『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

戦前は、東京帝国大学他の各地の帝国大学に進学するには、まず高等学校(北大予科、京城帝大予科、台北帝大予科を含む?)に入学しなければなりませんでした。高等学校の総定員が帝国大学の総定員と同じであり、東大法科のような志望者が定員を上回る人気大学・学科以外は無試験で大学に入れたため、旧制高校の入試が現在の大学入試の位置づけであったと聞いています。

ところで、戦前の官立大学には、帝国大学以外のものがいくつかあります。大正期に大学に昇格したものと思います。
* 東京商科大学
* 千葉医科大学など、いわゆる「旧制六医大」

質問ですが、

1. これらの帝国大学以外の官立大学に進学するには、各大学の予科を経る以外なかったのか、あるいは旧制高校からも無試験で進学できたのか。

2. 逆に、例えば東京商科大学の予科から、帝国大学に無試験で進学できたのか。高等師範学校や高等専門学校の出身者でも、「試験を受ければ」帝国大学に進学できたのは存じておりますが。

3. 北大予科、京城帝大予科、台北帝大予科は旧制高校と同じ位置づけだったそうだが、例えば北大予科からはどこの帝国大学にでも無試験で進学できたのか。あるいは、無試験では北大しか進学できなかったのか。

ご回答をお待ちしております。

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A 回答 (4件)

No.2回答の補足です。


こうやって予科をあとから設置したのが神戸商業大などですね。
また、2のご質問に関してですが、予科からは基本的に本科進学ということになるかと思います。そのかわりとして、他の高校からの受験に優先して予科からの優先進級を特権として設けていました。

戦前の北大理学部の場合は入学資格者の順位を、
(1)北大予科修了者、旧制高校理科・学習院高等科理科卒業生
(2)旧制高校文科・学習院高等科文科卒業生
さらに欠員があれば、
(3)高等師範、女子高等師範の理科卒業生、理科の専門学校卒業生
(4)専門学校卒業生で検定試験の合格者
(5)旧制中学教員免状所有者(いわゆる私立の女子大あたりを想定しているらしい)
に対し試験を行い、合格したものを入れる
としていました。

この回答への補足

「(5)旧制中学教員免状所有者」についてですが、そういえば、「師範学校を出て小学校教員になり、検定試験を受けて中学教員免状を取得して中学校教員になった」という人の話を何かで見たことがあります。
大学や高等師範学校に行けなくても、授業料が要らない師範学校を卒業した後に小学校で働きながら勉強して検定試験に受かれば、中学校の先生としての社会的経済的地位を得ることが不可能ではなかった、ということですね。貧しい家の子供にとっては、将来に希望を持てる制度だったと思われます。

補足日時:2006/05/07 11:16
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この回答へのお礼

subaru360様、重ねてのご教示ありがとうございます。だいぶ見えて参りました。

北大理学部の入学資格者の順位、なるほどと思います。官立大学予科生徒は、その官立大学にしか進学できない代わりに無試験・高校卒業生に優先しての進学を保証されていたということで理解できます。高校より入試難易度が低くて、特定の官立大学への進学が確実というのは十分な魅力だったでしょう。

ところで、「(4)専門学校卒業生で検定試験の合格者」とは、例えば「高等商業の卒業生で検定試験に受かった者」ということでしょうか。何と言う試験だったのでしょうか?無学歴者に高等学校などを受験する資格を付与する「専検試験」のことは存じていますが。

「(5)旧制中学教員免状所有者(いわゆる私立の女子大あたりを想定しているらしい)」については、全く存じませんでした。そのような形で、女子が大学に進学する道が細々ながら設けられていたのですね。

お礼日時:2006/05/07 00:37

No.2回答の再補足です。


>、「(4)専門学校卒業生で検定試験の合格者」
北海道帝国大理学部の学則によると、学校が独自に行う旧制高校理科卒業程度の学力認定試験のこと、と読めました。
専検は有名ですが、五島慶太(東京急行電鉄創業者、東京高等師範→旧制中学の英語教師→一念発起して旧制一高卒業検定試験合格→東京帝国大学法学部入学→高等官→鉄道会社創業)の伝記から、さらにその上に旧制高校卒業の検定試験があったということを知っています。
東京帝大はいわゆる傍系からの入学を認めず、高等学校卒業生だけを受け入れる帝国大学でしたが、このように旧制高校卒業資格を得る検定試験も存在していたようですね。(ただし、卒業資格試験のため学力だけでなく体育の試験まであったように伝わっています)昔は経済的理由から上級学校への進学を断念した方が多かったですから、逆に有能な人材をすくい上げるための手段もあったようです。
ちなみに、北大予科の場合、入試競争率は戦前の最盛期で13倍程度だったようです。
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この回答へのお礼

