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著作権の問題で削除される可能性がございますので、具体的な俳句作品を引用・提示できないのが残念でございますが……
「カルチャーセンターで俳句講座が開催されるようになってから<季重なり>が問題視されるようになったのではないか」と、どなたかが言っておられたり……俳句の入門書には「始めて2~3年は<季重なり>の句を作らない方がいい」などと書かれていたり、かとおもえば「<季重なり>は腕の見せ所」といっておられる指導者がおられるなど、いまいち判然と致しません。<季重なり>が問題にならないといいますか<季重なり>だからこそとは言わないまでも<季重なり>が容認されるのは、どのような場合なのか、お教えいただければ幸いでございます。

俳句でも句集のタイトルを併記すれば引用が容認されるといいのですが……

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A 回答 (3件)

 こんばんは。



 以下の回答は、飯田龍太氏の『俳句入門三十三講』(講談社学術文庫)を参考にしました。
 飯田氏は、父君蛇笏氏とともに、「ホトトギス」の流れを汲む「雲母」を主宰していますので、まあ正統派といってよいかと思われます

 まず飯田氏は「昔といいますか、ついひところまで『季重なり』ということを非常に忌み嫌った。(中略)なぜいけないかという説明は一切抜きで、憲法みたいな具合にそういう断定を下しておった。ところが最近はそういうことをあまり厳しく言わなくなって、ときには一句のなかに二つも三つも季語が入っておる。またそれで成功する場合もあるんですが、しかし一応はそういうことを念頭においておいても、決してむだではないと思うんです。」(89p)といわれてます(1971年6月述)。

 そのうえで、許容される場合について、「季語」とされてきたことばが、現代の感覚で、かならずしもその季節を表さなくなった場合は、他に季節を特定することばがあるのはいいのではないか、という説明をされています。
 また、上記に引用した部分も含めて、そこでいわれている内容を私が忖度するに、推敲して推敲して、どうしても必要、となった場合は、可とすべきであって、要は佳句を得るかどうか、であるというようなことではないか、と思います。

 また、これは飯田氏のことばではなく、私の記憶ですが、なぜ季重なりが禁忌とされてきたか、について、季語が二つ以上あるのは、その句のイメージを明瞭にしない(「弛緩する」といういい方だったと記憶しています)からだ、といわれていたのをきいたことがあります。いま出所を明示できなくて残念ですが。

 俳句は、さまざまな結社があり、「無季俳句」「自由律」などもあって、なかなかに多様のようですね。
 正統派といわれる飯田氏のことば(+僭越ながら私の記憶)をここでは紹介します。

 ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。こちらにもお答えいただいたのですね。
『飯田龍太読本』くらいしか手元にはないのですが龍太さんの句には季重なりが多く異様に感じておりました。私は俳句・短歌・都々逸・川柳・自由律俳句をつくっておりますが口語定型句は苦手、鑑賞すら拒否しておりました。ごく最近、無季の口語定型句で好きな句に出遭い「悪くない」とおもいました。

赤星水竹居著『虚子俳話録』(講談社学術文庫)に虚子の<季がかさなっていても……>という言葉があるのですが、その判断がむつかしく季重なりの句ばかり常時つくるわけにも参りません。それでこの質問をさせていただいたような次第でございます。

お礼日時:2005/09/05 23:59

 再度失礼します。



 飯田龍太氏は季重なりが多いんですか!? いえ、『三十三講』でも、ご自分の句を取り上げて、季重なりに言及してらしたんで……。そこでは、「更衣」と「六月」の2語が入っている自作句で、「更衣」は、もう季節ごとにするもので、六月の季語としては、いまひとつ使えないのじゃないか、という話だったんです。

 scatsさまは、短詩形式を、いろいろ作られている方なんですね。失礼しました。私は詩らしきものをなすっておりまして、俳句は、詩の練習にと思ってつくっているだけなんです。もちろん結社なぞには入っていません。句会をやってみたいなと思っています。

