アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1. 主題は にんげんの《人間化》です。

2. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。
(あやまつは人のつね)。
 
3. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが 
あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内
容を共有しうる普遍概念の抽出)。

4. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いて
さらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として
――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。

5. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス
普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。
(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。



 
6. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 
《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。

7. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテ
ラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノ
ヲ)語にもアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的に
も実現させようとするいとなみであるようです。

7-1. 昔むかし 《おほやけ・あるいは 公式・公正》と言っていたの
は アマテラス語普遍性のことでした。(そう言えば 《公民》という言葉
は なお馴染みやすくは感じられないようですね)。――言うは易し行うは
難しで そのオホヤケなる普遍性は 名ばかりのことが少なくなかったよう
です。

8. それは――それでもタテマヘとしては―― スサノヲ市民のアマテラ
ス公民化が目指されました。または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかる
べき有効な使いこなし これが 目指されるべき人間像でありそういった志
向性であるように考えられます。

9. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人
間である。それが 人間の自由の実現である》といったふうに。単純に言っ
て 私的人間であるにとどまらず おのが思考と行動において公的たれと。





10. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行く
同じ道筋としての歴史的な課題でありつつ―― この国家をこんどは人間化
すること ではないでしょうか?

11. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭き
・かつ みづみづしいスサノヲ人間語を回復せしめるか? ではないだろう
か。普遍アマテラス語で カッコつけてんぢゃねえよというわけです。

11-1. なぜなら昨今は すでに《カッコつけ》から脱したようにも見
られます。――あたかもアマテラス公民が人間的なスサノヲ語を回復したか
のように 例の《夜のサシ飲み》では イカレポンチのスサノヲ語のハレン
チ版を天才的に駆使するようになっているようです。

11-2. それは 人びとの受け留めにおいては けっきょく――のちに
出て来るアマテラス方言の問題では必ずしもなく―― スサノヲ人間語をあ
やまち得ざるアマテラス普遍語という大枠の中で話しているかのように感じ
られ
――狐につままれたように唖然として何も言えなかったという反応のあとに
は――
ただただ《セクハラ反対! 謝罪せよ! 千年はわすれぬぞよ!》と 同じ
アマテラス ‐ スサノヲなる二階建ての・そのあたかも二階なる天につづく梯
子の上のほうに向かってさけぶ・・・のみである。
人間の人間化は どうしたか? ならず者を梯子の下に降ろせばよいのか?



12. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治
のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥ
ーム( das Amaterasutum )の名誉や面子やお友だち意識を重んじるあま
り 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっている(なっ
ていた)と見られるから。
――あやまちをまぬかれる人間はいないのに。
アマテラス的な あまりにもアマテラス公民的な姿を――オモテの一面では
――呈するようになってしまったのではないか?

12-1. アマテラストゥームの《‐トゥーム( - tum )》は キングダ
ムやスターダムやフリーダムやウィズダムの《‐ダム( -dom )》のことで
す。



13. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )な
る大地の子である。大自然の子である。なぜここから安易に去って飛翔し 人
びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に独自の城を築こう
とするのか?

14. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国
家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。
すなわち 《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。

15. インタムライズム。公(A語)は 主体たる私(S語)の内に自然な
かたちにおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S 圏)が 主権をすで
に理論的に持つのだから これを現実にも実現させて行くこと。



16. それとも 究極のアマアガリとしての――なぜなら アマテラス普
遍語はしばしば 片寄ったり一部が隠匿されたりして 訛りのつよいアマテ
ラス方言に成らないとも限らないの 方言に落ち入らないように 究極のア
マアガリを目指したそのすがたとしての――
《アマテラス公民からさらに抽象普遍化をおこなった象徴たるアマテラシテ
( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた  
これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか 言うべきでしょうか?

16-1. アマテラシテの《‐イテ( ité )》:Universalität; universalité;
universality


17. 天皇 安倍晋三 シーチンピン ムンジェイン D.トランプ ・・・
が 究極の《スサノヲ人間語市民 - アマテラス普遍語公民》なる二層のしか
るべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか? ひょっとしてそれは あ
たまデッカチの逆立ちをしてはいませんか?

