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高浜虚子の
『春風や闘志いだきて丘に立つ』
の鑑賞文がほしいですけどどうすればいいですか?
よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

これもあくまでも私の鑑賞文です。



季語は当然春風で、季節は春。感動の中心は春風。中7は俳句には珍しく、直情的な表現である。それが下5の姿勢を際だたせている。春は新しいことは始まる季節である。それを象徴する春風に向かって立つ青年の気負った姿が、凛々しく描かれている。わたしはいつもでもこの「青年」でありたい。

以上です。お役に立てば、幸いです。
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この回答へのお礼

mitsui1966さんありがとうございました。若々しい感じが伝わってきますね。

お礼日時:2006/03/22 09:39

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Q俳句についておしえてください。

 春風や闘志いだきて丘に立つ   
                     高浜虚子

 滝落ちて群青世界とどろけり   
                     水原秋桜子
 
 をりとりてはらりとおもきすすきかな
                     飯田蛇笏

 いくたびも雪の深さを尋ねけり
                     正岡子規

 分け入っても分け入っても青い山
                     種田山頭火

 以上の句の大意、表現技法、どう言う気持ちで書いたか を教えてください。ひとつでもかまいませんのでよろし くお願いします。

Aベストアンサー

春風や闘志いだきて丘に立つ 

春は木々が芽吹き動物は厳しい冬を乗り切って子育てに専念する季節です。人もまた鬱々とした冬が過ぎ新しい春の風の中に立てば、自然と体内から闘志が湧いてくる。よし、やるぞ!という決意の声が聞こえるようです。決意をしたのは作者自身か、学生か、サラリーマンか・・読む人により解釈はさまざまでしょう。

分け入っても分け入っても青い山

私の好きな句の一つです。山頭火は自由律俳句を代表する人で旅を好んだといわれます。この句はおそらく旅の空で
山道を歩きながら情景を詠んだものでしょうが、彼が悩みを持って旅に出たとすれば、行けども行けども希望の光、或いは悟りに達しない心情を幾重にも重なる青々とした山々に例えたのかもしれません。

  
                

