ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

こんにちは。
今、歴史を勉強しているのです疑問点があるので質問させてください。
教皇と皇帝の違いがわかりません。できるだけ簡単に教えてください。お願いします。

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A 回答 (7件)

教皇は宗教的なリーダーで、皇帝は軍事的なリーダーです。


非常に大まかに例えてしまうと、日本における天皇(宗教的)と将軍(軍事的)のようなものです。(もちろんこの例えには反論がある方もいるでしょうが)
ですから、この教皇と皇帝のどちらが大きな権力を持っているかは、時代によって異なります。
十字軍の派遣が失敗する以前は教皇のほうが権力を持っていました。ですがその後没落し、皇帝のほうが権力を持つようになりました。

なお、皇帝が教皇の権力の前に屈してしまった事件を「カノッサの屈辱事件」、そしてそれからだいぶ後のことですが、教皇が皇帝の前に屈してしまった事件を「アナーニ事件」といいます。
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大変失礼なのですが、No.3さんの書き込みについてです。



>欧州ではシーザーの皇帝就任以降のローマ帝国最高位が皇帝で

カエサル(シーザー)は終身ディクタトル(独裁官)が最高位です。形骸化してはいましたが、まだ共和政期の政治家です。

教皇と皇帝の関係について、次のように考えると良いです。イメージとしてですが、西ヨーロッパ世界全体を楕円に例えると、その2つの焦点が教皇と皇帝です。そして教皇は聖界、皇帝は俗界を支配しました。

その2つの権力はお互いに補完しあいながら、普遍的権威(権力)として、各国(各地域)の支配者(王、諸侯など)のさらに上位にたって、影響力を及ぼしました。その時代が中世です。

しかし、14世紀以降教皇の権威が徐々に低下し、16世紀にはいって、宗教改革が始まりローマ教会は分裂します。一方皇帝(=神聖ローマ皇帝、実質的にはドイツ王)は、もはやドイツ一国をも統一する力は無かったので、両者の普遍的権威は有名無実となっていきました。ヨーロッパ各地には、普遍的権威に影響されない主権国家が並立する時代となっていきます。この時代が近代です。

教皇と皇帝について少しイメージが掴めたら良いのですが。
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ヨヘロッパに関してのみという事で回答します。



本来皇帝は、地上を神に代わり統治する最高権威で、教皇は、単にキリスト教の指導者の一人にすぎませんでした。
ローマ帝国末期には、ローマ、コクスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレキサンドリアの5大教会があり、教皇は、その内のローマの最高権威でしかありませんでした。
しかし、西ローマ帝国内には、ローマしか無かった為、ニシローマ帝国のキリスト教の最高権威でもありました。

フン族が、ローマに侵攻した時、当時の西ローマ皇帝が、逃げ出してしまい、教皇レオ1世がこれに対処したため、西ローマ帝国での教皇の権威が皇帝をしのぐようになります。
西ローマ帝国滅亡後、西ローマ帝国皇帝の地位を、東ローマ帝国の皇帝が兼ねますが、離れた領土、東西での教義の違いから、東西教会が分裂します。

軍事的保護者を必要とする教皇は、フランク王国のカールを皇帝に任じ、保護者とします。
ここに、教皇が皇帝を選出するという慣例が出来上がります。
しかし、教皇が皇帝を自由に任命するのではなく、有力者を形式的に任命するため、皇帝と教皇の利害が対立する事が多くなります。
特に聖職者の任命権、教会の所領の所有権などで。

皇帝は、純軍事的、政治的に行動します。
教皇は、宗教的行動と共に、所領を有するため、諸侯としての行動も起こします。
諸侯を統制したい皇帝。
統制を受けたくない諸侯としての教皇の対立も生じます。

こういった事が、皇帝と教皇の関係を難しくしています。
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ローマ・カトリック教会の最高位にいるのがローマ教皇。

ローマ法王とも言いますね。
皇帝は、ここでは西欧世界で最も政治的権力を持っていた人。ただし実質的に皇帝は名ばかりで、ドイツ(神聖ローマ帝国)すら、まとめることが出来ませんでした。まあ本当に皇帝と呼べたのは、カール大帝くらいでしょう。