18. にんげんの人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考
えをお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • ▲(ヰキぺ:論理哲学論考) ~~~
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86 …
    § 4. 語りえぬもの

    決して、原理的に真偽について判断を為しうる種類の事柄ではない、
    ということは、それが、・・・言語を超えた、あるいは情緒的な、
    何か神秘的な了解のコミュニケーションがあるのだ、ということで
    もない。

    あくまでも「示されうること」は、平明で具体的な言語などの実践
    を通じて、その意味内容としてではなく効果として了解されうるこ
    とを指すのである。
    ~~~
    ☆ 補助線を引くかたちで示せばよいということですかね。その指
    をではなく 指の先を見よというかたちで。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/05/11 22:47
  • ▲(ヰキぺ:論考) ~~~
    § 2 内容
    §§ 2.1 注釈
    語ると示す

    語りうることとは、真偽命題(しかじかが、これこれである、という事態
    が存在する)の形で表現可能なことであり、前期ウィトゲンシュタインに
    とっては、これが、言語、有意味に語りうることの領域に重なる。

    示しうることは、そのような形で表現可能ではないが、しかし言語によっ
    て了解させることができることである。
    ~~~~~~~
    ☆ やはり《示し得ること》とは 《正解をみちびくための補助線を引く
    こと》のようです。

    言いかえると 《想定する》というかたち・あるいはつまり《仮説法:ア
    ブダクション》において 取り扱うということ。

    恥づかしながら わたしの神論は この仮説法によっています。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/05/11 23:04
  • ▲(ヰキぺ:論考) ~~~
    § 2 内容
    3.Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke.
    事実の論理上の像が、思想(思惟されているもの、思考対象、思想内容)
    である。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)
    ~~~~
    ☆ 物言いを差し挟みますと:
    世界を成す《事実》については 《事実認識》と《その認識にもとづく思
    考》とのふたつの段階とその作業があると見ます。

    《思惟・思考》というのは 主観をむしろ自由にまじえた解釈であり さ
    らにはあたらしい政策を提言して行きます。

    事実認識は 事実そのものに就くということ。言いかえると だれもがそ
    の主観を用いてその事実の像を言葉で表現するとき なるたけあたかも最
    大公約数のような内容をもって まづ基本とすることになるのだと。

    そのあと 思考として認識を展開します。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/05/11 23:21
  • 自己言及の命題をめぐって 数学にくわしい人からおそわったことです。


    オートロジカル(autological)・・・形容詞の中で自分の性質をあらわすもの
    ヘテロロジカル(heterological)・・・形容詞の中で自分の性質をあらわさないもの

    このとき 《ヘテロロジカル》という言葉は ヘテロロジカルか それともオート
    ロジカルか?

    こたえ:
    ヘテロロジカルなる語は 《ヘテロ・つまりその意味が異種だということを表わす
    言葉》だと言えますし そう答えます。

    じつは それだけのことではないかと。

    つまり 《ヘテロ》が《ヘテロ》という意味を表わしているとき それは 言って
    みればオートロジカルである。

    ただし 《ヘテロ》が すでに提示されている物や語の意味に照らし合わせて《異
    種》の何かを示そうとしていると採るならば それは 言ってみればヘテロロジカ
    ルなかたちになっている。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/05/13 16:35

A 回答 (34件中1~10件)

シェークスピアはひとびとのこころをかき回すのが上手なような気がします。



なにかの作品で、実際に謀反の人をあぶりだしたような出来事があったように思いますが思いだせません。

瞋恚は善悪に通ずる、という言葉がありますが、観客が舞台を見るという行為でそれをみるとき、怒りを表す当事者ではなく、ののしり合う二人をやや傍観してことの次第をみているような気がします。

ひとの罵りを直接に受けることは少し辛いところがありますが、あまりオブラートに包んだ表現だけでは、本心がわからなくなることも多いのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ シェークスピアはひとびとのこころをかき回すのが上手なような
気がします。
☆ あぁ そうですか。

少し記憶をたどってみると テンペストでしたか そしてそれと似た
作品があって その種の系統は すいぶん暗いなぁと思ったことがあ
ります。

ところが ほかの作品では なかなか筋の運びがうまく――登場人物
のあいだに思いがけぬ縁があると分かって―― けっこうわたしは
おもしろがっていました。


★ なにかの作品で、実際に謀反の人をあぶりだしたような出来事が
あったように思いますが思いだせません。
☆ そうなんですか。実在の人物ないし実際の事件に例を採った内容
ということですね。