Q俳句について

 春風や闘志いだきて丘に立つ   
                     高浜虚子

 滝落ちて群青世界とどろけり   
                     水原秋桜子
 
 をりとりてはらりとおもきすすきかな
                     飯田蛇笏

 いくたびも雪の深さを尋ねけり
                     正岡子規

 分け入っても分け入っても青い山
                     種田山頭火

 以上の句の大意、表現技法、どう言う気持ちで書いたか を教えてください。ひとつでもかまいませんのでよろし くお願いします。

Aベストアンサー

●春風や闘志いだきて丘に立つ

丘に立ち、春風を体全体で受け止めて、(俳句の世界での碧梧桐との闘いに)闘志をみなぎらせている。

や…切れ字 初句切れ

子規の第一の弟子である虚子の新たな決意

●滝落ちて群青世界とどろけり

大きな滝から落ちる水は青。そんな群青色の世界が私の目の前に轟音とともに広がっている。

けり…切れ字

大自然の雄大さ。

●をりとりてはらりとおもきすすきかな

ふと手折って持ってみると、ススキの穂は見かけよりも案外重い。

かな…切れ字 ひらがな表記によるやわらかさ

見た目にそぐわぬ重量感。

●いくたびも雪の深さを尋ねけり

病のため寝たきりの私は、外の様子が知りたくて、何度も何度も「雪はどのくらい積もったかな?」と人に聞いたことだ。

けり…切れ字

子規が病床で作った一連の作品群。

●分け入っても分け入っても青い山

時は新緑のころ。旅の途中、深い山に入る。山道にしだれかかってくる新しく伸びた枝を払いながら私はどんどん進んでいくが、どこまで行っても、その青い世界が続く。

自由律俳句 反復法 体言止め

朝露をかき分ける。クモの巣を払いながら歩く。泥道ですべる。湧き水でのどを潤す。長期間、山で過ごせば、その境地はすこしだけ垣間見られる。

●春風や闘志いだきて丘に立つ

丘に立ち、春風を体全体で受け止めて、(俳句の世界での碧梧桐との闘いに)闘志をみなぎらせている。

や…切れ字 初句切れ

子規の第一の弟子である虚子の新たな決意

●滝落ちて群青世界とどろけり

大きな滝から落ちる水は青。そんな群青色の世界が私の目の前に轟音とともに広がっている。

けり…切れ字

大自然の雄大さ。

●をりとりてはらりとおもきすすきかな

ふと手折って持ってみると、ススキの穂は見かけよりも案外重い。

かな…切れ字 ひらがな表記...続きを読む

Q種田山頭火

種田山頭火の「うしろすがたの しぐれてゆくか」についての季語・季節、解釈や詳細を教えて下さい。またこのことが詳しく載っているページがあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

山頭火は俳句の形式にとらわれずに自分の気持ちや風景を歌に詠んだ人です。彼の作風は口語体の自由律俳句と呼ばれ、5・7・5の一七字の形式や季語にとらわれないのが特徴です。

>うしろすがたの しぐれてゆくか

この句はいろいろな解釈が出来ると思います。

1.旅の空で自分の前を歩く人が時雨の中を歩いて行く寂しい姿。
2.常に旅にあった山頭火自身が、今日もまた一日が暮れて行くと自分を振り返って見ている姿。
3.人生そのものを旅と捉え、後姿に自分の過去を見ている。いつも雨が降ったりやんだりで快晴の日は少なかったな~。

時雨は晩秋に降る雨で夏の雨のように豪快に降ることはありません。寂しさが感じられます。後ろ姿は前向きや若さの感じられない言葉なので、やはり人生の終わり(旅の終わり)などを感じる寂しい言葉です。
また自分の後姿を見ることは反省の気持ちも感じ取れます。

山頭火に関する本はたくさんありますので本屋か図書館で手にして見るのが良いでしょう。或いは山頭火、自由律俳句などで検索してみてください。

Q高浜虚子の俳句の意味を教えて

高浜虚子の有名な「春風や闘志いだきて丘に立つ」と言う句がありますが、この「春風」とは、春先に吹く春一番のような強い風を頭に描いていたのですが、問題集の答えを見ると、「おだやかな風」となっていました。
句が作られたときの意味をあわせて考えても、強い風のほうがぴったりくるような気がするのですが、本当に穏やかな風が正解なんでしょうか?誰か教えてください。

Aベストアンサー

俳句には「季語」とともに「切れ」というものがあります。
「春風」は季語です。そして「春風や」で切れがあります。
そして、この切れで場面転換します。
「闘志いだきて丘に立つ」これをひとつの固まりとしてとらえます。
こういう組み合わせを「二句一章」といいます。
さて「春風」ですが、これは「暖かく柔らかに吹く風」のことです。
これは季語で決められていることで「季語の本意」といいます。
よって、季語はあなたがいいと思っている風を想像するものではなく
すでに、俳句の世界で決まっているのです。
この季語を集めたものが、季語集 歳時記 季寄せ などという名で
本として販売されています。
俳句は、この世界に入らないと理解できないことがいっぱいあります。

Q春風の読み方

至急お願いします。

高浜虚子の
『春風や 闘志いだきて 丘に立つ』
の“春風”は

(1)はるかぜ
(2)しゅんぷう

のどちらの読みの方が良いのでしょうか??

教えてください!

Aベストアンサー

[参考URL]に示したページの「はるかぜ」の箇処に当該句が引用されています。

参考URL:http://www.weblio.jp/content/%E6%98%A5%E9%A2%A8

Q俳句とその俳句の鑑賞文教えてください

宿題なのですが勉強が苦手でまったくやる気が起きません(T_T)
簡説でいいので俳句の題名とその俳句の鑑賞文教えてください(T_T)お願いします(T_T)