五島慶太氏が官僚出身とは存じていましたが、高等師範卒の中学教師からの転身とは初めて知りました。高等師範を出た人は当時の十分なエリートと思いますが、それでも満足しなかったわけですね。さっそく、五島慶太氏の伝記を読んでみたいです。「飛竜の如く―小説・五島慶太」というのがあるみたいですね。

黙っていても秀才が集まる東京帝大は傍系出身者を受け入れず、高校卒業者または「旧制高校卒業資格を得る検定試験」合格者のみが進学できたとのこと。帝国大学と一括りにできず、各大学間でいろいろ独自の制度を持っていたのですか。東北帝大が女子の受け入れに積極的だったと言われるのも、帝国大学間の競争の結果だったと思われます。

北大の資料をわざわざお調べ頂いたようで恐縮です。何回もご教示頂きありがとうございました!

お礼日時:2006/05/07 11:49

まず、1について


官立大学予科は、あるところよりもないところのほうが多かったようですね。
したがって、各高校の落ちこぼれが入学してきたようです。さすがにそれでは学校のレベルが保てないので、予科を作って優秀な学生を囲い込むようにしたようです。

旧制高校出身の方のブログより
>旧制高校を卒業すれば大体全国の国立大学のどこかに入学する事が出来た。大都市にあった旧帝国大学、千葉、新潟、岡山、熊本、長崎、金沢の六つの単科医科大学、東京工大、東京商大(現・一ツ橋)、神戸商大等々であった。
 旧制高校卒業生と国立大学募集人員はほぼイコールだったから、(帝国大ならともかく)六つの地方医科大学は大抵無試験で入れた。成城文科から岡山医大を受けた我が医師会の耳鼻科のA先生は、事務官が試験場に入ってくれと言うと
 「俺たちは無試験だっていうから入学手続きに来たんだ。それを試験するってえのはおかしんじゃねえか。」
と浅草育ちの東京弁で毒づいた。事務官は
 「そりゃそうですけえど、一応、試験はする事になっておりますんじゃ。まあ、そねんごねんと中に入って名前だけでようござんすから、ちょと書いてやってつかあさらんか。」
と岡山弁で答えたという。現在ではとうてい信じがたい話である。
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この回答へのお礼

なるほど。興味深い証言を引用して下さりありがとうございました。予科の生徒は属している大学にしか進学できないが、高等学校の生徒は希望する「官立大学」に自由に行けたわけですね。

高校の「文科」の生徒が無試験で岡山医大に行けたとは今では夢のような話です。医学部には、高校の理乙でないと行けないと思っていたのですが…

二高から東北帝大医学部に進んだ人から、戦前の高校入試が今の大学入試同様に厳しかったことを聞いたことがあります。ただ、中学校に入ればエスカレーターで高校に上がれる私立の7年制高校なら、例えば一高に入るのよりはかなり易しかったと思います。実際、7年制高校の最初は、関西の金持ちが自分たちの子弟を帝大に入れるために作った甲南高校だったようですし。お金がある学生にとっては、今よりずっと楽だったようですね。(笑)

お礼日時:2006/05/06 23:33

予科と帝大その他の大学との関係はわかりません。


高師や高専から帝大に行くのは多かったと思います。東大法学部や医学部などの人気学部を除けば、多くの帝大では入学者が不足気味でしたから、これらの傍系入学者は歓迎したでしょう。
大正時代に日本で初めて女性学士を出した東北大は、東京女高師(お茶の水女子大)、日本女子大、東京女子大などから学生を受け入れていました。なお、戦前には女子は高等学校には入れません(戦後は例があったようです)。日本女子大、東京女子大も大学ではなく、高専相当だった筈です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
戦前の「日本女子大学」や「東京女子大」の法的地位は私も良く分からないのですが、ご指摘のように「大学」ではなかったようです。私立の学校で法的な「大学」に昇格している例は戦前でも多数ありますから、「女子大学」を公式に「大学」にできなかったのはそれなりの理由があったのでしょうね。
東北帝大が女子学生を受け入れたのは、「人気がないための苦肉の策、話題づくり」の要素も恐らくあったろうと推測します。

