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ウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とはいったいどのような意味なのか、説明できる方がいらっしゃいましたらぜひお願いします。

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A 回答 (2件)

こんばんは。



 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち言語を離れたもの-言語以前に実体としてあるもの-なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在なのであり、意味的存在なのである。」
 黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』哲学書房より

 この一文は、「言語ゲーム」=世界と考えていた(←と投稿者が思っている)ウィトゲンシュタインの考え方を端的にまとめてあると思いますし、こういう固定し不変な物事の「実体」を想定しない考え方を打ち出したがために、彼が「哲学を殺した」といわれるのだと思っています。
 「言語ゲーム」=世界であれば、「言語の限界」は、おのずと「世界の限界」になると思います。
 個人的には、ウィトゲンシュタインのこういう考え方は形而上学否定であり、哲学の否定なんだと思っているのですが、こういう解釈が正しいのかどうかはわかりません。
 だいいち、自分は概説書などに引用されている部分を除いてはウィトゲンシュタインの原典を知らないので、これ以上はもうものが言えません・・・(ボロが出た)ごめんください。では。
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「ウイゲントシュタイン」ではなく,「ウィトゲンシュタイン」のことだと思って書きます。


わたしも決して「説明できる人」ではないのですが,

彼の独我論には,
「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」と書いてあるそうです。
そして,
「…私の世界こそが,最初にして唯一の世界なのだ。私は,私が世界をどのように見たか,を報告したい。」
ともそれ以前に書いているそうですから,「私」のことばで表すことができる事柄範囲が「私の」世界であり,
語り得る限界が世界の限界であるということだろうと思います。

ちくま新書「ウィトゲンシュタイン入門」永井均著 を参考にしました。
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この回答へのお礼

「ウィトゲンシュタイン」でしたね。すいませんでした。

お礼日時:2005/10/22 21:51

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Q語りえないことについては人は沈黙せねばならない、のですか?

語りえないことについては人は沈黙せねばならない、のですか?

Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考第7章の有名なタイトルです。

二つ質問があります。
1.語りえないこと、Wovon man nicht sprechen kann,とはどんなことでしょうか?
ヴィトゲンシュタインには語りえるか語りえないかの判断基準があったのでしょうか?

2.哲学は対話によって進歩する、あるいは、哲学者が対話によって学習する面があるとおもいますが、語りえるか語りえないか不明である事について語り合いながら理解を深めることも、ヴィトゲンシュタインは否定しているのでしょうか?

ちゃんと本を読まずに質問して恐縮ですが、皆さまのお考えをご教授いただきたくお願いします。

Aベストアンサー

> 「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。

ということではありません。

たとえば、囲碁を知らない人にとっては、盤上に配置された黒と白の玉は何も意味しませんが、囲碁を知っている人にとっては、陣地であり、戦いの局面であり、休戦地です。単なる黒と白の玉は、そのような「像」を描いています。
碁を知らない人が、見よう見まねで石を並べたとしても、それは碁ではありません。「像」を結ばない。

楽譜は、模様ではなく、その向こうに「音楽」があることを示しています。五線譜に、でたらめに音符や記号を並べたとしても、楽譜にはなりません。

ここでいう「言語」とは、そうした石や音符の代わりに、「音声」や「文字」によってあらわされる具体的なものです。石や音符同様に、その向こうに「像」を結ぶものです。「本」や「マグカップ」や「テーブル」のように。あるいは、それが「宇宙人」や「幽霊」など、仮に現実にその存在が確かではなくても、「ありうるもの」「起こるべき出来事」として、わたしたちが「像」を結びうるものも含みます。

そうして像として用いられる文を「命題」と呼びます。
「この本は『論理哲学論考』だ」
「このマグカップにはミッキー・マウスがついている」
「テーブルの表面はすべすべしている」
このように、記述として用いられ、真偽を問えるような文章を命題と呼びます。さらに「思考がそれによって表現されるものを命題記号と名づける」(3・12)と続きます。