Aベストアンサー

鑑賞文でよく見られる構成は下記のとおりです。
(1)作品の情景を説明する。
(2)作品の良い点を挙げる。
(3)鑑賞者の感想を述べる。

これを使ってしまえば鑑賞文なんてものは簡単ですよ♪


例えば、この俳句ですと

☆咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 


鑑賞文は
   「子供がかぜをひいてしまいました。寝こむほどではありませんが、咳だけはまだ残って います。外にも出してもらえない子供は、時間をもてあましています。その子供の気持ち を紛らわそうと、母親はなぞなぞ遊びの相手をします。しかし子供はいつまでも母を放し ません。母は少し困っています。 子供が放してくれず、少し困りながらも、子供をかわ いく思い、相手を続ける母親の愛情が、この句にはあふれていると思います。」        とか。

いろいろ載せておくので参考にしてくださいね(^-^)

俳句:外にも出よ 触るるばかりに 春の月 
鑑賞文:あたたかな春の夜中に、作者は外に出ていました。そしていつもよりあたりが明るいので、 ふと夜空を仰ぎ見ると、そこにはまん丸お月さまが浮ました。その月は、あまりに明 るく、よく見え、手を伸ばすと触れることができそうに近く見えます。この春の月を、家の中 にいるみんなにも見せたい気がしました。 最初の呼びかけの形に、作者のうきうきした気 持ちが表れています。手が届くほどというのは大げさだが、月の明るさがよく分かります。

俳句:金亀虫 擲つ闇の 深さかな
鑑賞文:夏の夜、部屋に飛びこんできたこがね虫をとらえ、外へ放り投げました。その時見た外の 闇の深さが強く印象に残ったというようなことが書かれていると思います。 「深さかな」と、切 れ字を用いた部分に、作者の感動が素直に、かつ上手に表現されているように感じます。 投げたこがね虫が、すうっと夜の闇の中に吸い込まれて、意外なほど闇が深いのだなあという驚きがこの句には感じられます。



どうですか?お役に立てたでしょうか??

ポイントは→  情景の説明・良い点・感想


です!!!
頑張ってくださいね(((o(*゜▽゜*)o)))

鑑賞文でよく見られる構成は下記のとおりです。
(1)作品の情景を説明する。
(2)作品の良い点を挙げる。
(3)鑑賞者の感想を述べる。

これを使ってしまえば鑑賞文なんてものは簡単ですよ♪


例えば、この俳句ですと

☆咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 


鑑賞文は
   「子供がかぜをひいてしまいました。寝こむほどではありませんが、咳だけはまだ残って います。外にも出してもらえない子供は、時間をもてあましています。その子供の気持ち を紛らわそうと、母親はなぞなぞ遊びの相手をします。しかし子...続きを読む

Q寺山修司さんの

みなさんこんにちは。
寺山修司さんの詞なんですが、原文を避けますけれども、

「マッチをする、海には霧が深く立ちこめている、身を捨てるほどのふるさとというのはあるのだろうか」

という内容の詞があると思いますが、これの解釈がいまひとつしっくりこなくて気になっています。どういうことを言おうとしているのでしょうか?皆さんの解釈をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

寺山修司の短歌に昔、はまっていた頃がありました。
思春期から青年期に移行する頃だったと思います。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 
身捨つるほどの 祖国はありや」

これは寺山作品の中でも大好きな短歌でした。
現代語での解釈はNo.1さんのおっしゃっている通りだと思います。
ただ、言葉どおりの意味でとろうとすれば、
解釈は確かに難しいものなのかもしれません。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし」
作者の寺山修司には、
くわえ煙草で少しはにかんだような写真がよくあります。
きっと霧のかかる海を眺めながら、一服をしようとしたのでしょう。

孤独と不安を感じ、自分が何者かを確かめたい欲求は、
青年期には誰もが、ふとどこかで立ち止まった時、
少なからず体験しているのではないでしょうか。
そこで突然湧き上がった思いが

「身捨つるほどの 祖国はありや」
という表現になったのだと思います。
身を捨てるほどの情熱を傾けるものよ、現れてくれ・・!
という彼の心の叫びだと、若い私は思っていました。
今でも、ボランティアを志願する多くの若者の尊い気持ちは、
これに近いのかもしれません。

ずっと私は、この時寺山は煙草を吸いながら涙を流していたのだ、
という情景を思い浮かべていましたが、10年ほど経った今は、
彼は静かに、ただ海を見つめていたのかもしれない、と思います。
寺山がどう思って作ったのかということより、
この珠玉の言葉が私の中で、私と共に変わっていくことを感じます。
彼の言葉がオーケストラとすれば、私はただの客ですから、
これでいいと思っています・・答えにならないですね(笑)

