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競争原理からすると
兎さんは昼寝をせずに最後までしっかり走っていれば
亀さんに負ける事などなかった。

でも人間競争社会では上には上が、下には下もあり
行動量や速度だけで客観的にも合理的競争の終わりが見えない。
どのような器があればその人なりの幸せな人生を送れるものなのか思います。

幸せと仕合せの意味は違いますか?
最近感謝する事、希望すら減りましたが、
寝すぎて気付き不足、人生から逃げてばかりなせいでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 私にはあるものを作る趣味がありました。
    それを手掛かりに人脈を築いたり出来れば
    人生まだ頑張れるかな。
    自己肯定感に繋がるといいなと思います。

      補足日時:2022/12/30 21:12

A 回答 (14件中1~10件)

補足で仰られているようなことを、ぜひなさってゆくと良いと思います。


出来の良いもの、出来の良い人だけが世の主役ではありません。自他の尊厳を保つ人が世の主役なのです。
私はそう思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
尊厳への道は「人目が(を)気にならない」ことでもありそう。
今の私には難しいのでございます。

お礼日時:2023/01/01 10:15

なるほど。

達観と葛藤と惰性が同居してる感じですね。仕事にしても、クライアント、ひいては社会の構成員を大事にすることで仕事になるのですが、それはお金以上の資になります。そしてそれは、収入額と全く比例するわけではないですが、無縁でもありません。
伴侶と出会うにしても、相手を大事にするのは前提ですが、大事にするという気持ちがちゃんと伝わるのか、ちゃんと返ってくるのか、それは確信がなく、ちゃんと伝わって返ってこなければカップルとして成立しませんね。

その意味では、尊厳や愛、大事に思う心と言うのは人間としてまともに生きるための前提にある部分で、外せない基礎ということになるかと思います。
人生はそこから始まるのでしょうね。
発展の部分が存在するという事です。

わずかしか愛してくれない人と、ちゃんと愛してくれる人とでは、後者の方がモテるでしょうし、後者を選びたい人がほとんどだと思います。
市場の競争も、基本的にはその原理に倣っている気がします。良い製品を良い価格で、良いサービスとして提供するには愛が必要です。愛の大きな、細やかなところが勝つ。その様に思います。そうでなければ、人は集まらないからです。

お金も愛と無縁ではなく、愛のある人には支持が集まり、経済力が伴う場合も多いと私は思います。

単にズルをしてお金だけ儲ける輩も居ますが、彼らには生きる理由がない。それは、お金があっても哀しいことですね。

愛の豊かな人々を自然は残そうとしていて、愛に恵まれ自身も愛を提示できる様になるかどうかは、何で決まるのでしょうね。DV、障害、差別迫害、イジメ、この様な逆境にあって、愛を身につけるのは難しいと思う。
ですが、身につけた時にはそれは大きなものになるのだと信じて、挫けても立ち上がって欲しいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
回答は読んでいますが、精神的余裕を失っている状態です。
何か書けそうになったら補足に入れます。

お礼日時:2023/01/05 09:25

わたしも近頃その辺を考えております。


愛情表現は人をしあわせにし得るけれど、いつも受け取ってもらえるとは限りませんよね。愛しても、愛されるとは限らないし、大事にしても、大事にされるとは限らない。
日々の糧を得ることに忙しくしていれば、尊厳も愛も忘れられやすい。逆もしかり。
私にはまだ分からないことです。
結局人生で為すべきことなど無く、揺蕩うように生きなければならないのか、何か特定の対象を大事に思う事で、苦しみ生きるのが正しいのか、あるいは大事に思うと言う事の執著さえも離れて、爽やかに生きることが善い道なのか。
質問者さんはどう思いますか?
よければ教えてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「爽やかな生き方」も「交際相手選び」も人それぞれ。

心を大事にしたいというのであれば対象への所有欲をなくして
価値ある会話だけで十分だと思います。

そうはいっても現実生活は常によい時ばかりではないものだから
お飾りではなく生涯物の勲章となる自慢できる相手か
手段でしかなくとも人を裏切らないお金という安心が得られる相手か。
そうなれば、そうそう心で働いてもらうこと何て期待してませんね。

お礼日時:2023/01/04 05:48

イジメは、動物の生存闘争による本能、自分より弱い個体やライバルになる個体を、生存競争から脱落させるために行われると私は考えています。

要するに、猿とか犬、鳥類と同じレベルで、人としてのやさしさとか、尊厳に目覚めていない個体群がかまける動物行為です。

人として正常に発達した個体は、イジメをしても楽しく思えず、むしろそれを目撃した時に、あるいは遭遇した時に居た堪れなさを感じます。この群れは、自分(人)の居場所ではないと感じるからです。
さらに発達が進むと、いじめを目撃しても、居た堪れなさすら感じなくなり、イジメは、ただ、未発達の、人になり切れてない個体群の粗野な行動であると見るだけです。動物にとっては食べ物は餌に過ぎず、食事ではない。正常な発達から逸れた人は、群れを形成できても友を作ることができない。
そんな中でも、こころある人はイジメを是正したいとか、イジメという動物行動からいつまでも卒業出来ない個体群の啓蒙に努めたりするでしょう。