お礼日時:2006/05/06 14:25

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Q戦前の大学の難易度

概ね昭和初期の日本の大学の、

東京帝国大学
陸軍大学校
海軍大学校

では最も難関だったのはどれでしょうか?

Aベストアンサー

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校に入学できれば、ほぼ(どこでもいいなら)帝国大学には進学できました。さすがに東大は少々難しかったにせよ、そういうものだったのです。ですから、大学受験での受験地獄はありませんでした。むしろ一番の関門が、高校受験でした。
そして、同じく、中学卒業時に海軍兵学校や陸軍士官学校の受験資格がありました。どこの中学からでも相当な秀才が行ってます。東京帝大も十分射程距離の学生です。

それと、学力だけでない難易度もあります。体格や体力もですが、特に海兵においては、海外に出る機会が多く、欧米先進国の士官に見劣りしないようにという考えが働いたようで、男前が多かったですよ。
男ぶりに自信がないから陸軍にするという人もいるくらいでしたからね。

ということで、海軍兵学校というのは、当時の女学生から絶大な人気がありましたよ。

それでも、東大の法学部は当時の高等文官試験の合格率が高く(高文は単なる公務員試験ではなく色々と特典もありますから)別格だったでしょう。
それが崩れたのは、第2次世界大戦の最中、大学生も徴兵免除がなくなった頃からでしょう。このときは文科は免除なし、理科は免除でした。それで、徴兵逃れに医者になるものが増えたんですよ。帝国大学でなくてもいいと、地方の医科大学の進学者が増えました。(戦前は国民保険制度がないので、かならずしも医者が儲かるとは限らない)

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校...続きを読む

Q戦前の旧制高校と帝国大学について質問です

戦前の旧制高校・帝国大学について、質問です。

1.仙台が二高で京都が三高となったのには、どういう経緯があるんでしょうか。

2.四高~七高が 金沢・岡山・熊本・鹿児島と、現在の主要都市とは対応しない分布をしているのは何故ですか。
 特に、大阪と福岡には無いのに、熊本・鹿児島と九州南部に2校もあるのは何故でしょうか。

3.鹿児島高校がスクールに入れたなら、山口高校は入れなかったのでしょうか。

4.それに対し、帝国大学は現在の主要都市に応じて散らばっているのは何故ですか。

5.何故「東北大学」「九州大学」だけが都市名ではなく地方名がつけられたのでしょうか。

Aベストアンサー


第二師団も仙台
東北から北海道は東京政府にとって、”開拓し、防御すべき地区”というので第二にナンバリングされたんじゃないかな。


現在の主要都市でなくても、当時の主要都市である。
江戸時代末期の段階で三都(江戸・京都・大坂)に次ぐ人口は名古屋で、名古屋は宗春時代に急激に人口増加した、その前までは基本的には城下町の人口=その大名家の経済力、武士の数=大名家の石高となります。最初の、1~5までは妥当な全国配分となります。
鹿児島が結構イレギュラーな政争があったようですね。


地元産業界の出資があったからです。
しかも、帝大は基本的には理系偏重で設備投資が大きかった。三番目の東北帝大が1907年であるように、産業革命が進行し重工業の時代にシフトしだした時代です。


現在の北海道大学も東北帝国大学内の農学部として位置づけられていたので、一都市ではなく方面として”東北”。九州大学は、本部は福岡だけど九州中にいろいろおきましょね・・・なんていう設立運動推進の背景があった。

Q旧制中学を卒業すれば大学に行けた?

戦前の日本では、
旧制中学を卒業すれば大学に行けたのでしょうか?
高校の立場はどうなりますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>旧制中学を卒業すれば大学に行けたのでしょうか?