★ 瞋恚は善悪に通ずる、という言葉がありますが、観客が舞台を見
るという行為でそれをみるとき、怒りを表す当事者ではなく、ののし
り合う二人をやや傍観してことの次第をみているような気がします。
☆ あぁ でもそれは 遠近法として作者が観客にひとつの視点を提
供しているのではないか。

ううーん。でもそれは 作者が 観客を自分(=作者)の視点で物語
に巻き込もうとしている。――それはそうかも知れませんね。

★ ひとの罵りを直接に受けることは少し辛いところがありますが、
あまりオブラートに包んだ表現だけでは、本心がわからなくなること
も多いのでしょうか。
☆ 直接話法から比喩を用いた語法など 上手に使い分けているよう
にわたしは感じたと思います。

お礼日時:2018/05/30 13:52

ちょっとまた書店をめぐって、ちくま文庫の『アテネのタイモン』と講談社学術文庫の、コンディヤックの『論理学』を買ってきました。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

シェークスピアは 一時期まとめて読んでいました。脚色があるのが分かって
いるのですが なかなかうまく筋が運ばれてゆくと感じたのを覚えています。

全部は読まなかったなぁ。途中で ほかに移りました。

ひとつひとつの作品も あまりおぼえていないのを知って こんなものかなぁ
と 残念がっています。



コンディヤックは 作品を読んでいません。18世紀の人でしたか。
ヴォルテールとかかわりがあるようですね。

かれらは 自然のうちにも 論理を見出すんでしょうかね。

お礼日時:2018/05/29 16:21

社会的なものを織物にたとえて、原始社会では、糸の太さもまばらで、色もまちまちで、糸自体もほつれやすいが、時代が下るにつれて、糸のちょうどよい太さが決まり、分業などの役割もみえてきて色も決まってきた。



はじめの織はじめは粗密が乱雑で、ほつれやすく、次第に均一な布のようになったものを考えてみました。

これは、社会が調和していれば、これはまともな織物で、役に立つ、(役に立つものが善であるといってよいのかまだわかりませんが)、この織物の模様をよく観察してみたら、次第になにかしらの規則的なパターンなりが見えてきたとしたら、これはなにかしらの道徳になりうるのだろうか、と思っています。

完璧な製品をイメージすると、色のにじみだったり、パターンのズレだったり、糸のほころびだったりは、製品としての価値は下がってしまうので、これは好まれない。

なにか目的のようなものを設定すると、やはり、よいとわるいがあるようにみえると言えるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 社会的なものを織物にたとえて、・・・

★ 社会が調和していれば、これはまともな織物で、役に立つ、・・・
この織物の模様をよく観察してみたら、次第になにかしらの規則的なパ
ターンなりが見えてきたとしたら、これはなにかしらの道徳になりうる
のだろうか、と思っています。

☆ 《条理》という概念がありますね。条は 木の枝を表わして その
伸びる筋を意味し 理は 玉となる石の肌理(きめ)つまり 細かな彩
(あや)としてのやはり筋を言っている。

人間の思いや行動も 伸びてそれぞれに筋を成し彩をかたちづくるよう
になる・・・といった感じでしょうか。



★ 完璧な製品をイメージすると、色のにじみだったり、パターンのズ
レだったり、糸のほころびだったりは、製品としての価値は下がってし
まうので、これは好まれない。

★ なにか目的のようなものを設定すると、やはり、よいとわるいがあ
るようにみえると言えるでしょうか。

☆ まぁ どうなんでしょう。枝を切ったり石の肌理を傷つけたりする
のも 人間だという一面があるようですから そこから ものごとの良
し悪しを捉え わざわざ考えるということをおこなう・・・ということ
も起きて来るのでしょうか。


善――自然でふつうにそなわった筋――を傷つけるというのは 運動す
るモノの曲がり(クリナメン)として捉えられて来たようです。

あるいは――わたしが当てずっぽうで言うのですが―― 対称性のやぶ
れにかかわっている・・・のかも。

片向き・曲がるくせとしての自由度。




この自由度の発揮としておこなったその枝切りや肌理の人工的な美化と
しての加工について 何か掲げるべき理想や守るべき規範があるとした
場合に それらと照らし合わせて 良し悪しが決められる。か?


