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『提示文の"hence"の前にピリオドがない理由と文の構造について』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12865153.htmlさんを参考にしました。表題の文の全体が次のものです。『Humility is the foundation of all the other virtues hence, in the soul in which this virtue does not exist there cannot be any other virtue except in mere appearance. 』です。謙虚さが基礎である。魂の内に謙虚さがない。魂の内に謙虚さ以外の美徳がない。魂の外に美徳がでる。左記の4つの日本語文に分けられます。図示すると下記です。
         魂の
         内  | 外
美徳 謙虚さ   ない | ?
   ーーーーーーーーー+ーーーー
   他のもの  ない | でる
 魂の外に謙虚さの美徳がでているかつ魂の内に謙虚さがない場合がありますか?
 魂の外に何かの美徳がでているならば魂の内に何かの美徳がないと判断できますか?
 『Humility is the foundation of all the other virtues hence, in the soul in which this virtue does not exist there cannot be any other virtue except in mere appearance. 』の一番古い出典となる書物は何で著者は誰で何 page にありますか?

質問者からの補足コメント

  • 英文の , の位置が hence の右です。However と同様に節の終わりに接続副詞と , があります。左の節が帰結です。英文を言ったまたは書いた著者さんは美徳を出している人を出していることに関係なくその人が出している美徳がその人の魂にないとひとりよがりの主張をします。それを根拠に謙虚さが基礎だと帰結しています。提示した英文の前後の文脈が気になります。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/04/23 05:02
  • 回答ありがとうございます。
     ある人の心の内に謙虚さがあるとどうしてわかるのでしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/04/26 04:41
  • 自分の心の内に謙虚さがあるとどうやって自分で知るのでしょうか?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/03 06:04
  • 『「驕りは損するだけ」満招損、謙受益』http://www.narupara.com/modules/blog/2016-03-24- …さんがあります。「驕りは損失を招き、謙虚は利益を受ける、これはつまり天の道理である」とありました。どの本に載ってるか調べました。『「大禹謨篇」が掲載されている本を探しています。』https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrd …さんがありました。『新釈漢文大系26 書経・下』(明治書院 1985年 p.361-「一 大禹謨」)https://www.meijishoin.co.jp/book/b98436.htmlにありそうです。謙虚さがあるならば益を受けると演繹しています。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/12 04:57
  • 『Ultima VI: The False Prophet/Mantras』https://strategywiki.org/wiki/Ultima_VI:_The_Fal …さんが8つの virtue を挙げています。

    Honesty
    Compassion
    Valor
    Justice
    Sacrifice
    Honor
    Spirituality
    Humility
    」です。誠実さと優しさと勇敢さと正義と献身と名誉と清らかさと謙虚さです。『枢要徳』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%A6%81 …さんによると知慮 φρόνησις wisdom と勇気 ἀνδρεία courage と節制 σωφροσύνη temperance と正義 δικαιοσύνη justice の4つです。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/17 04:18
  • 『humility』https://www.merriam-webster.com/dictionary/humil …さんによると「freedom from pride or arrogance : the quality or state of being humble」とあります。Pride は誇りです。Arrogance は傲慢です。謙虚さが形容詞や動詞になると humble です。謙虚さに2つの側面があります。1つ目が辞書の定義です。謙虚さが低い自尊心と自分に価値のない感覚です。自己意識からの解放と誇りや傲慢や自己非難にふけらない節制です。2つ目が宗教での定義です。謙遜が神または神に関連する自己の認識と宗教の信者としての神への服従です。傲慢が適切な内面または自己尊重の外面的な表現です。屈辱が傲慢と対照になります。謙遜が自己非難を通じて屈辱を受け入れさせるよう悪用されます。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/22 06:49
  • 『聖アウグスティヌスについて St. Augustine』http://stmonica.sakura.ne.jp/newpage53.htmlさんに「キリストが柔和で謙遜であったように「一に謙遜、二に謙遜、三にも謙遜」(『書簡集』118・22)」とありました。書簡集が二冊教文館から出ています。『アウグスティヌス著作集 別巻1 -書簡集(1)-』https://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives …と『アウグスティヌス著作集 別巻2 -書簡集(2)-』https://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives …です。『書簡集』118・22という出典の書き方の2つの数と中黒は何を指しているのでしょうか?