こうして、言語は世界(事実とこれから起こりうる事実=事態)の論理的な像である、としていきます。

そうして成立し、妥当している事態や事実を自然科学が記述します。それによって
「真な命題の総和が自然科学の全体(あるいは諸科学の総体)である。」(4・11)
これに対して
「哲学は自然科学の議論可能な領域を限界づける。」(4・113)
「哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界づけねばならない。
哲学は思考可能なものを通して内部から思考不可能なものを限界づけねばならない」(4・114)
ということになっていきます。

---
以上の回答をしていて不安になってくるのは、おそらく意味が伝わらないだろうなあ、と思っているからです。

知らないことをわかる、ということは、「知識」というものを、たとえばカロリーメイトみたいな固形物として、わたしたちの体内に取り込み、蓄積する、ということではありません。そうではなくて、知らない言葉やその用法や置かれた文脈を、自分がすでに知っていて、使うことのできる言葉に置き換えることにほかなりません。

ところが、わたしたちひとりひとりが使う言葉は、その「言葉」をささえる膨大な「言語体験」のネットワークによってささえられています。このネットワークというのは、わたしたちの無数の現実体験によって裏打ちされています。わたしたちが「言葉」を使う、ということは、それを支える現実と連動しているわけです。

未知の領域を学ぼうとするときは、単に言葉を学ぶだけではない。わたしたちがすでに抱えている言語体験のネットワーク自体を、組み換えていかなくてはなりません。つまり、何かを知ることは、そのたびに、これまでの自分の理解の枠組みを作りかえていくことにほかならないのです。

何かがわかった瞬間、世界がまるでちがって見えてくる、こんな経験はおありかと思いますが、言葉を通して世界とふれているわたしたちにとって、自分の理解の枠組みを作りかえるという作業は、世界そのものを作りかえることにほかなりません。実際、「わかる」というのは、そのぐらいの「飛躍」を要求するものです。

ところが、自分の理解の枠組みの全体を作りかえるのではなく、それを温存したまま、その枠組みの中で、新しい知識の一部を処理しようとすることを、多くの場合、わたしたちはやってしまいがちになります。単に処理できるようになったことを、「わかった」と誤解してしまうのです。

特に、言葉によって語られる「思想」や「哲学」は、その危険をつねにはらんでいます。ここでどれだけわたしが言葉を費やして説明しても、おそらくそれは質問者さんの「体験」とはなっていかないでしょう。それよりも、ちゃんと本を読まれた方がいいように思います。

いくつか本を紹介しておきます。いずれも新書で入手しやすいものです。
まず『論理哲学論考』を読む前に、橋爪大三郎の『「心」はあるのか』『はじめての言語ゲーム』を。

もう少しひろく現代思想について興味がおありでしたら高田明典『「私」のための現代思想』を。
哲学が扱ってきた言葉や他者や社会というのはどういうものか知りたければ中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』を。

以上、参考まで。

> 「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。

ということではありません。

たとえば、囲碁を知らない人にとっては、盤上に配置された黒と白の玉は何も意味しませんが、囲碁を知っている人にとっては、陣地であり、戦いの局面であり、休戦地です。単なる黒と白の玉は、そのような「像」を描いています。
碁を知らない人が、見よう見まねで石を並べたとしても、それは碁ではありません。「像」を結ばない。

楽譜は、模様ではなく、その向こうに「音楽」があることを示しています...続きを読む

Q言語論的転回

大学の授業で、言語論的転回というものを習いましたが、意味がさっぱり分かりません。誰か噛み砕いて教えてくれませんか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#2です。
お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことばをいろいろに配列することは、人間ならどんなに愚かな者でもできるが、機械にできるとは考えられない」(『方法序説』)

つまり、〈ことば〉は人間を人間ならしめているものだ。そして、その〈ことば〉を媒介として、人間は他者と交流している。
近代の端緒から、このような認識はあった。

そして、ヘーゲル。
人間と社会の関係を考察するときに、ヘーゲルはことばが果たす重要な役割、つまり、〈わたし〉を私的なものから、公的なものにする契機としての〈ことば〉を考えます。

けれども哲学の中心的なテーマは、ずっと〈意識〉だった。

それを動かしていったのは、ウィトゲンシュタイン、そしてすこし時代がくだって、ウィトゲンシュタインとはまったく別の流れからですが、メルロ=ポンティでしょう(とくにウィトゲンシュタインは非常におもしろい「言語ゲーム」という考え方を導入するのですが、これを書き始めると回答が終わらなくなってしまうので、省略します。もし興味がおありでしたら中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』ちくま新書をお読みください。これは哲学史の入門書としては、すごくわかりやすいし、おもしろいし、かなり深いです)。

