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 生きている人間は、思考や行動をすることを選択をして行っています。無意識に選択をしているものもあります。人間が生きていくということは、選択をし続けることになります。
 全ては選択によって、良くなったり悪くなったりします。選択を誤ると人間は不幸になってしまいます。だれもが幸福になりたいと思っているはずです。
 では幸福になる為に、どのような選択をすることが最善といえるでしょうか?漠然とした質問ですがお願いします。

A 回答 (22件中1~10件)

ご返事ありがとうございます。



「>良い結果を得られるための選択は、自分にとって有利と思う選択をし続けるということですね?」

そうとも言えますが、さらに言うと、
人間は時間の経過と共に、常に何らかの選択をしているわけです。

意識的に選択した場合は、
「>自分にとって有利と思う選択を」するでしょうし、
無意識に選択した場合でも、これは変わらないと思います。

この考えを例にしてみます。
あなたには、片思いの彼女
(あなたが女性であれば彼氏。ここではあなたを男性と仮定します。)がいます。
友人もその彼女が好きで、あなたに打ち明けました。
あなたは身を引く選択をします。
やがて友人と彼女は結婚して幸福になりました。
あなたは彼女が忘れられず、一生独身を通し、晩年のある日
「自分は不幸だ。あの時選択を間違えたのだ。
身をひくべきではなかった。」と後悔したとします。

しかし、逆の選択をしていた場合でも、
「自分は不幸だ。あの時選択を間違えたのだ。
身を引いて、友人の気持ちを大事にすべきだった。」
と後悔することが無いとは言えません。

つまり、現在のあなたが自身を幸福と感じているかどうか、
あるいは心境を大幅に変化させる体験などによって、
その時の選択が間違っていたのかどうかが、
後から決定付けられるということです。
そういう意味で「結果論」です。

また、特に深く考えず身を引いてしまうような性格であったとか、
逆に友人を押しのけて強引に前進するような性格であったとかいう場合でも、
無意識の結果として、やはり似たような経緯を辿る(後に同様に悩む)事はあるでしょうが、
それは、あなたがそれまでの人生で培ってきたもの(系譜)に依拠しているのであって、
逆の選択はありえなかったわけですから(無意識なので)、
その時の選択が正しかったとか、間違っていた、
ということとは別の問題になると思うわけです。

以上から、
「意志に逆らわない選択をする」のが、最善と思いますが、
もし、「理想」というものを求めるならば、
意志が、その理想を目指すよう常に鍛錬をしておくしかないでしょう。

それは、自分を知り、他人を知り、
人間を理解しようとする姿勢を保つ、という事なのか、とも思ったりします。
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この回答へのお礼

二度目の書き込みありがとうございます。意志を強くするということですね。意志を強くする良い方法はありますか?

お礼日時:2005/08/01 12:04

難しい質問ですね。


私は基本的に「何も後悔しない人生はない」と思っています。
また、幸福と不幸は極論で言えば人と自分を比べることです。
その中で自分が満足できる所が幸福なのでしょう。

自分にとっての最善は
「決して無理をしない」
「自分が嫌なことを人に押し付けない」
の2点です。
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この回答へのお礼

幸福は他人と比較するだけのものではない、と私は捉えています。自分が今、不幸と感じているから他人と自分を比較するのです。幸福な人がより幸福になるには、他人と比較して幸福になろうとはしません。ビルゲイツなどの成功者に聞くと良いかもしれませんよ。書き込みありがとうございました。<(_ _)>

お礼日時:2005/08/02 13:03

仰います通り、自分の能力を見極めて(それ自体他者の関係で難しいですが)、それに見合った環境を選択するというのが目の前の不幸を避ける一番「間違いの無い方法」ということになりそうです。



しかしそれは反面、他者によって自己が規定されてしまうというこなので、幸福というよりも「不幸でない状態」と言えるかもしれません。

幸福が人間の心理状態であるとすれば、一瞬で消えるということもありますし、永遠の幸福もあるやも知れません。

どうも失礼いたしました。
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この回答へのお礼

やはりそうですね~。リスクのない能力の見合った環境にいますと充実感がありません。リスクを負わないと人間は成長しませんし充実感も湧きません。ですから、幸福を追求するのならば、自分の能力以上の環境に身をおくのが良いかもしれません。

お礼日時:2005/08/02 12:54

孫子の兵法とかを読んでみるのも手ですね、孫子の兵法に出てくる、一番強い軍隊は水のように形がないのが一番強いとあります、つまり判断に答えはないのですね、問いがあって答えがあるという形ではなく、問いがあったときにどう答えを形成するかという、途中式みたいな所が問われるのではないかと思います、つまり答えをつかむのではなく、問いと答えの間にあるものをつかむこと、こういうことは多分感覚では感じれますが、言葉にはできないような気がします。

