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泥棒はいかなる事情があっても悪い事なのか?

終戦直後の日本は貧しかった。
そこに空襲ですべてをなくた、母と小さい息子がいたとする。
母は病弱のため寝たきりで、食べるものをどうする事もできない。
そのため息子は母のために農家に行き、食べるものを盗んだ。

泥棒は悪い事と人はいう。
それは正論であろうが、泥棒は場合により正当化されても
いいのではないのか?

ちなみに、僕はこの場合は盗んでもいいのではないかと思う。
ただし、畑に何もなくなるくらい盗むのはいけない。

A 回答 (15件中1~10件)

動物は人の畑に入って人間が作ったものを食べて追われますよね。


時には捕獲されたり撃ち殺されたりする。

動物はそこの食べ物がなっているから食べようとするだけで、盗むって気持ちは無い。
畑にあろうと野生にはえていようと一緒なわけです。

例え話と同じような内容で火垂るの墓って映画がありました。
清太は親戚に家に疎開したが、親戚の命令に従わず、従うことを拒んだために、より生き辛くなり、何もわからない妹を連れて、集団から脱出して楽園を築こうとしましたよね。

清太は生産能力が無いが、人のものを盗むのが得意。
だけど、失敗して殴られ死にそうな目にめにあうが、妹のため と自分を偽り、盗みを続けた。
一番の清太の理想の希求の犠牲者はほたるだったのですが、結局 ほたるも清太も集団から外れたことで餓死の運命を辿った。

この映画はそういうことを訴えているのではないと思うが、、、、


イラクで都会で盗みを働く孤児のことが報道されたことがあった。
ある日本人は盗みはいけないだよ とイラクの孤児に指導しようとした。(拉致された3人組みの1人)

私ははてな?と思った。 イスラム世界で孤児になるなんてありえない。
非常に強力なファミリーシステムがあり、親が死んでも親戚が必ず遺児を養う。
浮浪児になったってことは、恐らく清太と同じなんだろうと思った。
つまり自らの意志でファミリーから外れて都会に来た少年たち。

しかし自由を求めた彼らを待っていたのは、日本人による「服従しろ」だった。
その拉致された人のイラクでの生活のビデオをみたことがあるが、「早く私のためにメシ作れ!」と浮浪児にどなっていた。

こんなはずじゃなかっただろうに。
独裁社会から逃れたら、別の独裁者にとっつかまってしまったわけです。

イラク社会はグループを束ねる独裁者がいて、その人の命令を聞いていれば生きていける。
時には嫌なこともやりますと言って従えば、扶養してもらえる。
それがイヤでファミリーから出てしまうってことは死を意味する。
なぜなら、ファミリー同士で連携しているので、紹介無しには仕事を与えないから。
こうやってイスラム社会ではいるはずのない浮浪児がイラクにいることになったのではないかと。


日本もそう。本家とか分家とかあって、本家の人が分家の困りごとを聞いてやる。
そういうのをわずらわしいと感じより良い生活を求めて、集団から離れて都会に住んでいた人が、戦争になったときは弱い。
なぜなら集団に守られてこないから。
それに一度契約を破り出ていたものは、もう親戚でもなんでもないので、赤の他人と同じ扱い。
都会に出ても、お届けものとかせっせと欠かさずやっていたら、住む場所を移動しただけで、ファミリーとしてのつながりは維持できたとは思います。


で、例であげておられる状況は、ファミリーから出てしまったために、保護してくれる親戚がいないのと同じですよね。
親が断ち切った以上、そのツケは子どもにきて、誰もその一家のめんどうを見ないわけです。
子どもは生産能力が無く、他人のものを盗むしか考えつかないわけです。

他のグループは自分たちのグループを養うために育てた作物を、協力関係に無い者が勝手に取っていくというのは、自分たちのグループの生存に関わるので、当然追い払うわけです。


