準備させておかなくとも、
隣接部位の論理的整合性が保たれていさえすれば、最終的に、
其の連鎖が全体の纏まりを拵えてくれ得るのです。
(無常の幽玄な趣きにつきましての説明にも触れますと、字数が増え過ぎますので、
今回には、割愛させて頂きますから、御容赦を御願いしたいです。)

尚、是が「ポリロゴス」の典型になり得るのか否かは安易に決められない、
と思われますので、論理思考の主観的な定義を避けるべく、
慎重に投稿を展開させて頂く為に、「セメイオチケ」等の話題を持ち出さずに、
論理思考の典型的な提供者(コンピュータ)達の振る舞いの様相を紹介させて頂いております。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 冷静な読解をなさっていないので、受け入れ難いのでしょう。
 ☆ 《受け容れる・受け容れない》は その中身が理解できてからの話です。
 《冷静な読解》をおっしゃいますが 分かっていないものは読解出来ていません。自慢ぢゃないが PC について丸っきり知りません。知ろうという気に成って来ませんでした。動けばよいというあたまです。

 ですから けっきょく結論をとにかく何が何でも これこれであると示していただくのがいちばんだと考えますが どうでしょう? 
 結論じたいは 一般的な表現で述べるというかたちだと思います。

 もしわたしがいま勝手に推し測って言うとすれば こうです。
 ○ 『「連歌」的な経路選び』という通信網を成り立たせる方式がある。これによれば

 ★ ~~~~
 たとえ英米語の間接話法の様な階層的枠組みを先に準備させておかなくとも、
 隣接部位の論理的整合性が保たれていさえすれば、最終的に、
 其の連鎖が全体の纏まりを拵えてくれ得るのです。
 ~~~~~~

 ☆ ですから わたしの推測は 縁の下の力持ちなのではないかです。
 言語交通のための場の整備ということではないか です。
 連歌をつくろうというときの決まりのことを いま取り立てているのだと。

 読解が進まないかも知れませんが 受け容れる・容れないの問題ではなく どういう主題でそれへの切り込み方はどうであるか そして結論は何か これらが分からなかったのです。そのつど尋ねつつ来ましたが 結論はこれだというふうには述べておられません。

 ★ 論理思考の典型的な提供者(コンピュータ)達の振る舞いの様相を紹介させて頂いております。
 ☆ 互いに自己表現を交わすその通信の場にかんしては これこれの論理思考が活躍しているのだということでしょうか? その場は 確実に整備されているのだと。


 

お礼日時:2011/04/24 06:51

常識を御存知でいらっしゃらないので、


致し方が無いですから、表現を言い換えます。

インターネットでは一元管理用の中枢が必要になっていないのです。

寧ろ、若しルータが全体の状態の確認を強いられているのでしたら、
ブロードキャストパケットのせいで、直ぐに通信がパンクします。

それを支えているプロトコル群の内の1つがRIPなのですから、
何故に引用されているのかを鑑みて、
自力でも理解をしようとなさって下さい。
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この回答へのお礼

 ★★ インターネットに特定の管理者がいなくした目的は、
 ☆ と言うもんだから いる場合もあるのかと思ってしまって。

 ★ インターネットでは一元管理用の中枢が必要になっていないのです。
 ☆ なら 先生の教え方がへた。

お礼日時:2011/04/23 05:55
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