「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

人はある程度の年になったり、家族を養わなければならないからと言い訳して、これまでやってきた仕事に飽きがきた、全てやりきってやり残したことはもうないとの想いが強くても其所に留まる選択を取る人が多いらしいですが、これは変化を恐れて新しいことに挑戦しなくなる守りの姿勢に入り、攻め姿勢を忘れたことにはならないでしょうか?

A 回答 (4件)

何か(新しいこと)に挑戦するのにはリスクを伴います。

リスクを避けて小さくするほど挑戦の結果(成果)は限定的になります。

ある程度の年になり家族を扶養する責任を伴っていると、リスクと機会を慎重に評価し、挑戦にもし失敗してもその弊害は許容できる範囲に収まるように、準備万端しておかないといけないでしょうね。

それも無くて無謀な挑戦をすることは無責任と言わざるを得ません。

私自身は入社30年経ち給料がピークに近づいた頃に某大企業を脱サラし、自分の会社を興しました。その前に3年間に亘って独立してもやって行けるように準備万端してからです。

お陰で2年めにはサラリーマン時代の年収の3倍以上も稼げるようになり、うまく行きました(18年間続け、70歳になったのを機に会社を閉じました)。
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攻守ってのは、本来は相対的な関係です。


攻撃者や守るべき存在が無いと、そもそも守りも無いし。
相手の攻撃力に対し、必要な防御力を高めたり、守るべき存在を守れるだけの力を持つ必要がありますから。

従い、守りでも能力の向上などの変化(進化,成長)はあるし、更には、攻めより強制力もあると思います。

簡単な例で言えば、突然、暴漢にでも襲われたら、嫌でも守らねばなりません。
一方の暴漢は、攻撃を強制される立場ではなく、自分の任意。
従い、全力で攻撃する必要もなければ、途中で止めても構いませんので、守備に比べりゃテキトーと言えばテキトーです。

強制性もある守る力を進化や成長させたら、それは攻撃力と同等か匹敵する様な力です。
それを攻撃に使うことも可能ですが、使うかどうかはテキトーで良い訳です。

「守る」を本気でやれば成長できるし、かなり強いとは思いますが、本気でやるのはしんどいです。
守りは、どうしても後手に回りがちで、おまけに強制されたり、急成長を求められることも多いから。

陳腐な言葉で言えば、「優しさは強さ(実力)」ですが、「強さ(実力)の無い優しさは、甘さ」ってやつでしょう。
実際、普段は温厚な人が、私は本当に困った時には、凄い能力を発揮して助けてくれたりした経験も、チラホラありますよ。

あなたの説が正しいとすれば、「強く優しい人より、甘い人が多い」ってことではないですかね?
それは間違ってないかも知れません。
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こういう考えについては人それぞれです。


私自身は、守るべき、養うべきものがある人は、それを最優先にし、生きることに重きを置いていると思います。なので、決して、変化を恐れる、新しいことに挑戦するのを止めるということではありません。守るべき、養うべきがある人にとって、守ることこそ、、攻めの姿勢だと思います。
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それは違う。

守りがあってこその攻めなのだ。攻め一辺倒で勝てるほど人生は単純ではない。まあどんな世界にも勘違いしている奴はいるけど。それだけの話だ。
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