この文が表しているのは、私の「動作(の継続)」でしょうか、それとも私の「状態」でしょうか。
この文は、
・(以前は東京に住んでいたが、)私は現在、北海道に住んでいる。
と言い換えることができると思いますが、これは「状態」を表わしているので [ 状態動詞 ] と個人的には考えます。
「動作(の継続)」を意味する [ 継続動詞 ] と考えてしまうと、
・(以前は東京に住んでいたが、)私は現在、北海道に住み続けている。
といったニュアンスになってしまうので不可でしょう。
・私は現在、本を読んでいる。
などのような「動作(の継続)」と同じように解釈すべきではないはず。
このように解釈できるシチュエーションとしては、たとえば以下があります。
・みんな施設に入ったが、彼だけは、未だに公園に住んでいる(住む)。
この場合は [ 継続動詞 ] と分類しても良いかと。
さらに、
・路上生活に終止符を打って、明日からは一軒家に住む。
は [ 瞬間動詞 ] でしょう。
(以上の見解の正否に拘わらず、)こうした微妙なニュアンスは大事にしていくのが妥当かと。
前置きが長くなりました。
「住む(住んでいる)」は [ 状態動詞 ] になり得ると思うのですが、いかがですか?
No.26ベストアンサー
- 回答日時:
念のため、言語の習得に付いての説明を以下に引用しておきます。
hakobuluサンの発想は、下記で、スターリン的発想といわれているものになります。
習慣の獲得には、よっぱらっても道をまちがえずに帰宅する場合のように、個別的な事物についての経験がくりかえされる中で、その感性的な認識が頭の中に固定化されて意識せずにこれから規定されてくる場合もある。言語表現の習慣の獲得には、個別的な事物についての経験ではなく、その特殊性を超えて普遍性をつかむ経験が必要であり、さらにこの認識とどのような音声あるいは文字の種類とをむすびつけるかを教えられなければならない。それゆえ、この教えられたものが経験のくりかえしおよび習慣の獲得から、相対的に独立して維持される点で、前者の習慣の獲得と区別されなければならない。時枝はこの教えられたものと習慣獲得との区別と連関をとりあげていない。
言語の習得は何を意味するのであるかといへば、それは、素材とそれに対応する音声或(あるい)は文字記載の習慣を獲得することを意味するのである。……例へば、小児(しょうに)が四本足の動物を「ワンワン」と教へられたとする。その時、この小児は、この動物と「ワンワン」といふ音声の聯合(れんごう・連合)を教へられたのであつて、この様なことを繰返すことによつて、この小児は、この動物を指す必要が生じた時は、これを直(ただち)に「ワンワン」といふ音声に聯合さす処(ところ)の習慣を獲得するのである。(時枝誠記『国語学原論』)
親は自ら四本足の動物をさして「ワンワン」と表現する。子どもにもこれを摸倣させる。これが条件を変え対象を変えて何度もくりかえされる。経験としての音声と動物との「聯合」は、個別的であるから、これの持つ特殊性を超えなければならない。このくりかえしの経験から、子どもはその特殊性を超えて共通面のあることを認識し、これを「蒸溜」させていく。このような種類の事物についてはこのような音声がむすびつくのだという共通面の認識が「蒸溜」され、これが固定化してつぎの表現に役立てられるようになれば、ここに規範が成立したことになる。
親はこのように、自ら規範を役立てる模範を示し、子どもにも摸倣させることによって、経験を通じて子どもの頭の中に規範を育てるのであり、客観的には親の頭の中の規範が子どもの頭の中に複製されたということができる。教えられたのは表現を摸倣することではなくて、摸倣の結果「蒸溜」されたところの表現のための規範なのである。
スターリン的な発想では、この事実を言語が「与えられ、かつ受けつがれる」ものと解釈するのであるが、言語それ自体の受けつぎは、親の書いた論文の原稿が子どもの手に渡るとか、著者の表現が活字で印刷されコピイとして読者の手に渡るとか、あくまで表現それ自体の移動あるいは複製として理解しなければならない。
テープレコーダーを使えば、音声言語のコピイをつくることができるが、これを現象的に見ると、まず親が「ワンワン」と発音してそれを子どもにまねさせる、人間が音声言語のコピイをつくる場合に似かよっている。それで、テープが音声をくりかえす能力を持ち、ここに言語が「受けつがれ」ているように、子どもにも親の言語が「受けつがれ」るかのような錯覚が生れて来る。だがテープと子どもの頭とをいっしょくたにすることはできない。テープは機械的に音声をくりかえすが、それはテープに吹き込んだ話し手の言語の複製であり、この話し手の認識の表現でしかない。子どもが親の発音をまねるのは、たとえそれが音声の摸倣でしかなかったとしても、子どもの認識の表現であり、さらにすすんではくりかえしの中で規範を抽象し固定化することができる。音声の摸倣も、自主的な表現の萌芽(ほうが)形態なのである。
〔三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)から 「第三章 規範の諸形態 (5) 言語規範の拘束性と継承)」p190~〕■
ご回答ありがとうございます。
なかなか面白いご投稿をいただきました。
興味深く拝見したところです。
1.
