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僕は歴史が好きで、特に幕末~明治にかけては大好きなのですが、大政奉還がいまいちよく理解できていません。
どうやら坂本竜馬が船中八策を考え後藤象二郎に提案したところ、後藤象二郎が土佐藩藩主山内豊重(容堂)に進言し、山内豊重(容堂)がかなりの勢いで「それやっ!!」と乗り気になった例のあれです。というのも、この当時幕府はすでに力もなく薩長の倒幕にびびっていたんでしょう。そこで大政奉還することにより、朝廷側が倒幕の密勅を出せないからです。この部分がわかりません。
山内豊重(容堂)は後藤象二郎から大政奉還について提案された直後、徳川15代将軍徳川慶喜に進言し、慶喜は悩んだ挙句大政奉還を受け入れ政権を朝廷に返しました。

徳川家終焉の歴史的な日です。

しかし、幕府としては朝廷に政権を返したところで朝廷には政治を仕切る力はないと仮定し、実質的には幕府に政権が戻ってくると考えたのでした。

しかし、そこで朝廷側は王政復古の大号令を出し徳川幕府を崩壊させました。これは幕府側にとってかなりの誤算だったみたいです。この朝廷側の決定に小御所会議で文句を言ったのが土佐藩藩主山内豊重(容堂)です。かなりのカウンターをくらったことでしょうね。
ここまでは何とか独学で学べたんですが、ひとつ理解できないことがあるんですね。さっきも書いたように、なぜ大政奉還(朝廷に政権を返す)することによって、倒幕の密勅が出せなかったのか??ということです。僕個人的な見解としては、大政奉還することにより政権は朝廷にあるのだから、その時点で倒幕をさせることはできなかったのか??ということです。

本当に気になってます。教えてください。

A 回答 (6件)

幕末のこれらの経緯については、小説での脚色や研究家の仮説、新たに見つかった文書などで諸説入り混じっているような状態なので、どのように答えてもどこからか「それは違う!」という反論を受けてしまいますが、私なりの考えを述べさせて頂きます。



「大政奉還(朝廷に政権を返す)することによって、倒幕の密勅が出せなかった」という点ですが、それは徳川家側の勝手な考え(思い込み)です。徳川方(というか土佐藩の考え方かもしれませんが)は大政奉還後の新政府にその中心として関わろうと内心考えていました。具体的な仕組みはどうにしろ、朝廷+徳川家+雄藩のようなイメージです。
それに万が一新政府に加われなかったとしても、朝廷と薩長はそこまで徳川家を無下に扱わないだろう(=倒幕の密勅まで出さないだろう)、と踏んでいました。
ところが朝廷・薩長からしてみれば(特に岩倉・大久保とされますが、詳しい主導者は不明)、新しい世の中を作り統治するのに、徳川家とその取巻きの左幕派(会津藩など)が邪魔で邪魔で仕方なかったようです。
そういった動きを察して、幕府側も「大政奉還すれば文句ないだろう。武力衝突もないだろう」と思っていたようですが、そうは問屋がおろさなかっただけのことですね(^_^)。

事実、大政奉還と倒幕の密勅は同じ日に出されていますし、倒幕の密勅の手続きは数日前から始まっていたようです。だから「大政奉還することにより、朝廷側が倒幕の密勅を出せない」などという意識は、新政府側には全くなかったと思われます。
(ただ確かに大政奉還と倒幕のジレンマは、ゼロではなかったので、一説によればこれが坂本竜馬の暗殺原因となっていますが、ここでは割愛します)

ちなみに船中八策も本当に坂本が考えたのかどうか、異論をはさむ学者さんもいますし、船中八策の存在自体もあやしいという学者さんもいます。
また後藤象二郎が考えを横取りしただとか、逆に本当は後藤が考えたのだという説もあります。

しかし歴史が好きなのは、いいことだと思います。私も好きです。人間は歴史を学ぶ事によって、失敗も成功も学ぶ事ができます。
どんどん学んだ事を日常生活にも生かしていきたいですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。あ~やっぱり何が正しいっていうのは言い切れないみたいですね。そこが歴史のいいところでもあると思います。

非常に勉強になりました。ありがとうございますっ!!

お礼日時:2005/03/25 16:32

正確には、薩摩藩(大久保・西郷)が主体となり岩倉具視などの斡旋により「倒幕の密勅」を手に入れたのではなかったでしょうか?


