高校時代に歴史の先生から、「上杉謙信は実は女性だったという説がある」というのを聞いたのですが、詳しい事をご存知でしたら、その根拠などを教えて下さい。もう、20年以上も気になっています。

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A 回答 (6件)

 確か、その「上杉謙信女性説」最近、友人に教えて貰いました。


 その根拠ですが
1,上杉謙信がいた地方の歌に「まんとら様は男に負けない力持ち」という内容の歌詞がある事。ここの「まんとら様」は昔の謙信の名前だそうです。「男に負けない」という表現は、男には使わないのではという事だそうです。
2,どんなに勝っている場合でも、一ヶ月に一回、数日間、決まった周期で合戦を中断している事。
3,「川中島の合戦は武田信玄と美男子を取り合う目的があった」という説がある事。この説は、他に、「上杉謙信男好き説」の根拠ともされているそうです。
4,上杉謙信の銅像等で彼がよくかぶっている頭巾が当時の女性のファッションであった事。
5,上杉謙信の絵で、彼が不自然なくらいひげを生やしている事。「女性という事がばれるといけないので、後で書き加えたのでは?」という話です。
友人はかなり「上杉謙信女性説」を信じているみたいです。
 しかし、その説にも反論があり、「謙信が女性なら出家は出来ないのではないか」(謙信は出家しているらしいです)という事だそうです。
 ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

早速ご回答をいただき、ありがとうございます。
とても分かりやすいご説明で、20年来の胸のつかえがようやくとれました。

お礼日時:2005/02/06 16:18

小説としては面白いですが、別の珍説として下腹部に傷を負ってオカマになってしまったという説もありますが、いかがな物でしょうか。


謙信の兜の前立てですが「飯縄権現の像」である事はご承知ですか。
これが飯縄信仰の証とすれば、結婚をしなかった事や女性を近づけなかった理由にもなります。
飯縄信仰に依れば、修行を積むことで神の加護を神通力を得て、空も自在に飛ぶ事が可能になるが、女性に心をとられれば神通力が失われるとされております。
ただ、女性嫌いの言い訳として信仰の為と称したのかも知れません。
この時代は子孫を得られなければ家が潰れ、家臣一同路頭に迷いますから、兎に角早く結婚して子供を作り、その後で好きな事をやってもらわないと周囲が困りますから。
いずれにせよ、信仰のために女人禁制の場所にも立ち入ってますから、男性ではないかと思います。
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この回答へのお礼

早速ご回答をいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/06 16:20

下記URLをご覧下さい。



でも上杉謙信が女性であるという根拠より、男性であるという根拠の方がたくさんある気がするのですが、こういう説も、ロマンがあっていいですよね。

参考URL:http://www.interq.or.jp/asia/kakka/sacc/cg/list/ …
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この回答へのお礼

早速ご回答をいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/06 16:22

質問のとおりに検索すると、面白いほどヒットしました。

上杉謙信は戦の勝利を祈願して、妻を娶らないことを決めた話は聞いたことがあります。戦国時代では相手国の戦力を弱める為などに雇われた忍者などが、様々な職業に変装してデマを吹聴させることはあったようですが・・、事実どうなんでしょうね?お墓の遺骨からDNA鑑定をしていただかないとわからないですね。(遺骨の本人確認も難しいものでしょうか?)
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この回答へのお礼

早速ご回答をいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/06 16:20

下記のサイトに書かれています。


この説を提唱したのは作家の八切止夫氏で根拠は下記のようです。
(1)「当代記」に婦人病と書かれている。
(2)上杉謙信は生涯結婚していない。子供も残していない。また赤い服を好む。
(3)謙信の遺した文書は筆跡も文章も女性的である。
(4)謙信の背丈が大柄と書かれているのに実際は156cm程度だったらしい。
女性だったら辻褄が合う。
(5)スペイン人ゴンザレスの国王宛文書に、伯母の上杉謙信の記述がある。

戦国武将の話は根拠が乏しいようです。小説家の講釈でしょう。

参考URL:http://www.ffortune.net/symbol/zzz/tondemo/ton00 …
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この回答へのお礼

早速のご回答をありがとうございました。

お礼日時:2005/02/06 16:15

女っ気がなかったのでそう言われていると聞いたことがあります。

宗教に熱心な求道家だったというのが一般的な見方だとは思いますが、当時は家の安泰のために嫡男をもうけるのも武将の仕事みたいなところがあったので。これだけでごめんなさい。
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この回答へのお礼

早速のご回答をありがとうございました。

お礼日時:2005/02/06 16:15

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Q武将 ?上杉謙信? 名言

 先日、ラジオで聞いたことですが・・
戦国時代の武将(確か・・上杉謙信だったような)が
『死にたくないと思う奴は死に、死にたいと思っている奴は死なない』
というような意味合いの言葉を残したと聞きました。

どなたか、ご存知でしょうか?