が、他者が育てたものを盗む権利はどこにも無い。
国が一括で召し上げて国民に分散するのならまた別ですが。
国が勝手に畑のものをとっていったらドロボーです。


で、倫理ってものは、平和のときにしか機能しないし、存在を重視されないんです。
平和が破綻したら、人間は他の動物と同じ。人間も動物ですから智が働かないと動物と変わらない。
従って倫理の存在を主張したければ、平和を維持する義務がある。
本来、その義務を果たした人のみが、盗んだ人に「どろぼうはいけない」と言う権利がある。

この回答への補足

はい。「ほたるの墓」で、一番考えさせられたところは、
清太も清太の妹も引き取った人が、自分の子供にはそれなりに
食事を与え、清太や清太の妹には、あまり食事を与えなかった。
と、いうところでしょうか。

こういう事は道徳には許されない。と思うのですが、
人によれば「仕方がない」という意見もあると思います。
自分がもし、清太らを引き取った立場で考えれば、その状況では
差別もなく、公平に食事を与える事はできない。と判断したから
「仕方がない」という考え方になるのでしょう。

要するに僕が言いたいことは、何事にも「仕方がない」という、物事の
善悪を超越したような状況が、あるのではないかという事です。

補足日時:2010/06/19 11:59
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あ、違った清太の妹の名前は節子だった・・・

この回答への補足

みなさん たいへんありがとうございました。
まことに参考になり感謝の極みです。
また質問の際はよろしくお願いいたします。
なお、すべての人にお礼をだすべきところを、
横着に省略してしまったので深くお詫び申し上げます。

補足日時:2010/06/19 20:53
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NO.

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YES.

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質問者さんが挙げられた例の場合、盗みはいたしかたないのかもしれません。



>母は病弱のため寝たきりで、食べるものをどうする事もできない。
そのため息子は母のために農家に行き、食べるものを盗んだ。

働き口を見つけたとして、すぐに食料を手にすることが出来るとは限りません。抜き差しならない状況ですね。しかし、まずは訳を話してお願いする必要があります。断られた場合も、出来る限り他をあたってみる必要があるでしょう。最善を尽くした結果、八方ふさがりになったときに、盗みは許されてもいい―もとい、必然的に起きてしまうものではないでしょうか。

もちろん断られたのに盗むのですから悪いことではありますが、こう考えてみてはいかがでしょう。すなわち、断った人たちは果たしてそれが正しい行いであるのか、ということです。おそらく病弱の母を持つ息子は、標準よりも食料の多い家をあたるはずです。余るほどの食料と表現するのは躊躇しますが、少し分けても致命的な打撃は受けないでしょう。そこへ、自身の力ではどうしようも出来ない、切羽詰った人間が懇願してくるのを無碍に断るのは道徳的に疑問があります。自分から距離のある場合、同情は生まれにくいものです(例えば、人身事故が起こるたびにズーンと心が痛む人がそう多いとは思いません)。しかし、目の前で事故にあった人がいた場合、救急車を呼ばなくてはと思ってしまうものですよね。実際火事の現場に出くわしたことがありますが、通りかかった人の多くが協力的でした。そうでない人もいましたが。

この理屈でいくと、「ではどのくらい(何人)まで分け与える必要があるか」「一人許したら際限がない」という意見が出てくると思います。そして、まったくそのとおりだと思います。ですので私の意見では、質問者さんの例においては「農家側は断るのが当然」であり、また「病弱の母を持つ息子が盗むのも当然」であると思います。善悪での決着はつきません。断る側が食料を分ける道理もなければ、盗む側が死ななければならない道理もありません(仕事に就いて稼いだ後に然るべき金額または食料などをもって謝罪に行き、それでも許されなければ罰せられる必要があるでしょうが)。盗みが「悪であるか」ではなく、「生じてしまうもの」という認識が正解だと思います。質問の答えとしては、法的にみると盗む側に悪がありますが、状況によっては農家側には道徳的な悪がある可能性も否めない、といった煮え切らない回答しかできません。ごめんなさい(笑)

