
当時、国防と言えば、海上防衛が主体で、海軍ということになります。
私は、これまで江戸幕府は鎖国をおこなっていたから、海軍を持つ必要はなかったと考えていました。
しかし、よく考えてみると、「鎖国」は国防に何のプラスにもなりません。
それどころか、近隣諸国や海賊などとの現実的な交渉の機会を失い、結果として、「元寇の襲来」のような事態を招きかねません。
幸運にして、江戸時代、元寇襲来のような暴力的な侵攻はありませんでした。
しかし、「これは鎖国政策」というより、歴史の幸運だったと思います。
今日、鎖国論は見直しされつつありますが、
その鎖国論をもとにしても、江戸時代、現代の「海上自衛隊」に相当する組織が必要なかったとは言い切れません。
それで質問です。
質問1. 江戸時代、徳川幕府が海軍を創設するまでの間、今日の「海上自衛隊」に相当する組織はありましたか。
質問2. そのような組織があったとすれば、どのような組織でしたか。
質問3. そのような組織がなかったとすれば、現実に、国防はどうなっていたのでしょうか。外国の侵入がなかったのは、単なる歴史の幸運だったのでしょうか。
質問4. その他、なんでも関連の情報について教えてください。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
1.ありました。
2.船手組と呼ばれる組織が幕府や大名にありました。呼び方は船手衆など他にも色々あったようです。
元々は戦国時代の大名の海賊衆や水軍が船手組に名を変え代々世襲してきたようです。
4.江戸幕府の船手組も徳川水軍から継承されてきたもので、三代将軍家光の時代には現代の海上自衛隊や各国の海軍が行っている観艦式のような事を行ったという記録があるそうです。その時の船数は30隻ほどだったとか。
江戸時代の船は大型船はありませんでした。これは徳川家康が建造を禁じたからです。
そのため「関船」(櫓の数が40から80)と、「小早船」(櫓の数が40以下)と呼ばれる船が中心でした。
ただし「関船」は大型船ではないと言っても、豊臣秀吉が行った朝鮮の戦いでは用いられ活躍しています。朝鮮海軍と戦った鳴梁海戦では日本側は「関船」だけで艦隊を作り戦っています。
しかし後には江戸幕府も平和が続いた事と、財政難から維持費のかかる船を減らしたようです。
また江戸時代にお隣の朝鮮から朝鮮通信使という両国友好のための使節が何回も来ていますが、その使節の船の護衛を、その航路にあった各藩が船手組を出して護衛しています。やはりこの時も利用されたのが「関船」などでした。
また、幕府は幕末も近い頃に長崎の警備に福岡藩や佐賀藩をあたらせています。この時、福岡藩は「関船」や小型船など40隻以上を派遣したそうです。また、1809年には福岡藩・佐賀藩の船手組が合同訓練を行ったそうです。
No.4
- 回答日時:
4その他、
(1)、 幕府の役職で「海防掛」っていうのがありましたよね。
(2)、 江戸時代の後半頃に入って来ると、「海防論」というのが広く論議され出したみたいですよ。
幕府でも民間でも関心を持ち出してたようです。
もっと江戸後期になって例えば長州藩みたいな地方の藩でも、江戸藩邸勤務により新しい情報に接した村田清風(むらたせいふう)が帰藩してから『海防策』(?)みたいな題名の本を書いています。海防こそが国防である、と海防の重要性を説いた本らしいです。それを吉田松陰が読んで、感想を村田に送ってます。ま、こういう論議は日本各地でおこってたようです。
No.3
- 回答日時:
江戸幕府を開いた徳川家康は、徳川幕府による秩序をできれば永遠に保つために二重三重のシステムを作り上げました。
例えば、老中のような幕府の要職には小藩の藩主にしかつけられないようにしたり(権力があっても実力はつけさせないため)、要地を幕府直轄や徳川一族の領地にしたりしました。その家康が最も恐れたのが、海上から江戸湾に直接侵攻してくることです。これは、外国からではなくて徳川幕府に反乱を起こす国内勢力を想定しています。海上から侵攻すると、止める術がない。
それで家康はどうしたかというと、大型船を作ることを禁じたのです。一番大きくても千石まで。有名な千石船はそのためです。しかしそれ以上に要だったのが、「マストは一本まで」としたのです。マストが一本だと大型船は作れません。かくして千石船は極めてトップヘビーで難破しやすくかつ、万が一嵐などでマストが折れると助かる術がないという危険な船となったのです。