Aベストアンサー

上杉謙信

・生を必する者は死し 死を必っする者は生く

解説・・・生きようとする人は戦場で死に、決死の働きをした者が生きていくという言葉

Q上杉謙信とか上杉家とかを

なんだか義に生きて義に死んだみたいにすごく美化してますけど、
誰が何のために上杉家を美化し始めたんですか。
実際のところ上杉軍って、攻め込んだ先で百姓とかぶち殺しまくったり、
女を犯しまくったり、すごく恐れられていたと聞きました。
上杉謙信に至っては、ただの戦好き。
今で言うところのブッシュ元大統領みたいなものだと言うことですよ。
いったい誰が何のために、
上杉家を義に生きる集団みたいな情報操作をしたんですかね。

Aベストアンサー

>誰が何のために上杉家を美化し始めたんですか。


根拠はありませんが、
江戸時代のそれも元禄時代あたりからではないでしょうか。

日本人には判官びいきというのがあって、
強者、権力者へのあてこすりや批判に
それに対抗するものを作りたがるからです。

権力が不安定な時代であれば弾圧されますが、
安定してくると、それも一つの読み物、娯楽として
庶民の不平不満のガス抜きとして認められます。

家康がたぬきおやじで、真田幸村や直江兼継が
反権力のヒーローみたいに特徴づけられるわけです。

たぶん、講談や辻講釈の一節として定着していったのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E8%AB%87

Q上杉謙信について

上杉謙信について詳しく載っているサイトがあれば教えて下さい。(上杉謙信の戦法や兵の数など) とにかく、どんな事でもいいので教えて下さい。 お願いします。

Aベストアンサー

上杉謙信の戦法に「車懸りの陣」があります。
http://www.m-network.com/sengoku/senpou.html

上杉謙信小事典
http://members8.cool.ne.jp/~montitti/_private/syoujiten2.htm

そのたに、下記のページがあります。http://www2.harimaya.com/uesugi/

http://www8.ocn.ne.jp/~yozan/rekisi/jinbutu/kensin.htm

http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/itiran/uesugi2.htm

http://www2.odn.ne.jp/naifu/tanteidan/kensin1.htm

http://www2.harimaya.com/uesugi/k_kawa.html

Q上杉謙信はどこを目指すつもりだったのか?

謙信はあの日大軍勢を率いて出兵するはずでした
しかし厠で倒れてそのまま逝ってしまいました。

その日出兵するはずだった上杉軍は関東の北条を叩くつもりだったのか?
それとも織田信長に大決戦を挑むつもりだったのか?

もしも畿内に生まれていれば天下人となったであろうと言われたその男は
どこを目指して死んでいったのでしょうか?

Aベストアンサー

上杉の名と関東菅領を引き継いだ以上、関東が最優先ではないでしょうか?

対する北条氏康は古河公方として足利義氏を擁立して名目上の関東菅領にし、謙信の関東菅領拝命を完全否定しているから
氏康は関東菅領としての謙信の命に従うつもりはさらさらないのですから


謙信が織田を破ったといわれる手取川の戦いはほんとにあったかどうかかなり疑わしいし
(織田側の惨敗とされるにも関わらず、高名の武将が一人も死傷していない、誰もそれにより職を追われたり追放されていない
天王寺の戦いで織田側の旗頭として戦い、雑賀衆に討たれ惨敗した大和国主塙直政は戦後一族全員追放されました
越前国主も柴田になるまで一向衆との戦いで失態のあった朝倉旧臣は国主から除かれました)


それに謙信にとり不安なのは面従腹背の神保、椎名という越中の小大名で
謙信が越後に退いた後に謀反を起こすことも度々

また同盟したとはいえ
それまで越中で激しく対立、戦っていた一向衆にどれだけの信頼を置けるのか
謙信には不安ではなかったのでしょうか?


西は織田との緩衝地帯として越中、能登に影響力は残しつつ
対関東政策に専念するのが謙信の本意ではないでしょうか


越後一国のみの国主で兵農分離されていない兵力で
強力な北条を背面に残し、上洛など遠距離で長期間の多正面作戦は不可能に近いと思います


長文失礼致しました

上杉の名と関東菅領を引き継いだ以上、関東が最優先ではないでしょうか?