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この回答へのお礼

 “孫子の兵法”については立ち読みぐらいで、まだよく読んでいなかったかもしれません。経営戦略のバイブル的な書物だとも聞いています。一度しっかりと読んでみます。書き込みありがとうございました。

お礼日時:2005/08/02 12:43

No.17の者です。


>「マイナスをプラスに転じたらいい…」そうする行為を選択をされているということにはなりませんか?
その通りです。どんな道に行こうと、結局はその道を選択していることになるわけですから。ただ、その道がマイナス(不幸)だったとした場合は、その道をプラス(幸福)にすればいいわけです。さらに本当のことを書けば、マイナスの道でも、プラスの道でも同じです。つまり、どの道を選んでも、常に"最善"です。

僕が前回言いたかったのは、選択によって良くなったり悪くなったりするのではなくて、自分の意志が良いとか悪いとか裁判してるに過ぎません。自分を信じ、その道を選択し、そうすればそれは常に最善です。そこにはプラスもマイナスもありません。結局、人生は、曲がりくねっていようが、まっすぐ直線であろうが、一本の道しか進めないわけですから。
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この回答へのお礼

全ての選択は最善であると思えるようになりたいものです。二度目の書き込みありがとうございました。

お礼日時:2005/08/02 12:15

事象というのは、常にニュートラルです。


人間は、ただそれに意味を付加しているだけに過ぎない。
ですから、何が幸福かという問いに答えはないわけで、あるとすれば、個人個人の思想、それが答えです。

自分が常に、自分にとって望ましい判断をするためには、価値基準をひとつに統一、特化することです。
もちろん実社会はそんなに単純ではありません。
しかし、単純ではないからこそ、そういった価値判断の統一化、特化が必要なのです。
それをしないからこそ、多くの人は多くのことで惑わされ、悩まされ、これでいいのか自問したり、損をしたり、不幸だと思っているのです。
困難だからしないのではなくて、困難だからこそするという姿勢が、新たな活路を開いてくれるのです。
例えば、利益と道徳、これを同じフィールドに持ち込んではいけません。もっとも多くの人が起こす失敗で、どちらをも満たそうとする行為が、一番卑劣な行為です。ですから、失敗する、悩む、すべての人間を傷付ける。
自分にとってメリットがあるかどうかを考えるときには、人道的にどうかというのを考えてはいけません。もし、それで人に嫌われたくない、自分に納得がいかない、人として間違っている、と思うときは、自分の利益など考えてはいけません。
常にひとつの価値判断で判断することです。そして、重要なことは、その価値判断がその場その時において、自分にもっとも重要かどうかです。昇進を狙いつづけていた自分が、昇進するチャンスを得たときに、外聞や同期の思惑など、その他の価値判断に惑わされてはいけないのです。自分にとってその場その時で一番重要なものさしそれのみで、選択を決める、それこそが最善の選択の方法だと思います。
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この回答へのお礼

>自分にとってメリットがあるかどうかを考えるときには、人道的にどうかというのを考えてはいけません。もし、それで人に嫌われたくない、自分に納得がいかない、人として間違っている、と思うときは、自分の利益など考えてはいけません。   ↑本当にこれでいいのでしょうか?
書き込みありがとうございました。<(_ _)>

お礼日時:2005/08/02 12:09

最善の選択ですか…。

僕は、"全ては選択によって、良くなったり悪くなったりします"と考えません。"選択を誤ると人間は不幸に"なったとしても、それを幸せに転じればいいと思います。つまり、どのような結果になったとしても、自らの意志を信じ、責任を持ってマイナスをプラスに転じたらいいんです。もちろん、大なり小なり努力が必要ですが。しかし努力する必要のない人生なんて、ずっと"動く歩道"に乗っているようで面白くともなんともないと思います。僕は、幸せになりたいと思いません。幸せでも不幸でも、どっちでもいいじゃないですか。本質はそこになく、生きているという事実、その感謝にあると僕は思います。
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この回答へのお礼

「マイナスをプラスに転じたらいい…」そうする行為を選択をされているということにはなりませんか?ですが、「幸せになりたいとは思いません。」とは、それ自体が選択をされていることですが、誰もその選択はできないことにも気づかされました。面白いアドバイスを感謝します。書き込みありがとうございました。

お礼日時:2005/08/02 00:14

「全体の幸不幸」と、「全ての人が幸福になること」という記述がありますが、「全体」には人だけが含まれていますか。

動植物も含まれていますか。
動植物を全体の対象に入れないとすると、その理由は何ですか。
動植物を全体の対象に入れた場合、私達がお腹が空いたのでご飯を食べるたいと思ったとき、全体の幸福に対して最善の選択とは、動植物を食べることですか、食べないことですか。

別な切り口でお聞きします。全体の99%に対して幸福な結果をもたらす行為なら、1%に対して不幸な結果を招くことが明らかである行為を行うことは、「最善」だと思いますか。

まず「全体の幸福」なるものについて熟慮しないと、それに対する最善の行為は決定できません。それに対する熟慮が足りないと、「全体の幸福」なる無形の空論を自己正当化するための方便として振り回す権力者が横行します。


> これは、すべては結果によるものですから選択をする時点で、良い悪いはないということになりますか?

