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石川啄木って、詩人ですよね?何故、働いても働いても、貧しかったのですか?又、彼の言う「働く」って、詩作のことなんでしょうか?

A 回答 (7件)

生涯を通して余り恵まれた生活ではなかったのです。


https://jpreki.com/ishikawa-ta/
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この回答へのお礼

感謝します。

お礼日時:2019/05/05 16:38

代用教員や新聞社に勤めています。

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この回答へのお礼

有り難うございます!

お礼日時:2019/05/05 16:34

いいえ。

石川啄木は、詩人です。彼が言う働くとは、「素晴らしい詩の作品を考えて、構成を練って、推敲して、より良いものを作り上げる」ことを指しています。そういうことです。
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この回答へのお礼

ううむ。

お礼日時:2019/05/05 16:53

詩作のことなんでしょうか?・・・・・いいえ、彼の歌詞は、東北の雪深い田舎で、農業に頼り、生活してきた人たちの心情です。

はたらけど働けどは、農作業を土にまみれてしたり、夜は囲炉裏を囲んで、裁縫をしたりしていた時代の歌でしょうから、その人達の心情です。
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この回答へのお礼

ああ、なるほど!

お礼日時:2019/05/05 16:52

石川啄木って、詩人ですよね?


 ↑
そうです。



何故、働いても働いても、貧しかったのですか?
 ↑
出版業に注力したからです。
それに、この詩は、社会主義の影響を受けた
もので、彼の実生活とは別の問題です。



又、彼の言う「働く」って、詩作のことなんでしょうか?
  ↑
じっと手を見る、とありますから
農民のことでしょう。
つまり、社会主義の影響を受けた政治的な
詩なのです。
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この回答へのお礼

有り難うございます。

お礼日時:2019/05/05 18:01

結婚したのが10代で


東京に出てきましたが
奧さんと子供、両親も同居でした

朝日新聞社に勤めて
詩の選評などもやっていましたが
給料は安かったようですが
その割には
よく遊んでいたようです

友人には借金ばかりしていました

詩というのは
現代でも生活のできるものでは
ありません

だいたい皆さん
本業を持っています

なくなったのが
確か23歳だったかな
若いですね

しかし
今でも啄木の詩を読むと
やはり天才ですね
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この回答へのお礼

有り難うございます!

お礼日時:2019/05/05 18:25

余り恵まれた環境にはなかったからか、貧しかったのは確かです。

父は僧職であり、一応中学校(盛岡中学)には進みましたが、現在は盛岡市に含まれていますが、昔は田舎であった「渋民村」の出身でした。啄木は中学(現在の高校相当)を卒業後代用教員として務めました。ところが校長排斥運動をしたという理由で辞めさせられ、父も村民と折り合いが悪く、彼の短歌の表現によれば、「石を持て追はれる如く」東京に出て、新聞社に勤務します。普通に勤務すれば何とか生活できたのでしょうが、彼は文学で名をあげたくて、家族を養わねばならない一方で、生活は乱れていました。
 金田一春彦の著書によれば、父金田一京助が啄木の友人(中学での)だったので、金田一家に借金をした。ところがその金をすぐ、芸者遊びに使ってしまった。春彦は両親の会話を聞き、啄木はヤクザだと思ったと、書いています。啄木はその後、函館や根室など勤務地を変えたりしました。結果は若くして世を去りましたが、三行書きの短歌を発表し続けて、「一握の砂」「悲しき玩具」という歌集を出しました。その後詩や小説に向かおうとしたのですが実現せぬ内に死を迎えました。
 全くの余談ですが、横溝正史が「金田一耕助」探偵を登場させましたが、明らかに「金田一京助」からとった名です。(実際は弟に当たる人の表札を見ていただいたという)さらにその孫に当たる「金田一一(はじめ)」少年の「一(はじめ)」は「啄木の本名」をそのまま頂いたものです。「本物」の金田一家では、金田一秀穂氏に相当します。
 しかし、啄木の二つの歌集は感傷的な叙情詩として、多くの文学者に影響を与えたと言えましょう。
 ほとんど余談ばかりの回答でした。
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この回答へのお礼

詳しい回答に深く感謝します。

お礼日時:2019/05/09 19:08

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