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細木和子が人間は死に向かって生かされてるって以前言ってました。
よく考えると、まあ理に叶ってるんですが(人間の最終結果は万人、「死」なので・・)、私はなんか納得できないんです。皆、意味があって生まれてきてる訳であって、死ぬために生まれてきた訳じゃないじゃないですか?
その時、一般者の方は細木和子に尋ねられて、「幸せになるために生きてる」って言ったら馬頭されたんです。私はこっちの方がいいと思うんですが、みなさんはどちらですか?
教えて下さい。

A 回答 (20件中1~10件)

こんにちは、risasnuckさん。



>死ぬために生きるって言葉正しいんですかね??
他人を勝手に地獄行き@@なんて言い放つ方のお言葉だという事は考慮しないとして、
正しいかどうかと問われれば「人間は死に向かって生かされてる」なら正しいのだと思います。
でも・・・

>「幸せになるために生きてる」
これももちろん正しいのでは?

個人的な意見なので、他の回答者様に反論するつもりはありませんが、
<死>は確実だが<幸せ>は不確実だから正しくない、のではなく、
その目標に向かって人生を歩むのであれば、到達出来なかった事は問題にならないはずです。
そうでなければ、過程は問題ではなく結果が全て、ひいては目的達成には手段は問わない、という理論と何ら変わりばえしない、味気無い人生論になりかねません。

数学や科学の実験のように不変の答えが有るものとは違い、<言葉>は、それを口にした状況・口調・前後の会話内容で、また聞いた方の年齢・性別・経験等の差異で大きく意味を変えるものです(稀ではありますが、主人と話をしている時、同じ言語で話をしているはずなのにどうしてこんなに意図が通じないのだろう、と真剣に悩む事があります^^;)

ですから、この二つの言葉に何を感じ・何を見るか、それは御本人のみが知るもので、その方にとっての真理です。
つまり、「幸せ・・・」が正しいと感じるrisasnuckさんも、歳月を経れば「死に・・・・」を真理と感じるように変化するなんて事も十分有り得ると思うのです。(同じ本を読んでも、人生経験を積んだ後では解釈が変わる事って有りますよね^^)

理由を長々と書いてしまいましたが、結論として、
どちらも正しいに1票!

ちなみに私のモットーは「笑って死ねる人生」なので、そのゴールに向かって生きていますw
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まず最初に断言しますが、私は細木和子の信者ではありません。


そのうえで、上記の二つの発言をよく吟味すると、残念ながら細木和子の発言
の方が正しいです。

「幸せになるために生きてる」というのは、ただの願望であり、残念ながら
その願望が確実にかなう保証はありません。
しかし、「死ぬために生きる」という言葉は、ある意味正しいです。

もちろん、しっかり死ぬために、それまで幸せに生きようと努力するのは、
それはそれでいいと思います。
しかし、多くの人間はいつか自分が死ぬということをそれ程意識せず(ある
意味、私もそうなんですが)、流されるがままに生きているのが実情です。

いつか自分が死ぬことをきちんと理解していれば、限られた人生の中で自分は
いかに生きるべきか、また社会や子孫に何を残すべきか、いくらかは見えて
くるのではないかと思います。

そういう深い覚悟もなしに、ただ漠然と「幸せになるために生きてる」なんて
甘い言葉を言うのであれば、これは罵倒されても仕方ないですね。
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こんにちは



「武士道とは死ぬ事と見つけたり」
「葉隠れ」にある言葉です。

如何に死ぬか。
己が生を如何に燃やし尽くすか。
如何に人生を全うするか。
如何に生きるか。
突き詰めていくと、このような命題になります。

まあ、そこまで突き詰めなくても、
命がけで何かに取り組む生き方
悔いのない人生を過ごして穏やかな晩年を迎えられる方
亡くなってからも人の記憶に残る何かを成し遂げた生き方
そういう事です。

それは細木某のいう「死に向かって生かされる」などという
受身の姿勢では断じてありません。
自らが自らの意思で生きてゆくのです。
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僕は、「幸せになるために生きてる」の方が良いですね。



まあ、下は、僕のざれごとなんで聞き流してください。
仏教のとある宗派は、生死の繰り返しを説き、死ぬ直前の状態を未来の生まれ変わりへ持ち越すと言われています。つまり、いかに良い状態で死ぬことができるかが、未来への自分を決め、良い状態で死ぬことができれば良い常態で生まれ変わり良い人生を送ることができると、さらに行く生死の繰り返しから抜けるとか、まあ、信じれない話です。

幸せに生きるって言うのは簡単ですが、それは難しいと思います。良い死に方をするために生きれば、幸せな生き方ができそうな気がしますけどね。 

あくまでも個人的意見ということで。
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人生の終わりに必ず死があるからと言って、「死ぬために生きる」という表現が正しいとは思えません。



たとえばお茶。いずれは必ず冷めるものですが、冷めるために熱いお茶を入れるわけではなく、熱いほうが美味しいから熱くいれるわけですよね。最初が熱かった結果であり、理由ではない。

わたしは、生まれてきたから生きています。生きているからには楽しく生きたいし、社会に貢献したい。その先にいずれ死がくるのはわかっていますが、だったら死ぬ前に少しでも多く幸せを感じていたいです。
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私もその番組見ました!(たぶん)