これが幕府の基本的な海上防衛の考え方です。この場合、「日本の外側には別の国がある」ということは一切考慮の対象外となります。
幕末前夜というか二日くらい前くらいの段階の寛政時代、寛政の三奇人のひとり林子平が「日本は海を通じて世界と繋がっている」とよく考えればあるいはよく考えなくても当たり前のことを自らの著書で論じ「海軍を創設せよ」と提言しました。この人は警世家だったので、よせばいいのに幕府に著書を上奏しました。時の老中は名君ともいわれる松平定信でしたが、定信は「御政道を批判するとは不届き千万」と子平に蟄居(自宅軟禁)を命じその著書を全て焼き捨てさせました。これが幕府の基本的な考え方です。
考えてみれば、海軍というのは守るべき海上交易路があって初めて成立する組織です。当時の日本の交易路は北前船を中心とした日本海から瀬戸内海を中心とする国内航路と、長崎を窓口とするオランダ、中国、朝鮮との交易です。琉球を通じた交易はほとんど薩摩藩の密貿易みたいなもんです。
で、国内航路については海賊は皆無で安全が確保されていて、長崎の対外交易は経済全体からすれば微々たるものです。そもそも港ひとつでまかなえる程度なのですからそういう意味ではたかが知れています。そして、長崎に出入りする船は友好国の船なのでここも神経質になる必要はないわけです。
つまり、徳川幕府からすれば守るべき航路ひっくり返していえば「危険にさらされる航路」が存在しないのでわざわざ予算を割いてまで(江戸幕府はそのほとんどの時代借金問題が最も頭の痛い問題でした)作る必要性を感じなかったのです。
幸い元寇のようなことがなかったといっても、日本の歴史上、日本に直接侵攻してきたのは後にも先にも元だけです。しかもその原因は海外事情に極めて疎かった鎌倉幕府が「元?知らない国だなあ」と対応して形式上でも臣下の礼をとれば済んだ話を「知らない国だから相手する必要ないし」となって攻められたのです。ちなみに太平洋戦争の場合はこっちから攻撃しているので除外します。中国も朝鮮も日本には興味ないんですよ、実際は。それにどういうわけだか中国の歴代王朝は海軍に全く興味がありませんでした。羅針盤を発明したのも中国で、鄭和って人がアフリカまで行って一説には南米にも達したんじゃないかっていわれているのですが、どういうわけか記録がほとんど消されていて鄭和については世界的(もちろん中国国内でも)に「偉大な仕事をやった割に全く知られていない人物」となっています。
だから江戸時代というのは海軍どころか陸軍も実質的にありませんでした。軍事訓練なんてもってのほかです。もしどこかの藩が軍事訓練などしようものなら「謀反の疑あり」となって容赦なくお取潰しとなってしまいます。江戸時代を通じて幕府によってお取潰された藩はおよそ200に近いともいわれています。つまりほぼ1年にひとつの割合で藩は潰されているのです。各藩にとっては、外国よりももっと恐ろしいのは幕府に他なりませんでした。
幕末は日本が他国の植民地にされる最大の危機であったとは思うのですが、砲艦外交で門戸を開いたアメリカは南北戦争が起きて外国のことはどうでもよくなり、英仏露はクリミア戦争の影響でそれどころではなくなり、しかも南北戦争終結で大量の中古武器が市場にだぶついたタイミングに各藩が「最新」武器をこぞって求めたため「直接侵略するより武器を売ったほうが儲かる」となったという幸運はあると思います。
No.2
- 回答日時:
質問1.海軍に相当する組織はありません。
でも、沿岸警備隊のような組織はありました。幕府はそれで十分と考えていたのでしょう。鎖国を始めたのは、朝鮮に侵攻した少しあとです。戦国時代に鉄砲や大砲も発達しています。他国の侵略を防ぐ国防力は持っていました。
海軍で負けても、陸軍の上陸を阻止すると国は守られます。まだ、帆船の時代です。当然幕末の海軍より劣ったものです。補給の問題もあり、近隣の国が侵略されない限り、侵攻を受ける可能性は低かったはずです。
問題は、その後200年も進歩がなく西洋にひどく後れを取ったことです。
質問2.基本的には、陸上からの攻撃です。砲台を築き港に入ってくる船を攻撃するやり方です。実際これで外国船を打ち払ったこともあります。
でも、1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎に来て、武力をちらつかして水・食料・燃料などを要求しています。長崎奉行は、湾内警備を担当する佐賀藩・福岡藩に打ち払いを命じましたが、その時の当番である佐賀藩ははずか150人程度しか派遣してなかったことから、フェートン号の要求をのむしかありませんでした。長い太平で防衛能力がさび付いていたのです。
