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1. もし 憲法とやらにおいて:

  和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、
  忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。

と言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。と考えられ
ますが そのとき同時に わたしはじつはすでに和を乱していたということ
をも知らずにいた。となるのではないか?

――こういう考えが提出されました。

2. 果たして そうか?

3. 和のとうとさを倫理の命題として認識しなかった段階では わたした
ちは 和そのものを知らなかったか?

4. 早い話が 良心というのは どうか? 意識していなくてもそれは
ヤマシサ反応として・あるいは恥ぢ意識としてじゅうぶんはたらいているの
ではないか?

5. 文化――言葉化――が成されないときには ひとに良心のハタラキは
なかったのか? どうでしょう。

6. つまり 《わたしはじつはすでに和を乱していたということをも知ら
ずにいた。となる》とき 《みださないでいた。または 和を具体的に――
他人(ひと)をゐやまひ――かたちに表わして大事にしていた。それは た
だ自覚がなかっただけだ》というふうにも成る・・・のでは?

A 回答 (1件)

言葉が先か意味が先か、私はここのBAさんに近い気がします。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ちょっと承服しかねるのですが。

★ 言葉が先か意味が先か
☆ いえ。違いますね。《言葉》以前に 《食べる》ことは ありました。
その《意味》を知らない段階においても。

(あるいは 食べるという動作とその〔元気が出るといった〕影響は感じ
ていたでしょうね。ただし 言葉を持たず 意味としての自覚なしに)。


◆ (知恵袋のBA) 人間の脳が世界を認識した結果「意味」が生まれる
のだとしたら
☆ と言っても 目の前の草(野菜)や川で泳ぐ何ものかを 或る日ふと
取って食べてみようかと〔その言葉を介さずに〕思った。そして その動
作のあと やがて《食べることであり 栄養を摂ることだという意味を知
る》というとき おそらくそれは 《言葉の獲得 と同時に 対象や動作
の認識あるいはその意味の自覚を持った》と思われるのです。

すなわち 《行為と対象の認識や意味の自覚と 言葉の獲得とは 同時に
成った》説を提唱します。




☆ ソシュールは信用しがたい学説です。

丸山圭三郎による解読ですが 動物が 《身分け》で生きるとしたら 人
間は《言分け》によっていると言います。

毒がないかを身の感覚で見分ける。本能ということでもありますが それ
を比較の対象とすると 人間の生存行為のあり方が 分かる。

つまり 《言葉で毒を・つまり安全かどうかを知る》のだと。《言葉化=
文化》ということでもあります。

この《言分け》は じつに《言葉が その時点ですべての語を集めまとめ
て 一気に生成したのであり その語の意味は 他の語との差異〔という
関係〕からのみ成り立ったのだ》と言っているようです。

そこでは 例の《言語記号の恣意性》なる仮説が伴なわれているようです。
そんなことは ないです。

不案内になりますが 次を参照してみてください。
【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8508948.html

お礼日時:2019/04/17 11:34

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