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/26 05:32

A 回答 (11件中1~10件)

たぶんアウグスティヌスなど信仰者の場合、心の中で神と自分を垂直の関係(上下関係、勾配関係)で結びつけ、その時は自分が神より下にいるという自覚から、自分の心を謙虚な状態であるとみなせそうです。

別に神を心に置かない時は自分の心が謙虚でないとみなせそうです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 上下と謙虚さが多いと少ないの対応は下記になります。
   上  謙虚さが少ない  神の心の内
   下  謙虚さが多い   自分の心の内
神が謙虚さを少し持ちます。謙虚さは位置ではありません。上下とはどういうことでしょうか?自分が下にいるとどうしてわかるのでしょうか?人が下にいるかつその人が謙虚でない場合はないのでしょうか?より下に位置することが謙虚さが多いことと結びつくのはどうしてでしょうか?上のものにより謙虚さが多くある場合が下記です。
   上  謙虚さが多い   神の心の内
   下  謙虚さが少ない  自分の心の内

お礼日時:2022/05/08 05:51

確かに知が先かもです。

人の発達は、生まれる→謙虚でない学ぶ心で知る→知ったと思い上がる→無知を自覚する→謙虚な学ぶ心が出る、の順かもです。
確かに否定神学な信仰は不可知な神をたたえるあまり自分の無知を無知のままにするかもです。
google books とか便利ですね。
「人間間の垂直・勾配関係」はヒエラルキーです。
「態度価値」はフランクルが言う三つの価値(創造価値・体験価値・態度価値)の一つです。ひどい状況でもなんとか価値を見出そうとする態度によって得られる価値です。
「理想化や脱価値化を排した中庸で多様な価値化が世界観を豊かにする」は、自分の貧しい世界観への反省+アリストテレスの中庸+マルクス・ガブリエルの新実存主義(世界観の多様性)+フランクルの態度価値です。価値感の対象が少ないとその対象いかんにより主観世界の価値が上下しすぎて落ち着かないので、なるべく複数・多数の対象にほどほどずつの価値を見出すと世界観全体の価値が安定しかつ多様な意味を世界に見出せて良いかもと思いました。今は利他が課題です。
「神的部分」はトマス・アクィナスの謙遜論にある「神からのもの」です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
 Hierarchy が身分制度です。

お礼日時:2022/06/02 05:48

出典は書簡集かもですね。

書簡集の構成が不明ですが118番目の書簡の22節とか22項とかを指しているかもです。
トマス・アクィナスの謙遜論ありがとうございます。アブラハムの人間的部分への自己評価が神未満かつ他者(の神的部分)未満なら謙遜かもです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 どういたしまして。屈辱に対するのは矜持です。傲慢に対するのは謙虚です。神と塵があります。神が上で下が塵です。אַבְרָהָם さんが自分を塵にすぎないとしました。אַבְרָהָם さんが塵未満です。אַבְרָהָם さんの自己評価が傲慢です。塵より下の水素原子1粒です。אַבְרָהָם さんが水素原子1粒を超えます。אַבְרָהָם さんが自分を水素原子1粒にすぎないとしました。אַבְרָהָם さんが謙虚です。
上 神

  塵  =אַבְרָהָם 傲慢 矜持
ーーーーーーーーーーーーーー
     >
      אַבְרָהָם 中庸
     >
下 H  =אַבְרָהָם 屈辱 謙虚
「神的部分」とは何でしょうか?

