自分のセンスや笑いの好みに影響を受けた作品を教えて

「チュイルリーの庭」の前のプロムナードを省略したことです。これによって、聴衆の記憶から「プロムナード」を薄れさせて、後半の濃い曲に没頭させた後、「キエフの大門」によって忘れかけていたプロムナードを突然よみがえるらせるという劇的な効果を成功させています。
そうは考えられないですか?

A 回答 (3件)

「展覧会の絵」の「プロムナード」は、ムソルグスキー自身の心の投影なんですよ。


亡くなった友人の画家ハルトマンを追想しながら、その絵や人間を思い出している・・・。

ラヴェルは、もっとドライに、「全体の音楽的な効果」を考えて、組曲の後半を一気に駆け抜ける構成にするため、プロムナードを割愛したのだと思います。
ラヴェルは、自身の「クープランの墓」などでも、管弦楽編曲の際に一部の曲を割愛しています。そういう「音色」が付加されることにより「全体の構成」も再配置するセンスを持ち合わせていたのでしょうね。

それ以外にも、リムスキー・コルサコフが編纂した楽譜の「改変」もあって、ラヴェルの編曲はムソルグスキーの原曲とは異なるところがたくさんありますね。
「ブイドロ」が遠くからやってくるようにクレッシェンドしたり、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の哀願するミュート付きトランペットの音が半音違ったり、最後の強奏の音が違うなど。
最近の演奏では、ラヴェルの編曲から、さらにムソルグスキーの原曲どおりに変更したものも増えてきました。

下記のセミヨン・ビシュコフ指揮オスロ・フィルの演奏では、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」のトランペットの音が変更されていますね。19:05あたりから。同曲の最後の部分20:00は、オリジナルではなくラヴェル編曲のままですね。なんか、中途半端・・・。

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この回答へのお礼

>ラヴェルは、もっとドライに、「全体の音楽的な効果」を考えて、組曲の後半を一気に駆け抜ける構成にするため、プロムナードを割愛したのだと思います。
特に
>「全体の音楽的な効果」を考え
こういう職人技に徹する、しかもエンターテインメントに忠実であるという姿勢こそ素晴らしいです。
これを金科玉条とするのがいいです。これ以上のものはない。

お礼日時:2024/08/15 12:00

No.1&2 です。


質問者さんはよく曲を知っている方なので指摘しませんでしたが、ラヴェルが割愛したプロムナードは「『チュイルリーの庭』(第3曲)の前」ではなくて、「『リモージュの市場』(第7曲)の前」ですね。

ピアノの演奏では、下記のアリス・紗良・オットさんの演奏が素晴らしいので、こちらも載せておきます。
はだしでペダルを踏んでいるのがよく見えます。

ラヴェルが割愛した第5プロムナードの前 18:10 で、髪をかき上げて、ふとため息をつきますね。ここが折り返し点、さあ新たに始めよう、という感じ。
このプロムナードは、曲の冒頭のプロムナードの再現になっています。
ラヴェルは、ここに冒頭と同じ華麗なオーケストレーションのプロムナードを置くと、この組曲の統一的な流れを阻害すると考えたのではないでしょうか。かといって、オーケストレーションを変えるのも何だし・・・。
ということで割愛。

また、質問者さんは「「プロムナード」を薄れさせて」と書いていますが、「カタコンブ」(第8曲)と「ババ・ヤガーの小屋」(第9曲)との間にも、「死せる言葉による死者への呼びかけ」(23:20)とも呼ばれるプロムナードの変形が登場しますね。

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この回答へのお礼

「構造的アッチェレランド」と私は命名していますが、曲が進むにつれ繰り返しを割愛していくという手法は伝統的に用いられる手法です。ベートーヴェンの「エリーゼのために」もそうです。テーマの繰り返しを2回目以降はしません。これによって聴衆を飽きさせずまた曲を洗練したものに感じさせる効果があります。
ラヴェルの「ボレロ」の最終回もそうです。それまでAABBをABにして構造的アッチェレランドを形成します。これにより聴衆にクライマックスが近いことを悟らせます。
「展覧会の絵」でも中盤のプロムナードを除いたのは同じ思想です。曲全体のドライヴ感を絶やさないためです。それがラヴェルの美学でもあるのです(フランス的と言ってもいいかもしれません)

お礼日時:2024/08/16 08:41

No.1 です。



オリジナルのピアノ曲から、ラヴェル編曲で変わっている点は、概ね下記でしょうか。

第4曲「ブイドロ」11:05 原曲はフォルテシモで始まる。
第5曲「殻を付けたひよこの踊り」原曲では最後の 16:17 が繰り返される。
第6曲「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」17:40 の叫び声、18:36の恫喝の音が異なる。
第5プロムナード 18:40 ラヴェル編曲ではまるまる割愛。
 原曲では、ここでムソルグスキーは再度気を取り直して後半の絵に向かったのでしょうね。
第10曲「キエフの大きな門」2回目の聖歌 30:27 は、原曲ではフォルテ。
 ラヴェル板で華々しく再現される「プロムナード」のテーマは、原曲では鐘の響きの中に紛れ込んで響きます(31:29)。ムソルグスキーは、終曲の祈りの中でようやく友人の魂と響き合います。
 
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この回答へのお礼

「カタコンブ」の中の短調の弱奏で示されるプロムナードは、「キエフの大門」で再現される長調の本来のプロムナードの暗示となっています。これは非常に良く効いています。

お礼日時:2024/08/16 08:49

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