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幕末 勅許をへずして日米通商修好条約というものが結ばれた。ために吉田松陰をはじめとした志士が井伊直弼を弾劾したが、果たして勅許が必要だったのか、幕府が独断で締結してもよかったのではないか。勅許が必要という法があったのかどうか。もしあれば何という法なのか。どこに書いてあるのか。これが私の質問です。

A 回答 (4件)

昔の天皇は君臨すれど統治せずがあたり前で、当時としても政府機関としては外国を含めて自他共に認められた江戸幕府。


従って対外政策なども幕府つまり幕閣が担当するが、諸外国との通商条約などの重要な問題などは、やはり奏上して勅許されてしかるべきものではあろう。
ところが当時の孝明天皇は大の毛唐嫌いときている。奏上したところで何が何でも攘夷、攘夷せよ、と拒否するのはどうせ分かりきっていた。
勅許というのは法というより、やはり慣習や慣例に基づくものであったのではないかと愚考する。
以下のURLのものはブログらしいが、和親条約から維新への流れが詳しくて、かつわかりやすかった。
http://www.japanusencounters.net/index.html#prei …
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この回答へのお礼

付随の文章大いに参考にさせていただきます。とりあえず気に入りに登録 それにしても貴殿は勉強家である。

お礼日時:2009/07/22 15:17

法じゃなくて雰囲気。



18世紀後半からの異国船来訪により「日本って何よ?どの辺が偉いのよ?」と。
ちなみに、鎖国は祖法である、と言い出したのは、松平定信。それまでは、だれも鎖国をしているなんて意識はなかった。異国船が来るけど、さて、どうしよう?と考えた結果の一つが、松平定信の鎖国は祖法であるという考えと、もう一つ。
日本の支配の根源は天皇家だね。
というもの。

アメリカ合衆国憲法を決めろという法律が無いように、勅許を取らないとならないという法律はない。
合衆国憲法がないと、なんかやりづらいよね、皆さん一緒にやっていく2は・・・という雰囲気があったので憲法を作った。
同様に、勅許がないと(天皇家の確認がないと)祖法は変えられないよねという雰囲気があったので、勅許を求めた。で、みなさんがそうだよね!と思っていたら、井伊直弼が勅許無しに締結した。だからみなさんが糾弾したという構図です。
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この回答へのお礼

法ではなく雰囲気という貴殿の考えよくわかりました。多分そうであろうと私も考えていた。安部マサヒロとかいう老中が天下の意見をきいたことがあるが このあたりからおかしくなったようだ。一見民主的のようだが逆にかんがえると幕府の権威の失墜になったようだ。そしてそれが朝廷の発言力増大につながったのかもしれない。禁中ならびに公家諸法度はみじかいものだし書いてない。とにかく 勅許勅許とさわぐものだからどこにかいてあるかなと疑問に思ったしだいです。

お礼日時:2009/07/20 09:02

 国際政治学的に言えば、相手国の認識次第です。


つまり、相手国が、幕府の外交権を認証すれば、幕府に。朝廷に外交権があると思えば、朝廷と考えることが出来そうです。
 もっとも、当時国内で外交権の所在が確立している限りでは、相手国の外交権限の承認は変わりますから、判断は難しいでしょう。

日本の外交権は、モンゴル襲来のケースでは、鎌倉幕府は独断専行しています。
 鎌倉幕府は朝廷権力が強かった時代にも関わらず、外交権力として朝廷を無視した経緯があったわけですから、江戸時代ならば無視することも武家政権としては不思議ではありません。

 『大政奉還』という儀式によって朝廷に”大権”が譲渡されたわけで、それ以前の”大権”は幕府が所持していた・・と考えるのが自然とも言えるでしょう。

 ただ、朝廷権力を無視できないことも事実ですから、判断は難しいと思います。
 
>勅許が必要という法があったのかどうか。

そのような法(慣習法・実定法)はおそらくないと思います。
ないからこそ、幕末の幕府は騒動したと考えるのが一般的でしょう。
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この回答へのお礼

実定法も慣習法もなかったという貴殿の意見に私の疑問は氷解した。多分そうであろうと私も思っていた。朝廷の発言力がしだいに増していた当時 幕府としては状況打破のために朝廷の力をかりようとしたのかもしれない。 Thank you.

お礼日時:2009/07/20 09:21

武家の棟梁として政治を行う「征夷大将軍」の職務権限を定めた「法」などは当時の日本では観念できませんでした。

全て
「その時の権力者がどこまでの権力を持っているか」
で決まることです。

そもそも、徳川家康が構築した「武家と朝廷の関係」では、朝廷には実権は一切なく、天皇や公家は今の「象徴天皇」のような存在でした。
仮にですが、徳川家康が幕府を開いたのが19世紀中ごろで、その頃には既に欧米で産業革命が進行していてペリーの艦隊が日本にやって来たとしましょう。当時の日本は徳川家康が完全に掌握していますから、徳川家康が「日本国の王」として外国と折衝して条約を結ぶなり港を開くなりしたはずです。

実際は、ペリーが来航した頃には江戸幕府の政治体制は「制度疲労」を起こしており、
「諸大名、特に『賢候』や『雄藩』と言われた有力大名の意見を聞く」
とか
「条約の締結には勅許が必要」
とかいうことになり、最終的には王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、幕府の崩壊につながったわけですが、徳川家康が征夷大将軍になった直後の状態であればそんなことが起きるわけがありません。
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この回答へのお礼

わかりました。要するに幕府の権力が落ちたために状況打開のために朝廷の力を借りようとしたんですね。攘夷派の勘違いだったのか。

お礼日時:2009/07/20 09:41

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