対する北条氏康は古河公方として足利義氏を擁立して名目上の関東菅領にし、謙信の関東菅領拝命を完全否定しているから
氏康は関東菅領としての謙信の命に従うつもりはさらさらないのですから


謙信が織田を破ったといわれる手取川の戦いはほんとにあったかどうかかなり疑わしいし
(織田側の惨敗とされるにも関わらず、高名の武将が一人も死傷していない、誰もそれにより職を追われたり追放されていない
天王寺の戦いで織田側の旗...続きを読む

Q上杉謙信の子孫?

このまえ「トリビアの泉」を見ていたら、上杉謙信の子孫が登場していました。でも、上杉謙信といえば、生涯独身で、女性と関係を持たなかったと聞きましたが、子孫がいるということはどういうことでしょうか?

Aベストアンサー

初代:上杉謙信

→2代目:景勝
 謙信の甥。

→3代目:定勝
 景勝の嫡男

→4代目:綱勝
 定勝の次男

→5代目:綱憲
 吉良上野介の息子。母親は定勝の娘

→9代目:治憲(鷹山)
 中興の祖と言われる名君。秋月種美の次男、母は綱憲の娘

主な藩主ですけど、幕末まで多少の血縁関係はありますが、何度か養子を貰って血脈を保っています。
上杉謙信の直接の子孫はいませんが、姉の息子の景勝の系統が子孫となります。
もう一人の養子の影虎は北条氏の出身で、景勝の妹を妻にしていましたが、御館の乱で破れ、義兄の景勝に殺されています。

Q【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。 戦国時代の

【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。

戦国時代の日本人口は1000万人くらい。

少なく見積もっても800万人。

で、大名に万石という土地を分け与えて国を管理していた。

そのときに3番目に多くの土地を貰っていたのは九州の大名で86万石。

天皇の朝廷
その時の天下人
でこの3番目の九州の大名

3番目の九州の大名で86万石。

日本で3番目に多くの領地を貰っている大名で最大で86万人しか食べられない。

ということは最低でも800万人国民いたとしたら、大名の数が当時の数と合わない。

本当はもっと総人口は少なかったのでは?

天下人と天皇の朝廷は大名に年貢を納めさせたので大名の万石から譲り受けたわけだからノーカウントとして、残り714万石。

あとの大名は10万石とかですよね。

当時の大名ってそんな数いませんよね?

おかしくないですか?

Aベストアンサー

士農工商のうち、武士以外が米を食っていたとでも?

Q上杉謙信と、その家臣

 上杉謙信の家臣であり、侍大将である小林左馬介について教えてください。
 また、侍大将とはどういった役職で、何をしていたのでしょうか?
 また、上杉謙信は女性と言う説がありますが、どうなんでしょうか?

Aベストアンサー

質問者様のご先祖が「小林左馬介」だと伝わっている、といったお話ですか?下記の記述を元に質問されているのでしょうか。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/kobayasi.html
「上杉謙信の侍大将に小林左馬介の名が見え」
※ 詳細は略しますが、上記は「小林左馬助」の間違いと思われます。

上杉家は越後から会津、米沢と移って明治維新に至りました。上杉謙信の家臣団が基本的にはそのまま維持されてましたので、「上杉謙信の侍大将に小林左馬介の名が見え」が事実であれば、
※ネット上の情報にはウソも多いです。
小林左馬助の子孫が米沢藩士として存続し、米沢藩の史料に残っているのはほぼ確実でしょう。

市立米沢図書館
http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/
に「郷土資料室」が存在するようです。米沢藩に関する活字の資料はここに取り揃えてあるはずです。土日祝日も開館していますから、遠方にお住まいでもここに行けば「小林左馬助の子孫」について調べることは容易です。なお、事前に図書館に連絡して「小林左馬助の子孫について知りたい。何月何日に東京(例)から伺うのでよろしくお願いします」と言えば、図書館の担当職員が調べる手助けをしてくれる筈ですし、事前に何を準備すればよいかアドバイスしてくれるでしょう。

「侍大将とはどういった役職で、何をしていたのでしょうか?」
明確な定義はありませんが、戦国時代には、「独立した戦力を率いる地位の武士」を「侍大将」と称したようです。自前の家臣(郎党)と、自分に付属された武士(与力・同心)を含めて数百人程度かそれ以上の戦闘員を率いており、例えばこの兵力で一つの城を守備しました。