仕事に忙殺され、豊かな心をきっとすり減らしている今の私は、
思いがけずこの歌に出会えたことが何よりうれしく、
もうすぐ今夜も徹夜になりそうな、嫌な気分が晴れてきました。
ヘンかもしれませんが、お礼を言いたい気持ちです。
ありがとうございました。

寺山修司の短歌に昔、はまっていた頃がありました。
思春期から青年期に移行する頃だったと思います。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 
身捨つるほどの 祖国はありや」

これは寺山作品の中でも大好きな短歌でした。
現代語での解釈はNo.1さんのおっしゃっている通りだと思います。
ただ、言葉どおりの意味でとろうとすれば、
解釈は確かに難しいものなのかもしれません。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし」
作者の寺山修司には、
くわえ煙草で少しはにかんだような写真がよくあり...続きを読む

Q俳句について~種田山頭火~

分け入っても 分け入っても 青い山
 
という俳句の表現技法や特徴、大意、鑑賞文を知りたいです。
今分かっているのは「句切れなし」です。
明日の朝に締め切ります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

種田山頭火は人生の生きる意味を見出すべく乞食のように各地を放浪しています。この歌は熊本から日向路へ抜ける途中で詠まれたといわれます。九州山脈の奥深い里を歩きながら、単に風景を詠んだ(山の中へ歩いても歩いても周りは青々とした山々だけだ)とも取れるし、彼が旅へ出た目的である人生の悟りになかなか達しない状況(歩いても歩いても周りの風景は変わらず、悟りの心境に達しない)を、このように詠ったとも取れます。焦りか余裕か、読む人によって受け止め方が変わる歌ですね。

山頭火の歌は自由律と言われ俳句(5・7・5)短歌
(5・7・5・7・7)の約束にこだわらず自由に
表現したものです。実際に田舎の道や山道を歩いて、折々の気持ちを口語で歌っているので、花鳥を眺めて想像力で作ったような俳句や短歌とは異なります。

Q「うしろすがたのしぐれてゆくか」という俳句の情景を簡単に説明して欲しいです。その作者の心情も知りたい

「うしろすがたのしぐれてゆくか」という俳句の情景を簡単に説明して欲しいです。その作者の心情も知りたいです。

Aベストアンサー

季語の「しぐれ」は初冬の冷たい雨を表しています
その雨に濡れながら、トボトボ歩いていく旅人の
さびしい後ろ姿は作者の山頭火が自身を唄ったものです。
孤独の中をあてのない放浪を続けるわびしい心情を描いています
https://www.nhk.or.jp/yamaguchi/club/0810.html

Q若山牧水 白鳥は・・の訳について

白鳥は「哀しからずや」の「哀しからずや」はどう訳せば良いのでしょうか。
できれば、入試問題的な解答をいただきたいのですが。

Aベストアンサー

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで、決して、「かなしい+かなしい」の二重重ねではないはずです。(悲哀、悲痛、哀切で、人によって把握が違うかも知れませんが、明らかにニュアンスが違っています。みな、同じ「かなしい」ことだと言えば、乱暴でしょう)。
 
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、悲痛ではないのだろうか
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、哀切ではないのだろうか
 
  これは、意味やニュアンスが違っています。「悲痛」というと、しらとりを見て、心が、どういう理由か「痛む」という感じで、かなり感情で辛いものがあります。「哀切」というと、心に痛みがあるかも知れませんが、それを詩的に受け止めるというか、ある程度客観化し、距離を置いた感じがわたしにはします。(悲痛は、「私が悲痛」で、哀切は、「何かが哀切」です。大ざっぱですが)。
 
  白き鳥よ、あなたは何と哀切なことか、空はこんなに青く、海はあんなに青いのに、空からも海からも離れ、ひとり孤独に漂っていることか。

  (そのように、わたしの心も、哀切のなか、漂泊の思いに満たされる……)。
 
  これは、わたしの解釈ですが。
 

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで...続きを読む


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