つまり われらがおのおのの主観において ひとつに感性としてヤマシ
サ反応にかかわる良し悪しの問題もあれば もうひとつにいわゆる理念
として持つ(あるいは 共有する)規準に照らし合わせる問題もある。

――のですかねぇ。



われわれは なかなかいい問い求めをおこなっていますね。

お礼日時:2018/05/27 16:50

すこし書店をぶらぶらして、講談社学術文庫の、『リュシス 恋がたき』と『アルキビアデス クレイトポン』を買ってきました。




友愛とは、善と悪との共存である


という命題(命題ということばがあまりすきではありませんが)はどのように思われますか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

経験的で相対的な世界では ことの良し悪しという問題が つねに つき
まとっています。

友情や愛情に限らず 人間関係のすべてについてです。


ただし そこでもうひとつ基本となる問題は 《悪は 善が存在するよう
には 悪として存在しているのではない。悪は 善の損傷を言うに過ぎな
い》というふるくからの命題(判断)です。《 privatio boni 》。

このテーマについてわたしは何度となく 質問にかかげて来ています。

検索して任意に拾い上げたものですが:

☆☆ 【Q:悪は 存在しない】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4642854.html

☆ 2009年ですね。この時には まだ《やましさ反応》という言葉は
得ていなかったようです。《へそ曲がり》という言葉で表現していました。


つまり あるのは――存在そのものであり 生命であり 自然本性として
ふつうに生きる姿であり これが ヒトに授かったものとして言うなれば
《善》であり―― 善なるわが生命存在とそれを思うわが心あるいは意志
を ふとよからぬ方向へ曲げること。それとしての《善の曲げ》――やま
しさ反応にさからいこれを突破する自由度としてのわが意志のへそ曲がり
――である。


善の曲げを ひとことで《悪》とも呼ぶのだ。そしてそれだけのことなの
だ。と。


どう考えますか?

お礼日時:2018/05/25 15:04

このおじさんは、プリンにこの白い粉を少量入れて食べる夢を見ていました。



塩プリンを商品化するためには、この白い粉の成分をどこかの試験場で調べてもらわないといけないのかも知れません。

主成分は、塩化ナトリウム、塩化カリウム、塩化マグネシウムだけかどうなのか、ほかに人体に都合の悪い成分がはいっていないかどうか。


浜辺にすむおじさんは、こんなことを聞きました。

数日間海を漂流した漁師さんは、あまりにお腹がすいたので、海水を飲んで、空腹をしのごうとした。

でもそれは、海水を飲めば飲むほど、喉が渇いて仕方がない、もう、お腹がすいたどころではない喉の渇きだったと。

浜辺にすむおじさんは、中学校か高校の理科で浸透圧の話を聞いていたとすれば、飲んで体内に入ってきた海水と、細胞内の濃度と差があって、細胞内の濃度より、細胞の外側の液体の濃度が高く、細胞の内外が半透膜のようなものでできているのだとすれば、水が溶液濃度の低いほうから溶液濃度の高いほうに移動して、余計に細胞から水が奪われてしまう、と推測して考えます。

けれども、半透膜がどんなものだか分からない。水は通過できるけれども、塩分のようなものがそれを通過できないのはなぜなのか、細胞が塩分を補給したいときがあると思われるので、おそらくは、塩分を補給したいときは開け、補給する必要がないときは閉じる仕組みがどこかにあるのではないか、

ひとつひとつの細胞がまわりに海水がやってきて、細胞内部から水分だけが奪われるようなことになったとき、神経たちはどのようにそれを脳に伝えているのだろう。

浜辺にすむおじさんは、自分の体を壊さない程度でそれを心理学的に調べることができます。


浜辺にすむおじさんはあるときこんなふうにも考えました。

おなかがペコペコになりすぎた状態から、ごはんを食べて、しばらくしたら、少し元気が回復した。

でも、食べたごはんはまだようやく胃袋に到達したかしないかくらいで、まだ消化さえされていないように思われる。

だけど、もう、元気が出てき始めているのだ。

浜辺にすむおじさんは、しばらく考えて、むかし聞いた話を思いだした。あるひとが言うには、ご飯を食べて消化するにもエネルギーを消費している、ということを。

そうだとすると、自分がごはんを食べるという行動をすると、アタマのほうから、ごはんが入って来るよ、と各器官に指令が行って、そのうちの肝臓には、グリコーゲンを使え、という指令が出ていて、食事の消化を働かせる準備をしていたからではないか、と浜辺のおじさんは考えたのでした。