> スターリン的な発想では、この事実を言語が「与えられ、かつ受けつがれる」ものと解釈するのであるが、
:
言語が(単に)「与えられ、かつ受けつがれる」ものと解釈しているわけではありません。むしろ、
>教えられたのは表現を摸倣することではなくて、摸倣の結果「蒸溜」されたところの表現のための規範なのである。
>言語それ自体の受けつぎは、親の書いた論文の原稿が子どもの手に渡るとか、著者の表現が活字で印刷されコピイとして読者の手に渡るとか、あくまで表現それ自体の移動あるいは複製として理解しなければならない。
:
といった考え方に近いです。
それどころか、(正しいかどうかはさておき)こうした『表現のための規範』は、カントのカテゴリーにも通じるものであり、アプリオリに備わっているものではないかとさえ思っているところ。
2.
>言語それ自体の受けつぎは、親の書いた論文の原稿が子どもの手に渡るとか、著者の表現が活字で印刷されコピイとして読者の手に渡るとか、あくまで表現それ自体の移動あるいは複製として理解しなければならない。
:
言語自体が社会的ツールである以上、当然、こうした経緯を辿るのは一般だろうと思います。否定するものではありませんが、ただ、これは、(敢えて申し添えますが「広義」の)文法としての規範という印象を受けます。
言語の本質に関しての記述ではないでしょう。
具体的に申し上げると、
人類が一番最初に言語を創造するに至った経緯、あるいは、その脳科学的過程に興味がある、ということです。
「最初」は、誰かが言語規範を教えてくれるわけではありませんよね。
3.
>当然話せません。母語を習得するということは言語規範を学ぶと云うことです。そして、母語以外を話せるためには、その言語規範を習得しなければなりません。
先にも記したように、狼少年、アベロンの野生児は一生言語を話せません。
:
おっしゃりたいことは理解できました。
ただ、狼少年とアベロンの野生児が同じ生活圏にいれば、(言語規範を誰から教えられなくとも)長い時間は必要とするかもしれませんが、いずれ言語は生まれるでしょう。
ということを申し上げています。
No.27
- 回答日時:
>>『表現のための規範』は、カントのカテゴリーにも通じるものであり、アプリオリに備わっているものではないかとさえ思っているところ。
人間は社会の一員であり、子どももまた社会の細胞である家族の一員として毎日生活しているという、人間の本質的なありかたから認識が規定されてつくり出す矛盾がある。それは意志の持つ矛盾としての規範の成立である。個人はどんな意思を持ちどんな行動をしようと勝手だということにはならない。それぞれの生活集団としての、共同利害を考慮しなければならない。それゆえ、認識の内部に意思に対立する意思として、いわばフィードバック的な構造を持つ矛盾がつくり出されることになる。この対立する意思は、ネガティヴ・フィードバックとして意志の成立を押えつけたり、あるいはポジティヴ・フィードバックとして意志の成立を促したり、その機能においてもこれまた一つの矛盾を持つところの存在である。規律・掟・道徳・規約・法律など、さまざまな種類の規範が存在している。〔(『認識と言語の理論第一部』勁草書房)〕
のように、規範は意識における意志の矛盾ではあるがそれには積極的な意義があると述べています。
言語規範もまたそのような規範の一種であり、人間が一定の社会の中で相互に物質的・精神的交通を不自由なく行なうために作り出した社会的な規範――言葉を使うための約束ごと――なのである。言語規範の中には語法・文法・統語法・文章法や用字法・音韻・語彙などのさまざまな体系が含まれている。ソシュールが彼の意識内部に発見した「言語 langue」――いわゆる「連合関係」・「範列関係(パラディグム・範例関係)」――もこの言語規範に含まれるものであり、音声言語における語彙の体系・語彙の規範とでもいうべきもので、何らアプリオリに備わっているものではありません。
理神論者、観念論者のカントとしては神の領域としての「超越論的統覚」をアプリオリなものとするしかないということです。
>>「最初」は、誰かが言語規範を教えてくれるわけではありませんよね。
上記の通り、社会生活を維持するための人間の本質的なありかたから認識が規定されてつくり出す矛盾ということで、社会、共同生活の必要性から自然成長してくるものです。
>>言語自体が社会的ツールである以上、当然、こうした経緯を辿るのは一般だろうと思います。
言語が社会的ツールであるというのは、先にも記したように機能でしかなく、言語でなくても絵や身振りもまた社会的ツールとしての機能を持ち、言語の本質は概念による認識、表現というところにあります。
>>狼少年とアベロンの野生児が同じ生活圏にいれば、(言語規範を誰から教えられなくとも)長い時間は必要とするかもしれませんが、いずれ言語は生まれるでしょう。
ということを申し上げています。
狼少年とアベロンの野生児を我々の生活圏に引き入れ、言語を習得さえようと必死に学習させようとしましたが、結局、概念認識に至ることができず、基本的に言語を身につけることができていません。