一方、メルロ=ポンティ、わたしはこの人が大変好きで、もう名前を書いてるだけでうれしくなっちゃうくらい好きなんですが、メルロ=ポンティ(もう一回書いてみました)、この人は、〈意識〉の学問、現象学から登場します。

すべてを取り払った後に残る〈純粋な意識〉。
けれどもそれはどんな〈ことば〉で語るのだろうか?
〈意識〉が考えるとするなら、それはどんな〈ことば〉なのか?

「語り手は話す前に考えるのではないし、話すあいだに考えるのでもない。語り手のことばが思考そのものである」(『知覚の現象学』)

このように、メルロ=ポンティはソシュール言語学の理論を踏まえながら、現象学に新たな局面をもたらしていきます。

こうして20世紀も中盤になったごろから、哲学全般の流れは、大きく〈意識〉から〈言語〉へと転換し始めます。

ただ一般的には、いわゆる「言語論的転回」というとき、哲学全般が意識からことばに移っていった、というよりも、この用語はもうすこし限定的な用語として使われます。

「言語論的転回」という言葉で指示されるのは、言語が持つ力を分析することで、哲学の難問を解消しようとする試みのこと、ひとつはラッセルやフレーゲらの論理学、もうひとつは日常言語学派の流れ、このふたつであると思います。

ついでにここも書いておくと、ラッセルやフレーゲは、哲学の思考や概念は、日常の言語を使ったことで、誤ったものになってしまった、透明で、誤謬を含まず、論理操作できる言語を用いれば、哲学の問題は解消する、と考えます。

どんな言語か。

たとえばラッセルはこんな文章について考えます。
「現在のフランスの国王は禿頭である」

これは
(1)現在のフランス王は少なくともひとり以上存在している。
かつ(2)ひとりの人間が存在している。
かつ(3)その人は禿頭である。
という三つの連元項から成り立っている。

そうしてこれを
(∃x∧)(Fx∧(∀y)(Fy→=x)∧Bx)
と 論理記号で表記し、第一の連元項が偽であることから、全体として偽である、と証明してみせる。

こうやって記号論理学というものを切り開いていきます。

もうひとつの日常言語学派、これはオースティンの言語行為論とそれをひきついだサールの語用論をおもに指します。

オースティンは、日常で使われることばを、その内部にある意味だけではない、と考えるんです。

たとえば「コーヒーが入りました」ということばが、ある局面では、単に情報を伝えるだけであるのに対し、また別の局面では「ひとやすみしませんか」という誘いを意図している場合もある。

こうやって、日常の言語にみられることばの使い方に戻ることによって、哲学の問題も解決できる、とするのです。

詳しく言い出すとほんとうにキリがなくなるので、ここらへんでやめますが、まだわかりにくいところがあれば、どうぞ。

#2です。
お礼欄、拝見しました。うーん、これは簡単に書くのがむずかしいなぁ。

哲学のなかでつねに〈ことば〉は、たとえば〈意識〉のように、中心課題ではないにしても、洞察の対象ではあったんです。

たとえば〈わたしの意識〉を確実さのよりどころとしたデカルトは、窓の外を歩いている他者がどこまで確実な存在か、疑ってみます。
帽子の下、衣服の下には「自動機械」が隠れているのではないか、と。

いや、自動機械ならば
「目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことば...続きを読む

Q都市緑化の問題点

都市緑化という言葉を最近よく耳にします
緑化はとても地球にとっても人間にとってもよいことです
でもあまり都市緑化はすすんでいないと思います
もしかして都市緑化にはとても大変な問題点とかあるのですか?