質問3.征夷大将軍とは、夷を征伐する大将軍です。建前でいえば戒厳令を布いた軍事政権です。外国から侵略を受けるとは、夷から侵略を受けるということです。ですから、国防を行わないということは、幕府が存在する意味がないということです。でも、平和が続くうちに国防は建前だけになってしまいました。フェートン号事件がその例です。
外国の侵入がなかったのは幸運もあるでしょう。西洋諸国は、未開な国とみなしたら植民地にしました。統治能力があるとみなした国とは不平等条約を結び権益を確保しました。清(中国)がイギリスと南京条約を結んだのは1842年です。日米和親条約を結び開国したのは1854年のことです。
日本も清も組織的な軍隊(さびついてますが)を持っていました。軍事的に制圧して植民地にするよりも、自治を認めた不平等条約を結び、貿易で利益を吸い上げるほうが安上がりです。むろん武力による威嚇も行います。
利益を主上げられた国は、物価の上昇などが起き、たまったものではありません。
それから、シベリア鉄道の全線開通は1904年です。日露戦争の最中です。もっと早く開通していたら、北海道あたりはロシア領になっていたかもしれません。
質問4.鎖国のときも、外国との交易を絶っていたません。外交貿易のほとんどが幕府の管理下にあったということです。
オランダや朝鮮とは正式な外交があります。清とは貿易をしています。幕府と朝鮮王朝との外交は、対馬藩が中継していました。長崎を警備する佐賀藩・福岡藩も異国と接する機会はあり、貿易のおこぼれを得ていたでしょう。
外国の海賊行為などは当然打ち払いの対象になるでしょう。
それと、漂流民の引き渡しや受け取りなど、個々の問題についてはその都度交渉してます。
アメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどが日本との接触を図っています。開国を要求されたこともありますが、黒船まで拒否し続けています。これらの国の事情もオランダ経由で幕府は知っていました。
元寇のようなことが起こらなかったのは、幕府が外国の事情を知っていたからです。黒船を打ち払えば、元寇の再来になっていました。
日米和親条約を結んだのも、外国の侵攻を防ぎました。アメリカは日本を独立国と認めているのです。もし、ロシアが北海道の領有権を主張したら、アメリカが黙っていません。
鎖国は日本の独立に役立ちました。
スペイン・ポルトガルは、まずキリスト教の布教を行います。これは、その国の宗教的権威を否定することです。キリスト教を広めるということは、自国の王よりスペイン・ポルトガルの王のほうが宗教的権威があるという思想を広めるの同じことです。植民地にする土台作りです。
清はアヘンで侵攻を受けるきっかけを作りました。日本は鎖国していたためアヘンが入ることはありませんでした。
No.1
- 回答日時:
質問1:無いです。
幕末に海軍奉行が設置されるまでは海上防衛組織はありませんでした質問2:割愛
質問3:無かったから黒船(蒸気船2隻と帆船2隻)如きでパニックになったのです。
18世紀までは、ヨーロッパのアジアへの軍事的進出はほとんどありませんでした。アジア自身は柵封体制下で対外関係は安定していたのです。19世紀に入り造船技術が進む一方で、銃器の生産が安定化してきたため、軍隊を伴った貿易と外交(砲艦外交)が始まります。日本は1820年代に危険を察知し、外国船打ち払い令(国防に関する命令)が出されます。
日本が江戸時代のように内需完全解決(食料自給率100%)なら、最低限の国防さえあれば鎖国できます。ですが日本はカロリーベースで40%しか食糧がまかなえていません。対外貿易をせねば生きてはいけません。そうなると商船団を守る軍艦も必要ですし、日本の権益を維持するための軍備が必要です。
日本の旧唱歌がそれを示しています。
われは海の子
いで大船に乗出して 我は拾わん海の富
いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国
海洋貿易国家が生きていく道を示した素晴らしい歌です。ま、某団体は『とまや』が非現実的ということでこの歌を教えるのを止めさせました。その結果、日本の子供がどれだけ体たらくになり、貿易と国防・外交の重要性を忘れる結果となったことか…嘆
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