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『将校』『将軍』『名将』と言われる人は基本的には皆、文武両道ですか?

又、『知将』『武将』『文官』『武官』等が文武両道であるかどうかは、人それぞれでしょうか?

A 回答 (3件)

古代、中世、近世までは、文武両道が必須の条件ですね、そうでないと


王様から指名されないし、配下の将兵も従わないですから。
近代戦では銃と砲での戦いですから、武術は要件ではないですね。
春秋戦国時代の戦国時代では、戦死した数が、250万人と言われてます。
そのうちの100万人以上殺したのが、秦帝国の白起将軍で、文武両道の
名将中の名将です。
「史記」にとれば、楚を攻め、楚の首都の郢を落とした時、水攻めで
35万人、趙との長平の戦いでは、40万人、城を落とした数は数知れず。
長平の戦いでは昭王の命令で、捕虜を生き埋めにしました。解放すれば、
後日、兵となり再び戦う事になる、秦国に連れて帰れば食料だけでも
国の経済が傾く事になるので皆殺しに、秦側も20万人戦死しているので
合わせると60万人、古代から現代まで、一度の戦いで死んだ数は最高
と言われてます。
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この回答へのお礼

ありがとう

成る程。そうでしたか。

皆様、有り難う御座いました。(^^)

お礼日時:2024/05/24 07:35

どうなんでしょうね、文武両道とはかならずしも言えないと思います。



戦国大名でも京都の都の文化に傾倒した今川義元はそういえるでしょう。彼は京都の公家をまねて自らも化粧をしてお歯黒をつけていました。しかし彼は武勇の誉れが高く「街道一の弓取り」とも称せられています。

戦国大名の代表である上杉謙信や武田信玄は戦略にもすぐれていましたが、彼らが十分な教養があったという資料は残っていません。

中国の秦を倒した楚の項羽は、叔父が文字を教えようとすると「文字は名前が書ければいい」と言って嫌がり、剣を教えようとすると「剣は1対1だから、将軍になるわしには役に立たん」と言って嫌がったと伝えられています。

その項羽と覇権をはらそった劉邦、のちの漢を創設した高祖は、青年時代の劉邦は沛県で役人をしていましたが、その仕事ぶりは熱心とは程遠いものでした。酒好きの女好き、その豪快な性格だったのです。読み書きもまともにできないままに大人になり、フラフラと遊び歩き、飲み屋ではツケを貯めることは当たり前でした。

ですので、『将校』『将軍』『名将』と言われる人は文武両道の人もいますがそうでない人もいるということです。
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「文武両道の~」ならそうですね

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