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いつも思うのですが、秀吉の「中国大返し」。
なんで中国地方に展開していた秀吉軍の全軍を行軍させる前提なんですか?
毛利はまだ味方ではないので、殿軍や占領地である播磨などを抑えるために二、三千の軍勢は残さないと行けないでしょう。
さらに、強行軍で返さなければならないのは、秀吉軍の根幹となった馬廻衆など精鋭部隊数千だけで良く、残りは順々に決戦に間に合えばもうけもんという程度だったのでは?
山崎合戦での秀吉軍は、多くが競合した軍勢で、元々の秀吉直轄軍が全て間に合う必要性は無いと思います。

A 回答 (3件)

#1さんに、一票です。


「二兎追うのは一兎も得ず」ですよ。
明智光秀は信長配下で一番の武将で強敵です、分散して勝てる相手では、
有りません。全軍で引き返したから、様子見の武将が次々と味方に、
なったのです、主君仇討の大義名分だけでは、味方になりません。
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黒田官兵衛の計画も、素晴らしいですが、それを、実行した石田三成の、
働きも素晴らしいですね、奈良時代~現代まで、最高の官僚では、
ないでしょうか。。横道に反れちゃいました。
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「なんで中国地方に展開していた秀吉軍の全軍を行軍させる前提なんですか?」


実際に秀吉が全軍を行軍させたからです。

「強行軍で返さなければならないのは、秀吉軍の根幹となった馬廻衆など精鋭部隊数千だけで良く、残りは順々に決戦に間に合えばもうけもんという程度だったのでは?」
強行軍で引き返したのは、姫路までです。そこからは、光秀軍を警戒しながらの慎重な行軍になっています。
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毛利と戦いながら、信長の後継者争いできると思う?

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