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困っている人(障害をもつ人など)がいて、その人をかわいそうとか、気の毒という同情心だけで片付けてしまうのは真のやさしさとはいえませんよね。

同じ社会に生きる一員としてそういう人たちにどうしてあげることが真のやさしさだといえると思いますか?

気持ちはあってもそういう人たちにどうしても気を使ったりしてしまうのです。普通以上にというか・・・

ご意見聞かせてください。

A 回答 (8件)

こんばんは。

障害者です。
まず、単刀直入にひと言。
待ってあげること
これだけで我々どれだけ助かるか。
待ってあげる、という行為で助かるのは障害者だけではありません。幼い子どもにも、お年寄りにも有効にして基本的なやさしさです。
いま日本中で子どもや、お年寄りに対して虐待事件が頻発しているのも、それができにくいほど余裕のない社会状況になっているということの一つの現れでしょう。

実は私、赤ちゃんの頃の治療薬の副作用で難聴の障害を負ったのですが自分が障害者だと分かったのは最近のことなんです。というのも、全く聞こえないのであれば状況は大幅に変わったはずなんですが、うちの親は私が苦しんでいるのを知りながら中途半端な障害程度であることに付け込んで我が子の障害を頑として認めようとせず無視し続けたんです。確かに御陰様で人様の何倍かは苦労しましたから、その分、精神的に鍛えられたと思います。けど自殺を図っても死に切れなかったので強くならざるを得なかっただけで親に感謝する気はサラサラないです。年齢を重ねるたびに親の不手際のツケが膨らんできて取り返しのつかないくらい大変な人生になってしまいましたから。

だから、いっそ全く聞こえないか片足がないとか、イヤでも認めざるを得ないくらい重度の障害だったほうがよかった、なんて罰当たりなことを考えたこともありました。

他人とは、もちろん誤解を招くようなきっかけには枚挙にいとまがなくて日々是トラブル、ストレスたっぷりの修行の毎日でした。そのために体調を崩しやすくなりますし。そんななかでも、たま~に親切な人もいて私が誰かと話してると心配そうに「いま、この人が言ったこと、ちゃんと分かった?こうこう言ってたんだよ」って教えてくれたりする人もいました。そういうとき、たとえ必要のない親切だったとしても私は、その人の優しい気持そのものが、とても嬉しかったです。

障害にも、いろいろあって、まず外部障害、内部障害(これは内臓の障害も含まれますね、心臓とか)に分けられますし両方重複していることもあります。内部障害は、どんなケースでも、とかく理解を得るのが難しく、なかでも聴力障害は精神疾患に負けないくらい健常者に説明するのに骨が折れます。実際、聴力に問題がある状態で長年生きておりますと、この障害特有の性格みたいなものが出現したりして私も聴力じゃなくて性格とか精神に問題があるんじゃないかなどと言われたことがあります。親にさえ、です。それだけ理解されにくい障害なんですね。そこを何とか理解してもらおうとしたら、甘えるな!とも言われました。

いま現在も、このことで問題に直面しておりますが、昔みたいに自分を責めたって仕方がないことですし、かと言って周囲を恨んだところで解決するわけでもないので何とか一人で、うまく乗り切っていけるコツを身に付け、場合によっては身近の人間に対しては一切、心底から気を許すことを自分に禁じなければならないなと考えています。

実は全く聞こえない人は、むしろ少数派で少しは聞こえる難聴の人って皆、度合いがバラバラなんです。同一個人においても、その日の体調とか周りの環境に大きく左右されますし、そこが誤解されやすい原因でもあるんですね。しかし、この辺の事情を説明しようとしても自分には関係ないし、そんなツマンナイ話しないで!っていう態度の人が多いです。たまに熱心に聞いてくれるなと思ったら単に好奇心で聞いてるだけだったり。まして健常者と同じ速さで反応できないということに対しては非常に風当たりが厳しいです。こういう人たちも年をとったら自然と聴力が落ちてくるわけですし、そうならないうちは分かってくれろと言っても、しょうがないですよね。

貴方様が御気を使われるという心情は私にも理解できます。私も自分とは別種の障害を背負っている人には変に気を使います。それは自分が同じ経験をしてないから手助けしようにも勝手が分からないからなんです。ですから真のやさしさを実行したいと思ったら想像力を精一杯働かせて、それでも補えない部分は相手に聞いてみることです。障害者は健常者と同じ条件で生活できませんから、やはり配慮してもらわないと限界があるのは確かです。重度になると命にも係ります。でも甘やかすのとは違いますよ。それは我々の望んでいることとは違います。

私自身はNo.2のかたの御考えが一番お願いしたい態度だと思います。こういう御考えは実際的で有効で、障害の問題以外についても、あらまほしき態度ではないでしょうか。

障害にせよ年齢的なことにせよ差別や災害や不幸な事件にせよ自分には縁のないことと思っている人が多いかも知れませんが、明日は我が身と思うことですね。そこから始めるしかないと思います。

貴方様が「真のやさしさとは?」と御考えになることは尊いことだと思います。私は、まず、そのことが嬉しいです。
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この回答へのお礼

ご経験を聞かせていただいて本当にありがとうございました。
現代の社会は本当に忙しくて「待つ」ことの大切さを忘れがちになっているように思えます。
身障者の方にかかわらず、待つということをいまいちど考え大切にしていきたいと思いました。それがどんな障害をもっていようと本当にその人を尊重することなのかもしれませんね。