この動きを牽制すべく、「大政奉還」に踏み切った・・・と理解しています。(かなりギリギリの勝負だったようです。大政奉還を上申した日と同日に手に入れた・・・とか。)

そもそも、朝廷より委任された行政機関が幕府。これを放棄したので単なる「徳川家」になってしまった・・・さすがにこれを「倒幕の勅旨」でやっつけるのは世論的にも無理だったのでしょう。

従って、以後朝廷が行政機関となる王政復古を宣言し徳川家&その仲間(会津等)を「朝敵」にするべく色々と嫌がらせを始めていった・・・というところでしょう。政治的には徳川家の領地没収等。レベルの低いところでは江戸での薩摩のテロ活動等・・・。

まるで、ライブドアVSフジテレビみたいな「あの手この手」の応酬合戦ですね。
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政権というのは元々朝廷にあるもので、幕府は征夷大将軍(将軍)という位を頂いて代わりに政権を執行している。


しかし、幕末の朝廷は幕府の政治のやり方に疑問を持ち勅旨を出し幕府を倒して政権を取り戻そうとした。
ところが幕府が自ら大政奉還したため倒幕する大義名分がなくなってしまった。

ということでしょ。
そういう疑問ですよね?
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#2です。


すいません。↓の回答まちがってますね。
#1さんが正しいです。お恥ずかしい。
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大政奉還により、「倒幕の密勅」に書かれていた倒幕の理由がなくなってしまったからです。



私も大雑把にしか理解していないのですが、
政権を朝廷に返すのが倒幕の目的だったのに、その政権を幕府の方から朝廷に返してしまったのが大政奉還です。

いくら政権があっても大義名分のない攻撃はできないということです。

参考URL:http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakuma …
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王政復古の大号令で徳川幕府が崩壊したのではありません。


朝廷に政権を返す、つまりその時点で中央政府としての
幕府はなくなるのです。
無い幕府を倒せないですよね?
ですから勅を出せなかったのです。

ここで一気に倒幕できなかったので
外堀を埋めるように
徐々に徳川家の力をそいで行ったのです。
王政復古の大号令もその対策の一つなのです。
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この回答へのお礼

回答非常に勉強になりました。確かに無い幕府を倒すなんてできないですよね。その考え方が僕にはできなかった・・情けない・・ありがとうございました!!

お礼日時:2005/03/25 16:34

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中学校1年生の子供からの質問なのですが、

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お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
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Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
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Q大政奉還について簡単に教えてください。

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幕府の威光が地に落ちて 諸大名が徳川家の言うことを聞かなくなったから仕方なく
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あぁ悲しいかな

地味に慶喜は昭和まで生きてるんですね
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Q倒幕と、討幕の厳密な違い?

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もしそうならどう違うのか、意味合いの方を教えていただけるとありがたいです。
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Aベストアンサー

ご質問の通り、武力の使用を伴うか、伴わないかという点が異なると思います。

「倒幕」:例えば反幕府勢力の力を集めて、密かに幕府の支配を終わらせる行動(密議など)をする場合は、「倒幕運動」となるでしょう。

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ポイントとして、天皇から幕府追討の院宣が出た後でないと、反幕府軍は「官軍」になりません。(単なる武装集団)
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『あれは僕の竜馬なんだよ。「竜馬がゆく」は小説だから、史実の龍馬と区別するために「竜馬」という字を使ったんだ。』
と対談集で言っていました。

この「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説を知って以来、「竜馬がゆく」をそのまま信じて
「坂本龍馬が薩長同盟を締結させた。」
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薩長同盟は少なくとも西郷と桂に代表される実質的な指導者層が必要性を感じていなければ坂本龍馬がいくら周旋したところで成功はなかったでしょう。
やはり薩摩もしくは長州に同盟に意志があり、同盟締結のための一つの手段として龍馬を使ったという方が納得できませんか?

Aベストアンサー

事実として明治維新後、坂本龍馬の名前はほとんど知られていませんでした。日露戦争の時、昭憲皇太后の枕元に白装束の武士が立ち「私は魂を海軍の上に宿して、必ずロシアに勝利させます」と言上したという逸話があり、時の宮内大臣田中顕光(土佐出身)が「それは坂本龍馬である」と語った話が新聞に報道されてから、名を知られるようになりました。
では、龍馬が風評伝説の中だけの人物なのかといえばそうともいえません。実際に薩長同盟締結の裏書もしているのですから、相当のポジションにいたことは疑いがないと思われます。
西郷と龍馬は親しく、西郷に関する記録にも龍馬の名前が度々出てくるようですが、薩摩のもう一人の大立者、大久保利通と龍馬は面識が薄かったのか、あるいは仲が良くなかったためか、大久保に関する記録には全く龍馬の名前が出てきません(確か『大久保日記』の某日に「土州坂本某来る」と書かれているのが唯一の記録だった、と記憶します)。
維新後、西郷は政権中枢から外れ大久保が壟断するようになって行きましたから、維新の功績を評価する場面でも自然に龍馬の名前も出なくなってしまったのではないかと想像します。
『竜馬がゆく』のすべてを鵜呑みにすることはもちろんできないと思いますが、坂本龍馬が薩長同盟締結の重要なキーマンの一人であったことは否定できないのではないでしょうか。