言語規範を教えようにも、まず乳幼児期に概念認識の契機を掴まないと言語表現はおろか、規範も形成できません。
「オオカミ少年、犬少女。人間社会から隔離された環境で育った世界10人の野生児たち」
http://karapaia.com/archives/52147667.html
参照。■
ご回答ありがとうございます。
>個人はどんな意思を持ちどんな行動をしようと勝手だということにはならない。それぞれの生活集団としての、共同利害を考慮しなければならない。
:
人間と言うものの本質がわかっていないかたの見解のようですね。
よって、これを前提とする、
>それゆえ、認識の内部に意思に対立する意思として、いわばフィードバック的な構造を持つ矛盾がつくり出されることになる。
:
という結論も人間の本質、言語の本質をとらえたものとは言えない。
というのが私の個人的見解になりそうです。
ま、色々な見解があってよいのではないでしょうか。
>上記の通り、社会生活を維持するための人間の本質的なありかたから認識が規定されてつくり出す矛盾ということで、社会、共同生活の必要性から自然成長してくるものです。
:
そもそもですが、社会があって人間がいるわけではなく、人間がいて社会がある、という本質的な認識が欠けていますね。
>狼少年とアベロンの野生児を我々の生活圏に引き入れ、言語を習得さえようと必死に学習させようとしましたが、結局、概念認識に至ることができず、基本的に言語を身につけることができていません。
:
ここは、私の表現力不足だったかもしれません。
狼少年とアベロンの野生児の2人だけが同じ生活圏にいれば、(言語規範を誰から教えられなくとも)長い時間は必要とするかもしれませんが、いずれ言語は生まれるでしょう。
という意味。
因みに、狼少年とアベロンの野生児の2人だけの場合にそうならなくとも、狼少年2とアベロンの野生児2の場合も想定している意味での『長い時間』です。
No.25
- 回答日時:
>>言語規範を教えられなかった赤ん坊は、正しい日本語を話せませんか?
そんなことはありませんよね?
当然話せません。母語を習得するということは言語規範を学ぶと云うことです。そして、母語以外を話せるためには、その言語規範を習得しなければなりません。
先にも記したように、狼少年、アベロンの野生児は一生言語を話せません。
日本の識字率、明治政府による義務教育により98%以上ですが、1899年においては成年男子の23.4%は文字を読むことができず、20歳識字率は76.6%にとどまっています。つまり、文字規範の教育をしなければ身につかないということです。
この辺の基本的な誤解があるようです。■
No.24
- 回答日時:
>>自らの無意識的な意図を表現したくて言語というものは生まれた、ということです。
無意識的な意図を表現したい場合、まずは直接感性的な、身振り、手ぶり、絵、叫びなどによる表現が生まれます。
しかし、それでは協働生活、社会生活での伝達に限界があるため、目的意識的に概念による伝達が必要になり、言語規範が生み出され、言語表現が生まれています。これが、歴史的な事実です。
これは、概念と特定の形を結び付けることにより生まれます。満月であろうと、三日月であろうと月と表現されるようになります。
言語は、物理的に見れば、音声や線描でしかなく、これが何故意味を持ち、受け手に理解されるのかを具体的にイメージできないと互いの論点にすれ違いが生じてしまいます。
言語は話者の個別の対象に対する概念認識の表現である点の理解が重要です。これを媒介するのが規範としての語や文法です。
>>言語規範を習わなくとも、会話を多く聞いたり、多くの書物を読んだりすることで、自然と身につくように思いますけどね。
乳幼児の頃から両親により会話を多く聞き言語規範を学習するのが母語の習得です。これは一件、自然習得のように見えますが、生きるために子供も必死に親や環境から学習しているものです。アベロンの野生児はいくら教えられても唸りを発することしかできませんでした。
>>アスナロウさんのおっしゃる言語規範は文法のことなのでしょう。
文法だけでなく、語彙規範、音韻規範、文字規範他、語、文、文章という各段階に亘り規範を媒介としています。この全体が言語規範で、規範の在り方が正しく理解されない段階では、目に付き易い文の規範が文法と呼ばれているのが現状です。
>>「活動」ではないのですが、たとえば「女」という言語。
「男」と分別するために誕生したはずですが、しかし【単独の意味】というものは存在しないはず。
シチュエーションなり切り口になりによって多様な意味を持つでしょう、ということです。
【単独の意味】というか、語の意義は普遍概念を表わします。
それが、個別の話者の認識を媒介しシチュエーションなり切り口なりによって多様な意味を持つことになります。
語は普遍概念を表わし、水と言った時、科学者は〈H₂O〉の普遍的意味で使用しますが「流れる川の水」の場合は具体的な河の水を意味するように。又、「冷たい水」などのように具体的な属性を付加され表現されます。
>>同じ「ている」でも、
「割れた結果が【現在も存続している】ガラス」について言っている場面ですから、『現在は「割れていません」』は矛盾しますよね?