お礼日時:2005/01/10 11:32

気持ちは解るんです。


私も車椅子の人とか見ると、なぜかやるせなくなって、悔しくなってしまうんです。

でも、「シザーハンズ」って映画の主人公のように、
我々の手にはナイフが付いているんです。
http://www.urban.ne.jp/home/ubik/cinema/cinema00 …


例えば「花」を愛する人は花を肥料漬けにして、雑草や害虫を駆除します。
「良い親」を自認する親に限って、子供を過干渉にして壊してしまうんです。
ペットショップには愛の生贄となる動物達がたくさんいます。


私達の関わり方は「能動的」なんです。
でも、能動的な関わり合いをすれば、必ず、何かしらを傷つけてしまうんです。
その人の自発性、自主性、自由を奪うかも知れないんです。
悩み、苦しむ自由というのもあるんです。

ですからバリアフリーの社会のために募金するとか、献血の協力するとか、骨髄バンクのドナー登録するとか間接的な関わり合い方というのも出来る時代なので、見えない関わり合い方をするというのも、一つの優しさなのではないかと想います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
大切にしすぎることだけがやさしさではないんですよね。

お礼日時:2005/01/10 11:33

良く見、良く聞き、相手について良く熟考しその結果出た行為であれば、必然的に優しさなのではないかと思います。


そこにある程度は打算的な考えや利己心が働いたとしても、人間ですのでしょうがない事ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
その利己心と葛藤してゆくのが人間というものかもしれないですね。

お礼日時:2005/01/10 11:35

健常者も障害を持つ人も含めて



優しくされる側から言えば、
ここまでは自分の力でやりたい、
ここから先は助けて欲しい。という境があると思いますが、そのラインは人それぞれなんですよね。

優しくする側からいえば
ここまでしたら、その人の為にならないけどここから先は助けたいと思うラインがあると思う。そのラインもその人の考え方で
それぞれ、

与える側と受ける側でそのラインがぴったりと一致してりれば問題無いのですが、そうではないから摩擦が生じるんですよね。

個々の人間関係の中で築いてゆくルールではないでしょうか?と私は思います。

でも初対面人やまだ良く分かり合えていないの人が困っていたら、誤解を覚悟で自分のラインを信じて行動すれば良いと思います。そしてそのつど意見を聞いて修正するしかないんじゃないかな。
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この回答へのお礼

そのラインが本当に難しいと感じます。
でもとりあえず困っている人がいたなら自分のラインからスタートしてその場で悔いを残さないようにしたいと思います。

お礼日時:2005/01/10 11:36

わたしは誰も自分のことは分からないというところから考えてみたら良いと思います。

あなたが存在するということはあなたに分かりますが、やはり自分というのは何者かは分からないのです。あなたの憐憫の対象になっている人にしても自分のことは分からないのです。自分が惨めだとしてもそれは自分が対象としている何かであって、惨めだとされているその対象なり状態はその人自身ではないわけです。ここに共感の基盤があるのではないかと思います。余り自信はありませんが、少なくとも私はそのように考えたいと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
じっくり考えて生きたいです。

お礼日時:2005/01/10 11:38

人それぞれでしょうから、ひとつの参考意見として回答させて頂きます。


私は、かわいそうとか、気の毒という同情心だけでも、
真のやさしさだと思います。
言い方を変えると、決してニセモノではないと思います。
たとえ、手を差し伸べてあげたとしても、
そこに、なんらかの報酬や、お礼の言葉や
周りの評価、自己満足などを期待する気持ちがあったら、
それを、「真のやさしさ」と呼べるのか私には疑問です。
誤解されないよう付け加えますが、
だから、こうあるべきだ。とか、
これはけしからん。
などと言うつもりはありません。
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この回答へのお礼

確かにそうかもしれませんね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/10 11:37

先天性であれ、後天性であれ、たしかに世の中には様々な障害を持つ人がいますね。



たとえば生まれつき箸を持てない脳障害を持つ人が、スプーンを使って食事をしようとしているとき、
かわいそうだからといって食べ物を口まで運んであげることは、本当の優しさとは言えません。

その人にしてみれば、一人で何でも出来るようにならなければ生きていけないわけですから、
スプーンしか持てなくても、食事に時間がかかっても、あたりに食べ物をこぼしまくってても、
また上手に食べられないことで泣き叫んでいても、
私たちはその人のために黙って見守っていることも必要です。

服を着るときも、トイレに行くときも、歯を磨く時も同じです。

必要以上の優しさは、障害者が一人でも生きていけるようになるための訓練の妨げになることもあります。

ただ、障害者は自分一人では身の安全を確保出来ない場合がほとんどですから、
命や大けがに関わる危険に直面する可能性のある場面では、
私たちが目をくばり、十分に配慮してあげることが必要と思います。

また、後天性の障害を受けた方の多くは、
他人の安っぽい同情を嫌い、自分の力で解決しようとがんばっている人がほとんどですね。

私たち健常者には理解できないものの方が多いわけですから、
私たちは彼らに対して、普通の人として接する必要があります。
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この回答へのお礼

なるほどだなと思いました。
そうできるよう努力していきたいものです。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/10 11:39

>同じ社会に生きる一員としてそういう人たちにどうしてあげることが真のやさしさだといえると思いますか?



普通に一人の人として、一人の人格をもった人間として接してあげるということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。やはり普通にその人の人格を尊重するということが大切なのですね。

お礼日時:2005/01/10 11:40

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