「また、上杉謙信は女性と言う説がありますが、どうなんでしょうか?」
上杉謙信が女性(男装の麗人)であったと仮定すると説明がつくことがいくつかあるのは事実です。
1. 生涯結婚しなかった。女性が女性と結婚できるわけがないので当たり前。
2. 上杉謙信の書状を見ると、妙に女性的な、感情的な表現が目につく。
3. 近衛前久との良く分からない盟友関係、近衛前久と共に関東へ出兵し全く実りのない戦を繰り広げるといった戦国大名として不合理な行動は「謙信が女で近衛と恋愛関係にあった」とすれば説明がつきます。
謙信は京都に二度赴いたようで、歴史家はその動機を説明するのに苦労していますが「女の謙信が京都に観光旅行に行った」と考えれば説明がつきます。

ただ、謙信は兄の現当主を見限った長尾家家臣団に推戴されて長尾家を継ぎました。「謙信が女であった」とすれば、長尾家家臣団はそれを承知で謙信を推戴したことになります。後年に謙信が示した天才的な武略を家臣団が予測できたとは思えず、「現当主を廃して、女を主君に担ぐ」というのはいかにも不自然です。

質問者様のご先祖が「小林左馬介」だと伝わっている、といったお話ですか?下記の記述を元に質問されているのでしょうか。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/kobayasi.html
「上杉謙信の侍大将に小林左馬介の名が見え」
※ 詳細は略しますが、上記は「小林左馬助」の間違いと思われます。

上杉家は越後から会津、米沢と移って明治維新に至りました。上杉謙信の家臣団が基本的にはそのまま維持されてましたので、「上杉謙信の侍大将に小林左馬介の名が見え」が事実であれば、
※ネット上の情報...続きを読む

Q上杉謙信&沖田総司

上杉謙信の生涯を描いた小説を探しています。大河ドラマ風林火山を見て、謙信について興味を持ったので。教えていただけたら幸いです。

また、司馬遼太郎の燃えよ剣を読んで、沖田総司に興味がわいてきたので、沖田総司の小説ももしあったらお願いします。

Aベストアンサー

上杉謙信といえば、海音寺潮五郎の「天と地と」でしょうね。
これは大河ドラマにもなっていますから。

Q太閤立志伝5、上杉謙信・主人公札の取り方

太閤立志伝5、上杉謙信・主人公札の取り方

テレビを見ていて、太閤立志伝5で上杉謙信の主人公札を入手してないのを思い出して取っておこうとネットを検索しましたが、2ちゃんねるのスレの端切ればかりがヒットしてよく解かりません。
上杉謙信を入手してないのは、やり方が難しかったからだと思います。

入手方法を教えて下さい。

Aベストアンサー

・上杉景勝プレイで御館の乱を発生させる
・柴田勝家プレイで手取川の戦いに勝利する

のどちらかのようです。
http://brightbell.main.jp/kipima/game/taikou5/event_sonota.html

Q上杉謙信にも領土的野心はあった?

上杉謙信は正義と理想のために戦い,戦いといえばハイリスク・ローリターンなものばかりで敵から奪った領土は元の領主に返してあげていたという話を聞くけど、長尾家(上杉家)は謙信の代で200万石近い大大名になってますよね。
七尾城の戦いでも織田家を破ったりして越中とかそのあたりを上杉家の版図に加えることに成功してますよね。

実は上杉謙信にも北条氏康や武田信玄のような領土的野心があったということですか?

Aベストアンサー

#3の補足です。

>しかし、居座ることなく引き上げたとなると、200万石という数字は越後、能登、越中の直轄地と、兵は引き揚げたけど影響力をもった関東と信濃を支配圏と計算しての数字ということですか?

200万石という数字の根拠は、自分にはよくわからないのですが、彼は異常なほど関東や信濃への出兵を繰り返しています。
出しては退き、出しては退き、という行動が、領地目当てではない「義将」と言われるゆえんであるわけですが、その中で直轄地にしたところもあれば、家臣に分配する土地もあったでしょうし、その土地の国人の領地を安堵してそのまま彼らを臣従させる、ということもあったでしょう。
まったく見返りなく出兵するだけでは、家臣はついてこないでしょうから。
ただその行動の動機が、領地拡大だったとは言いにくいんじゃないか、ということです。
出しては退き、を繰り返さなければいけない事情として、越後は雪国ですから、雪に閉ざされる前に本国に帰還しないといけない、といったことはあったと思いますが。


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