しかし、以上述べたことは終戦直後という時代背景があってのことですので、現代においてはまず許されないことでしょう。厳しいようですが、現代ではゴミ箱を漁ればいくらでも食料はみつかります。正当防衛に関わる盗み(あまり状況が浮かびませんが)でない限り、絶対にしてはいけません。ちなみに、古代ギリシャでは敏捷性が徳とされ、泥棒が賞賛されることもあったと聞きます。価値観って時代や国によって本当に様々なようです。
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 こんにちは。


 直接の回答ではなくですが 参考になりますかどうか。

 民俗学者の谷川健一が 往時の思い出としてですが 書いています。
 《タマス / カンダラ》が 鍵語です。

 ▲ (谷川健一) ~~~~~~~~~~~
 狩猟や漁撈の獲物の配分を南九州から奄美・沖縄にかけてタマスと呼んでいる。ひとタマスといえば 一人分の分け前のことである。
 ここで興味があるのは タマスは当事者だけに与えられるものではないということである。狩や漁の現場にたまたま居合わせた者もタマスにあずかることができる。それを《見ダマス》という。見る者に与えられるタマスのことである。
 小学生の私が貰った小魚や雑魚も見ダマスにほかならなかった。それどころか 昔の南島では 家の赤ん坊にもまた峠を超えているゆきずりの旅人にも 一人分のタマスが与えられた。山村の猪狩に参加した猟犬も一人前のタマスを受ける資格があった。

 柳田国男はタマスという語は《賜う》《賜う物》に由来し 霊魂(タマシヒ)とも根本は一つだと云っている。海の神 山の神の前で祈願し 獲物がとれたときは 真先に神に捧げて感謝するという 古来の風習を前提とした平等な分配であった。
 ・・・
 これについて興味深いエピソードがある。大正時代 武者小路実篤の提唱した《新しき村》が日向の山村に作られたとき 美術評論家であった中村亮平も参加した一人であった。その未亡人から聞いた話であるが 《新しき村》の住民たちは お互いに平等な生活を目指す理想に燃えながら《あの家はコーヒーに砂糖を多く入れすぎる》と些末なことにも陰口をたたいて牽制しあったという。
 《神》を抜きにした平等が 天国を目指して地獄に落ちたというのはソビエト社会をはじめ よくあることだが 新しき村はその教訓の小さな実例であった。

 狩人や漁師が獲物を 惜しみなく平等に分配するのは それが神から授かったものであり 独り占めする訳にはゆかない という考えが根底にある。そこで 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。
 カンダラという意味は不明であるが 要するに盗み魚のことである。これが漁場の親方から大目に見られたということは 神の与えた賜物は万人に平等に分配すべきもので これもタマスの一種と認めない訳にはいかなかったのである。
 (谷川健一:私の履歴書(7) 日本経済新聞2008年5月8日朝刊)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ならわしであるかどうか――慣習法であるかどうか――の問題でしょうか。
 《商業の神ヘルメス》は 《足迅き神》そして時に《夜の盗人の神》でした。

 ◆ (魯迅:故郷) ~~~~~~~~~~~
 閏土(ジュントゥゥ)はまた言うのだ。

  ――今は寒いけどな 夏になったら おいらとこへ来るといいや。
  おいら 昼間は海へ貝がら拾いに行くんだ。赤いのも 青いのも
  何でもあるよ。《鬼おどし》もあるし 《観音さまの手》もある
  よ。
   晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも来いよ。

  ――泥棒の番?