お礼日時:2022/06/01 05:20

布教は政体の植民地主義に加担しがちなようです。

原住民の武装解除と実効支配のために謙遜を悪用します。
適切な内外面は中庸で、傲慢と屈辱ではその中間です。
知慮を得るには無知の自覚や学ぶ心としての謙遜が前提かもです。
司祭の性虐待は人間間の垂直・勾配関係にも起因しそうです。下位の者への支配に謙遜を悪用します。対等・水平関係が妥当です。
家族や旧知その他の誰をも理想化しないことは妥当です。
信仰に限定しない態度価値はよいかもです。理想化や脱価値化を排した中庸で多様な価値化が世界観を豊かにするかもです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 無知の自覚は知です。知が先にあります。その後で学ぶ心が出ます。学ぶ心が謙虚さです。謙虚さの元は知です。『悪 その2:悪は現実に存在するものか?  [探求(旧)]』https://shin-nikki.blog.ss-blog.jp/2012-10-31さんに「アウグスティヌスが強調するのは、悪は実体的な存在をもっていないので、最終的には説明しえぬものだということだ。「それゆえ何人も、私が知らないと知っていること(what I know that I do not know)を私から知ろうとしてはならない。ただし、知りえないものであると知っておかなけらばならないこと(what must be known to be incapable of being known)を、知らないでおこうとするためであるならば、話は別であろうが」。ついでに言うと、興味深いことだが、悪についてのこの不可知論は、神は私たちの理解の限界を超えるものだと主張する「否定神学」の反映なのである。」とありました。他人の無知のを知ることが知です。この人から学ぶことがないです。St. Augustine『The Life and Writings of Saint Augustine』((Wyatt North Publishing https://wyattnorth.com/に質問に挙げた文が google books で見つかります。塵は塵に水素は水素に還ります。負にまで行かないところが善の不在と対応していて面白いです。「人間間の垂直・勾配関係」が何かわかりません。「態度価値」がわかりません。「理想化や脱価値化を排した中庸で多様な価値化が世界観を豊かにする」がわかりません。

お礼日時:2022/06/01 05:16

すみません「神に対する謙虚さ」は私の無知による勘違いで、「神(イエス)のような謙虚さ」が相応しいようです。


神以外のものに対する謙虚さも大事そうです。神と隣人と自己を愛せと言ったそうですし。イエスは。
『卑しくなられた Jesus』は、神だったのが人間に身分を落としたイエスです。イエスの謙遜です。
『高められる喜びを謳歌した者が喜んで身を屈めること』は信仰者がイエスの謙遜を喜んで模倣することかもです。
「高くて深い」と「低くて浅い」の対比は、山の高い所に登ると眼下の谷が深く感じられ、低い所では谷が浅く感じられるみたいなことかもです。信仰心の強さや神学理解の深さや神への愛の深さによる霊性の高まり、対、信仰心の弱さや神学理解の浅さや神への愛の浅さによる霊性の低さ、など。
上と下の分類項目がよく分かりませんでした。掲示文に関係しそうな要素を分けると
『謙虚さが少ない、信仰心ない、肉欲に支配される、自己中心的、精神的徳がない、地の国の民』対
『謙虚さが多い、信仰心ある、肉欲に支配されない、神中心的、精神的徳がある、天の国の民』などになるかもです。
キリスト教的徳は愛・信仰・希望みたいです。それらの前提としてイエスのような謙虚さが必要なのかもです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3#%E3%82%A …
キルケゴールの「勇気」は、感性的生活を排して自己に直面し、世界や他者と関わりながら意味や価値を見出していく勇気で、おそらくアウグスティヌスにもあったかもです。

キリスト教の「信仰すると善い自由意志が得られる」という仕組みは個人的に不可解です。信仰を善い自由意志と呼んでいるのかも。観察や内省や対話などから得られるのではと思うのは傲慢なのか分かりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 神に対する謙虚さもあります。あなたの勘違いではありません。横田蔵人『「塵あくたにすぎないわたしですが」 : トマス・アクィナスの謙遜論』https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001337460170496のp.78-79に「「神のもの」と「人間のもの」との間の視差に基づく低い自己評価は卑屈な態度だと言えるだろうか。神を前にして自らを「塵あくた」にすぎないと言うとき、自分の「分際・程度」に対するアブラハムの自己評価は正しい自己評価であると思われる。神と比べればアブラハムは「塵あくた」にすぎないからである。それゆえ、彼の謙遜は正しい自己評価にもとづく正しい謙遜である。」とありました。謙遜であると結論しているところがわかりませんでした。אַבְרָהָם が塵あくた未満です。塵あくた以下だとすると傲慢です。ちょうど塵あくただであれば卑下でも謙遜でもないです。『信念に命を捧げるということ』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10067307.html#an101 …のNo.34さんへのお礼 comment さんが「
人に対し「中身がない」なんて平然と言う人がいますが、これは世間知
らずで傲慢な阿呆です。
」と言っていて面白いです。人についてと人の言ったことについてを区別していないです。前者が心の内に謙虚さがないまたはあることで後者が心の外に謙虚さがでるまたはでないことです。岡嵜隆哲『アウグスティヌスにおける内的対話の展開 : 『告白』における『詩編』言語の意味と可能性について』https://cir.nii.ac.jp/crid/1570009754528914176の pdf が右を押すと落ちてきます。http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/ …です。p.63に「「謙遜さの土台(fundamentum humilitatis)」たるキリストとの結びつきにおいて語られる。」とありました。欄外に Confessions,7.20.26.とあります。