男子学生とのやつじゃなかったですか?
まぁそんなことはさておき、「どっちがいいか」と聞かれたら
私の答えは「どっちでもいい」ですね。
別にそいつがそう思ってるならそれでいいんじゃないですか。

私自身は意味もわからずのうのうと生きています^^;
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確か・・・「幸せになるためにいきる」っていった人ってニートの女性じゃなかったですか?働きもせず、親の骨の髄までしゃぶってしまいそうな生活をしている人間がはっした言葉に対しての罵倒だったと記憶しています。


(違っていたらごめんなさい、家事の合間に見ていたもので…)
私は個人的に「死ぬために生かされている」に共感します。自分の意思で生れてきた人はいないでしょうし、実際空気や水や大地、動植物などがなければ生きていけませんよね。細木さんはそういう自然界にまたは宇宙全体に感謝し、そういう自然界等がなければ人は生きていけない=生かしてもらっているという解釈なのではないかと思います。
選ばれて生かしてもらっている大切な命なのだから自分から絶つようなことはしてはいけない、ましてや自分以外の命も絶ってはいけないということなんだと私は思っています。
「幸せになるために生きている」っていうのも言う資格のある人が言う分には細木さんも怒らなかったと思いますし、「生かされる」という表現が他力本願的で好まないのなら「幸せな死を迎えるために生きている」という言葉はいかがでしょう。

難しいですね (*^_^*)
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<死ぬために生きる>



<人間は死に向かって生かされてる>

この2つは意味がまるで違いませんか?
何れにしても、両方とも間違っていると思います。

<死ぬために生きる>
生きている以上、何時かは死にます。生まれてきたからには、少しでも長く生きていたいから 生きているのであって、何も死ぬために生きているんじゃ有りません。
「生きているために死がある」なら判りますが。

<人間は死に向かって生かされてる>
生物は何時かは死にます。その意味では、たしかに死に向かっています。が、生かされている訳じゃないでしょう。別に食べさせてもらっている訳では有りません。自分の力で生きています。
「人間は死に向かって生きている」なら判りますが。

この世に生を受けたからには、少しでも楽しく、少しでも楽に、少しでも悔いが残らないように、少しでも幸せに思えるように、生きるために、今を一所懸命生きているのであって、「死ぬため」にだったら何も一生懸命にはなりません。

と、言うわけで
わたしは、死ぬために生きているのではなく、生かされているのでも有りません。
生きていくために、一生懸命生きています。

「細木数子」については、占い師としてはあんなものではないかと思います。
ただ、メディアに上手く乗っているだけでしょう。
好きとか嫌いではなく、面白いです。
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「幸せになるために生きてる」という言葉は、正しいと思います。

個人的には表現はいかがかと思うが、「人間は死に向かって生かされてる」という言葉も、まぁ正しいと思います。ただし両者ともに、説明が必要だと思いますし、ある観点からは、両者共にばっさり切って捨てることも可能だと思います。前者の意見に対し罵倒することも可能だと思いますよ。
こんなこと観念の問題ですから、宗教問答と同じで、色々なことが言えるでしょうね。

私は、色々なことを論ずるのに「~しなければならない」という独善的になりやすいものを導入することや、ある特定の概念は認めるがその他は認めないという考え方は賛成できないと思っている人です。だから、よくわからないところもあります、実際。

「人間は死に向かって生かされてる」って言葉だけを考えると、意味的には、誰が生かしてるの?生物学的な事実を言ったからって何なの?って感じですよね。
しかし「幸せになるために生きてる」ということばは、その生物学的な事実を踏まえ、そのためには他の生命を犠牲にしているという生物学的な事実を前提にして、さらにどういうことか?ということを述べているのです。
「人間は死に向かって生かされてる」という言葉だって、解釈をするときには、似たような目的のような話は出てくるのではないでしょうか?

幸せになるとは、結果を言っていません。ましてや、幸せになったら死ぬなんて言っていません。幸せのまま生きてもいいですよね?日本語の初歩的な読解としてそうでしょう?
「なる」とはある意味過程であり、未了であることを示しています。人間とは業が深く、欲深い生き物です。だからいつまでも足を知ることなく求め続けて生きていくわけだし、またそのために努力することがよいことだと思います。その努力は、総体として生物学的には大切ですしね。そういった意味で、私はこちらの言葉の方がより正しく思えますね。
「人間は死に向かって生かされてる」という言葉は、空理空論を弄ぶためにはよいでしょうが、その次の段階では、「幸せになるために生きてる」と同等の言葉があるはずです。あまりよい言葉が思い浮かびませんが。
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細木和子氏は自分自身が何歳で死ぬのか分かっているらしいです(TVでそう仰っていたそうです)。


言うなれば彼女はそういう職業(予知が出来る人、と言うのが適切か…)の方なので、価値観や物事の捉え方が一般人と違うだけの話じゃないかと私は思います。

正しい正しくないというのは見方の違いですので何とも言えません。
でもやっぱり私は、細木氏の考えには賛同できませんね。

確かに「死に向かって生かされてる」っていうのは物理的には叶っていると思います。
ですがそれはあくまで生物学上の問題じゃないですか。
そうでなければ、何故歴史が存在し、文明や文化などが今日まで忘れ去られる事なく受け継がれているのでしょうか?
「肉体は死んでも魂や財産は残る」って言いますし…

私個人としては、生かされてるというより生きてると考えています。
死ぬことよりも、生きている間に何をするのか、どう生きるのか、ということの方が大事じゃないかと思います。
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