戦前といっても太平洋戦争末期とそれ以前では制度が違うため微妙ですね。
ただ「大学の本科」に限れば答えはNoでしょう。

戦前は数多くの学校(種別)があり、現在と比較するのは難しいです。
単純に「小学校⇒中学⇒高校⇒大学」というようなストレートな順番だけでなく、多岐にわたる選択肢があります。
小学校(国民学校)卒業後だけを見ても以下のように多岐にわたります。(太平洋戦争末期)
国民学校高等科:2年制(12~14才)
実業学校:4年制(12~16才)
青年学校普通科:2年制(12~14才)
青年師範学校予科:3年制(14~16才)
師範学校予科:3年制(14~16才)
高等女学校:4年制(12~16才)
中等学校:4年制(12~16才)
高等学校尋常科:4年制(12~16才)

大学(本科)に行くための進路だけに限定すれば以下の2ルートが正規ルートでしょう。
・旧制中学→旧制高校→大学
・旧制中学→大学予科→大学

なお旧制高校の定員は帝国大学の定員とほぼ同数だったため、専攻を選ばなければ帝国大学への入学は約束されたようなものだったようです。
逆に言えば一部の一部の帝大に人気が集中すると定員割れを起こす帝大や公立大学が出てしまうようです。

その対策として各大学が大学予科を新設して学生の確保に力を注いだとのことです。(大学予科は特定の大学の付属学校のため、他の大学には進学できません)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E5%AD%A6%E6%A0%A1

>旧制中学を卒業すれば大学に行けたのでしょうか?

戦前といっても太平洋戦争末期とそれ以前では制度が違うため微妙ですね。
ただ「大学の本科」に限れば答えはNoでしょう。

戦前は数多くの学校(種別)があり、現在と比較するのは難しいです。
単純に「小学校⇒中学⇒高校⇒大学」というようなストレートな順番だけでなく、多岐にわたる選択肢があります。
小学校(国民学校)卒業後だけを見ても以下のように多岐にわたります。(太平洋戦争末期)
国民学校高等科:2年制(12~14才)
実業学校:4年制(12...続きを読む

Q旧帝国大学、旧官立大学の位置づけの違いは

よろしくお願いします。

戦前の大日本帝国により設立された大学は
なぜ、
帝国大学と官立大学に分かれるのでしょうか?

位置づけが違う、もしくは設立年の違いでしょうか?

また官立大学の中には戦後、学習院大学のように
私立になったものもありますが何故ですか?

格付けなどの位置づけの違いや、設立経緯の違い
などいろいろ教えてください

Aベストアンサー

No.1の回答者です。
若干補足しますね。

まず、戦後の民主化で廃止になった学校として取り上げた官立大学は神主の養成学校である神宮皇學館大学(略称神宮皇大)です。短い間でしたが、旧制高校に相当する大学予科もありました。(通常の旧制高校から神主になろうと進学する学生は希でしょうから)

沿革は復活後の皇學館大學のHPにのっています。
>明治36年8月 勅令をもって神宮皇學館官制公布され、内務省所管の官立専門学校となる
昭和15年4月 勅令をもって神宮皇學館大學官制公布され、文部省所管の官立単科大学となる
昭和21年3月 GHQによる神道指令(昭和20年12月発令)により廃学

戦後、日本がサンフランシスコ講和会議で独立を回復したあと、吉田茂が肝いりになって規模の小さい私立大学として復活しました。

北大の件は言葉足らずだったかもしれませんが、質問者さんが混乱しないように簡単に説明すると、帝国大学は複数学部で構成されるべしという大前提があって、札幌農学校そのものの学問水準は大学の名前にに値したが、複数学部の壁があったため、単独では帝国大学になれなかったということです。

創立時の勅令によると、東北帝大は農科大学(札幌)と理科大学(仙台)で構成し、本部は仙台に置くけど理科大学が立ち上がるまで、当分は札幌の農科大学学長が総長を代行するよというものです。すでに出来上がっている農科大学と、欧州に留学している本多光太郎などの少壮教授たちが帰った時点でようやく立ち上がる理科大学との時間差のためですね。もっとも今よりはるかに交通の便の悪かった頃ですから、実質的にひとつの学校としては運営しにくく、仙台、札幌ともその後学部を増設することにより、東北帝大、北海道帝大としてその後独立しています。