ちがいます。
結果によって判断するなら、選択時点では良い悪いということが言えなくなってしまう。然し結果は行為を正当化するものではない。選択した時点で良い悪いということはある。そのように、主張しています。
人を殺すつもりで拳銃を発砲したら銃弾が逸れて、たまたまその人に襲いかかろうとして後ろに忍び寄っていた野犬に当たって、危険を救う結果になったというときでも、結果によって拳銃を発射したという行為が正当化されるわけではありません。法的にも殺人の意思をもって銃を発射した時点で殺人未遂罪は成立します。

この回答への補足

>全体の99%に対して幸福な結果をもたらす行為なら、1%に対して不幸な結果を招くことが明らかである行為を行うことは、「最善」だと思いますか。

やはり全体の中心は人間です。全体を考えないで人間だけの幸福(利益)を追求していった結果、オゾン層の破壊など地球の自然環境破壊が進行してしまったのです。ここでわかったことは、人間だけの幸福を追求しては、後々に人間の不幸が訪れることがわかります。自然の摂理からいきますと、より全体の幸福を追求しなければ自分達が不幸になるということです。

補足日時:2005/08/02 12:27
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この回答へのお礼

選択には動機も大事であるとわかります。何の為に選択するかが問われますね。2度目の書き込みありがとうございました。

お礼日時:2005/08/02 00:05

>正直ものが馬鹿をみる」との“ことわざ”があります。

正直に生きる人は大変ですね。馬鹿ばかりみることになりますから…。

何か過去に嫌なことでもあったのでしょうか。
勘違いされているようですので、再度書き込みいたします。

「自分に正直に生きる」というのは、別に馬鹿正直に生きていく
という意味ではありません。
「自分が思った考えで選択肢を選ぶ」という意味で言ったまでの
ことです。

生きていく上で常に選択肢が現れるものとは限りません。
選択肢が現れること自体、本人が迷っていることの証拠でもあり
ます。
そういうとき、頼りになるのは自分の意思だけです。自分がどう
したいのか、自分がどうありたいのか。そういう自分の考えによ
って、選択は決断されるものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

無意識で選択しているものもあります。習慣化されたものは選択をして行動していないように思われますが、立ったり歩いたりする行動も無意識の選択と捉えています。議論されるところかもしれませんが私はそのように、生きることは選択し続けることと考えています。2度目の書き込みありがとうございました。

お礼日時:2005/08/01 23:59

いくつかの前提が定まっていないと思います。



まず幸不幸の基準はどこにありますか。本人の主観でしょうか。

また、

> 選択を誤ると人間は不幸になってしまいます。

選択を誤った結果不幸になったというより、不幸な結果の元となった選択を「誤りだった」と事後的に判断しているのではないでしょうか。
人生万事塞翁が馬という逸話をご存知でしょうか。


もし事後的に「不幸だ」と判断した結果に基づいて、選択が誤りであったと決定するのなら、それは後だしジャンケンのようなものです。結果によって行為の正誤が判断されるなら、塞翁が馬の例にならえば、ひとつの行為は、ある瞬間には正しく、ある瞬間には間違いであったと判断されることになります。結果に対する主観的な判断は、時に応じて変容します。

実際には、行為にはそれを選択する瞬間に正誤があると考えるべきです。事後的に判断されるものではありません。
目的に対して諸条件を満たしながら合理的な行為を行ったのであれば、その行為は正しいです。
正しい選択をしても不幸な結果になる場合はあります。それは塞翁が馬の例に倣い、時の変容によっていつか幸せな結果になることがあるというわけではなく、不幸になりっぱなしという結果になることもあります。


さて、最善の選択をする方法は、目的の本質と前提となる条件を可能な限り充分に網羅し理解すること、そして目的に対して諸条件を踏まえた上で最も合理的な行為を選ぶことです。
端的に言うと、与えられた条件範囲で熟慮して決定することです。

残念ながらウルトラCな回答はありません。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

>まず幸不幸の基準はどこにありますか。本人の主観でしょうか。

 全体の幸不幸を基準にしてください。これは永遠のテーマになるかもしれませんが…。現在で考えると、他人を犠牲にして自己の幸福を得る方もいます。ですが、他人を幸福にして自己の幸福も得られる方もいます。自己中心な幸福ではなく全体の幸福を真の幸福と考えてください。
 主観でも良いのであなた自身も含め、全ての人が幸福になることを真の幸福としてください。

>人生万事塞翁が馬という逸話をご存知でしょうか。

 これは、すべては結果によるものですから選択をする時点で、良い悪いはないということになりますか?

お礼日時:2005/08/01 17:51

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