
ユダヤ教やキリスト教の教え(とりわけ教会の力が強かった時代において)について質問です。
1.隣人を愛せよ、信じる者は救われるとされていますが、この教えって神の教えに反した者や、異教徒にも適応されますか?
2.教えを破った者に対して➡厳しく罰して祈りを捧げれば罪が赦される、異教徒に対して➡改宗して教えに従えば神に救われる という対応でしたか?
3.「信じる者は救われる」「全ての者の罪は許される」というのは、人間であることが前提ですか?
神の国から堕とされて悪魔になった天使といった人間ではない存在はどうなんでしょうか?
許すも何も、そもそも人間じゃないから対象外。もうそういう存在だからどうしようもないし、「地獄に落ちろ」って感じですか?
よろしくお願いします。
A 回答 (12件中11~12件)
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No.2
- 回答日時:
入信ウエルカム、奪教は許さん。
信者に取り込む罠のことばです。蟻地獄ですね。昔、昔、キリスト教の無料の本を見ていてそう感じました。
No.1
- 回答日時:
ご質問ありがとうございます。
ユダヤ教とキリスト教の教え、特に教会の力が強かった時代における解釈や対応について、非常に重要なポイントを突いたご質問ですね。それぞれの項目について、できる限り分かりやすく解説します。まず、前提として、ユダヤ教とキリスト教は長い歴史の中で多様な解釈や実践を生み出してきました。特に「教会の力が強かった時代」というのは、主に中世ヨーロッパのキリスト教世界を指すことが多いですが、その中でも時期や地域によって状況は異なります。ここでは一般的な傾向としてお答えします。
1.隣人を愛せよ、信じる者は救われるという教えは、神の教えに反した者や、異教徒にも適応されますか?
隣人を愛せよ (レビ記19:18、マタイによる福音書22:39など)
理想としての教え:
ユダヤ教: 「隣人」は元々「同胞のイスラエル人」を指すという解釈が主流でしたが、時代とともに異邦人を含むより広い範囲に拡大解釈されることもありました。ただし、ユダヤ教徒でない人々への「愛」の表現は、キリスト教のそれとは異なるニュアンスを持つことがあります。
キリスト教: イエス・キリストは「善きサマリア人のたとえ」などを通して、「隣人」の範囲を民族や宗教的立場を超えた、助けを必要とする全ての人へと拡大しました。理論上は、敵対者や異教徒も「愛」の対象に含まれます。
歴史的現実 (特に教会の力が強かった時代):
「愛」の具体的な実践は、しばしば限定的でした。異教徒やユダヤ教徒、あるいはキリスト教内の異端とされた人々に対しては、「愛」が改宗を迫る形や、彼らの「魂の救済」のためとして厳しい措置(迫害、追放、暴力など)を正当化する論理として使われることもありました。つまり、「真の愛とは彼らを正しい信仰に導くことである」という解釈です。このため、現代的な視点から見れば矛盾する行動も多く見られました。
信じる者は救われる (ヨハネによる福音書3:16など)
キリスト教: この教えはキリスト教の中心的なものです。しかし、「何を信じるか」が重要であり、教会の教義に沿った「正しい信仰」を持つ者が救われるとされました。
神の教えに反した者(キリスト教徒内の罪人): 罪を犯したとしても、悔い改めて信仰に戻れば救いの道が開かれているとされました(後述の2に関連)。
異教徒:
排他的な解釈: 教会の外に救いなし(Extra Ecclesiam nulla salus)という考え方が強く、キリストを信じない異教徒は基本的に救いの対象外とされることが多かったです。
包括的な解釈の萌芽: 一部の神学者は、キリストを知る機会がなかった善意の異教徒の救済の可能性について議論しましたが、主流ではありませんでした。
実践: 異教徒への対応は、宣教による改宗が基本方針でしたが、それがうまくいかない場合や、敵対的な場合は、武力行使(十字軍など)や差別が行われることもありました。
2.教えを破った者に対して➡厳しく罰して祈りを捧げれば罪が赦される、異教徒に対して➡改宗して教えに従えば神に救われる という対応でしたか?
はい、大まかにはそのような方向性でした。
教えを破った者(キリスト教徒内の罪人)に対して:
罪の認識と告白: まず自らの罪を認識し、司祭に告白することが求められました(告解の秘跡)。
償い(罰): 司祭は罪の重さに応じて償い(祈り、断食、巡礼、慈善行為など)を課しました。これは「罰」であると同時に、罪を浄化し、信仰を深めるための手段とされました。中世には、非常に厳しい公の償いが課されることもありました。
赦し: 告白と償いを経て、神の代理者としての司祭から罪の赦しが与えられました。これにより、神との関係が修復され、救いの道に戻るとされました。
教会の力が強い時代: 破門(教会共同体からの追放)は非常に重い罰であり、社会的な死を意味することもありました。異端とされた場合は、宗教裁判にかけられ、火刑などの極刑に処されることもありました。
異教徒に対して:
改宗の呼びかけ: 基本的には、キリスト教の教えを伝え、洗礼を受けて改宗するよう促しました。
改宗すれば救われる: 改宗し、教会の教えに従うならば、過去の異教徒としての状態に関わらず、神の救いの対象となるとされました。洗礼は原罪を含むすべての罪を洗い流すと考えられました。
改宗を拒否した場合: 前述の通り、救いの外にあると見なされ、時には迫害や武力による制圧の対象となりました。ただし、ユダヤ教徒に対しては、一定の制限のもとで共存が許される地域や時代もありましたが、しばしば厳しい差別や迫害にさらされました。
3.「信じる者は救われる」「全ての者の罪は許される」というのは、人間であることが前提ですか? 神の国から堕とされて悪魔になった天使といった人間ではない存在はどうなんでしょうか? 許すも何も、そもそも人間じゃないから対象外。もうそういう存在だからどうしようもないし、「地獄に落ちろ」って感じですか?
その通りです。これらの教えは基本的に人間を対象としています。
人間中心の救済論:
ユダヤ教もキリスト教も、神が人間を特別な存在として創造し(神のかたちに似せて、など)、人間との間に契約や関係を結んだという理解が根底にあります。
罪、悔い改め、赦し、救済といった一連のプロセスは、この人間と神の関係性の中で語られます。
堕天使(悪魔、サタンなど)の扱い:
伝統的なキリスト教神学において、堕天使は元々神に仕える天使でしたが、自由意志をもって神に反逆し、その結果として天から追放された存在とされます。
赦しの対象外: 彼らの反逆は、人間が犯す罪とは性質が異なり、決定的かつ取り返しのつかないものと見なされます。そのため、彼らには悔い改めの機会も、赦しの可能性も提供されていないと考えられています。
永遠の罰: 彼らは神の敵対者であり、最終的には永遠の罰(地獄)に定められているとされます。
人間との違い:
人間は誘惑によって罪を犯したり、弱さから過ちを犯したりする存在として描かれ、神の憐れみや救済の対象となりえます。イエス・キリストの降誕と贖罪も、人間のためであるとされています。
堕天使は、より高次の霊的存在でありながら、完全な知識と自由意志をもって神に背いたため、その罪はより重く、赦しの余地がないと考えられています。
したがって、ご指摘の通り、「許すも何も、そもそも人間じゃないから対象外。もうそういう存在だからどうしようもないし、『地獄に落ちろ』」という理解は、伝統的なキリスト教(および一部ユダヤ教の伝承における悪しき霊の扱い)の考え方にかなり近いです。
これらのテーマは非常に深く、神学的にも歴史的にも多くの議論があります。ここでは概略的な説明に留めましたが、ご参考になれば幸いです。
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