この場面では割れた結果の存続ですが、未だに割れ続けている場合も、同じ形式である「割れている」「開(あ)いている」と表現します。この同じ形式が何故に異なる場面を表現するかは、「て」で話者が確認する場面に拠るということです。■
ご回答ありがとうございます。
>言語規範が生み出され、言語表現が生まれています。
:
逆だと思います。
今度原始人に会ったら確認しておきますが、今は、どちらでも良いです。
>言語は、物理的に見れば、音声や線描でしかなく、これが何故意味を持ち、受け手に理解されるのかを具体的にイメージできないと互いの論点にすれ違いが生じてしまいます。
:
言語は社会的ツールですから、たしかに文法としての規範は必要ですが、それはあくまで後付けですよ。
言語規範を教えられなかった赤ん坊は、正しい日本語を話せませんか?
そんなことはありませんよね?
>この場面では割れた結果の存続ですが、未だに割れ続けている場合も、同じ形式である「割れている」「開(あ)いている」と表現します。この同じ形式が何故に異なる場面を表現するかは、「て」で話者が確認する場面に拠るということです。
:
そんなことは、わたしのほうが言っていることです。
先の場合は、過去完了と結果の存続の判別が難しそうなので、結果の存続とはこういう場合です、と下記のように例を出した箇所。
文脈を無視して論拠とするのは勘弁してください。
※『結果の継続』とは、たとえば、
・窓ガラスが割れている。
のような場合を指します。
現在も「割れて」いますよね。(#20)※
No.23
- 回答日時:
>>
『言語を活動自体とし』という点は、あるひとつの言語は複数の活動を意味するものとして誕生したわけですから、そのとおりではないでしょうか。
音楽活動や演劇活動が音楽や演劇とは異なるように、言語と言語活動は異なります。
音楽や演劇や絵画が表現であるように、言語もまた表現であり、それら表現としての普遍性と言語表現としての特殊性を正しく捉えなければなりません。
「あるひとつの言語は複数の活動を意味するものとして誕生した」のではありません。この辺の雑な言語本質理解に基づき発想されるところに混乱が生まれているのではないかと危惧されます。■
#22お礼欄からの続き。
4.
>カント主義の立場は不可知論で、概念と客観的な素材との間の過程を認めず外界との繋がりが存在しないため、閉ループになるしかありません。
:
物自体が不可知である以上、それを言葉で表すことはできないわけですから、言語論に不可知論が関与すると考えること自体が理解できない、という意味です。
『閉ループになる』のは最初からわかりきったことではないでしょうか。
ただ、今回はじめて知ったことなので、聞きかじりによるこれ以上のコメントは控えます。
5.
>ここが大事な所ですが、言語は「無意識的な心理を具現化したもの」ではなく、言語規範を媒介とした話者の認識の表現です。言語規範なしに言語表現はできません。
たとえば、hakobuluサンはエチオピア語で表現できますか。
:
アスナロウさんのおっしゃる言語規範は文法のことなのでしょう。
であるとすれば、互いの論点にすれ違いがあるかもしれません。
言語規範なしに言語表現できないことはわかりますが、自らの無意識的な意図を表現したくて言語というものは生まれた、ということです。
大きな獲物を一頭見つけた場合に、面と向かっては指一本立てればすみますが、不在時に伝言したくて、1、いち、one、unといった言葉が生まれたのでしょう、という意味。
「(て)いる」も何かを表現したくて生まれた言葉であり、そこにどんな無意識が存在していたのかを探ることで、この言葉の持つ意味が理解できるようになる。
言語規範はあくまで後付けである、という点が肝要かと。
>言語規範を無意識で運用できるようにするのが、言語の習得です。
:
『無意識で運用できるようにする』ためには、言語規範を習わなくとも、会話を多く聞いたり、多くの書物を読んだりすることで、自然と身につくように思いますけどね。
習わなくてはならないのは、ネイティブ以外、あるいはそれに気づけない場合です。
まあ、厳密に突き詰めたければ専門的な学習も必要でしょうが。
補足欄へ続く。
No.22
- 回答日時:
>>『「北海道に住む」という対象の事態・事実の表現』を『「北海道に住む」という対象の状態の表現』と言うと、別の意味になるのですか?