科学的にそれを突き詰める以前に、自分の健康を損なわない範囲で、心理学的なものがいくらか混ざった状態ではあるが、それを自身で体験する方法もあるのではないかと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

実験は できるでしょうね。

ヒトの身体は 工場のごとくであると。


いまは でも とても込み入った細胞なり何なりの研究がすすんで
いるんでしょ?

いくらか前に――その程度です―― キラーT細胞がどうだかこう
だかという話を この質疑応答の場でおそわりました。


しゃれた応答は できないです。すまん。

お礼日時:2018/05/22 16:42

浜辺にすむおじさんが、近所の中華屋さんが捨てる中華鍋をもらい受けて、いえのそばに置いた。



風雨の強かったあとにその中華鍋のなかには水が溜まっていた。

しばらく天気の良い日が続いたら、鍋のなかはカラカラに乾いていた。鍋の底はなんとなく白く見える。

浜辺にすむおじさんは、その乾いた中華鍋にすこしづつ海水を入れていくことにした。

中華鍋が乾いたら、海水をつぎ足し、また中華鍋が乾いたら、海水をつぎ足し、

なんどか繰り返すと、乾いた中華鍋の底の色はだんだん白みを増しているように思われる。


このおじさんは、このしろいものをたくさん得るためには、たくさんのことを考えることになります。

はやく、海水を乾かすには、体積に対して表面積を広くするようなフライパンのほうが望ましい、

天候が変わることもあるので、広げやすく片付けやすいなにかしらの工夫…

風が強いときにはどうしたらよいだろう…
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 浜辺にすむおじさんは、その乾いた中華鍋にすこしづつ海水を入れていくことにした。

中華鍋が乾いたら、海水をつぎ足し、また中華鍋が乾いたら、海水をつぎ足し、

なんどか繰り返すと、乾いた中華鍋の底の色はだんだん白みを増しているように思われる。

☆ その現象は 科学的に説明できるのですか? 化学はわたしはからっきしです。

お礼日時:2018/05/22 13:23

海水をなめてみたら、塩辛い。



これは、海水が、水と塩が主成分なのを知れば、分析判断に思えます。

海と空が青いのは、総合判断のようにも思うのですが、もっと考えてみると、これも分析判断に使えそうな気もします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ これは、海水が、水と塩が主成分なのを知れば、分析判断に思えます。
☆ ものごとをその要素に分解して認識するのが 分析行為です。

★ 海と空が青いのは、総合判断のようにも思うのですが、もっと考えて
みると、これも分析判断に使えそうな気もします。
☆ 海と空とをそれぞれ そのものとして ただしその色がどうであるか
として 認識する。これは まだほとんど分析もしてないかも知れません。

色や外形の認識は その要素に分けて認識する場合に該当するか?


形式(フォルム)と内容(素材)とに分けているとすれば 分析判断です。

青い海と青い空をいっしょにまとめて認識するのは 総合的に認識するこ
とであり その判断になります。

――と思うのですが。

お礼日時:2018/05/21 15:14

海水をなめてみたら、塩辛かった。



これは、オートロジカル

海のはての向こうの空は、青と青とで際立っていた。空の青は浅く、海の青は深い。

これは、ヘテロロジカル

に向かうような文でしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

けっこうこだわりますね。

ラッセルらのタイプ理論についてわたしは 中身は分からないのです。
どういう性格のものかということが何となくつかめている。

そしてこのオートロジカル・ヘテロロジカル。

メタ概念を用いて 論理的に処理できたら それに越したことはない
のだとも思います。


わたしの扱い方は オート(ないしホモ)とヘテロとの違いは むし
ろヘテロの意味の確定が問題である。そしてそれは ヘテロの意味を
確定するときに その当のものだけについて捉える場合と そして別
のもの(その意味)を持ち出して来てそれと比べる場合とがある。