 さて、お礼をありがとうございました。『虚子俳話録』の38pですよね。「その中のどこかに、しかと纏まった感興を捉えておればよいのです。」という……。

 これは、前の私の回答と一部重なりますが、このことば、俳句だけでなく、ものを作る人が、ぜひ心得ていたい態度であると思います。
 「しかと纏まった感興」、これは、私は、「イメージをしっかり持つこと」と読みました。詩を作っていても、自分の中に、書きたいイメージがありありと浮かんでいる時ほど、いいものができるように思うんです。もちろん、書いて消してを繰り返してるうちに、イメージがはっきりしてくる時もあります(全然違うものになったり)。

 話は少し飛びますが、仕事柄、「企画書」というものを作るんですが、エンドユーザーの顔がひとりひとり見えるくらい、はっきりした輪郭を持った企画ほど、通りやすい気がします。またよく売れるし。

 虚子は、それくらい強いイマジネーションを得たなら、俳句の決まりごとにはこだわらなくていい、と言いたかったのではないでしょうか。

 もちろん、定型だからこそ、堰がある河が、水を溜めるように、「感興」を溜めることもあるでしょう。むしろ、そのために決りごとがあるのではないかと思います。
 でも、やはりそれも、感興の性格によりけりで、決りごとに拘泥していては、自分の感興が表現できないとなれば、俳句も、俳句である前に詩であり、芸術作品であるからには、定型に止まることは、むしろ本末顛倒であるというように、私は理解しました。

 しかしながら虚子という人、混沌ですね。『俳話録』は、俳句のみならず、言語芸術に携わる人すべてに示唆を与えてくれるようで、私も大好きなんですが、体系的に把握しようとすると、足をすくわれる。
 きっと虚子は、体系をめざしながら、体系化した時にこぼれてしまうさまざまな可能性といったものを、捨てるに忍びなかったのではないかという気がします。

 長くなりました。最後にお礼を申し上げなくてはなりません。実は私も、天明期の俳句は興味があり、いつか読んでみたいと思っていました。今回、scatsさまのご質問に回答をするにあたり、買ってあった資料を、ようやく繙くことができました。これ以降、せっかく挙げた腰を、また落とさないよう、せいぜい勉めていきたいと思っています。

 よい機会を、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

再度、ありがとうございました。
西洋のイマジズムの詩人たちは俳句の存在を知らずに(正に)俳句のイマージュで展開しておられた時期があったと聞いたことがございます。
私はガリマール書店のマラルメ・ヴァレリーの詩集やマルドロールの歌etc.を仏-仏辞典1冊とともに枕元に置いています

※<選は創作なり>といっていた虚子の、洞察するような「選」が素晴らしいですね。

平安あれ!

俳句関連で重宝させていただいておりますのは
俳句情報探索
http://www.jfast1.net/~takazawa/index.html
俳諧データベース
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/h …
詩関連では
仏蘭西の詩 〔仏蘭西語〕
http://www.feelingsurfer.net/garp/poesie/index.htm
http://www.la-poesia.it/stranieri/francesi/franc …
など。

