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「忠臣蔵」の次の部分は、ドラマや映画になるときによく描かれています。
これは歴史的事実だったのでしょうか?

1.吉良は普段から賄賂をもらっていた。
2.赤穂藩は吉良に賄賂を渡さなかったので、嫌われた。
3.吉良の嘘のせいで、一晩で二百畳の畳替えをするはめになった。
4.浪士のひとりが大工の棟梁の娘をだまして吉良宅の図面を手に入れた。

 万が一勅旨接待に落ち度があれば、吉良氏が一番に責任をとらされるはずなので、2.3はなかったと予想しています。
 4は芝居がかっていますが、可能性は十分あります。
 1はどうでしょうか?

A 回答 (6件)

1番は、当時の慣習で、勅使接待の「前後」に大判一枚(又は小判10枚)を、ご指導いただく高家(吉良)に贈り「誠意」をみせるのが常識でした。


ところが浅野家ではそれを終わった後だけでよいと考えました。
こういう事のために、江戸在住の藩士がおり、数人は代々江戸で生まれ江戸で育った、生粋の江戸っ子の藩士がおります。
こうした藩士が他藩の同じような役職の者と情報を交換し合って、贈り物の相場などを決めていたようですが・・・。
浅野内匠頭長矩も勅使御馳走役は18年振りの2度目の事で、先回は優秀な家来が広島の本家などから情報を仕入れて十分な事をしましたが、この時は経験者という驕りもあったのか、予算自体も物価の上昇を甘く見て、前回(400両)に少し色(700両)をつければよいと、相当ケチったようです。
因みに元禄十年に伊藤出雲守が勅使接待を務めた際の予算1200両でした。
吉良としては接待が失敗すれば自分の指導力を問われますから、浅野家の非常識には相当頭に来たと思いますが、かといって決定的な失敗をすれば連帯責任を問われるので、相当のジレンマがあったと想像します。
こうした背景を考えると、浅野をなじったり叱りつけたりはしたと思いますが、嘘を教えた事はないと思われます。
ただこの時吉良は高齢の上、京都へ使いに出かけ、帰ってから日が浅く疲れが出ていたのも事実で、うっかり失念した可能性も無きにしもですが、意図的に失敗を計るとは考えられません。
大工の棟梁の娘を騙したのは「かな手本忠臣蔵」というお芝居の上での事で、事実ではないと思います。

http://www.fsinet.or.jp/~fight/illust/main/kira. …
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実際に見取り図を渡したのは荷田東丸でしたね。

(伝承では)

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/toyosima/bunk …

5番の方のご指摘で気が付きましたが、この図面に関しては少々勘違いをしており

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp1/index.jsp

こちらを見て確認しましたが、「かな手本忠臣蔵」ではなかったですね。
当時は幕府の禁制によりこうした武家を扱った物はタブーとされてましたので、舞台を室町時代として書かれたのが「かな手本忠臣蔵」です。
吉良や浅野などの大名は仮名とは言え連想させる名前を使うことは許されないので、実在の室町大名に引っ掛けた名前を使い、大石などの家老クラスは大目に見て貰えたので「大星由良助」など誰もが想像できる名前にしました。
事件の発端も脚色してあり、これはこれで面白い読み物です。
このページも面白いですね。
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 誤解があるようなので訂正しておきますが、歌舞伎・文楽の「仮名手本忠臣蔵」には1~4のいずれも登場しません(したがってこの芝居の作者による脚色ではありません)。

それ以外の忠臣蔵もので作られた逸話ですので、ごっちゃになさらないように。
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こんばんは。



「忠臣蔵」というのは、主君が切腹させられ御家断絶となった赤穂浅野家の浪人たちが、その責は吉良上野乃介にあるとして吉良家に討ち入り、上野乃介を殺害、事件の責任を取って切腹の刑に処せられた事実の顛末を47年後に人形浄瑠璃のための脚本として書かれた「仮名手本忠臣蔵」を発端とする一連の「赤穂浪士の討ち入り事件」を書いた芝居や小説の総称であって、事件そのものとは別のものと考えた方がよいと思います。

当時の上方では、事件の背景がどうであったというよりも切腹の刑を受けた浪人(「浪士」というのは後に大佛次郎氏が作った言葉)たちに対する同情が大きく、全ては吉良側が悪いということが世間では半ば常識になっていました。

さて、1.~4.ですが、たぶん1.は賄賂と言えば聞こえは悪いですが、付届けのようなものは上級武士の間では常識だったと思いますからあったでしょう。しかし、これは吉良だけではなかったと思います。
2.~4.は確証に欠けますし、可能性として「仮名手本忠臣蔵」を書く際に話を面白くするために脚本の中に盛り込まれたのではないかと思います。いずれにしても「仮名手本忠臣蔵」自体がかなり事実を曲げて脚色しているらしく、この本や芝居などを基に事実を探ろうとすると無理があります。

事実、事件の以前から吉良家と浅野家は、当時の歯磨き粉に使う塩の幕府への納入をめぐって争いがありました。最後は品質がよいということから赤穂の塩が幕府御用達として採用になるのですが、元々赤穂は吉良家から製塩法を教わっていたので、吉良家としては面白くなく、浅野家を憎く思っていて一触即発の状態にあったといいます。
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直接の回答ではありませんが。

下記の質問が参考になると思います。

http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1056103

参考URL:http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1056103
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 通説ではすべて虚構とされています。

忠臣蔵は真偽入りまじってはっきりとしたことはいえないのですが、現在残っているもっとも確実な資料だけをつきあわせると1~4のような事実があったということは言えません(もちろんあったのかもしれないけど、それを証拠立てる資料がない)。
 ただ1については、賄賂ではなく、江戸時代の習慣として、仕事の上でお世話になった人にお金でお礼をすることがよくありました。今で言えば取引先にちょっとしたお菓子を持っていくようなもので、額もそれほど大きくなく、ごくふつうの慣習ですので、これは過去吉良ももらったことがあるだろうし、もしかしたら忠臣蔵事件の折に浅野側から吉良へ渡したのかもしれない、ということは推測できます。
 ちなみに4は講談でおなじみ岡野金右衛門恋の絵図面取りの一段ですが、完全なウソです。ほかの浪士がつてをたどって前に住んでいた旗本から絵図面を入手しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
4は虚構でしたか。にしては綿綿と芝居やドラマで描きつがれていますね。

お礼日時:2004/12/07 12:09

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