事実として明治維新後、坂本龍馬の名前はほとんど知られていませんでした。日露戦争の時、昭憲皇太后の枕元に白装束の武士が立ち「私は魂を海軍の上に宿して、必ずロシアに勝利させます」と言上したという逸話があり、時の宮内大臣田中顕光(土佐出身)が「それは坂本龍馬である」と語った話が新聞に報道されてから、名を知られるようになりました。
では、龍馬が風評伝説の中だけの人物なのかといえばそうともいえません。実際に薩長同盟締結の裏書もしているのですから、相当のポジションにいたことは疑いがな...続きを読む

Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Qレジェンドの意味

レジェンドの意味

レジェンドとは伝説という意味ですが、音楽やスポーツにおいてもレジェンドという言葉がしばしば用いられているのを耳にします。

この場合のレジェンドとは、どういった意味で使われているのでしょうか?
知っている方がいましたら、教えてください。


よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本語で伝説的人物というと、私にはどうしても過去の人のイメージがつきまとうので、「伝説として末永く語り継がれるであろう大スター」ということになるかと思います。

英語の辞書ではこのように説明しています。
http://www.thefreedictionary.com/legend
>One that inspires legends or achieves legendary fame.
伝説になる予感がする、あるいは伝説になるような名声を成し遂げた人物、といったところですか。

>a person whose fame or notoriety makes him a source of exaggerated or romanticized tales or exploits
名声や悪名の高さゆえに、誇張されたり美化されたりしてあれこれ語られる人物、ですね。

ということで、legend そのものにピタリと当てはまる日本語の単語はないような気がします。

Q坂本龍馬について。簡単に教えてください。

歴史がとっても苦手です。坂本龍馬がどんな人物で何をしたのか、小さな子ども(小学生前)に説明しなければならないのですが、説明できません。

小さな子どもにも分かるようにするには、どう話せば良いでしょうか?

子どもに説明するつもりで、私にも教えてください。
m(_ _)m

Aベストアンサー

http://www.bakusin.com/sakamoto.html
↑ご参考(坂本龍馬の基礎知識)

坂本龍馬は、土佐(高知県)の郷士(下級武士)に生まれ、子供の頃は差別されたりイジメられたりで泣き虫でした。
そんな泣き虫を見かねた姉は、龍馬を鍛えるために剣術を習わせました。
学問(勉強)が苦手だった龍馬も剣術では才能を発揮しました。
そして、本格的に剣術を習うために江戸(東京)の千葉道場で剣術の腕を磨きました。
江戸で、勝海舟と知り合って開国や海軍の必要性を知りました。
その後、大阪や長崎などで活動中に薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の桂小五郎らと知り合いました。
薩摩藩と長州藩は仲が悪かったですが、龍馬が仲介して西郷隆盛と桂小五郎らを仲良くさせました。
このような活動が幕府側の反感をかい、京都の近江屋で京都見廻り組によって暗殺されました。
龍馬33歳の時でした。

まぁ、小さな子供さんに坂本龍馬を簡単に説明するなら、この程度で良いと思います。
特に、イジメられたり泣き虫だった龍馬が立派な大人に成長したことを教えて欲しいですね。

http://www.bakusin.com/sakamoto.html
↑ご参考(坂本龍馬の基礎知識)

坂本龍馬は、土佐(高知県)の郷士(下級武士)に生まれ、子供の頃は差別されたりイジメられたりで泣き虫でした。
そんな泣き虫を見かねた姉は、龍馬を鍛えるために剣術を習わせました。
学問(勉強)が苦手だった龍馬も剣術では才能を発揮しました。
そして、本格的に剣術を習うために江戸(東京)の千葉道場で剣術の腕を磨きました。
江戸で、勝海舟と知り合って開国や海軍の必要性を知りました。
その後、大阪や長崎などで活動中に薩摩藩の...続きを読む

Q日本史:漸次立憲政体樹立の詔について

「漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり)」と
「国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)」は、
両方とも将来国会をひらき憲法を制定するというものですが、具体的にどう違うのでしょうか?まったく同じものと思ってよいのでしょうか?

