人生最悪の忘れ物

「桜が咲いたならば~」
「桜が咲いたら~」
という言い方についてです。

「たら」も「なら」も仮定を表す接続助詞で、
「たら」は「た(な)ら(ば)」と省略された結果という説明を見ました。

この省略過程は、単に語数が減った(?)だけなのでしょうか。
それとも「ら抜き表現」の効能(可能の意味を明瞭にする)
のようなものがあったのでしょうか?

現在でも以下のように3種の表現が使われています。
「桜が咲いたならば~」
「桜が咲いたなら~」
「桜が咲いたら~」
これら違いの背景や文法的留意点、使い分けの傾向などについて、
なにか関連することなどを教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

「~ならば」の「なら」は断定を表す助動詞「だ」の


仮定形です(「だ」もまた助動詞「た」が濁音化した
かたちです)。

仮定形ですので「~したら」「~だとすると」などの
意ですよね、そうすると
「~したならば」というのは「なら」を付けることによって、強調を表しています。

でも、「桜が咲いたならば」と「桜が咲いたら」では
微妙に意味・使い方が違っているようにも
思われます。
前者はあくまでも、仮定のこととしていますが、
後者は桜が咲くことを確信に近い形で話をしています。
そういった意味では、心情的に同格には
使用できないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>「なら」を付けることによって、強調を

なくても通じるものをあえて省かずに入れたというところに、
話し手がその効果を意識したかいないかを問うことなしに、
聞き手は無意識のうちに僅かであれ重みを感じるものですね。

語数が増えるごとに強調される。(何が強調されるかは文脈次第)

ということは言えそうです。

お礼日時:2005/03/12 16:29

 ほとんどは、おっしゃるとおりです。



 ただ、
>それとも「ら抜き表現」の効能(可能の意味を明瞭にす>る)のようなものがあったのでしょうか?

 は、関係無いと思います。これらの言い回しには「可能」の意味は全くありませんから。第一「ら」が残っていますね。

 「たら」と「なら」はほぼ同じ意味に使いますが、使用の形が違います。
   来たら
   来るなら

 古くは、「たり」(過去や完了を表す)「なり」(断定)の助動詞だったのですが、その未然形が「たらば」「ならば」という形で仮定を表したのです。それが二つくっついたのが「~たならば」で、いわば古めかしい表現ですね。

 もう一つ「桜が咲くなら~」という形もあり得ますね。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

> もう一つ「桜が咲くなら~」という形もあり得ますね。

テンスの差は今回の私の悩みの範囲外だと考えています。
ここにも微妙な差がありそうですね。

お礼日時:2005/03/12 16:31

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