お礼日時:2005/09/06 23:59

実作者の立場から申し上げてみたいと思います。

私の師系は秋元不死男(氷海)に属します。氷海は不死男他界と同時に廃刊となりおおかたは愛弟子の(狩)の鷹羽狩行に引き継がれています。このご質問に簡単にお答え出来ないのは季重なりの元になる季語と句と作者の精神の三点を無視して季重なりうんうんが意味を持たないからです。季が重なってそれがどうしたと開き直られると、べつにルールがあるわけでなし各人の俳句に対する覚悟の程とゆうほかはありません。昔からそういわれているとする立場,例えば芭蕉の有名な推敲、(ほととぎす宿借るころの藤の花)を後に(草疲れて宿かるころや藤の花)とし治定したことは余りにも有名ですがこの二重の季語による句の散文化を戒める立場(現俳壇の大部分)をとれば季語の持つ意味の深さと季感の欠如となります。しかし小さな句会で(カンナ燃ゆビールを冷やし暑気払い)などの句が高点句であっても楽しい句会であれば何等問題ないわけです。(因みに3つの季語かさなり)しかし、ここでの問題は先ほど申し上げた俳句によって自分の生て来た証として、言い換えれば俳句を(生)のアリバイとして考える立場からいいますとある意味このような極端例でなくとも季重りよりこの(カンナ燃ゆ)の方がはるかに問題なのです。ここではこのカンナは何の働きもしていません。それはカンナは咲くといつも燃えるとされる表現がくたびれ果てているからです。いわば緊張感の欠如が問題なのです。しかしこの緊張感が漲りただいま其処に生きていることに満ち溢れ人の心を揺さぶることが出来る句なら季重りであろうが何であろうが構わないのですが、不幸にして人口に膾炙する句に出会えません。それは先ほど申しあげた緊張感、,季重りによるピントボケにならざるを得ない句になるからです。も少し突っ込む込んだ言い方をしますと季語の持つ背景大げさに言えば日本人の背骨が季語に含まれているとゆう考察が足りないのです。俳句に精魂つめておられる俳人からすればごく当たり前の話になりますが、実作者の立場から言えば季重りは殆ど意味を持ちません。17文字で表現しきる作業をつずけますと季語は一つで十分すぎるのです。多くの俳人はこの季語との格闘の明け暮れと申し上げても過言でありません。大体一句の治定に30句位い作るでしょからいらぬ素材は淘汰されますので季重りの問題は生じません。私の場合季重なりがどうしても生じた場合は棄てます。俳句をはじめたてのかたに季重なりを主宰が指導しますのはある意味型から入った方が句になりやすからです。実際俳句において季重りは差ほど問題でなく季が働く、季感詩であるかどうかの方がはるかに深刻です。繰り返し申しますが季語とはいかなるものでどんな働きをするかを考えるほうが季重りの問題より重要なことです。最後に不死男の句を上げておきます。 秋風に曲げて髪結ふ肘二つ  多喜二忌や糸きりきりとハムの腕  煌々と夏場所終りまた老ゆる 母の腿踏み始めての夏送る
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
流石、晦渋な世界をご展開になられますね。
私は俳句は存問の詩という考えに共鳴しておりまして、可能な限りnot晦渋なスタンスにいたいとおもいます。感謝しております。

お礼日時:2005/09/06 23:39

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Q比喩法や擬人化を上手に使われた和歌や俳句をを紹介していただけないでしょうか

 日本語を勉強中の中国人です。先日、「比喩法や擬人化で有名な日本の詩句を紹介していただけないでしょうか」という質問をいたしましたが、日本近代詩の例文をたくさんいただきました。その時は、「和歌」と「俳句」という言い方を知りませんでしたので、「詩句」という大雑把な書き方にいたしました。実は、あの時、和歌と俳句では、優れた比喩法や擬人化が使われた文を知りたかったのですが、うまく書けませんでした。

 ということで、再度質問をさせてください。比喩法や擬人化が上手に使われた和歌や俳句を知りたいのですが、紹介していただけないでしょうか。恐れ入りますが、古典がよく判らないものですので、お挙げになった例文の現代語訳も書いていただけないでしょうか。難しい単語に読み方も振っていただければ助かります。
 
 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それについてもご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

初めに
短歌形式の歌のうち、近世以前(江戸時代より前)のものを和歌、近代以降(明治時代よりあと)のものを短歌といいます。その違いは、単に時代の違いであり、近代の短歌も、文語で書き表すのが常です(口語の歌が出てきたのはごく最近のことです)。
ただし、和歌(特に最盛期の平安~鎌倉時代の歌)は、我々にとっても語学的に理解が困難なものです。
そこで、ここでは、和歌=短歌入門編として、近代短歌(以下「短歌」と表す)の中から、比喩が巧みに用いられている作品をいくつか紹介してみます。
なお、短歌本文は歴史的仮名遣い、( )内の読み仮名は現代仮名遣いで記します。