じょうたい【状態・情態】
変化する物事の、その時その時の様子。 「静止した-で測る」 「生活-」 「健康-」【大辞林】
なので、「その時その時の様子」ではなく、ある時点の対象の認識である事のありさま、なりゆきである事態・事実が適切ではないでしょうか。
>>大爆発したという『経験を持っている』、または、大爆発したという事象が『(過去に)完了している』という意味です。
「(過去に)完了している」ことを「て」で確認し、その結果が継続していると表現しているので、経験と解釈するということではないでしょうか。
>>窓ガラスが割れている。
のような場合を指します。現在も「割れて」いますよね。
いいえ、割れた結果を「て」で確認した場合は結果の存続で現在は「割れていません」、正に割れが進行している場面を「て」で確認んした場合は現在も割れています。
このように、単に形式ではなく、話者の認識を問題にしないと正し理解ができません。
「窓が開(あ)いている」の場合も同じで、結果の存続と動作の進行の両者があり、それを区分するのは、話者が「て」で確認した対象の在り方です。
>>わからないお方ですね。
すいません。動詞自体の意義でなければ、文の意味の問題だと思うのですが。
>>なぜ、そんなもの(ループ)を想定する必要があるのですか?
カント主義の立場は不可知論で、概念と客観的な素材との間の過程を認めず外界との繋がりが存在しないため、閉ループになるしかありません。
>>(企業のコマーシャル)で聞いた場合も、(恋人)から聞いた場合も、『個別の対象を話者が認識し表現するという事実が反映されず』、つまり、同じ意味だと受け止めるということでしょうか。
そんな人がいますかね?
そんな人はいませんが、その事実を現在の言語論、文法論は論理的に説明できない段階にあるということです。
>>言葉は表現における無意識的な心理を具現化したものであり、先に言葉があったわけじゃないでしょう。
ここが大事な所ですが、言語は「無意識的な心理を具現化したもの」ではなく、言語規範を媒介とした話者の認識の表現です。言語規範なしに言語表現はできません。
たとえば、hakobuluサンはエチオピア語で表現できますか。
言語規範を無意識で運用できるようにするのが、言語の習得です。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>なので、「その時その時の様子」ではなく、ある時点の対象の認識である事のありさま、なりゆきである事態・事実が適切ではないでしょうか。
:
【・北極に住むエスキモーは寒さに強い。】
について、
>当然、『継続・進行の表現』ではなく、
:
とおっしゃいました。
この点が肝要なのではありませんか?
であるのに、それをさておき、
>「北極に住む」という対象の事態・事実の表現
:
と言うべきであり、
・北極に住むという状態を表わす表現。
と言うべきではない。
とおっしゃる意図がほとんど理解できません。
さらに申し上げるなら、この2文にどれほど重大な差異があるのかも理解できないですね。
この違いを強調される意図が理解できない、ということでもあります。
>これを、動詞自体の状態や継続になぜ結び付けようとするのか、(そこが理解できません。)
:
という点については、誤解であることがそろそろお分かりいただけたはず。
2.
【・現在の富士山は比較的安定状態と言えるが、約300年前に大爆発している。】
>「(過去に)完了している」ことを「て」で確認し、その結果が継続していると表現しているので、経験と解釈するということではないでしょうか。
:
「完了した結果の継続=経験」なのですか?
「経験=過去に完了した出来事」と捉えるのが妥当ではないですかね。
この点を明確にするために窓ガラスの例も挙げたのですが、どうも逆効果だったようで。
以下で述べます。
3.
【・窓ガラスが割れている。】
現在も「割れて」いますよね。
>いいえ、割れた結果を「て」で確認した場合は結果の存続で現在は「割れていません」、正に割れが進行している場面を「て」で確認した場合は現在も割れています。
:
現在、富士山は「大爆発して」いませんが、ガラスは現在も「割れて」いますよね。
という意味。
『「て」で確認した内容が「約300年前に大爆発し」という結果の確認で、その結果の継続を表わしています。』
という認識が誤りであることを、わかりやすく解説しようとした箇所です。
素直に受け止めてください。
同じ「ている」でも、
「割れた結果が【現在も存続している】ガラス」について言っている場面ですから、『現在は「割れていません」』は矛盾しますよね?
#23お礼欄へ続く
No.21
- 回答日時:
>>あまり用語に拘泥なさらず、むしろ論理構成を重視なさっていただくほうが、双方の益に資するかと。
用語に拘るというより、道具という用語で機能的な発想と言う意味が分かり易いかと思ったのですが。
図を見ていただければ判るように、このラングのやり取りは閉回路のループになっています。つまり、個別の対象認識がこのループの中に入る回路がありません。
この言語観に依拠して文を理解するため、個別の対象を話者が認識し表現するという事実が反映されず、意味を語と語の関係で解釈するしかなく、「~ている」の「て」で確認する内容ということがイメージできないのではと感じます。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>図を見ていただければ判るように、このラングのやり取りは閉回路のループになっています。つまり、個別の対象認識がこのループの中に入る回路がありません。
:
『個別の対象認識がこのループの中に入る回路』が無い状態で、どんな『やりとり』ができるのか、極めて不思議ですね。
なぜ、そんなもの(ループ)を想定する必要があるのですか?
