チョコミントアイス

最近ニュース等でネットの声を大きく取り上げる事象が当たり前のように増えていますよね。

自分の小さい頃は、「ネットは現実とは別。画面の向こうに誰がいるか分からない。」と世間で認識されていたように思えます。

しかし、主にスマホやSNSが普及したことによりネットが国民生活により近しいものとなり、単純にツールとしての普及度以外にも、ネット上の現実とは異なる概念が一般生活に浸透し、もはや”ネットは第二の現実としての仮想空間”にされていると思いますが、これについて皆さんどうおもいますか。

ネットを世論として扱う流れになっていますが、なぜそうなったのでしょうか。

グローバル化により個々人が不特定多数に情報を送受信できることにより情報操作やポピュリズムに繋がることはおおむね予想できます。

ここでは最後に、ネットが現実の延長線上、一部とみなされることによる現実への文化侵略となりうる可能性について質問させていただきます。

ネットが一般化していくに従い、従来の、”ウチとソト”のような旧来の社会通念は崩れていきますか。

グローバリズムとは人々をとりまく情報をも画一化していきますよね。ネットの一般化に従い、
ネットで伝播してきたグローバル色に日本人はより左右されやすくなっていきますか。

A 回答 (2件)

tlrycktsorさんは、質問履歴を公開されないのですか。

公開していただけると、関心の向きなども分かって、回答しやすい感じがします。回答履歴をみて、綺麗な回答をされる方だなと思いました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11279958.html

以下の回答は、綺麗な回答ではないです。 ゴチャゴチャです。

社会は、いろいろな要因が働いて変化していきます。内因もあれば外因もあります。また社会実態は均一ではなく中に様々な動きを内包しています。
「従来の"ウチとソト"のような旧来の社会通念」というのも、不変のものではないでしょう。もともと"ウチとソト"の区分は属性ではなく近-遠のようなつながりの蜜粗の関係にあるので、生活状況・社会経済状態が変われば、どこがウチかも変わります。 参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/38 …
ネットなど問題ではない昭和30年代40年代という日本全国規模で事業を展開する企業集団がいくつも競っていた時代の特定グループに属している場合のウチ意識が、市町村以下レベルの地域のウチ意識を上回っていた事実もあります。
核家族化が進んで親子3代所帯が減れば、家の意識は希薄になり、都市移住集住が進めば地域意識も希薄になります。サラリーマン化が進めば職に関わる集団帰属によるウチソト観も保ちようがなくなります。
青森産、鹿児島産、千葉産、イタリア産、英国製、日本製、トヨタ、フォード、BMW、GE、日立、ナショナル(昔はそう言いました)は、ウチvsソトではないただのブランドや産地でしかなかったでしょう。 
グローバル化が進まなくても、ネットなどなくても、「従来の"ウチとソト"のような旧来の社会通念」は急速に消え去る方向に向かっていました。

インターネットができるようになる前のBBSなどの時代ならば利用者数も少なく利用目的も限定されていたので、社会全体への影響は限定的です。新聞雑誌放送などの手段を利用しての情報伝達は誰にでも出来るものではなく、情報入手側も自分の意思や感情を他に吐露し他と感情を共有している感をえる手段が限られているので、短期で爆発するように情動が社会に広がることは難しかったです。 そうした時代にあっては、噂や不安が口伝てに広がってブームが起きるというこがメジャーな方法で、あとは伝道師や商人、交易人、芸人などが各地に広げることがほそぼそした方法になります。
スマホの各種サービスは、ただの情報交換や情報入手に限定するものではなく、注文手段・決済手段であり、あらゆる商品特産品の販売店であり、金融保険の窓口でもあるし、学習教育の補助手段でもあり、旅行観光手配業者でもあり、自作を売り出すキャンペーン会場でも、投資運用のツール、自己宣伝や鬱憤晴らしの場でもあるって、電車の中、食事中、寝床、トイレどこでも何でもできる"個人ツール"です。しかも自分を秘匿して適当に名乗って使うし、詐欺にさえも使えるツールです。 スマホ利用が日常になった者にとっては、もはやウチとソトは、(本人の好きで)使っても無視してもイイものでしかない=制約にはなり得ないものでしかないです。 「従来の"ウチとソト"のような旧来の社会通念」はなくなって「"ウチとソト"は使い分ける形式の一つ」になっていくのでしょう。 仲間言葉と一般的な言葉遣いをその場その場で使い分けている場合に"ウチ"と"ソト"はただの場面適用でしかないのと類似です。 ネットで、何を身にまとい装うかは個人の選択です。 プロの役者の演技ほど上手くないとしても、本人が満足出来ればそれで十分です。なんせ、ネットの多くは、受取手側の反応(みる/みないを含めて)を気にしないで使えるように作られています。 そのような世界を利用するものにとって、{「従来の"ウチとソト"のような旧来の社会通念」は過去の歴史上あったのかもしれないな}という程度の位置づけになります。