おそらく中世西欧世界(カノッサ事件)の当たりを勉強していて疑問に思ったのでしょうね。
中世西欧世界は、封建社会です。封建社会だから地方分権が進み、各国ともバラバラの状態で、皇帝権・王権とも脆弱でした。
そのような中で西欧世界は、異民族の侵入に悩まされました。この異民族に対して、西欧世界の人々は結束しなければなりません。結束するための精神的支柱が、実はキリスト教でした。
そんなこともあって中世西欧世界では、宗教界のNo.1であるはずの教皇が、政治的にも皇帝をしのぐことになったのです。
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分かりやすさなら#2さんが言う



>日本における天皇(聖界の頂点)と将軍(世俗の頂点)のようなものです。(もちろんこの例えには反論がある方もいるでしょうが。)

が一番良いのかもしれません。補足すると、将軍が天皇によって任命されたように、皇帝(中世以後、西欧)も教皇によって任命されました。(途中からは形式化していきました。)

そのため、中世末期にはイタリア戦争と呼ばれる神聖ローマ皇帝とフランス王家の争いが頻繁に起こったのです。イタリア(教皇のいる場所)を押えれば、教皇を保護するという大義名分ができますから。

平安末期や江戸末期においてどっちが天皇を保護(支配)かで、官軍と賊軍になったのに似てますね。

また他の方が皇帝は王の中の王と説明されていますが
、日本で言うなら江戸時代の将軍は大名の中の大名といった感じです。

簡単に言うと、ロシアでは皇帝が教皇(ロシア正教会)も兼ねました。ビザンツ帝国も一応ロシアと同じです。と言うことでその地域は皇帝=教皇です。(厳密には色々あるんですけど、高校世界史レベルならこのように覚えてください)

中世から近世前半は少なくともこの考え方で良いでしょう。教科書から「教皇」と言う文字が消える時代になるとまた話は別ですが・・・
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教皇は一般的には宗教での最高位のことを指し、通常キリスト旧教の最高位に対して使われます。


ローマンカトリックの最高位が典型的で、過去には強大な権力を持って皇帝以上の威勢を示した歴史的事実もあります。
ギリシャ正教などの最高位の他、日本の仏派の最高位にも使われる場合があります。

皇帝は王の上の覇者の位として中国でよく使われた言葉で、秦帝国以降の中国の統一政権の主は皇帝と称しています。
欧州ではシーザーの皇帝就任以降のローマ帝国最高位が皇帝で、その後神聖ローマ帝国やナポレオンなど欧州で数カ国を統合した覇者に対して使用されています。
その他インカ帝国など、本来その地区でどの様に呼ばれていたかはともかく、広い範囲を支配していたと欧米歴史家が判断した場合、王でなく皇帝が使われる様です。
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教皇とはローマ・カトリックの長で法王とも言います。



皇帝は地域によって様々な位置づけになりますが、西欧で皇帝といえば、
神聖ローマ帝国の皇帝と言うことになると思います。
諸国の国王より格上の称号であり、理念的には”王の王”といった存在です。
(実際にはほとんど実権のない名目的地位になってしまいましたが)

教皇は宗教界(聖界)の頂点で、皇帝は世俗の世界の頂点と言うことになると思います。
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Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q天皇と皇帝と王の違いって??

タイトルのとおりなのですがこれらは何が違うのでしょう?
英語においても
EmperorとKingと分けているようですが
立場上の違いがあるのでしょうか?

Aベストアンサー

天皇は「天の子」です。
「天」は「神」と同義だと考えて(日本では)間違いないでしょう(実際、この辺はかなり乱暴な解釈ですが)。
「子」ですから、血筋がつながっていることを意味します。ですから天皇は代々血統でつながるわけです。

皇帝は「帝国empireを治める男」を意味します。
empireとは「ただ一人の権力者によって統治される領土」と定義されますが、これは、ヨーロッパが小さな国に一人ずつ王がいて、争っていた中で、強い権力者が小さな国の王をまとめて、一番トップにたった、というところから、理解できる定義でしょうね。