そのときの意味の扱い分けができれば 処理できる。のではないかで
す。



ただし 確かにいまお尋ねの問題は 微妙ですね。
つまり 他とくらべるときに どちらも《青》だが 《深い色》か
《浅い色》かの違いをどう扱うかですよね。

深いと浅いとがはっきり区別できるのなら ヘテロロジカルだと見ら
れる場合が出て来るように思われます。

オートロジカルでは 《青》でよいのに 他とくらべるときには わ
ざわざ《深い青》と規定しなければならなくなる。そうすると 《青》
と《深い青》とで区別できるのなら オートロジカルからヘテロロジ
カルな意味表示にもなるようだと。です。


ややこしいですね。

お礼日時:2018/05/20 16:42

あなたの聞いた社会学者の先生のお話のなかでは、微分方程式のようなものを扱うこともあったのでしょうか。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

社会学は どうですかね。わたしは キリスト教と仏教を中心にまなぶ
ほかには 社会思想をやりました。マルクスやウェーバー あるいは日
本では大塚久雄・水田洋・平田清明らにまなびました。

じつは 哲学は あとからです。

社会学というのは いまだにどうもその領域が漠然としているように思
います。社会にかんすることならなんでも研究対象になるようなかたち
で。宗教社会学だってありますし。

橋爪大三郎・大澤真幸は多くを読んでいます。

その前には 文化人類学ないし社会人類学つまりはいわゆる民族学です
ね。これを 何となく幅広くやりました。日本の民俗学もです。

社会学者の名を挙げよと言われれば 好きではないですが ウェーバー
くらいでしょうか。

いえ。
★ 微分方程式
☆ など数学や自然科学のことは 出て来ていませんし 出て来てもひ
ととおり読むだけになります。素養がありません。

《無限》論だけは けっこう親しんで来ています。数式抜きでです。



あとは 日本古代史を 672年(壬申)の乱あたりまでの歴史文献・
考古学・記紀神話・古語についてやりました。

お礼日時:2018/05/19 16:11

○○-ドクスのドクスはドクサに由来するものだと考えるとき、ひとりひとりが思い、考えるものはまず、(主観的な)臆見、思いなしの類であり、そのような臆見・思いなしをある程度まとめて世のひとびとにその良い点悪い点を指摘してもらう作業を求めているようにおもいます。



これは、ある程度の系がわかるほどの文章のかたまりになっていないと、話している本人の目指している方向も他人には理解しえず、もし、規則としてのなにかを仕込んだとしても、それはなんらかの文法的な規則の中に、意味的な定理を発見するようなものがあるということでしょうか。

そのようなものはなさそうにも思えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ○○-ドクスのドクスはドクサに由来するものだと考えるとき
▼ (OnlineEtymologyDictionary: *dek-) ~~~
https://www.etymonline.com/word/*dek-

印欧語族の原形(Proto-Indo-European root )*dek- meaning  "to take, accept."

ギリシャ語(Greek): dokein  "to appear, seem, think,"
           dekhesthai  "to accept;"
ラテン語(Latin):  decere  "to be fitting or suitable,"
           docere  "to teach,"
           decus  "grace, ornament."

英語に伝わっている語例:decorate
           doctor; doctrine; document;
           dogma
           orthodox; paradox
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ ・・・ひとりひとりが思い、考えるものはまず、(主観的な)臆見、
思いなしの類であり、そのような臆見・思いなしをある程度まとめて
世のひとびとにその良い点悪い点を指摘してもらう作業を求めている
ようにおもいます。
☆ 出発点だと思います。

そのひとつの主観に内容がそなわるなら みんなの同意によって 共
同化されます。共同主観つまり コモンセンスです。

★ これは、ある程度の系がわかるほどの文章のかたまりになってい
ないと、話している本人の目指している方向も他人には理解しえず、
もし、規則としてのなにかを仕込んだとしても、それはなんらかの文
法的な規則の中に、意味的な定理を発見するようなものがあるという
ことでしょうか。

★ そのようなものはなさそうにも思えます。

☆ いや 中身です。理論になっていなくても ひとつの命題あるい
はアフォリズムのごとくであっても 人びとの共有されるところとな
ればよいわけです。

新説は まづはじめは ことごとく叩かれます。というより 無視さ
れます。

お礼日時:2018/05/17 17:21
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