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田沼意次の政治で幕府の財政あまり改善されなかったのは株仲間で物価が上昇して出費がふえたからでしょうか?

A 回答 (4件)

違います。



田沼は、米本位制では、幕府の
財政悪化は治らないとして
貨幣中心制度にしようとしました。

つまり農民から徴税をやめて、商人から
徴税しようとしたのです。

しかし、これが米本位制になじんだ
当時の人に受入れられ無かったのです。
当然ですが、商人が大反対です。

時期尚早だったのです。


それに加えて、浅間山の大噴火です。
噴火による火山灰は、関東平野一帯に降り積もりました。
噴煙が日光を遮り、農業にも被害を与えました。

大凶作も続きます。
「天明(てんめい)の大飢饉」は、東北地方を中心に
多くの餓死者を出しました。

天災による社会不安の中で、意次は次第に勢力を失い、
将軍・家治の死去とともに失脚しました。
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この回答へのお礼

ありがとう

一番分かりやすいと感じたのでベストアンサーにさせていただきました。
皆さんありがとうございました( ・∇・)

お礼日時:2022/06/12 17:11

No.2の補足画像です。


田沼の頃の、堂島の先物取引許容で、米価の下落が止まった様子がうかがえます。
「田沼意次の政治で幕府の財政あまり改善され」の回答画像3
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違うでしょう。

 
幕府の財政は、租税を米の現物徴収としていてそれを基本的には変えなかったこと、社会経済の成長発展で米も多くの物産も出回り、江戸などの街に消費経済で生活をする侍や町人が増え続けたこと、この2つの仕組みの下では、侍に扶持を給付し、制度運営維持の支出を負担する幕府や諸藩の財政は悪化をし続けるしかないでしょう。
田沼の政治は、米の現物徴収以外にも、流通経済の中で税源を得ようとし、そのための仕組みも作ろうとしたのですがら、幕府財政の悪化にブレーキをかける効果はあったのだと考えるしかないでしょう。
ただ、諸藩も幕府も、それ以前に財政悪化が進んでいて、米価の下落と諸物資の購入の必要から、御用金の納付を求める・米の収穫以前に切手手形を発行して財政を賄う等の状況になっていたので、田沼の政治の程度ではどうにもならなかったのでしょう。
田沼も、流通からの税収の他に、財政悪化の一層の進展を止めるための米価の下落防止を図るべく株仲間を結成させたり、堂島に米市場を開設した結果、それなりの成果は出ています。
税収を、年貢米物納ではなく、明治政府のように金銭納にするとか、江戸時代の諸藩がやった特産品生産や商品取引からの税収の拡大という方向にシフトさせないと、難しかったでしょう。 
「信用通貨の発行量の増大をすれば、経済は好転し、」というようなことでは、幕府や藩の財政はうまくいかないと思います。
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田沼は幕政に重商主義を本格的に取り込んだ先駆者だ。


現実には、吉宗時代の農本主義回帰の質素倹約の緊縮財政を引き継ぎ、田沼政策の基本も緊縮財政だった。
吉宗時代にしても緊縮財政で一時的に幕府の財政難を凌いだという程度の話で財政難の構造自体が改善されたわけではなかったからだ。

だから、田沼は大胆に商業を後押しして、そこからの税収を幕府財政の柱に育てようとしたわけだ。しかし、実際には重商主義だけでなく、北海道開発などの大規模開発による従来型の農本主義的政策にも力を入れている。

重商主義改革についていえば、結局のところ、田沼時代には幕府財政の柱にはなっていない。
新しい話で経験もなく、アイデア出しを商人に頼っての試行錯誤の連続だったからだ。
当然ながら失敗も多かった。商人に頼ることが多かったので、役人と商人の癒着も横行し、政敵に攻撃されることも多くなってしまった。

それでも全体として成功していれば、その後も継続したかもしれないが、そこまでの成功はなく、むしろ政治倫理的な弊害だけがクローズアップされてしまった。

結局のところ、田沼以後は重商主義が否定され、幕政改革のチャンスも失われ、幕府は崩壊への道をまっしぐらに転落し続けることになる。
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この回答へのお礼

助かりました

詳しく説明していただきありがとうございました!

お礼日時:2022/06/12 09:06

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