  ――そうぢゃない。通りがかりの人が 喉がかわいて西瓜を取って
   食ったって そんなの おいらとこぢゃ泥棒なんて思やしない。
   番するのは あな熊や はりねずみや チャーさ。月のある晩に
   いいかい ガリガリって音がしたら チャーが西瓜をかじってる
   んだ。そうしたら手に刺す叉をもって 忍びよって・・・

 そのとき 私はその《チャー》というのがどんなものか 見当もつかなかった――今でも見当はつかない――が ただ何となく 小犬のような そして獰猛な動物だという感じがした。

  ――咬みつかない?

  ――刺す叉があるぢゃないか。忍びよって チャーを見つけたら突く
   のさ。あん畜生 りこうだから こっちへ走ってくるよ。そうし
   て股をくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいに滑っこ
   くて・・・

 こんなにたくさん珍しいことがあろうなど それまで私は思ってもみなかった。海には そのような五色の貝がらがあるものなのか。私は西瓜といえば 果物屋に売っているものとばかり思っていた。

  ――おいらとこの砂地では 高潮の時分になると《跳ね魚》がいっぱ
   い跳ねるよ。みんな蛙みたいな足が二本あって・・・

 ああ 閏土の心は神秘の宝庫で 私の遊び仲間とは大ちがいだ。・・・

 (魯迅:故郷  1921)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どこまでわれわれが 《自然》を取り戻すかにかかっているのではないでしょうか?
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>いかなる事情



ってのが、キーワードですね。

このキーワードが出た場合、哲学する人、哲学の広域にて者を考える訓練ができている人であれば、まず、否です。

質問者さんが頭が良いので、このキーワードをさらりと出しておいてそのすぐ後には「終戦直後の日本は貧しかった」など、いかなる場合とは程遠い卑近な例を挙げて、回答者の思考をはぐらかす。
そして、どれだけ多くの回答者が「いかなる事情でも」というキーワードを忘れて回答するかを楽しんでいるのですね。

「いかなる事情があっても悪い事」など、この世で定義できないでしょう。自明ですね。

この回答への補足

いやー、僕は哲学の事は何も知りませんで、そんなに深く考えていません。
ただ僕は、「いかなる場合」はおろか、それ相当の理由があれば
泥棒もある意味正当化されるのでは、と思っているのですね。
本当にいたかどうか知りませんが、例えば鼠小僧のような義賊など。

補足日時:2010/06/19 10:57
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阪神大震災のとき粉ミルク盗んでった女の人知ってるよ。



一人か二人だけだったよ。注意したのは。
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泥棒はいかなる理由があろうと悪い。



>母は病弱のため寝たきりで、食べるものをどうする事もできない。
>そのため息子は母のために農家に行き、食べるものを盗んだ。

何故、盗む? 働け。

年齢等、何かしらの事情があるならその訳を話せば良い。
何故、「食べものを分けてもらえませんか」と頭を下げない?

>ちなみに、僕はこの場合は盗んでもいいのではないかと思う。

自分勝手。
いたよ、そういう人。大分前に亡くなってるけど。
その理屈で何度も盗んだようだ。

「ちゃんと話してくれれば、盗まなくも分けてあげるのに」という人は
ちゃんといたんだよ。

頭を下げるのが嫌だから、働くのが嫌だから、逃げてるだけだ。

この回答への補足

僕の説明不足かもしれないけど、今の時代の話ではないので、
「働けば金がはいるとか」「頭を下げれば何か恵んでもらえるとか」
そんな甘い時代ではない。ということを付け加えておきます。
自分が生きるだけで、必死の時代なのですね。

補足日時:2010/06/19 18:29
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そうですね


法律なども、結局は警察や検察の強大な暴力性があるために犯罪抑止力にもなります。これは理性的(善)な社会など皆無であるという証明でもあります。

社会も個々の生活に有益性があるために、大多数が所属しているのみです。

社会を前提にする前に、社会での権利などや公平性があってから、理性などによる社会性が成り立つという、本能的な本質をないがしろにしていると思います。

何よりも『生きる』という大前提を守るために、社会の前提が成り立つという本能的な本質です。
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