いじめに関しては、ただそれだけのことです。
どの人も、ちゃんとした人に成れてるわけじゃない。

好き嫌いで生きている間は動物の域を出ない。
ちゃんと尊厳を見て、その人を大事に思えるかどうか、そこら辺が人か動物かの分水嶺になってくると思います。

断言しておきますが、群れを形成することは悪いとは言いませんが、それに安住することは、頼りないことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
食べてくれる人が喜ぶ顔が見たくて買い物したり料理します。
そんな愛情表現が自己アピールとして人の見えない主食になってたりして。
自己アピールしたつもりで必ずしも報われると限らなくても。
尊厳はそんな精神としての存在であれるかですかね。

動物の捕食は個体維持と種族保存の域を超えれないものなのかな。

お礼日時:2023/01/03 18:34

内面にある本来の自分に生まれながらにして備わっている本質的な価値は,学歴や肩書等生まれたあとに自分に張り付いてきたまやかしの価値のように剥ぎ取る事が出来ない価値。

これはすべての人に言える事。
もし生まれながらにして備わっている本来の価値を見出したいなら、それら生まれた後に張り付いできたまやかしの価値を剥ぎ取ることです。
これは他人にも言えることなので他人に対しても同様にする事です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
富める者も病む者も、共に楽しく時を過ごせるなら
情報も栄養も人間関係も全て自然と安定に向かえそうなる気がします。

お礼日時:2023/01/03 14:00

人目が気にならないではなく、蔑みや嫉妬、羨望や尊敬、その様な視線に汚されない気高さ=尊厳を保つと言う事です。


また相手をして、蔑みや嫉妬、羨望や尊敬の視線で汚さないと言う事です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
フェアじゃないこと、虐めってあるじゃないですか。
問題の根は何処から来てるのか知りたいです。
脳の具合かもしれませんが、自分のせいにする癖があります。
それで孤独になって周囲と壁を作ってしまう。

お礼日時:2023/01/03 04:38

追記


尊厳を保つとは内面にある本来の自分に生まれながらにして備わっている本質的な価値を認める事です
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
この年になって、今年こそ自分の価値を見つけていこうと思います。

お礼日時:2023/01/03 04:31

本来の自分に従うという事それこそが自己が存在するその理由です


それがこそが滅私の精神となるのです
ここでいう滅私の私とは外面的な偽りの自分の事で故に滅私とはそんな自分を自身で滅する事です
つまり滅私の精神とは外面的な偽りの自分を滅して自身の内面にある本来の自分に立ち返るというこです
内面にある本来の自分は外面的で偽りの自分がそうであるような表層的な外面的な偽り価値観に囚われることなく自身の本質的な価値に根ざすことなのです
そうすることで自分自身に対して間違わなくなるのです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
本来の未熟な自分の中にも、今でもですが
「誰か(大人に)大切にされたい、わかって欲しい」や
「やりたいことがない、力もない」で一杯です。

依存症があります。過去の心の傷もあります。
それで生かされ、時に小さな泡のような幸せもあります。
他人から願いや無知から救われないのなら、
自分で自分を救えということになるのでしょうね。

お礼日時:2023/01/03 04:26

重要な事は外面的な自分=偽りの自分に従うのではなく内面の自分=本来の自分に従うことです


それはつまり内なる声に耳を傾けそれに従う事です
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ホンの一世紀前よりグローバル社会で価値観が多様化して
選択肢も増して人それぞれ好みなものってあるじゃないですか。

でもその価値観として成立するまでの年月に削ぎ落された価値があって
内面の自分は何をされたら嫌で、それを外面の自分は人にしないでおこうで
善人として普遍妥当性となった自分らしさが見えてくると思います。
自分の好みを示すことはあっても、自分が嫌なことを人にはしない。

「己の欲せざるところを人に施すこと勿れ」ですね。

お礼日時:2022/12/31 17:10

自分が思うこと考える事に従って光度する事が合理的ですからその意味で無駄はないのでその分消耗しないで済みますね


世間は質問者さんに合わせはしないのでそれに盲従することは自身のペースを乱すことになるので非合理的なので無駄が生じるのでその分消耗しますね
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。
主体性を放棄するのは確かに身を削る心象です。
客観性に紋切りされれば、守りたいものも守れなくなってしまう。

お礼日時:2022/12/31 04:36

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