無知ですいません。ネットで軽くしらべたんですが良いこと尽くしで問題点がみつかりませんでした

Aベストアンサー

>大変な問題点
たとえ地球に良くても金がかかるし、会社の儲けにはならないから
赤字自治体や企業がコストカット至上主義の時代には難しい。
それに、京都議定書はアメリカや中国も無視してるし・・・。
自由資本の競争社会では、環境紳士より環境破壊者の方が勝つから。

>小さな問題点
落ち葉や虫が嫌い。鳥が集まって五月蝿いし、糞で汚れる。
と、苦情を訴える隣人が出るから。

Qキルケゴールの思想について教えてください。

キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

Aベストアンサー

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書...続きを読む

Q「今日も今日とて」の意味を教えて下さい

「今日も今日とて」の意味を教えて下さい。
前後の文章から、単純に「今日も」という事かなと思ったのですが、「今日とて」がひっかかります。
「今日」は「キョウ」でいいんですよね?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

同じ意味の重ね合わせで、強調してるのです。

「今日も」、今まで通りなんだ、
「今日とて」明日になれば変わるかも希望をもっていたとしても、「今日とて」変わらない。という事ですね。

音を踏んで、何も変わらない事を強調表現しているのです。

QTo be or not to be の意味を教えてください

To be or not to be の意味を教えてください。
お願いしますm(__)m

Aベストアンサー

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シェイクスピアの事を知っている人なら、この後の、that is the question.を強調する為に使う言い方としても使います.

つまり、大学へ行くべきがそれとも好きな職につくべきか、と言う迷いがあるときに、相談された人は、To be or not to be.,,,,,,と考え込む、と言う使い方ですね.

最近ボーリングの質問がありましたが、10フレーム目で、この三つをストライクで決めればパーフェクトゲーム. この時点では誰もが感じるchokeの場面です. ボールを投げる前に、余裕のあるところを見せるために、Hamlet, you are not the only one to suffer. Me, too. To be or not to be!! This ball is the answer!! とみんなが聞こえるように言って、そして、みんなが見ている前で、胸に十字を切ってボールを投げる状況ですね. なかなかの役者だともいえますね。

と言う事で、どのように使われているかという視点で書かせてもらいました.

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シ...続きを読む

Q色鉛筆に電気を通したときのこと

色鉛筆に電気を通したときに、全然光らない、煙を出しませんよね。あれはどうしてですか?色鉛筆の成分がどうかなったのですか?詳しく知っている方、回答ください。

Aベストアンサー

普通の鉛筆は,黒鉛(グラファイト)の粉が主成分で,グラファイトは導電性があります。釣りに用いるカーボン製の釣竿も,カーボン繊維(グラファイト繊維)製ですが,導電性があるため高圧電線のそばでは要注意です。

さて,ご質問の色鉛筆ですが,これは色に応じて,その色の顔料を主成分に,つなぎに粘土や有機物のバインダーで固めてあります。
この顔料は,金属酸化物粉末が使われることが多く,導電性はありません。
導電性がないので,色鉛筆の芯に通電しても発熱せず,したがって,煙も光も発しません。

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q「いずれか」と「いづれか」どっちが正しい!?

教えて下さいっ!
”どちらか”と言う意味の「いずれか」のかな表記として
「いずれか」と「いづれか」のどちらが正しいのでしょう???

私は「いずれか」だと思うんですが、辞書に「いずれか・いづ--。」と書いてあり、???になってしまいました。
どちらでもいいってことでしょうか?

Aベストアンサー

「いずれか」が正しいです.
「いづれ」は「いずれ」の歴史的かな遣いですので,昔は「いづれ」が使われていましたが,現代では「いずれ」で統一することになっていますので,「いずれ」が正しいです.

QATの左足ブレーキは危険なのですか?

私はATでは左足ブレーキを使うべきとの話を聞いたことがありますし、個人的にも左足ブレーキを使うことに賛成です。

でも、左足ブレーキは危険と考える人もいるようですが、何が危険なのですか?

たとえば、AT限定免許では、教習所ではどう教えているのでしょうか?