>東北帝国大学ニ関スル件(明治40年勅令第236号)
第一条 仙台ニ帝国大学ヲ置キ東北帝国大学ト称ス
第二条 札幌農学校ヲ東北帝国大学農科大学トス
第三条 東北帝国大学ノ分科大学及分科大学中ノ各学科開設ノ期日ハ文部大臣之ヲ定ム
第四条 東北帝国大学総長ノ職務ハ当分ノ内東北帝国大学農科大学長ヲシテ之ヲ行ハシム

No.1の回答者です。
若干補足しますね。

まず、戦後の民主化で廃止になった学校として取り上げた官立大学は神主の養成学校である神宮皇學館大学(略称神宮皇大)です。短い間でしたが、旧制高校に相当する大学予科もありました。(通常の旧制高校から神主になろうと進学する学生は希でしょうから)

沿革は復活後の皇學館大學のHPにのっています。
>明治36年8月 勅令をもって神宮皇學館官制公布され、内務省所管の官立専門学校となる
昭和15年4月 勅令をもって神宮皇學館大學官制公布され、文部省所管の官...続きを読む

Q旧東京教育大学(現筑波大学)の格式・レベルって「客観的に見て」どうだっ

旧東京教育大学(現筑波大学)の格式・レベルって「客観的に見て」どうだったのですか?

予備校講師や本を書いている著者でたまに見かけるこの大学の人を
見ていると、コンプレックスとプライドの融合体のような人物が多くて、
たいていは早慶をちょっと見下している感じがします。

あたかも一橋大学や東京工業大学と同格と言わんばかりです。

ただ、今となっては知名度が皆無に等しく、いったい北海道大学教育学部や
九州大学教育学部といった旧帝大系教育学研究系部と比較して入学の学力的
にはどうだったのか、
知っている年配の方、あるいは、その道に詳しい方、教えてください。

偏見や嫉妬なしの、ありのままの格式・レベルが知りたいです。

Aベストアンサー

NO2です。

大学初任給 (誤り)11000円---------->(正)110000円とゼロが一つ足りません
訂正しておきます。

Q3、40年前の私立大学入試

3、40年前は、私立大学は今ほど人気がなく、早慶でも、そこまで難易度は高くはなかったという話を聞いたのですが、これは事実でしょうか?

Aベストアンサー

本当です。30年前か、40年前かというので、話は違ってくると思います。

当時は、頭がよくて、なおかつ裕福な人だけ大学に進学する傾向がありましたから、競争率自体は、低かったと思われます。

県立のトップ高校でも、進学せずに就職したり、結婚する人が結構いましたから。

また、早慶だけでなく、願書さえ出せば合格する大学もあったそうです。(青山学院大学とか日本大学など)。

今から45年位前の話です。


親がそうそうたる大学を出ていても、子供はそれに及ばずというケースも多々ありますよね。
そういうのも、時代背景とか関連があるのかもしれないです。

でも当時は、国立大学の人気が高く、旧帝大なんか今よりはるかに難しかったものと思われます。

Q戦前の師範学校について

戦前には、教員を養成する師範学校がありましたが、師範学校は、旧制中学校を卒業した後に入学したのでしょうか。

Aベストアンサー

残念ながら数的データを持ち合わせないので伝え聞く範囲でお答えします。

戦前の師範学校は、第二次世界大戦中の学制改革までは高等小学校卒後に進学するのが基本ですので、中学校からは普通進学しませんでした。
田舎の自作農やあまり大きくない地主の長男は地元を離れることを許されなかったので、高等小学校卒後農業学校か師範学校へ進むことができれば幸運だったようです。

高等師範学校というものもありましたがこれは主に中学校教員の養成機関で、中学校卒か師範学校卒の学生を受け入れていました。類似するものに農業教員養成所や工業教員養成所があり、それぞれ農業学校や工業学校の教員を養成していました。

ただし戦時中の学制改革によりNo.1さんの回答のように、予科3年を経て本科3年に進むようになりました。
このため戦後、教員養成学校は新制高等学校相当ではなく大学相当になった経緯があります。
(なので戦後かなりの長期にわたり、文学部など伝統のある大学学部の教官は、同じ分野の研究をしていても教育学部の教官や教養部(旧制高校相当)の教官を見下していたところがあります)