グローバル化というのは、物流が幹線支線を通じて特定地から別地域へ時々なされるというのではなく、地球上のあらゆる地点からあらゆる地点に間断なく速やかになされることとそのための情報のキャッチアップや特定者向けの発信にも制約がなくなってることを言います。地域の観念から(近遠)(親疎)(内外)をなくしていくモノです。 (近接域で生産している・消費している)(数千キロの遙か遠方で生産している・消費している)ということも、(どのように生産している・どのように加工消費している)というプロセスも知らずに、あらゆる物財やサービスを、時間帯にかかわらず調達利用・提供販売ができるということであり、その利用選択にあたり、利用選択しないことにした人や集団、地域への配慮は一切しなくて問題ないという感性を合わせて保有することを意味しています。 伝統や伝来、過去の歴史性というのは、キャッチや感覚上の評価項目の一つでしかなくなります。 事実よりは感覚感性への訴求力を持たせる手法が重要になります。 評価は感性感覚重視にシフトするのですから、提供側もそれを重視します。 ブームが起きやすく、ブームが爆発しやすく、ブームが冷めやすくなります。 
感性情報の提供を期待し、乗せてくれる言動やパフォーマンスを期待する傾向が強まるので、それらの期待に応じる提供側が増加し、ネットを通じて、感性情報の提供とそれに対するリアクションが爆発的に生じるなら、「情報操作やポピュリズムに繋がる」という結果も生まれるのでしょう。

> グローバリズムとは人々をとりまく情報をも画一化していきますよね。 (コピーのまま)

人というのは均一ではないです。 人々が画一化することはなかなかないです。 狭い地域で"ウチ"意識が制約を強めている方が内部での画一傾向は強いです。 "ウチ"意識による規制が希薄化していると、ブームは起きやすいですが、画一化は進みにくいです。メジャーに交換される情報のシフト振りが目立つことにはなりますし、それがメジャーであるが故に社会状態や政治、経済へ強く影響することにはなりますが、同調しない・別視点ということも強く存在し、またメジャーな動きに対立抵抗する方向も感情的に動き出すこともしばしばあります。 同調しない・別視点というのが3割いても、メジャー4割、反メジャー3割であれば、7割の中の4:3が対立激化して、感情的にいがみ合うという状態になります。現時点の世界各国の社会情勢、政治情勢の報道をみれば、画一化には進まないことは容易に分かります。 グローバリズムは、結果として、政治情勢としては対立を深め勝ちです。 そこでやりとりされる情報も、なんでこうも違うんだというようなものになります。

> ネットの一般化に従い、ネットで伝播してきたグローバル色に日本人はより左右されやすくなっていきますか。

ネットがなかった・ネットが一般的ではなかったときには、ネットで伝搬するものに左右されることは少なく、ネットが一般化するにつれて、ネットで伝搬するものに左右されることが多くなるのは、自然なことと思います。
「ネットで伝播してきたグローバル色」というのが何を指しているのかが不明ですが、#metoo Me Tooのようなこと、ネットゲーム、eスポーツなどでしょうか。
IT利用分野の急拡大は進んでいますが、ネットで伝播してきたグローバル色に日本人が左右された結果ではないでしょう。 日本での外国人旅行客の増加や爆買いなどもネットで伝播してきたグローバル色に日本人が左右された結果ではないでしょう。
医療の仕方や働き方改革とかも財政再建や各種経済政策も、安倍政権のトランプ手法採用も、ネットで伝播してきたグローバル色に日本人が左右された結果ではないでしょう。
「YouTuber」になりたい人は、日本で小学生の『なりたい職業ランキング』では2016年まではランキング外だったが、2017年で4位、2018年には3位にランクされるなど、子供が将来就きたい職業として人気が高くなっているとのことですから、日本人も影響され易いのでしょうが、イギリスでも3人に1人の子供の憧れの職業になっているという話もあります。 しかし、ネットで世界の情報が得られる状態になっても、「(昔)より左右されやすくなって」いても、その影響力はかなり限定的だと、私は思います。 もともと、大人でも、青年でも、こどもでも、ネットだけを情報源にしているのではなく、リアル世界に生き、周囲からの賞賛や批判の声も受けて生きているので、ネットの一般化やグローバルな情報(日本では日本語利用がポピュラー)提供があっても、強烈とかじわじわでも影響力はかなり限定的だと思います。
https://yorozu-do.com/work-ranking/

情報を感情的・感覚的にとらえると、ネットやグルーバ化の影響が大きいとなります。
出来るだけ事実に即するように心がけると、単純に原因-結果を結びつけるのは間違いの元、のように思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。返信が遅れてしまい、申し訳ありません。
”旧来の”社会通念というものに対してどこか認識不足だったようです。ですが、私が思うようなネットによる社会変革で危惧される点は、あくまで表層的なものであって、とりわけ異常なことではないと聞いて安心しました。

お礼日時:2019/10/16 15:58

マスメディアへのアンチテーゼでしょう


マスメディアの報道姿勢が問題となりマスゴミと
揶揄される状況とネット情報への信頼度向上は相対的でした
人は信頼出来る情報が欲しいのですよ

文化侵略の意味が解らん
文字や文化ってのは常に変化しています
文化に基準点はないのでネットが普及したら
ネット前提の文化が出来上がって当然です

今は人類史的にはグローバル黎明期だと思いますので
その内ネットと人との妥当な距離感が出来るでしょうね
現在、ネットリテラシーとかネチケットとかが
明文化される時代がもう少ししたら来るでしょう

ぶっちゃけ、人の価値観は情報共有が進めば変化します
ネット云々よりは人は新たにミクロな価値観を共有出来る
時代となったって事なのでネットだからってあんまり関係ない
AIが普及したらその価値観でまた文化も考え方も変わるでしょう
あれこれ言っても仕方ない。
なるようにしかならんしなるようになる
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