決して反論したいのではなく、何が危険なのか知りたいだけですので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#30です。
長文で申し訳ありませんが、以降の議論と参考URLを読んで再度投稿します。また「左足ブレーキのコーナー」の素晴らしい議論も参考にして頂きたいのですが、キャッシュ経由ですのでアクセスできなかったらすみません。http://66.102.7.104/search?q=cache:bGBKfPqUwMIJ:www2.gol.com/users/miyazaw2/hidariashi.html+%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%80%80%E4%BD%93%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%8B%E3%80%80%E5%B7%A6%E8%B6%B3&hl=ja
たしかに左足ブレーキにも合理性はあり、私もゲームでは(笑)左足ブレーキ派です。踏み換えがない左足のほうがブレーキ操作は確実に速くなります。
しかし左足ブレーキの問題点は、
(1)フットレストに置いた左足には体を支える機能がありブレーキに使うべきではない:
減速Gがかかった際には無意識に左足をふんばり、また右カーブで強い左Gがかかった場合は、バケットシートで無い場合必然的に左すねをセンターコンソールに当てて自然に体を支えます。スポーツ走行しない方でも、危険回避等でそのような状況にはなり得ます。しかし、ブレーキを踏み始める時点ではそれほど減速Gはかかっておらず必ずしも体を支える必要がないとか、左ハンドル車の場合やフットレストの装備率の低さを考えると左足で体を支えることを意図して車が設計されているわけではないという反論も成り立ちます。
(2)左足ブレーキは馴れないとできない:
利き足の右足は微妙なコントロールの必要なアクセル・ブレーキに使い、不器用な左足はガツンと踏むクラッチに使うように(ATの場合は左足を使わないことを)教わりますので、左足ブレーキには慣れが必要です。しかし私は左利きですが逆に左足では微妙なブレーキコントロールが出来ませんので、これは利き足の問題ではなく、慣れの問題と思います。
(3)車は左足ブレーキを想定して設計されていない:
左足ブレーキの場合、考えてみるとフットレストで休ませていたら速く踏めるメリットが無いので、おそらく常に左足をブレーキ上で浮かせておくのだと思いますが、アクセルと違ってブレーキは通常そのように設計されていませんし、アクセルはほぼ常時踏んでおり足を乗せた状態ですがブレーキには乗せられません。左足ブレーキを常用されている方、実際のところ長時間の運転で左足は疲れないものでしょうか?また参考URLで指摘されているように、車によってはペダルの位置に問題があって左足の位置、角度自体がつらい場合もあるでしょう。足踏みパーキングブレーキも邪魔になります。
(4)パニック時の左足ブレーキ常用者の行動:
上記「左足ブレーキのコーナー」には、利点に触れつつも左足ブレーキ使用者がパニック時に両方のペダルを踏んでしまう傾向を指摘した意見が載っています。これはシミュレーションでは再現しないそうで、やはり(2)に関連して、実際に体にGがかかった危機に直面して無意識に両足を踏ん張り体を支えようとするためでしょうか?あくまで傾向ですので、きちんと踏める人の方が多いのでしょうね。残念ながら詳細は書かれておりませんので推測です。
余談ですが、サーキット走行ではエアコンなしのクソ暑い中でも少なくともドライバー側の窓は閉なければならないという規則が一般的なのですが、聞いた話によると、理由のひとつとしてプロドライバーであっても横転したときに体を支えようと、無意識に窓の外に手を出して怪我をする場合があるらしく、物理的に手を出せないよう窓を閉めるそうです。よってパニック時に無意識に両足を踏ん張ってしまうというのもなんとなく理解できます。

私自身左足ブレーキは少ししか試したことが無く、またとっさの危険回避時の科学的な有用性・弊害については判りませんが、左足ブレーキにも説得力のある利点があり、十分慣れた人であればよいのではと思います。しかし新たに左足ブレーキに挑戦してみようかなという方は、上記について意識しておいた方がいいのでは、と思っています。特に(4)が気になる点です。

参考URL:http://www.auto-g.jp/column/ura_trade/ura15/

#30です。
長文で申し訳ありませんが、以降の議論と参考URLを読んで再度投稿します。また「左足ブレーキのコーナー」の素晴らしい議論も参考にして頂きたいのですが、キャッシュ経由ですのでアクセスできなかったらすみません。http://66.102.7.104/search?q=cache:bGBKfPqUwMIJ:www2.gol.com/users/miyazaw2/hidariashi.html+%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%80%80%E4%BD%93%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%8B%E3%80%80%E5%B7%A6%E8%B6%B3&hl=ja
たしかに左足ブレーキにも合理性...続きを読む


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