なるべく早い回答を求めています;簡単な説明で構わないので、どうかよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

>まったく同じものと思ってよいのでしょうか?
違います。内容的には「国会開設」を視野に入れたものですが、時期・背景が異なります。

「漸次立憲政体樹立の詔」 1875年(明治8)
  前年の「民撰議院設立建白書」および愛国社結成など、自由民権運動の高揚に対し、大久保利通が中心となって、板垣・木戸の参議復帰など政府の陣容建て直しと、民権運動に対する政府の姿勢(漸次樹立)を示したもの。

「国会開設の勅諭」 1890年(明治23)
  開拓使官有物払下げ事件の収拾と、政府内の国会開設急進派(払下げ事件暴露の黒幕)大隈重信を追放する一方で、民権派の懐柔・分断を図り、国会開設を政府ペースで進めるために、伊藤博文が立案

Q書類送検と逮捕の違い?

書類送検と逮捕とはどう違うのでしょうか?
書類送検の方が、拘束されないだけ罪が軽いような気がします。
書類送検でも前科となるのですか。
どういう場合に書類送検となるのでしょうか?
どうも分かりません。

Aベストアンサー

既に適切な回答があるので蛇足かもしれませんが、刑事手続きがどうなっているのかを知ればその違いが自ずと分かるので刑事手続きの概要を必要最小限(のつもり)説明しておきます。長いですので覚悟してください。

刑事手続きの大雑把な流れは、
捜査->起訴(公訴提起)->公判->判決->刑の執行
というところ。全部話をするわけにもいきませんしその必要もないので質問に関するところ(主に捜査)だけ説明します。

犯罪が犯罪として処罰の対象になるためには、まず裁判に先立って、その犯罪の存在を捜査機関が知り、必要な証拠を集め、被疑者(=容疑者)の身柄の確保をしないとなりません。これを捜査と言います。
被疑者の身柄の確保というのは、「後で裁判になった時に被疑者の出廷が必要」なので逃げられては裁判ができなくて困るというのが第一点。それと「自由にさせておくと証拠を隠滅するかもしれない」というのが第二点。
ですから逆に言えば、「逃げも隠れもしない、証拠隠滅のおそれも無い」のであれば身柄を確保する必要はありません(一定の軽微な犯罪につき、更に例外あり)。入院しているような人間なら逮捕しないことはよくあります。この身柄の確保のための手続きが、「逮捕」であり「勾留(起訴前勾留)」です(起訴前と言っているのは起訴後というのがあるからですがここでは関係ないので説明しません)。
「逮捕」というのは、被疑者の身柄を確保する手続きの内、「短時間のもの」。具体的には、身柄を拘束し最大48時間拘束し続けることです。この制限時間が過ぎると釈放しなければなりません。
しかし、それでは困る場合には、引き続いて身柄を拘束することができます。これが「勾留」です。勾留は最大10日間身柄を拘束できます。なお、勾留は1回に限り最大10日間延長することができますから、都合20日間まで勾留できることになります(例外として25日可能な場合もあります)。

ところで勾留の申請ができるのは検察官だけです。ですから警察官が逮捕した場合には、検察官に勾留申請をしてもらうかどうか決めてもらう必要があります。そこで48時間の逮捕の制限時間内に検察官に証拠物、捜査書類と一緒に身柄を送致しなければなりません(刑事訴訟法203条1項)。これを「検察官送致、略して送検」と言います。無論、警察限りで釈放する場合は必要ありません。
検察官送致を受けると検察官は24時間以内に釈放するか勾留請求をするかしなければなりません。ですから、警察官が逮捕した場合の身柄拘束は48時間+24時間の最大72時間に及ぶ可能性があることになります。このような身体を拘束した被疑者を送検することを「身柄付送検」と言う場合があります。これはなぜかと言えば、質問にある「書類送検」と明確に区別するためです。ただ、一般には単に「送検」と言えば「身柄付送検」を意味します。