残念ながら数的データを持ち合わせないので伝え聞く範囲でお答えします。

戦前の師範学校は、第二次世界大戦中の学制改革までは高等小学校卒後に進学するのが基本ですので、中学校からは普通進学しませんでした。
田舎の自作農やあまり大きくない地主の長男は地元を離れることを許されなかったので、高等小学校卒後農業学校か師範学校へ進むことができれば幸運だったようです。

高等師範学校というものもありましたがこれは主に中学校教員の養成機関で、中学校卒か師範学校卒の学生を受け入れていました。...続きを読む

Q戦前の官立商科大学への進学

以前、旧制高校と旧制官立大学の関係について質問し、
「旧制高校からは帝国大学以外の全ての官立大学に進学可能であった。ただし、その大学に予科がある場合は、予科からの進学が第一順位であった。その代わり、予科生徒は当該大学にしか原則として進学できなかった」
というご回答を得ました。大学予科は、不人気大学が定員を満たすための苦肉の策、という面が強かったようです。

次の疑問ですが、

* 明治大正の頃は、秀才の進学先は「一高・東京高商・陸士・海兵」と言われていたらしい。

* 大正中頃に東京高商が東京商大に改組された後、東京商大には予科が設けられた。不人気であったためではなく、予科段階から商業教育を徹底させるためか。

* 旧制高校から東京商大に進んだという人の話は聞かない。

* 東京商大は、予科生徒のみで定員を充足し、級背う高校からの進学は不可能となる例外的な大学であったのか?

* 同じ官立商大の神戸商大はどうだったのか?大阪商大は、官立ではなく大阪市立であったのでそもそも旧制高校からの進学はなかったのか?

よろしくご教示の程お願いいたします。

以前、旧制高校と旧制官立大学の関係について質問し、
「旧制高校からは帝国大学以外の全ての官立大学に進学可能であった。ただし、その大学に予科がある場合は、予科からの進学が第一順位であった。その代わり、予科生徒は当該大学にしか原則として進学できなかった」
というご回答を得ました。大学予科は、不人気大学が定員を満たすための苦肉の策、という面が強かったようです。

次の疑問ですが、

* 明治大正の頃は、秀才の進学先は「一高・東京高商・陸士・海兵」と言われていたらしい。

* 大正中...続きを読む

Aベストアンサー

>* 同じ官立商大の神戸商大はどうだったのか?大阪商大は、官立ではなく大阪市立であったのでそもそも旧制高校からの進学はなかったのか?

市立大阪商科大学の場合、
昭和4年度の記念すべき第一期生のデータでは、

(1)入学志願者
高校卒  11
予科修了 35
高商  203
その他   4

(2)入学者
高校卒   1
予科修了 35
高商   84
その他   1

※その他は外国人等
です。

高校出身者は商科大に対しては傍系意識が強かったため、このありさまです。これに対して予科からは全入、全国の高商からは半分が合格しています。
一橋、神戸もトレンドは同じですね。
(出典 大阪商科大学60年史 昭和19年刊)

Q旧帝大ってどんくらいすごいですか?

旧帝大ってどんくらいすごいですか?
私の祖母はめっちゃ旧帝大信者です
姉が私立大なのですが 実家帰るたび嫌味を言われていてかわいそうです
信者はうちの祖母の世代に限るんでしょうか?
皆さんは「旧帝卒」って聞くとどう感じますか?
教えて下さい

Aベストアンサー

国立大の話をすると、各県に教育学部と医学部が必ずあります。学校の先生とお医者さんは、各県に必ずいる大切な職業で、しかも高等な教育が必要だから、地元に養成機関を作ったんですね。また、ほとんどの県で、工学部か農学部、希に水産学部があります。これも地元の産業を担う人材を育てたい、ということですね。
旧帝大は、これら各県の枠では収まらない優秀な人材を集めて地元の産業の枠を超えた、国として産業や学問を発展させよう、という研究機関となります。北海道、東北、関東、中部、近畿、九州の各地方(なぜか中四国にはないんですよね)にあります。
特徴としては総合大学として、文学部、商学部、法学部、理学部、工学部が必ずあり、各分野の進歩を担う人材の育成を目的としています。
要は、「研究者」つまり「学者」を養成することが大きな目的です。

