プロが教えるわが家の防犯対策術!

偏差値60未満の人間って等しく生きる価値ないし、価値観あいませんよね?

A 回答 (12件中1~10件)

偏差値60以上から60未満に落ちて辛かったことがあり色々考えてみました。


以下を一言で言うと多様な価値を採用することです。価値観の偏りは確かに辛さや不安になります。

おおまかに価値や生の場を私的領域・社会的領域・自然領域に分けます。
他者に対し評価判定(ジャッジメント)することが妥当な範囲は、その他者の社会的領域における振る舞いに限定されます。(あ)
このジャッジメントに関する倫理規定はマナーとして社会に共有されてきています。倫理は個人的なものなので私的領域にも適応できます。

私的領域では主観的絶対的価値が見出され、
社会的領域では客観的相対的価値が見出されます。
それぞれの価値をさらに意味的価値・情緒的価値・即物的価値などに分けることもできます。

偏差値はこれらのうち社会的領域における相対的・意味的価値あたりに属します。(い)
こういう分類は偏差値以外の諸価値を見逃さないという効果を持ちます。そうすれば落ちこぼれても挫けず生きられますし、落ちこぼれなくてもより安心して豊かに生きられる場合があります。

他者性というか価値観の不一致も前提です。個々人の価値観において、どの領域とどの領域におけるどんな種類の諸価値にどの程度のどんな意味や価値を見出すのか、の配分比率は主観により決定されるので絶対的であり、それらを客観すれば多様です。(う)

ここで、偏差値60未満の人=A、
偏差値60以上の人=¬Aとします。

問いの「Aは偏差値60未満だから生きる価値がない、のか?」にのぞみます。ないよね?という文面ですが中立的にします。もっと言いかえると「偏差値60未満であるAの生を無価値だ、と評価判断することは妥当か・不当か?」という問いにします。

Aがもしジャッジメント主体の他者としてある場合、Aの生の価値を否定することは、(基本的人権なるものによってもですが、)(あ)と(い)からも不当です。
Aの生を客観評価しようとする主体(¬Aかもしれない)が自己の内面においてAの「偏差値」のみを相対的に低く見積もることは、(い) 偏差値という社会的領域におけるAの学業評価に即したものなので、妥当です。
でももし偏差値が秘密情報の場合は偏差値が部分的には嫌なことに私的領域にも入り込みます。

しかし、その偏差値のみを理由にしてAの「生」全体の価値までを低く・または高く見積もることは不当です。なぜならAの生はAの私的領域とその諸価値をも含む(あ)からです。
他者の私的領域までごっそりジャッジメントするのは倫理にもとりますし、Aの私的および環境的価値ならびに偏差値以外の社会的諸価値をその見積りに加えないままAの生をまるごとゼロ価値とするのは不当です。

ただし主観的・客観的に見積もられる諸価値や諸意味の総和が生の価値や意味の全てなのかは不明です。環境的意味や価値もあるため、私的・社会的意味や価値がゼロであっても生の全体の価値がゼロになることはおそらくありません。
しかし主観のコンディションや価値観の偏重によってはそうした諸価値が忘れられ絶対的虚無感に陥る場合もあります。

批判者(¬A?)が自己の内面において密かにAの生全体を無価値であると独断評価することは可能ですが、そうした内的行為は同じ理由(あ)ゆえに不当です。

Aがもし自己である場合、以下の(え)と(お)から不当です。
A自身がもしも偏差値偏重で、社会的領域における相対的価値のみを重視する場合、その価値観は自己価値を損傷し、A自身の生きる価値は主観的にとても低くなる可能性があります。そのときAが自身の生きる価値をゼロと見積もることは可能です。(え)

しかしその見積りもまた可能であるとしても不当です。なぜなら社会的相対的価値評価は社会的領域のみにおいて有効であり、その評価を私的絶対的領域や環境領域をも含む自己の生全体に及ぼすことはやはり不当だからです。(お)

偏差値偏重の人的環境によりそのような偏った配分比率の価値観が共有され、絶望のうちに下される不当な判断は間々あります。成績不振を苦にした自死などがその例です。

複数の領域における複数の諸価値を採用することがそうしたリスクを減らします。Aでありかつ偏差値偏重でない場合などです。
私的領域における絶対的価値や、社会的領域における情緒的価値または即物的価値、あるいは環境的価値をも、自己や人の生の価値に含める場合、偏差値や学業・知能等の如何のみによって生全体の価値をゼロと見積もる可能性(リスク)は低くなります。

なので
「偏差値60未満=生きる価値がない」という判断が可能な場合は(え)に限定され、しかしそれは(お)により不当な判断となり、「偏差値60未満の人間は等しくみな生きる価値がない」との判断は、可能だが不当であると言えます。(か)

Aと¬Aの価値観が合うかどうかは、合いません。
もし¬Aが(か)という不当な理由からAの生全体の価値をゼロと見積もる場合、それでも生きているAとは価値観の内訳がおそらく異なります。

そもそも偏差値にかかわらずそ価値観の比率は(う)から誰しも互いに合致しません。他者または異なる時点における自己間の私的主観的絶対的価値観は互いに差異をもつためです。

ただし類似する場合はあり、Aと¬Aが価値観配分比率において互いに類似する可能性と妥当性はあります。
偏った配分比率で類似する集団は絶望者が出るリスクが高いですし常に不安なので注意が必要です。

もし¬AとAが同じ人物であり、たとえば時間軸上の過去に¬A、未来にAが位置する場合、Aが生き残るには偏差値以外の多様な諸価値を自らに採用し、価値観の内訳をバランスのとれたものに変更する必要があります。

回答をまとめると、偏差値60未満の人に生きる価値はあり、価値観は一致しないものの類似する場合がある、です。
    • good
    • 0

あなたがまず、『偏差値』の数学的定義を黒板の前で説明できるようにならないと、こういう質問をする資格はないですけど、その辺OKですか?


で、質問の回答としては、学校の勉強と人間性は別物ということです。
    • good
    • 0

全員が満点だった場合、偏差値は50になるので、等しく生きる価値のある人はいなくなる。


みんな偏差値が同じだから、同じ価値観かもしれません。
    • good
    • 0

偏差値というのは、何なのか?


どういう意味なのか?

ちゃんと、お勉強して。

偏差値60未満が存在しなけれな、
偏差値60以上も、存在できない。

こんな質問、自分の無知、無学を
白状するようなもの。

恥ずかしいから、もうやめたら?
    • good
    • 0

バカにされたのか?

    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答するなと前言っただろうが。
字が読めないのか?

お礼日時:2023/04/16 16:07

キミの価値観ではそうなのだろう。

経済的価値をあまり生まないからということが理由なのかな?

人間が等しく持っているものの内には、生きる権利、幸せになる権利があるのです、君の価値観に如何に関わらず。その権利に傷をつける言論ですからこれは非難されるべきものです。

キミの言論・価値観は非難されるべきものだけれど、キミの人権は傷つけられてはならない、と私は考えます。
    • good
    • 0

偏差値60未満の者が消えれば、60以上の者の偏差値が大幅に低下する。


最後には誰もいなくなるよ。
    • good
    • 1

他人の偏差値なんて、知らんけど。



はじめましての人に、いきなり
「あなた偏差値いくらですか?」って。
聞くの?

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
    • good
    • 0

社会に出て偏差値聞かれた事ないです。


年収なら銀行で借金する時聞かれます。
サブの銀行で
    • good
    • 0

誰もそんなこと思ってないから、僻まないで。

    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!