さて、では「書類送検」とはなんぞや?ということになりますが、まず前提として犯罪捜査は常に被疑者の身柄を拘束するわけではないということを知っておかなければなりません。全犯罪件数から見れば、身柄を拘束しない事件の方が多いです。身柄を拘束していない場合には、先に述べたように「(203条1項による)検察官送致」をする必要がありません。と言うか、身柄を拘束していないのでできません。たとえ逮捕した場合でも、警察限りで釈放すればやはり検察官送致の必要はありません。
しかし、それとは別に、警察は犯罪の捜査をしたら原則として必ず検察官にその捜査についての資料、証拠などを送らなければなりません(刑事訴訟法246条本文)。これを「書類送検」と呼んでいます。書類(証拠物、捜査資料、捜査報告書などなど)を検察官に送致するということです。正確には送致しているのは「事件」なのですが、実際に何を送るのかと言えば「書類」であるということです。
つまり、「(身柄付)送検」と「書類送検」は同じ送検でも別の条文に基づく別の手続きです。と言っても、(身柄付)送検をすればそのとき書類も一緒に送っているので、重ねて書類送検を行う必要はないので、(身柄付)送検は書類送検を実際には兼ねていますが(と言っても、身柄付送検をすれば書類送検をしなくていいのはあくまでも246条本文に「この法律に特別の定のある場合を除いては」と書いてあり、身柄付送検が「特別の定」だから)。

というわけで、「逮捕」と「送検」というのは次元の違う話であることがわかると思います。
まとめれば、
1.「逮捕」とは、捜査において被疑者の身柄を確保すること。
2.警察が「逮捕」した場合は、刑事訴訟法203条1項により、釈放しない限り48時間以内に被疑者の身柄を検察官に送致しなければならず、これを「(身柄付)送検」と呼ぶ。
3.「書類送検」とは、警察が捜査した事件について刑事訴訟法246条本文に基づきその証拠、捜査資料を検察官に送致すること。
4.「(身柄付)送検」は「書類送検」を兼ねている。
5.警察が「逮捕」した場合でも、釈放すれば「(身柄付)送検」はできないので、その場合は「書類送検」を行わねばならない。
ということです。

そして、「書類送検」するということは「身柄付送検」をしていないということですからつまりは「身柄を拘束していない」ということになります。身柄を拘束していない場合というのは大概は相対的に軽微な犯罪であることが多いのでその意味では、逮捕した事件(これを身柄事件と言う場合があります)に比べれば罪が軽いことが多いのは確かです。しかし、それはあくまで結果論であって、書類送検だから、逮捕したから、と言うわけではありません。既に述べたように逮捕しても身柄付送検せずに釈放すれば書類送検ということになりますし。

なお、先に述べたとおり、「捜査した事件はすべて検察官に送致する」のが原則(全件送致の原則)ですが、例外として検察官送致にしないものが幾つかあります。例えば、検察官が指定した事件について、月報でまとめて報告するだけの微罪処分ですとか、あるいは報告すらしない始末書処分などがあります。ちなみに、交通反則通告制度については、微罪処分の一種とする文献もあるにはありますが、多少なり疑問のあるところではあります。
そういうわけで、どういう場合に書類送検となるかと言えば、「刑事訴訟法246条前段に当たる場合」ということになります。もう少し具体的に言えば、「微罪処分等で済ませることのできない事件で、かつ、身柄付送検等もしなかった事件」ということになります。

ところで、前科というのが何かと言えば、これは法律用語ではないということになっているのですが、法律的に見れば「有罪の判決を受けたこと」を言うと思ってください。ですから、前科が付くためには、「裁判を経て有罪判決が出なければならない」ことになります。しかし、最初に述べたとおり「検察官送致」というのは単なる捜査手続きの一部でしかなく、この後で検察官が起訴するかどうかを決め、起訴して初めて裁判になるのですから、検察官送致だけではまだ前科は付きません。その後どうなるかはその後の話です。無論、逮捕だけでも前科は付きません。逮捕=有罪ではありません(そう勘違いしているとしか思えない報道が多いのは事実ですが、有罪判決が出ない限りは被疑者、被告人はあくまでも「無罪」です)。
ちなみに、捜査したが起訴しなかった犯罪事実について「前歴」と呼ぶことがあります。

既に適切な回答があるので蛇足かもしれませんが、刑事手続きがどうなっているのかを知ればその違いが自ずと分かるので刑事手続きの概要を必要最小限(のつもり)説明しておきます。長いですので覚悟してください。

刑事手続きの大雑把な流れは、
捜査->起訴(公訴提起)->公判->判決->刑の執行
というところ。全部話をするわけにもいきませんしその必要もないので質問に関するところ(主に捜査)だけ説明します。

犯罪が犯罪として処罰の対象になるためには、まず裁判に先立って、その犯罪の存在を捜査機...続きを読む


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