お礼日時:2022/05/26 05:31

信仰者の謙遜はイエスの謙遜(神の子が人になる謙遜)の真似みたいです。


自分がすでに充分に謙虚だと思うことも傲慢になるらしく、充分ではないものの出来るだけ謙虚になろうとしているとき、辛うじて最も謙虚な状態(傲慢さが少ない状態)に近づくのかもです。
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回答ありがとうございます。
 上と下の違いが神っぽさの多さと知の多さの2つの要素が出てきました。先に神であります。後で下に降りてくると謙虚です。一方通行です。先に上に行ってそして元の場所に降りてくると謙虚です。上に行くとは知を得ることです。往復通行です。謙虚になるよりも先に知慮を得ることが基礎です。知慮の方がより基本的美徳です。地面に掘った1mの穴が地面に掘った0.5mの穴より深いです。0.5mの穴が1mの穴より浅いです。0.5mの穴底は1mの穴底より上にあります。
  ┓┏ーー┓┏
  ||  ||
  || 上┗┛浅 神っぽさが多い または知が多い
  ||
 下┗┛深     神っぽさが少ないまたは知が少ない
『キリストの石打の刑を絶対善で考える。』のNo.1https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11097138.html?pg=2# …さんは「
世の中には自分でも同様な罪を犯していながら、他の同様な罪を非難して、相手を攻撃する人が本当にいるのですね。所謂ブーメランて言うやつで、相手を攻撃したら自分の頭に刺さってくる。これを懲りずに繰り返すとんでもない輩が本当にいるのです。

私がアメリカに渡って驚いた事件に、米国の保守党の幹部で"Family values"(家族を大切に)という協会の協会長をやっていた政治家が、ゲイの存在を国会や社会で非難し続けていた政治家が逮捕された時間がありました。その彼が、ある日、ゲイ売春が出没するとして内々の捜査をされていた飛行場のトイレの囮捜査で、ゲイ売春をしたとして逮捕されたのでした。
」と言います。『カトリック教会の性的虐待事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88 …さんがあります。『スキャンダルで眼が曇る』https://note.com/numatakazuya/n/n52df83c51aefさんが「どんなに論理的なキリスト教の話をしても、相手には最初から聞く気がないのと似ています。」が面白かったです。

お礼日時:2022/05/22 06:43

『箴言』『ペトロの手紙』も謙遜を讃えているようですが『書経』のほうが古いです。


アウグスティヌスだと『教師論』『教えの手ほどき』あたりかもです。
https://www.jrc.sophia.ac.jp/pdf/research/bullet …

新実在論では主観世界と物理宇宙をあわせた世界全体はないらしく、世界全体としての神もなく、神=世界全体の一部、宇宙=世界全体の一部、とみなすのが信仰や科学に相応しい謙虚さみたいです。
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回答ありがとうございます。
 No.5で「神に対する謙虚さ」とあなたは言いました。神に対すると謙虚さを限定したのはどうしてですか?神以外のものに対する謙虚さはどうなりますか?神門しのぶ『アウグスティヌス思想にみる教育の構造』https://cir.nii.ac.jp/crid/1570854179467735680を紹介してもらいました。p.69に「人間の教師は、まず自らが知を熱望し、高められる喜びを謳歌できるものになっていなくてはならない。なぜなら、その高みを知るものは、その高さの分だけ、真に教えることはできないという低さを深く自覚するからである。教師は、その高低差を知ることによってはじめて、卑しくなられたキリストに倣って、自分よりも未熟なもののところに行くために、よろこんで身を屈めることができる。」とありました。卑しくなられた Jesus とは何でしょうか?如来が完全な人格者の意で真理をよく理解して自分のものとし迷界に下って衆生を救済する仏陀です。高められる喜びを謳歌した者が喜んで身を屈めることが理解できませんでした。上が高さと深さの2つに対応して理解できません。高くて深い知と低くて浅い知があります。浅い方が深い方より上にあります。上下が裏返ります。
 上 謙虚さ少 肉欲に支配される  神  自分 高い 深い 全体
 下 謙虚さ多 肉欲に支配されない 自分 他人 低い 浅い 部分
知が高まります。高まったところから低い人のところに降りていきます。高いのに低いと嘘をつくと謙虚さが多いです。自分を上に置きながら下に置く二重基準です。知が美徳の一つでしょうか?『悪 その3 : 自由が私たちを悪にするのか? [探求(旧)]』https://shin-nikki.blog.ss-blog.jp/2012-11-02さんは「アウグスティヌスは謙虚さの美徳を強調したのに対し、キルケゴールは、私たちが自由に対して謙虚であると同時に勇敢でもある必要があると指摘する。「謙虚な勇気」だけが、罪へと傾斜する人間の普遍的な傾向に対抗することができるというのだ。」と言います。