向日葵(ひまわり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ            前田夕暮

訳 向日葵は金の油を身に浴びたように輝いて、ゆらりと高く立っている。それに比べて、後ろに見える太陽のなんと小さいことか。

説明「金の油を身にあびて」に比喩が用いられています。「身にあびて」は擬人的表現。「金の油」を日光の隠喩ととらえる説と、単に光り輝く向日葵を形容した表現ととる説よがあります。いずれにしろ比喩にはちがいありません。いうまでもありませんが、この歌の主題は「向日葵」の大きさにあるのであって、「日のちひささ」にあるのではありません。
なお、この作者は自然主義的な作風で知られており、また、この作品は、絵画の印象派の影響を受けています。「風格」といえるかどうかわかりませんが、日本の歌、俳句にも「流派」というものがあり、それぞれに個性を主張し合っています。


金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いちょう)散るなり夕日の丘に      与謝野晶子

訳 金色の小さな鳥のような形をしながら、いちょうの葉が散っていることだ。夕日が差すこの丘に。

説明「かたちして」で直喩を表した珍しい作品。文語の直喩は「ごとし」で表されることが多いようです。また、訳をご覧になればおわかりのとおり、倒置法が用いられています。
この作者は、浪漫(ろまん・ろうまん)主義の代表的歌人です。浪漫主義は、上記の自然主義とは対極にある流派です。この作品も絵画的(自然描写的)なものではありますが、実景の写実ではなく、作者の心象を描写したものといわれています。


見てあれば一葉(ひとは)先づ(まず)落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹(おおき)   若山牧水

訳 見ていると、一枚の葉が落ち、続いてまた一枚の葉が落ちた。何を思ってこうして葉を落とし続けるのだろう。夕日の当たる丘に立つこの大樹は

説明 「何おもふとや夕日の大樹」に擬人法と体言止めが使われています。


病(やまい)のごと
思郷(しきょう)のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも        石川啄木

訳 まるで病気になったように、故郷を思う気持ちが胸にわいてくる一日だ。青空に立ち上る煙もなんと私の目には悲しく見えることか。

説明 「病のごと」は直喩。「ごと」は「ごとくに」の意味。初句が六音で字余り。

※以上の四首のうち三首に「夕日・日」が出てきますが、それは偶然です。特に好まれる題材というわけではありません。

俳句について
ご存じのとおり俳句は十七音を定型とする非常に短い詩です。よって、直喩で説明的に叙述するよりも、隠喩や象徴的な表現の方が多くみられるようです。
また、俳句でポイントになるのはなんと言っても、季語と切れ字です。
よって、短歌に比べて、俳句は比喩などの技法を手がかりに読解する重要性は低いと考えます。
そこで、俳句に関しては、次に何句かを挙げるだけにさせていただきます。
直喩
去年今年貫く棒の如きもの(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)             高浜虚子
ところてん煙の如く沈み居り(しずみおり)日野草城
擬人法
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々(きつつきやおちばをいそぐまきのきぎ)          水原秋桜子
海に出て木枯(こがらし)帰るところなし 山口誓子


このほかにも、いくらでも例があげられますが、きりがありません。ご自分で学習することをおすすめしますが、初めのうちは、丁寧で詳しい説明のついた、中学生から高校生向けの学習書を読むといいでしょう。
「教科書にでてくる短歌の解釈」東京美術発行
「現代短歌」「現代俳句」いずれも學燈社発行

最後にこちらから質問です。日本では、擬人法を比喩の一種と考える説が有力ですが、中国ではどうなんでしょう。また、日本の短歌、俳句では倒置、体言止めが多用されますが、中国ではいかがですか。そもそも日本のように、中国では今でも漢詩が作られていますか。

初めに
短歌形式の歌のうち、近世以前(江戸時代より前)のものを和歌、近代以降(明治時代よりあと)のものを短歌といいます。その違いは、単に時代の違いであり、近代の短歌も、文語で書き表すのが常です(口語の歌が出てきたのはごく最近のことです)。
ただし、和歌(特に最盛期の平安~鎌倉時代の歌)は、我々にとっても語学的に理解が困難なものです。
そこで、ここでは、和歌=短歌入門編として、近代短歌(以下「短歌」と表す)の中から、比喩が巧みに用いられている作品をいくつか紹介してみます。
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Q雀は季語?

