
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんは。
。西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち言語を離れたもの-言語以前に実体としてあるもの-なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在なのであり、意味的存在なのである。」
黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』哲学書房より
この一文は、「言語ゲーム」=世界と考えていた(←と投稿者が思っている)ウィトゲンシュタインの考え方を端的にまとめてあると思いますし、こういう固定し不変な物事の「実体」を想定しない考え方を打ち出したがために、彼が「哲学を殺した」といわれるのだと思っています。
「言語ゲーム」=世界であれば、「言語の限界」は、おのずと「世界の限界」になると思います。
個人的には、ウィトゲンシュタインのこういう考え方は形而上学否定であり、哲学の否定なんだと思っているのですが、こういう解釈が正しいのかどうかはわかりません。
だいいち、自分は概説書などに引用されている部分を除いてはウィトゲンシュタインの原典を知らないので、これ以上はもうものが言えません・・・(ボロが出た)ごめんください。では。
No.1
- 回答日時:
「ウイゲントシュタイン」ではなく,「ウィトゲンシュタイン」のことだと思って書きます。
わたしも決して「説明できる人」ではないのですが,
彼の独我論には,
「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」と書いてあるそうです。
そして,
「…私の世界こそが,最初にして唯一の世界なのだ。私は,私が世界をどのように見たか,を報告したい。」
ともそれ以前に書いているそうですから,「私」のことばで表すことができる事柄範囲が「私の」世界であり,
語り得る限界が世界の限界であるということだろうと思います。
ちくま新書「ウィトゲンシュタイン入門」永井均著 を参考にしました。
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