2.
>この言語観に依拠して文を理解するため、個別の対象を話者が認識し表現するという事実が反映されず、意味を語と語の関係で解釈するしかなく、
:
たとえばですが、
・私たちはあなたを心より愛しています。
という表現。
これを、
(企業のコマーシャル)で聞いた場合も、(恋人)から聞いた場合も、『個別の対象を話者が認識し表現するという事実が反映されず』、つまり、同じ意味だと受け止めるということでしょうか。
そんな人がいますかね?
3.
>「~ている」の「て」で確認する内容ということがイメージできないのではと感じます。
:
それは無意識的な用法ですから、たしかに気づきにくいでしょうね。
しかし、言われればわかることであり、また、重要なのは、わからなくても、無意識的に、そのような意図で使用している、という事実があるということじゃないでしょうか。
言葉は表現における無意識的な心理を具現化したものであり、先に言葉があったわけじゃないでしょう。
No.20
- 回答日時:
>>~という例文のように、あくまで瞬間的動作(を持つ動詞)に対して使われます。
という意味であることぐらいお分かりになりませんか?
実に、ここが判りません。動詞は時間的な変化の属性を表わし、単に変化を表わすのであり、瞬間的か否かは動作の持つ抽象的なアスペクトです。動詞自体には瞬間的も継続もなく単に変化を表わしているだけです。実際の運動から、時間的な変化という普遍的側面を抽象し概念化したものです。
したがって、瞬間的であることを立体化しようとすれば、「一瞬にして爆発」した、継続の側面を立体化するのであれば、「爆発し続けている」のように表現を付加します。
つまり、具体的な動作を表わす動詞自体は、瞬間的や継続的という意義は持っていません。それに、瞬間的や継続的という意義を見出そうとするため還元しているということになります。
最初の質問に戻って考えると、
この文は、
・(以前は東京に住んでいたが、)私は現在、北海道に住んでいる。
と言い換えることができると思いますが、これは「状態」を表わしているので [ 状態動詞 ] と個人的には考えます。
>>継続という語義に拘るので、こうした近視眼的な解釈の決めつけになるのでしょう。
語義に拘るのではなく、「いる」という動詞が進行・継続という意義を表わしているということです。「いる」をどのように考えられているのでしょうか。
>>(以前は東京に住んでいたが、)私は現在、北海道に住む。
継続と捉えることもできるでしょうが、状態と捉えるほうが自然な文として、このようなシチュエーションにしている、ということ。
上にも記した通り、「北海道に住む。」は継続ではなく、現在の事態・事実の表現で、ここに状態という明確でない語を使用するため混乱すると考えます。
>>・北極に住むエスキモーは寒さに強い。
北極に住み続けているエスキモーは寒さに強い。
という意味の『継続・進行の表現』ではなく、
・北極に住む(という)状態でいるエスキモーは寒さに強い。
という意味で『状態を表わす表現』だとは思われませんか?
当然、『継続・進行の表現』ではなく、「北海道に住む」という対象の事態・事実の表現です。
これを、動詞自体の状態や継続になぜ結び付けようとするのか、そこが理解できません。
>>・現在の富士山は比較的安定状態と言えるが、約300年前に大爆発している。
これも『継続・進行の表現そのもの』なのですか?
この場合は、「て」で確認した内容が「約300年前に大爆発し」という結果の確認で、その結果の継続を表わしています。格助詞「に」が時間的な位置付けを表わしています。
これを「から」にし、「約300年前から大爆発している。」にすると、爆発という動作の継続になります。
文は、個別の対象を話者が認識し表現するもので。「~ている」という表現は、対象の「~」を話者が確認し、その継続・進行を表わすもので、この対象のありかた、シチュエーションと切り離し、動詞自体が状態だ継続だというため議論が混乱してしまいます。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>実に、ここが判りません。
:
このようにはっきりおっしゃっていただけると、非常に助かります。
以下、極力要点を絞ります。
2.
>【・北極に住むエスキモーは寒さに強い。】
当然、『継続・進行の表現』ではなく、「北海道に住む」という対象の事態・事実の表現です。
これを、動詞自体の状態や継続になぜ結び付けようとするのか、そこが理解できません。
:
『「北海道に住む」という対象の事態・事実の表現』を『「北海道に住む」という対象の状態の表現』と言うと、別の意味になるのですか?
3.