題名の通り、「雀」は季語ですか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。

1.「雀」単独では季語にはなりません。理由は、年中みかける鳥で、渡り鳥のような季節ものではないからです。

2.ただ、雀を用いた以下のような単語になると、四季おりおりの季語になります。

(1)春:
孕み雀(はらみすずめ)
子持雀
雀の子
雀の巣
巣引雀
雀海中に入り蛤となる

(2)夏:
内雀(うちすずめ)

(3)秋:
稲雀(いなすずめ)
雀のたご

(4)冬:
寒雀

(5)新年:
初雀

3.なお、雀の文字の入った別の種類の鳥にも以下のような季語があります。

(1)春:
雲雀(ひばり)

(2)秋
連雀(れんじゃく)*冬の季語にもなります。
山雀(やまがら)
四十雀(しじふから)
五十雀(ごじふから)
小雀(こがら)
日雀(ひがら)

以上ご参考までに。

Q俳句は五七五でなくともよいのか?

俳句は、五7五と決まっているわけではないらしく、


七五五とか十七などとなることもあるのだとか。

読みやすいばかりが、俳句ではないという渡辺先生のお話でしたが、

では、17文字あれば問題ないのでしょうか?

たとえば、二十五とか、八四五とかなんでもできてしまいますが、それでもよろしいのでしょうか?



陽は照るるも寒風で
舎に入る



などのような変則系でもよいということなのか?

Aベストアンサー

尾崎放哉・種田山頭火らの自由律俳句だけでなく、古い俳諧の世界にも「字余り」「字足らず」として、17文字でないものがありました。芭蕉に例を取っておきます。

やまぶきの/露菜の花の/かこち顔なるや  二十字
夕顔の/白ク夜ルの後架に/紙燭とりて   二十一字
芭蕉野分して/盥に雨を/聞く夜かな    二十字

これらの句は、単なる字余りでなく、それぞれかなり字数がオーバーしています。試しに切れそうな所に/を付けてみました。ただし、切れ方には(1)リズム上切れる箇所 (2)意味的に切れる箇所 (3)切れ字の箇所 などがあり、正調的な五、七、五 の句と比較して難しくなっています。
 「やまぶきの」の句、初句は「やまぶきの露」が本当であろう。最後が八字で終わる。「夕顔の」の句、「白ク夜ルの後架に」と十字で、終は「しそくとりて」で六字。「芭蕉野分して」の句、初句は八字で切れる。
 実は切れ方はあまり問題でありませんでした。二十字以上の句が芭蕉の句の中にあること、しかも複数あることが言いたかったのです。
 質問者があげられた句「秋  陽は照るるも寒風で 舎に入る」はおそらく現代俳句と思いますが、一応十七文字で、2/11/4と切れます。こういう句はそう多くは見受けませんが、また芭蕉の句に例を求めます。

 あけぼのや/白魚(しらうを)白き/こと一寸(いつすん)
試しに切ってみましたが、この切り方は五七五に合わせました。しかし、意味上からは「白魚白きこと/一寸」となるべきです。すなわち 5/9/3 となります。実はこのようなやり方は古くからあり、「句割れ」「句跨ぎ(跨がり)」と呼ばれてきました。これらは同じことを言っています。句割れとは「白きこと」が「白き」と「こと」に割れているということで、句跨ぎとは「白きこと」が七と五とに跨がっているということです。
 「秋  陽は照るるも寒風で 舎に入る」はこういうものとは異なっています。最初からリズムを崩すつもりだったでしょう。こういう句の作り方も今日では考えられるということですね。