お礼日時:2022/05/17 04:16

発言者をアウグスティヌスとみなした場合ですが



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6 …

アウグスティヌスはイケメンだった青年期について「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」といい、これが謙虚でない状態で、おそらく主観的には外貌の他とくに精神的美徳がなく
“386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心した” そうで、以降は謙虚な状態で、神や信仰のおかげでいくつかの精神的美徳を初めて持てたと自覚したかもです。
そんな自己の経験から『Humility is the foundation of all the other virtues hence, in the soul in which this virtue does not exist there cannot be any other virtue except in mere appearance. 』と帰納したのかもです。

掲示文の謙虚さは、神に対する謙虚さのことを指すかもです。

私の理解はあやふやですし、また教義じたいの妥当性も不明ですが、
心の中の主座に何を据えるか? という問題がからんでいそうです。言い換えると、価値観の序列の最上位に何を置くか? です。
候補は神・自己・他者・国・世間などです。心における諸価値の位置・地位の問題でもあります。

・価値観の最上位に自己を据えると、青年アウグスティヌスのように傲慢になり、謙虚でありません。エゴイズム。神を戴かないので『地の国』に属するとされます。
・神以外の特定の他者を据えると、その人への謙虚さが過剰になり隷属してしまいます。これも『地の国』に属します。
・特定の国や世間を置くとその部分への隷属になり他の部分を軽んじ対立します。国家主義や世間教。『地の国』です。
・神(=世界全体?)を据えると信仰になり、全ての自他や場所が神の下に(平等で?)あるという価値観になります。たぶん教父の説く謙虚さです。『神の国』に属しうる心のあり方のようです。

神の国(=世界全体への愛)以外(=地の国という部分的愛)を軽んじすぎて破壊するくらいならそれも傲慢さになるかもとも思います。
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回答ありがとうございます。
 肉欲に支配されるまたはされないの項目が増えました。上下と謙虚さが多いと少ないと肉欲に支配されるされないの対応は下記になります。
 上  謙虚さが少ない  肉欲に支配される   神
 下  謙虚さが多い   肉欲に支配されない  自分
神に謙虚さが少ないのは肉欲に支配されているからです。神に対して謙虚さが多い人たちを比較すると同様の謙虚さです。神に対しての謙虚さが他人1への謙虚さになります。自分から自分へや他人2への謙虚さが少ないです。 
 上左 謙虚さが少 神 |上右 謙虚さが少 他人1
ーーーーーーーーーーーー+ーーーーーーーーーーーー
 下左 謙虚さが多 自分|下右 謙虚さが多 他人2

お礼日時:2022/05/12 04:56

心の謙虚さは自己観察するか他者の言動から推察するほかなさそうです。


もしアウグスティヌスなら自己観察から帰納したかもです。
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回答ありがとうございます。
 自分と他者の区別が良かったです。

お礼日時:2022/05/03 06:00

英文は帰納法で、翻訳は演繹法なのかもです。


英文作者は謙虚でないイケメンやブサメンを観察した結果どちらからも精神的美徳を観測できず、謙虚なイケメンやブサメンを観察したら謙虚さ以外の精神的美徳が観測でき、はたして帰納的に謙虚さを精神的美徳の基礎とみなしたのかもです。
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回答ありがとうございます。
 2個目の補足 comment はお礼 comment の記入先を誤ったものです。間違えました。ごめんなさい。

お礼日時:2022/05/03 06:00

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