たとえていいかどうか分かりませんが、戦国時代に次々と武将を倒して将軍になったのと同じかもしれませんね。もし日本にもともと天皇がいなければ、皇帝と名乗った可能性もあります(あるか?)。

また、皇帝は、中国にもいます(こっちが元祖?)が、中国の場合も「天の子」であることは同様ですが、「天」の概念が日本に入った時点で変質していることからいっても、日本の天皇と中国の皇帝は別のものです。中国の皇帝は血統でつながりません。

さて、そうすると中国の皇帝とヨーロッパの皇帝の違いは、ということになります(ここからは推測になりますが)。

中国の皇帝も、ヨーロッパの皇帝同様、次々と倒してトップに上るつめた人、ですが、「天の子だから、この地位に就いた」とするのが、中国の皇帝概念だといいます。
一方ヨーロッパの皇帝は、「自分は神の子である」とは名乗らない(ですよね?)ので、ここが中国の皇帝との違いでしょう。他にもっと違うところはあるでしょうが、質問から離れてしまいますね。

なお、王はひとつの国のトップ、皇帝はその小さな属国をまとめたときのトップ、ということになります。これは、中国でもヨーロッパでも同じですね。

天皇は「天の子」です。
「天」は「神」と同義だと考えて(日本では)間違いないでしょう(実際、この辺はかなり乱暴な解釈ですが)。
「子」ですから、血筋がつながっていることを意味します。ですから天皇は代々血統でつながるわけです。

皇帝は「帝国empireを治める男」を意味します。
empireとは「ただ一人の権力者によって統治される領土」と定義されますが、これは、ヨーロッパが小さな国に一人ずつ王がいて、争っていた中で、強い権力者が小さな国の王をまとめて、一番トップにたった、というところ...続きを読む

Q「王」と「皇帝」の違い

 「王」と「皇帝」の違いについて、疑問をもちました。
 取り敢えず、国語辞典で調べてみたのですが、

王 → 国王
国王 → 国の君主
王国 → 王が治める国

皇帝 → 帝国の君主
帝国 → 皇帝が治める国

 というふうに、たらい回しにされてしまいました。
 歴史的に見ると、ヨーロッパにおける封建時代には「王」が多かったと思います。でも、ローマ帝国は「帝国」ですから、代々「皇帝」です。中国では、今までいくつもの国が生まれては消えていきましたが、殆ど「皇帝」だったと思います。
 いったいどうゆう基準で王と皇帝、王国と帝国は分けられるのでしょうか?

Aベストアンサー

参考URLがわかりやすい説明をしていると思います。

参考URL:http://blog.goo.ne.jp/yappi27/e/c56dbc94a16040b9a40093bb96cf099f

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q「世界史A」と「世界史B」の違い

最近ニュースで騒がれていますがこの「世界史A」と「世界史B」
の違いが解りません。何が違うのですか??
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

A・Bの違いで よく言われるのは
Aは 近代が詳しく、Bは 古代から詳しく記載されている
つまり、Bのほうが細やかな歴史までが取り上げられているということです

単に扱っている歴史事項の数が違うだけでなく、教育の目的などにもずれがあります。前近代ではBは各地域のタテの歴史を古代・中世と見ていくのに対して、Aは世界全体として、各地域が他の地域に及ぼした影響、交流の歴史などヨコの歴史に重点が置かれていて、近現代でもBにくらべてAは政治史がやや浅い分、社会・経済や後の時代にどのような影響があったかなどが詳しく書かれています。

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Q元素と原子の違いを教えてください

元素と原子の違いをわかりやすく教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

難しい話は、抜きにして説明します。“原子”とは、構造上の説明に使われ、例えば原子番号、性質、原子質量などを説明する際に使われます。それに対して“元素”というのは、説明した“原子”が単純で明確にどう表記出来るのか??とした時に、考えるのです。ですから、“元素”というのは、単に名前と記号なのです。もう一つ+αで説明すると、“分子”とは、“原子”が結合したもので、これには、化学的な性質を伴います。ですから、分子は、何から出来ている??と問うた時に、“原子”から出来ていると説明出来るのです。長くなりましたが、化学的or物理的な性質が絡むものを“原子”、“分子”とし、“元素”とは、単純に記号や名前で表記する際に使われます。


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