 なお、拗音・促音・撥音・母音がある時の字数の数え方等は必要があれば、また回答いたします。

尾崎放哉・種田山頭火らの自由律俳句だけでなく、古い俳諧の世界にも「字余り」「字足らず」として、17文字でないものがありました。芭蕉に例を取っておきます。

やまぶきの/露菜の花の/かこち顔なるや  二十字
夕顔の/白ク夜ルの後架に/紙燭とりて   二十一字
芭蕉野分して/盥に雨を/聞く夜かな    二十字

これらの句は、単なる字余りでなく、それぞれかなり字数がオーバーしています。試しに切れそうな所に/を付けてみました。ただし、切れ方には(1)リズム上切れる箇所 (2)意味的に切れる箇所 (3)...続きを読む

Q桜を詠んだ短歌・俳句を教えて下さい。

いい季節ですね。
桜を詠んだ短歌・俳句はたくさんありますが
古典として有名なもの、また皆さんのお気に入りなどを教えてください。
超有名な歌でも 結構うろ覚えだったりしますので、ぜひこの機会にちゃんと覚えたいのです。よろしく。。。

Aベストアンサー

情景の美しさでは次の2つが気に入っています。

  ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ (紀友則)
  山里の春の夕暮れ来てみれば入相の鐘に花ぞ散りける (能因法師)

西行には花の歌が山ほどありますが,このちょっと皮肉な歌が好きです。

  花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにぞありける

参考URL:http://www.wombat.or.jp/arumukos/unnk/unncssry/prl.html

Q"~せりの意味は?"成功せり、死せり

 我、奇襲に成功せり
など、いろいろなところで見かけるんですが、正しい意味がつかめないのです。これは奇襲に成功したということではないのでしょうか?(真珠湾攻撃のこの打電は攻撃が成功すると確信した時点で打ち出されたものであるらしいが、"せり"を推測の意味でつかっているのでしょうか。)

 我、死せり
だと、これから死に至る…という"推測"している感じがします。

この"せり"とは意味が異なるのかもしれませんが、勝てり、来たり、など"り"で終わる言葉がありますが、国語的な正しい解釈はどうなっているんでしょうか?

 今川義元を討ち取ったり~
だったら、うちとった後だし

 我、勝機を見たり。我、勝てり。
だったら、これからの推測ですよね。

ちょっとでも意味がわかる人いましたら、よろしくお願いします。戦いの時の言葉によくつかわれる気もしますし…。なんなんでしょうか。
 これまで何となく使っていた言葉でしたが意味をわかっていませんでした…アドバイスお願いします。

Aベストアンサー

完了の助動詞「り」なのでは?

Q短歌に季語は不要ですが、では…

短歌を始めて1ヶ月にも満たない者です。
本を見ながら勉強中なのですが、本に載っていなくてよくわかりませんでしたので、詳しい方に教えていただければ幸いです。

短歌に季語は不要だということは承知していますが、季語とされる言葉を歌に用いることはよくあると思います。
では、季節の異なる季語を2つ以上入れて詠んだ歌は滑稽な感じがするものなのでしょうか。

例えば、夏の季語の「紫陽花」と、秋の季語の「月」を一つの歌の中に盛り込んだ場合(例:月あかり照らす母と幼な児の紫陽花の花愛でるかたらい)、季節感がおかしいと思われるものなのでしょうか。

他にも、夏の季語の「ラムネ」と秋の季語の「刈田」など…

言葉が示す季節は異なりますが、月が紫陽花を照らす様子は風情があるので、これを詠むときれいな歌ができそうな気がします。
また、私が住む地方では祭りが9月下旬にあるので(秋祭りです)、祭りの帰りに、夜店で買ったラムネを飲みながら刈田の横を歩いて帰ることがあります。

