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織田信長は尾張に生まれて上総介と改名しましたが
なぜ上総なのでしょう。
上総など治められるわけないですよね。
上総介を名乗っている時期に
上総に行ったこと
あったのですか。

A 回答 (5件)

朝廷にお金持って行けば適当な官職をあてがわれたんだと思います。

肩書必用なのはいつの時代も同じでしょう。無職無冠では権威が無い。
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この回答へのお礼

ありがとう

義經が伊予守、真田が淡路守を名乗ると似たようなものかなあ。

お礼日時:2022/05/09 12:49

上総介は由緒ある(平氏の)官位なので諸侯に対して虚勢を張るためのものだったと思います。

周辺の大名が源氏の流れだったのが理由かもしれないです。
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この回答へのお礼

織田が平氏というのは大ウソと思う。
系図で織田氏の氏祖は平家の落ち武者の子という系図あるが、
年齢調査で親が死んで何年も立ってから生まれたことになるという
系図が出来上がるらしい。
おそらく系図を作るときに源氏対抗でわざと平氏に結ぶことが
有利と考えて偽系図作成ですか。
義經が伊予守を称したことと同じですか。なんとなく見えてきた。

お礼日時:2022/05/09 12:48

ライバルである今川義元が上総介と称していたからです


領地および近隣の地域の覇権争いをしていくうえで
今川義元よりも自分(信長)の方が正当性があるということを示すため
ライバルと同じ官職を名乗っていたという事です
このような事例は結構あったようです
名前に関する別の例は>>>徳川
松平元康は 今川義元が戦死したあと
徳川家康に解明しましたが
これはライバルとなった今川氏真の 今の川より
自分は 徳のある川だ
このようなことを示すための解明であったようです
この時代の人たちにとって、名前とは重要な要素であったようですね・・・
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同じような疑問を持つ人がいるようです。


 
https://question.realestate.yahoo.co.jp/knowledg …
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もともと、三河の守護は吉良氏だったが、内部抗争して弱体化した。

 そして、駿河・遠州の守護だった吉良氏の分家の今川氏が戦国大名として勢力を伸ばしていた。 吉良氏は足利長氏が吉良氏初代でを名乗り、以降吉良満氏、吉良貞義・・・と続いていくが、この三代が皆「上総介」に任じられていた。 よって、信長は今川に対抗するため、昔三河国を治めていた吉良氏の官位である上総介を勝手に名乗り、今川に対抗しようとしたもの。
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