>【・現在の富士山は比較的安定状態と言えるが、約300年前に大爆発している。】
この場合は、「て」で確認した内容が「約300年前に大爆発し」という結果の確認で、その結果の継続を表わしています。格助詞「に」が時間的な位置付けを表わしています。
:
それは違いますね。
大爆発したという『結果の継続』ではありません。
大爆発したという『経験を持っている』、または、大爆発したという事象が『(過去に)完了している』という意味です。
【・現在の富士山は比較的安定状態と言えるが、約300年前に(一度、)大爆発している。】
という意図の文ですので。
『結果の継続』とは、たとえば、
・窓ガラスが割れている。
のような場合を指します。
現在も「割れて」いますよね。
4.
>「~ている」という表現は、対象の「~」を話者が確認し、その継続・進行を表わすもので、この対象のありかた、シチュエーションと切り離し、動詞自体が状態だ継続だというため議論が混乱してしまいます。
:
わからないお方ですね。
『動詞自体の意義』を言っているのではない、と何度言えばわかるのですか?
『シチュエーションと切り離し、動詞自体が状態だ継続だと』言っているわけでも、当然ないに決まっているでしょう。
アスナロウさんが混乱しているとすれば、わたしの日本語を素直に受け止め解釈しようとしないからですよ、おそらく。
読解力が無いわけじゃないでしょう。
No.19
- 回答日時:
補足させていただくと、言語の表現、理解の過程は、対象→認識→表現により表現された文、文章を受け手は、表現→認識→対象の逆の過程を追体験し話者の認識、対象を想像します。
言語道具観の場合、下記のソシュールの図にあるようにラング自体が道具として直接循環し、閉じた回路になっており、外部の対象が切り離されています。事実は、表現された物理的(感性的)な音声列やインクの描線である文字列を媒介とし受け手に理解されます。しかし、この図は伝達結果の機能を直接線で結んだもので、一種の言語言霊感になっています。
こういう理解では、感性的、物理的な音声列や文字列によりどのように意味が伝わるかは解明できません。結局、語であるラングが移動し全てを担うという発想しかあり得なくなってしまいます。■
ご回答ありがとうございます。
>言語道具観の場合、下記のソシュールの図にあるようにラング自体が道具として直接循環し、閉じた回路になっており、外部の対象が切り離されています。
:
言語道具観と言語言霊観がどういったものかはわかりませんが、(特に日本語の)言語は道具でもあり言霊でもあるのではないですかね。
それらを対比させることの意味も意義も、当該質問に限っては無いように感じてしまう、ということ。
なので、『こういう理解では、』という結論部も唐突ですし、極めて粗雑な解説という印象を受けますね。
あまり用語に拘泥なさらず、むしろ論理構成を重視なさっていただくほうが、双方の益に資するかと。
No.18
- 回答日時:
>>「(て)いる」という補助動詞には多様な用法があります
動詞に補助などと言う意義はなく、補助とは意味としての結果を言い直しているだけです。
形式(抽象)動詞「いる」は進行・継続の意義を表わします。これを何故、具体的な動作を表わす「住む」「ひらく」などの「動詞」の意義としようとするのか、その点が理解できません。
>>「近所に住んでいる子供」は、「継続・進行形」あるいは「結果の存続」という用法ではありません。
これらの用法は、
「空を飛んでいる鳥」 「今、手紙を書いている」⇒【継続・進行形。】
「入り口のドアがあいている」 「時計が止まっている」⇒結果の【存続。】
という例文のように、あくまで瞬間的動作に対して使われます。
【継続・進行形。】「結果の【存続。】」がなぜ瞬間的動作なのでしょうか、矛盾しているのでは。
そうではなく、「住む」「飛ぶ」「あく」「止まる」が瞬間的動作といわれているのでしょうか。
動作が瞬間であるか否かは個別の対象の動作のアスペクトでしかなく、動詞自体の意義ではありません。
爆発や宇宙開闢のビッグバンもスローで見れば継続動作で、「爆発している」「膨張している」と表現されます。
「住んでいる」は「住む」という動作を話者が「て」で確認し、「いる」と継続・進行を表現しています。
この動作「住む」を何故、継続や状態と結びつけるのかそこが理解できません。
>>「住んでいる」に「継続・進行形」の用法しか見い出せない方が多い
「いる」が「継続・進行」を表わしているのであり、《「継続・進行形」の用法しか》ではなく、継続・進行の表現そのものだということです。そうではなくて、この文では動詞「住む」がこの場合は状態動詞になると解釈されるのでしょうか。動詞とは時間的に変化する属性の表現です。
その状態とはどのように定義されるのでしょうか。
先に述べたように、話者は「住ん・で・いる」という句を各語の意義と語順の規範に基づき追体験することにより、意味を理解します。その理解の結果を元に、語に機能を還元しようという発想にしか見えません。■
ご回答ありがとうございます。
1.
>形式(抽象)動詞「いる」は進行・継続の意義を表わします。これを何故、具体的な動作を表わす「住む」「ひらく」などの「動詞」の意義としようとするのか、
:
わたしの見解に賛同する必要はありませんが、せめて言っていることぐらいは正しく理解してください。
『「動詞」の意義としようと』しているわけではない、と何回も申し上げていますよね?