よろしくご教授ください。
(例に挙げた歌は、この質問のために数分で作ったものですので、拙い歌だと承知しております)

短歌を始めて1ヶ月にも満たない者です。
本を見ながら勉強中なのですが、本に載っていなくてよくわかりませんでしたので、詳しい方に教えていただければ幸いです。

短歌に季語は不要だということは承知していますが、季語とされる言葉を歌に用いることはよくあると思います。
では、季節の異なる季語を2つ以上入れて詠んだ歌は滑稽な感じがするものなのでしょうか。

例えば、夏の季語の「紫陽花」と、秋の季語の「月」を一つの歌の中に盛り込んだ場合(例:月あかり照らす母と幼な児の紫陽花の花愛でる...続きを読む

Aベストアンサー

 まず、俳句において、「月」は秋の季語ですが、それは修飾語(説明)も何もなく「月」という言葉を用いて読んだらそれは秋の月である、ということで、他の季節の月を詠んではいけない、ということではありません。
 だから、今、たまたまgoogleで検索にかかった句ですが、

足もともしらけて寒し冬の月  我眉
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sumidawara20.htm

のように、あるいは、

外(と)にも出(い)でよ 触るるばかりに春の月  中村汀女

のように、他の季節の月を詠んだ俳句はいくらでもあります。ただ、その場合は「冬の月」とか「朧月(おぼろづき=春のぼんやりかすんで見える月)」とか、「月」だけの言葉では表現しないのです。

 したがって、季語の定めのない短歌では、他の季節の月を詠んでも全く差し支えありませんし、その歌にほかに季節を表す他の語が(月と紫陽花、刈田とラムネのように)入ってもかまいません。

 大岡信さんの「折々の歌」シリーズから私が気に入った短歌を書き抜いたものから例を挙げますと、

をとめらが泳ぎしあとの遠浅に浮環(うきわ)のごとき月浮(うか)び出でぬ  落合 直文
 (水泳=夏)
山住に迷ひもたねど雪山に月沈むとき生(いき)を寂しむ          岩波 香代子
 (雪山=冬)

のごとくです。

 次の歌は「折々の歌」からメモしたものではありませんが、私の好きな歌の一つで、この歌の「月」は秋がふさわしいにしても、特に季節は問わないと思います。(「BS」はBS=衛星放送用に打ち上げられ地球を回っている人工衛星)

BSが地球の食をわたるころ新室(にいむろ)つつむ月かげの青      大辻 隆弘

参考URL:http://rikko.blog.ocn.ne.jp/kazahana/2005/01/post_15.html

 まず、俳句において、「月」は秋の季語ですが、それは修飾語(説明)も何もなく「月」という言葉を用いて読んだらそれは秋の月である、ということで、他の季節の月を詠んではいけない、ということではありません。
 だから、今、たまたまgoogleで検索にかかった句ですが、

足もともしらけて寒し冬の月  我眉
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sumidawara20.htm

のように、あるいは、

外(と)にも出(い)でよ 触るるばかりに春の月  中村汀女

のように、他の季節の...続きを読む

Q俳句とその俳句の鑑賞文教えてください

宿題なのですが勉強が苦手でまったくやる気が起きません(T_T)
簡説でいいので俳句の題名とその俳句の鑑賞文教えてください(T_T)お願いします(T_T)

Aベストアンサー

鑑賞文でよく見られる構成は下記のとおりです。
(1)作品の情景を説明する。
(2)作品の良い点を挙げる。
(3)鑑賞者の感想を述べる。

これを使ってしまえば鑑賞文なんてものは簡単ですよ♪


例えば、この俳句ですと

☆咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 


鑑賞文は
   「子供がかぜをひいてしまいました。寝こむほどではありませんが、咳だけはまだ残って います。外にも出してもらえない子供は、時間をもてあましています。その子供の気持ち を紛らわそうと、母親はなぞなぞ遊びの相手をします。しかし子供はいつまでも母を放し ません。母は少し困っています。 子供が放してくれず、少し困りながらも、子供をかわ いく思い、相手を続ける母親の愛情が、この句にはあふれていると思います。」        とか。

