
初めまして。こんにちは。
私は今、俳句について色々と調べているのですが、
自由律俳句と字余り字足らずの定義がしっくりきません。
ある程度の定型感が保てていれば、定型俳句の字余り、字足らずになるのでしょうか。
そもそも自由律俳句は碧梧桐が提唱し、
更に井泉水が徹底していったものですが、
自由律俳句で有名なのは、山頭火と放哉だと思います。
例を挙げれば、
【夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ】 山頭火
【こんなよいつきを一人で見て寝る】 放哉
などは、自由律俳句の典型かと思いますが、
では、
【赤い椿白い椿と落ちにけり】 璧梧桐
の詩は、自由律俳句なのでしょうか。
それとも字余りの詩なのでしょうか。
定型感を保っていれば、定型詩だとしても、
ある程度の基準などがあるのだと思います。
そういった基準や、どういうものなら自由律なのか、
どなたがご教授ください。
宜しくお願い致します。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
No1さんの回答に触発されて、のこのこやってきた者です。
素人ですから参考程度にお聞きいただければと思います。
まず結論から考えると「自由律俳句と字余り字足らずの定義」は無いのでは
ないでしょうか。そして例に出されいる碧梧桐の句である、
「赤い椿白い椿と落ちにけり」は単なる字余り俳句ではないのでしょうか。
俳諧との別れを告げ、五七五定型の俳句として認知されるようになったのは
子規の登場からだと言われていますが、その後継者である、虚子と碧梧桐では
俳句に対して目指していたものが異なっていますよね。
もともと自由律俳句は虚子の「ホトトギス」系の季語定型の句にたいして、
反旗を翻した要因も多少はあるでしょうし、当時の自由思想に感化されたことも
あるでしょうが、もっともおおきな要因は
やはり作者たちの内部的な誘因があるのではないでしょうか。
碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」の句ですが、
山本健吉さんはこの句についてこのように述べられています。
「地上の落椿ではなく、落下の瞬間の、空中に引かれた紅白の二本の棒のごとき
鮮やかな色彩として詠んだ、抽象絵画的なイメージである」(俳句鑑賞歳時記より)
以後はこの句にたいするわたしのの感想ですが、「赤い椿」を「赤椿」と表現しても、
表現上さして問題はないのですが、「赤い椿」と中に「い」を挿入することによって
椿の色の独自性がより強調されてきますし、句全体から溢れてくるスローモーション的な
イメージの重要な役割をはたしているように思います。
ですから作者はどうしても「赤い椿」「白い椿」と表現したかった。それが結果的に
字余りになってしまった。こんな風に感じるのですが。
まずはじめにどうしても表現したいものがある、
こうした内部的な誘発と言えばいいのでしょうか、それを推し進めていったのが、
碧梧桐の後継者である、荻原井泉水や放哉なんだと思います。
現在でも自由律俳句の結社はあるでしょうし、季語定型にこだわらない結社もあると思います。
しかし肝要なのは作者が何を表現したいか、(あるいは何を表現したかった)であって、そのぎりぎりの表現のところで、結果的に字余り字足らずになってしまったり、自由律俳句になってしまうのではないでしょうか。
また読者はそのように鑑賞すれば良いのではないかとしきりに思うのですが。
今晩は。
私は職業柄、子供たちに俳句を教えなければならなかったので、もし明確なものがあるのなら知りたいなと思ったのです。その明確な定義が存在していないことは、俳句を鑑賞する側にとっては、自由な解釈や読み手によって変わってくる感じ方を楽しめますし、それが俳句の面白さや奥深さでもあるのだと思います。
読み手によって判断が違うことを、正岡子規は俳句の欠点だと仰っていましたが、やはりそれがあるからこそ面白いのだとも思います。
詳しく解説して頂いて、有難う御座いました。あまり俳句は好きでは無かったのですが、切っ掛けは仕事でしたが、最近少しずつ面白さを感じています。
ご回答有難う御座いました。
No.1
- 回答日時:
五七五を少し囓っているだけで、とてもご回答を差し上げるほどの者でもないのですが、(レスが少ないようですので)ご参考までに。
五七五音の定型俳句に対して、音数や季語にしばられず文字通り自由につくる俳句が自由律俳句と呼ばれるものですよね。
ということは、
>ある程度の基準などがあるのだと思います。
>そういった基準や、どういうものなら自由律なのか・・・
については、基準が無いから自由律ということは、言えないでしょうか。
ある句があり、結果として自由律があるのではなく、句を作ろうとする時点で定型、自由律の違いが既に出ているということは言えないでしょうか。
>【赤い椿白い椿と落ちにけり】 璧梧桐
についても、作者が定型句を意識して作ったのであれば、字余りであり、そうでなければ自由律という風に。
蛇足ですが私は今、自由律の俳人「住宅顕信」さんにとても興味があります。
◆両手に星をつかみたい子のバンザイ
◆水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
◆夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
美しい、でも切ない・・まるで絵のような作品です。
基準が無いから自由律、成るほどと思いました。
壁梧桐の詩も、他の詩も、作者の意識が何処にあるのかによって、確かに変わってくるのだと思います。
俳句を詠んだり、鑑賞したりするだけなら、作者の精神世界を楽しんだり出来るのですが、私は職業柄、子供たちに俳句を教えないといけないので、もし何か明確な分かれ目があるのなら知りたいなと思ったのです。
けれど、形や形式だけで、これはこう、あれはあれなどというように分けてしまえたら、俳句の面白さや奥深さが減ってしまいますよね。
住宅顕信さんの詩、初めて読みました。最後の詩がとても印象的です。
ご回答いただいて、有難う御座いました。
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