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1. ヨコの関係は 経験世界における経験存在のあいだの経験事象である。

1-1. 純然たる相対性の世界であって たとえ朽ちることはないとしても うつろいゆかざるを得ない現象である。



2. タテの関係は 超経験なるナゾがからまっている。

2-1. 超経験(=絶対性)と経験存在(相対性)なるわれとのカカハリを言う。

2-2. ゆえに 少なくとも人間の相手側については 朽ちず移ろいゆくことの有り得ないナゾである。

2-3. ゆえに 《ナゾ》の側については あくまでおのおのわれの主観内面に 基本としてとどまる。

2-4. タテの関係が ヨコの関係にはならない。タテの関係を人間が勝手にヨコに寝かすわけには行かない。

2-5. 基本としてというのは いまこのように人間の言葉で表現しナゾをナゾとして扱うかぎりで思考の対象とすることが 例外的に できるからである。

2-6. 例外的にということは ナゾをあつかう人間の行為が あくまでナゾの仮りの姿であり その前提においてということである。

2-7. 言語表現という経験事象によって超経験なるナゾをあつかうのは――つまり わが自由な神観を持ち さらには合理的にして普遍的たらんとする神論をあらわすのは―― 仮想現実であり 理論として仮説だということである。

2-8. この神観や神論を――あろうことか・何を血迷ったか―― オシヘとして説き果ては神なるナゾそのものであると唱えだすやからが 現代でもなお後を絶たない。ナゼか?

2-9. いわゆる宗教は オシへが神だと説いているのだ。せいぜい〔神という正解への〕補助線である。




3. けれども――つまり タテの関係は 人間の思考のおよぶところではないのだけれども――同時にややこしいことには カカハリの一方の当事者はやはりわれわれ人間でありそれは 相対的な経験存在であるということだ。

3-1. 仮りのすがたとして思考や想像のおよぶかぎりで・またヒラメキ直観のゆるすかぎりで ひとはその主観内面に ナゾの存在を意識し――もしくはその無を推理し――これについて忖度し たし
かにおのおのの思いに沿って想い描く。

3-2. 有神論と無神論とが出て来る。

3-3. ナゾを心に受け容れる・受け容れないを ひとは何の憂いもなく自由に 自分で決めるのだ。良心・信教の自由。

3-4. この間の事情〔の一面〕をとらえてヘーゲルは 次のように言った。

▲(ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の主観なるタテの関係》――)の高さである。

(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3-5. この・人知を超えたところのナゾについて それは概念に過ぎない(――それはそうだが――)・ただ人間がこしらえたものだと いまだに言い続けている哲学の一派がある。

3-6. それは われは超経験なるナゾを受け容れないと言ったに過ぎない。受け容れないというかたちで おのれの神観を述べたに過ぎない。もちろん 自由だが。



4. 有神論の中から 飛び跳ねてオシヘを作りたがりその仮想現実を神そのものとして単独分立するシュウキョウという間抜けが出た。

4-1. 無神論の中から 人知にちぢこまって仮想現実だからそれは無だと説き神格化したおのれという孤塁をまもろうとするトンチンカンがなお胸を張っているのと どっこいどっこいである。

4-2. ――のではないだろうか? この種の神論のこころみが 世界における生活への風通しになることは 請け合いではないだろうか? なぜ目をひらかないのだろうか。


5. 神論が 明日の世界を切り拓く鍵のひとつではないだろうか?

A 回答 (4件)

最近の、ぼくの感覚は、どんな意見も、「全て仮説」と楽しめるようになりました。

もちろんそこには「好み」がありますが。
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この回答へのお礼

なるほど。たしかに。


つまり そういう姿勢だと つねに その先へ その先へという見方が出来ると思います。


いつもあたらしい展開が得られるわけではないですが そういう視点に立つと相手側も あたらしい弁証法的過程へと共にすすんでくれるかも知れないです。

お礼日時:2022/03/13 16:36

ぼくの友人は、他人様への啓示、「おしへ」としては、要らないから、と静かに、言いきってましたよ。

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この回答へのお礼

そうですか。


大昔は 先生(教師)が権威を持っていましたので オシへは――つまりまぁ 説教ですね―― 神妙になって聞かざるを得なかったですね。

東大・安田講堂の攻防で 権威は落ちたようです。

その後は 懐疑派・皮肉屋があたまを持ち上げていました。:
★ 他人様への啓示、「おしへ」としては、要らないから
☆ と発言すると その主張こそがオシへではないかと 返してくるスタイルです。


友人の方は:
★ 静かに
☆ ですから だいじょうぶでしょう。

懐疑は 問い求めに役に立つんですけれどね。


神または神論への批判も 人びとは徹底的にやればいいと思うんですけれど。

お礼日時:2022/03/13 13:07

先生。

お早うございます。縦の姿勢が、信仰の基本型ですよね。それ以上でもそれ以下でもない。信仰組織はいらない、というやつです。
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この回答へのお礼

お早うございます。


★ 縦の姿勢が、信仰の基本型ですよね。それ以上でもそれ以下でもない。
☆ まさに 神とわれとのカカハリは ここ以外にないと見られます。


★ 信仰組織はいらない、というやつです。
☆ 組織は 集団であって われどうしのヨコの関係ですね。

したがってヨコの関係において 思想哲学の研究会は組織されたとしても 信仰の・信仰による関係づけは――信仰としての直接なるつながりは―― 実際にはあり得ないですね。

信仰の議論つまり神論すなわち哲学としてのあつまりは あり得ますが。




そして神学というのは 個人の神観からひろがって体系化したものを言うと思います。

神観がもともと すでにオシへの素をふくみ――神にかんする神秘思想もあり得るでしょうが――神学としてオシへの問題に発展したと見ます。

お礼日時:2022/03/13 11:46

横は相対的経験事象。

縦は特殊絶対的経験事象、です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


はい。

タテは 基本として(ひと一般にとって) 絶対性が一般的にも個別にも成り立っていると見られます。


一般および個別の絶対性が 具体的にひとそれぞれの好みやクセをまじえて形成されるのが 人それぞれの特殊絶対性ですね。

哲学としての神論と 主観的な思想へと派生してゆく神観になると思います。


神観のほうが 実践的だと考えますが それは神論なる理論を基礎として 実践の成果を上げると思います。

お礼日時:2022/03/13 10:08

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