2.
>【継続・進行形。】「結果の【存続。】」がなぜ瞬間的動作なのでしょうか、矛盾しているのでは。
:
~という例文のように、あくまで瞬間的動作(を持つ動詞)に対して使われます。
という意味であることぐらいお分かりになりませんか?
3.
>「いる」が「継続・進行」を表わしているのであり、《「継続・進行形」の用法しか》ではなく、継続・進行の表現そのものだということです。
:
継続という語義に拘るので、こうした近視眼的な解釈の決めつけになるのでしょう。
・現在の富士山は比較的安定状態と言えるが、約300年前に大爆発している。
これも『継続・進行の表現そのもの』なのですか?
4.
>この文では動詞「住む」がこの場合は状態動詞になると解釈されるのでしょうか。動詞とは時間的に変化する属性の表現です。
その状態とはどのように定義されるのでしょうか。
:
こうした疑問を想定しているからこそ、(十分とは言いませんが)丁寧にシチュエーションを示しているわけです。
(以前は東京に住んでいたが、)私は現在、北海道に住む。
継続と捉えることもできるでしょうが、状態と捉えるほうが自然な文として、このようなシチュエーションにしている、ということ。
「北海道に住み続けていること」ではなく「北海道に住む、という状態にある」という意図を表わしているでしょう。
もう少しわかりやすい例を挙げましょう。
・北極に住むエスキモーは寒さに強い。
これは、
・北極に住み続けているエスキモーは寒さに強い。
という意味の『継続・進行の表現』ではなく、
・北極に住む(という)状態でいるエスキモーは寒さに強い。
という意味で『状態を表わす表現』だとは思われませんか?
以下補足欄へ。
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#11お礼欄からの続き。
>「住む(住んでいる)」という動詞は [ 状態 ] を表わす場合もあり得る。
「住む」は動詞で、「住んでいる」は動詞「住む」+助動詞「て」+動詞「いる」で、<「住む(住んでいる)」という動詞>という理解自体が混乱しています。
:
「住む(住んでいる)」という表現は、「状態」以外のアスペクトを表わすこともある。
ということを簡潔に言っている。
ひょっとしてですが、
<「住む」という動詞>または<「住んでいる」というアスペクト表現>は [ 状態 ] を表わす場合もあり得る。
というように記すべきだと?
>例に挙げられた文は個別の対象の「シチュエーション」である事態を表わしています。
:
ですから、それらは
『動的な状態』を表わしていますか?
とお尋ねしています。
そもそも『規範としての語の意義』などに意味は無いと思っているので、最初から求めていません。
#17お礼欄からの続き。
>機能主義的な解釈に踏み外し、言語を活動自体とし、鑑賞者の活動すなわち「理解過程」をも言語に含めてしまっています。
:
『言語を活動自体とし』という点は、あるひとつの言語は複数の活動を意味するものとして誕生したわけですから、そのとおりではないでしょうか。
ただ、それがどんな活動であるかは文脈によって判断するしかないわけで、その判断こそが『鑑賞者の活動すなわち「理解過程」』でしょう。
それを(文を抜きにした)言語自体に含めているとすれば、極めて奇異な認識と言わざるを得ませんね。
『国語学原論』を読んだことがないですし、また二番煎じを基に、あまり確信的なことは申し上げられませんが。
いずれにせよ、用語ではなく、実際に我々が発している言葉というものの、その無意識の仕組みを解明することが重要ではないでしょうか。
下段へ続く
上段からの続き。
〇〇論にせよ、〇〇学にせよ、所詮、そのためのツールではないですかね。
用語に拘泥するのは構いませんが、本質から逸れない範囲でお願いできると、わたしのような浅学の途には有難いです。
#18お礼欄からの続き
5.
>話者は「住ん・で・いる」という句を各語の意義と語順の規範に基づき追体験することにより、意味を理解します。
:
(ネイティブの)話者は『「住ん・で・いる」という句を各語の意義と語順の規範』を無意識的に(しかし明示的にではなく)理解する、という点が肝要かと。
>その理解の結果を元に、語に機能を還元しようという発想にしか見えません。
:
『語に機能を還元』するのではなく、「語の機能を解明する」です。
#23お礼欄からの続き
6.
>「あるひとつの言語は複数の活動を意味するものとして誕生した」のではありません。この辺の雑な言語本質理解に基づき発想されるところに混乱が生まれているのではないかと危惧されます。
:
「活動」ではないのですが、たとえば「女」という言語。
「男」と分別するために誕生したはずですが、しかし【単独の意味】というものは存在しないはず。
シチュエーションなり切り口になりによって多様な意味を持つでしょう、ということです。
カントに倣えば、女という「物自体」は表現不可能なわけですから、女という言葉が多様な意味を持たざるを得ないのは、むしろ当然のことかもしれません。