いろいろ載せておくので参考にしてくださいね(^-^)

俳句:外にも出よ 触るるばかりに 春の月 
鑑賞文:あたたかな春の夜中に、作者は外に出ていました。そしていつもよりあたりが明るいので、 ふと夜空を仰ぎ見ると、そこにはまん丸お月さまが浮ました。その月は、あまりに明 るく、よく見え、手を伸ばすと触れることができそうに近く見えます。この春の月を、家の中 にいるみんなにも見せたい気がしました。 最初の呼びかけの形に、作者のうきうきした気 持ちが表れています。手が届くほどというのは大げさだが、月の明るさがよく分かります。

俳句:金亀虫 擲つ闇の 深さかな
鑑賞文:夏の夜、部屋に飛びこんできたこがね虫をとらえ、外へ放り投げました。その時見た外の 闇の深さが強く印象に残ったというようなことが書かれていると思います。 「深さかな」と、切 れ字を用いた部分に、作者の感動が素直に、かつ上手に表現されているように感じます。 投げたこがね虫が、すうっと夜の闇の中に吸い込まれて、意外なほど闇が深いのだなあという驚きがこの句には感じられます。



どうですか?お役に立てたでしょうか??

ポイントは→  情景の説明・良い点・感想


です!!!
頑張ってくださいね(((o(*゜▽゜*)o)))

鑑賞文でよく見られる構成は下記のとおりです。
(1)作品の情景を説明する。
(2)作品の良い点を挙げる。
(3)鑑賞者の感想を述べる。

これを使ってしまえば鑑賞文なんてものは簡単ですよ♪


例えば、この俳句ですと

☆咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 


鑑賞文は
   「子供がかぜをひいてしまいました。寝こむほどではありませんが、咳だけはまだ残って います。外にも出してもらえない子供は、時間をもてあましています。その子供の気持ち を紛らわそうと、母親はなぞなぞ遊びの相手をします。しかし子...続きを読む

Q「春の雲」の代表と言えば「なに雲」?

こんな歌があります。「秋の空にうろこ雲が・・・・」という歌です。この歌で、秋の雲といえば「うろこ雲」とわかるのですが、では、春の雲と言えば、なに雲ですか?
代表的な雲をお教えください。季節に合うように歌詞を変えて歌いたいのです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

うろこ雲に対して、春の雲を連想すれば『朧雲(おぼろぐも』かな?
高層雲の俗称ですが、『朧』『朧月』『花曇』など春の季語とても認知されていますよ。

空一面にふわ~っと広がって、太陽や月がぼんやり見えているような時の雲の事です。

Q「流れる」と「流るる」

そもそも、流るる、って言葉ありますよね?
流れるとどういう違いがありますか?

Aベストアンサー

「流るる」というのは「流れる」の古語で、
「流る」の連体形です。
URLは古文動詞の活用です。

参考URL:http://www.ka.shibaura-it.ac.jp/kokugo/kobunhp/dousi01.htm#1

Q拘らず・関わらず??

すみません。以前から気になっていたので正しい答えを教えていただけないでしょうか。

「かかわらず」という言葉の漢字変換なのですが,
例えば

 雨が降ったにも「かかわらず」,彼は傘を差さずにやってきた。

というような文の場合,正しいのは「関わらず」「拘らず」どちらでしょうか。

国語辞典で調べてみたのですが,よく分からなくて(+_+)
すみませんがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。それも「かかわる」でなく「かかる」です。「人命に係(かか)る問題」「係(かか)り結び」など。前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合(常用漢字の基準では)「係わる」でなく「かかわる」です。

結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。

漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的(「関わらない」「係わらない」)にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。

ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。念のため。

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい...続きを読む


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