対して私立大の両雄、早稲田、慶応の例で書くと、これらは、社会に実際に役立つ人材を広く育成することが目的で、「実学」(実際の社会活動に役立つ学問)を教えることが主になります。
たとえば、建築の話ですると、
旧帝大は建築学の権威を育てたいと考え、私立大は優秀な建築家を育てたい、と考えているわけです。

ここでのポイントは、学者さんと技師さんとで、どちらを尊敬するか、ということですね。
昔は多くの人は中学にも行かずに職人や商売人になりました。職人は技師と同じ職場にいますし、経営者も商売人と直接関わる間柄になりますよね。技師さんや経営者さんは大学を出ていても身近な存在なんです。大学を出たばかりの設計技師さんよりも、現場で腕を磨いた頭領の方が優秀なことも多かったでしょう。
でも、身近に学者さんはいなかったでしょう。

で、回答になりますが、「旧帝大卒」と私が聞いた場合、研究者になるための一通りの作法を学んだ人だ、という認識を持ちます。実際に研究者になっていなくても、学んだ、つまりそういう考え方を習ったというところがキーになります。お茶の師匠になっていなくても、その作法を習った人は、茶道とは、というところを知っているだろう、というのと同じです。

これ、言い換えると、「私大卒」と私が聞いた場合、社会に実践的に役立ついろいろなことを知っている、身についている、と思います。

上下がある話ではなく、社会に貢献するやり方の違い、だという認識です。

国立大の話をすると、各県に教育学部と医学部が必ずあります。学校の先生とお医者さんは、各県に必ずいる大切な職業で、しかも高等な教育が必要だから、地元に養成機関を作ったんですね。また、ほとんどの県で、工学部か農学部、希に水産学部があります。これも地元の産業を担う人材を育てたい、ということですね。
旧帝大は、これら各県の枠では収まらない優秀な人材を集めて地元の産業の枠を超えた、国として産業や学問を発展させよう、という研究機関となります。北海道、東北、関東、中部、近畿、九州の各地...続きを読む

Qひとむかし前の大学受験は?

1960~1980頃の大学受験がどんな感じだったのか知りたいのですが
当時のことを書いてあるサイトや書籍をおしえてください。

Aベストアンサー

60年代末期~70年代初頭にかけては大学紛争がピーク。
東大医学部の学生がインターン制度に抗議。これに端を発し、またたく間に全国の大学に広がりましたね。東大に限らず以前より他大学医学部でも登録制度に対する問題はあったようで、また、多くの国公立・私立でも学費値上げ等に対する反対や抗議はあったようで、ここにきて一気に紛争に発展。
確か東大はその年の入試を中止したと思います。それほどに国を揺るがす出来事だったのです。

あと、国立大は一期校と二期校があり前者が一流(メジャー)、後者が二流(マイナー)というイメージがあり受験生や家族もそういった色眼がねで捉えていて、特にへんぴな地方国立大に行くより華やかな都市部の私立大へ行く傾向は当時からあったようです。

入試偏差値は当時も今も大きく変わりはないかと。今も昔もいい大学は入試の難易度が高いのも変りません。
東大・京大、をはじめ旧帝大、一橋、東工大、東京医科歯科、全国の国公立医学部・歯学部、をトップとし(偏差値:60以上)、私立では関東の早・慶、立教、明治、中央。関西では同志社、関学、といった特に伝統的名門校が上位で、理系単科大では東京医科、日本医科、順天堂医学部、東京理科、芝浦工大、東京歯科。女子大は津田塾、東京女子、日本女子、など。(偏差値:概ね、文系60以上、理系55以上)

60年代末期~70年代初頭にかけては大学紛争がピーク。
東大医学部の学生がインターン制度に抗議。これに端を発し、またたく間に全国の大学に広がりましたね。東大に限らず以前より他大学医学部でも登録制度に対する問題はあったようで、また、多くの国公立・私立でも学費値上げ等に対する反対や抗議はあったようで、ここにきて一気に紛争に発展。
確か東大はその年の入試を中止したと思います。それほどに国を揺るがす出来事だったのです。

あと、国立大は一期校と二期校があり前者が一流(メジャー)、後者...続きを読む


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