「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

徳川綱吉の正室である御台所こと鷹司信子のお墓には
何故あのような異様な金網がかけられているのでしょうか?
映像で見た限り、そら恐ろしく違和感を感じました。
理由をご存知の方教えて下さい。

A 回答 (2件)

「徳川綱吉死去後、一ヶ月以内に鷹司信子が死去した」と幕府は発表しました。



綱吉と信子の不和は、大奥・幕府内だけでなく江戸庶民にまで有名だった様です。
そこで、二人が同時に亡くなったのでは?とのウワサが広まり「信子が綱吉を殺害。その後に自害した」との説を生みました。

幕府定めでは、墓に金網を被せるのは「罪人」の場合です。

余談ですが・・・。
徳川吉宗の享保の改革を非難した尾張徳川家藩主の徳川宗春。
彼は、隠居謹慎を命じられ69才で亡くなるまで幽閉されました。
宗春の死後75年を経て赦免させるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとの事です。
昭和の時代。
徳川将軍家の子孫によって、金網を外したお墓も存在します。

鷹司信子の場合、事実よりも幕藩体制・将軍家と天皇家の確執が影響したのでしようか?
事実は不明です。
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この回答へのお礼

そうですね、確か徳川吉春の墓にも金網がかけられていたそうですね。
つまり敵対する側の見せしめ的な要素だったのですね。納得しました。
信子も綱吉を殺したいほど憎み挙句の果てには手をかけた説が強いとなると徳川家としてはそのまま黙っているわけには行きませんね。
「信子は死んでなお罪人」という事を世に知らしめるためだったのですね。すごく分かりやすいご説明ありがとうございました。これで良く分かりました。でも歴史って本当に謎と奥が深くて面白いものですね。

お礼日時:2006/12/18 00:46

全くの想像ですが、鷹司信子さんには、すさまじい伝説があるようです。


徳川家と鷹司家との因縁といい、忌み嫌いたくもなったのではないでしょうか。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/ret …
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この回答へのお礼

テレビ放映で大奥を見たのですが、話しの流れからも徳川家と鷹司家の確執は見ていて非常に納得できるもので分かりやすかったです。
やはり確執もあったのでしょうね。謎がとけたようでスッキリしました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/18 00:34

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Q徳川将軍の正妻は子を生んでいないのか?京都の女は身分を鼻にかけ嫌われる?

1.徳川将軍の正妻は、大概、、大大名の娘か、藤原家か内親王/女王ですが、なぜ一人も(女子すらも)子どもを産んでないのですか?子どもを産んで後継者とすれば、京と将軍家の結びつきは強固なものになったはずなのに。
そういった正妻は、一人の女性として悲しくないですか?

2、よくドラマや小説なので、公家や内親王出身の京都の妻は、「プライド高く、身分を鼻にかけ、愛嬌がなく、ツンツンとしていて夫から愛されない女」として描かれていますが、、、本当でしょうか?

Aベストアンサー

こんばんわ。
NO3.です。

>>それならば、平安、鎌倉、室町時代の天皇家や公家に嫁いだ公家や皇家の女性たちも同様に体が弱かった(更にこの時代のほうが食料事情がもっと悪かったのでは)ということになりますが、、、平安・鎌倉・室町時代には弱そうな姫君からも子どもがちゃんと生まれて、家系を維持できているのは、なんででしょうか。道長の娘たちも男子をちゃんと産んでいますし。。

中々「するどい」ところに気付かれましたね。
平安、鎌倉、室町時代は、「幕府」は開かれていますが、朝廷を中心とした、朝廷を「敬う(うやまう)」政治体制で、「荘園」なども持っていましたので、「朝廷」や「公家」もまあまあ「裕福」でした。従って、「食事」なども、かなり、「贅沢」を極めています。
やがて、室町幕府の15代足利義昭あたりから、「武士」が世を動かすようになりました。もちろん、それ以前にも「平氏」なども「武士」ですが、「朝廷」にとりいっての天下でした。また、「足利氏」や「源氏」なども武士ではありますが、朝廷を大いに「守り立てて」の政(まつりごと)でした。
しかし、信長はご存知の通り、朝廷に頼ることをしませんでした。自らの力で、逆に、朝廷を動かそうとしていますよね。
そこで、朝廷は「官位」の「大安売り」をして生活費を賄っています。
例えば、「左京太夫(さきょうだいぶ、または、さきょうだゆう)の職は、京都の東側を統括して、司法、行政、警察権を司る役目ですが、本来は、「四職家」と呼ばれる「山名氏」「赤松氏」「一色氏」「京極氏」だけに代々継がせていましたが、多額の献金により、「大内氏」がその「職」を手に入れたことで、東北の「伊達氏」も「それでは、わしも・・・」と、「献金」と引き換えに「左京太夫」に任じられました。となると、「我も、我も」と、地方の中小大名たちも「真似」をして、実態としては、京都で活動することなく、「官職名」だけを取得するようになりました。こうした「献金」で、朝廷や公家衆は「生き延びて?」きました。
やがて、秀吉の時代になると、秀吉の「関白職」を得るため莫大な「献金」をして、再び、朝廷や公家衆は「豊か」になりました。
まあ、この頃あたりまでは、公家の姫君も「健康体」だったと思います。
次に、秀吉の後の徳川幕府になると、再び、朝廷や公家衆に対する「献金」がなくなり、ただ一つの拠り所としては、将軍家が公家の様式を取り入れたい、と、いうことで、公家の姫君を将軍家に嫁がせることで、「引き換えに」公家への「献金」がありました。将軍家と「親戚」になった公家は、まあ、そこそこに生活はできましたが、他の公家衆はというと「貧乏公家」と呼ばれ、住居の壁が壊れたり、屋根から雨漏りがしても「修繕費」さえ支払えないありさまでした。
朝廷は、と、言うと、やはり「左京太夫」などの「官職」を切り売りしての存続でした。
江戸時代は、「朝廷」や「公家衆」は大変な「貧乏」でした。
従って、姫君が将軍家や大名家に嫁ついでも、立派な「男子」を産むことができなかったのでしょう。

>>歴代の徳川将軍の正妻は子なし、というのは、単純に、将軍のお渡りが無かった、少なかったからではないでしょうか

それは言えますね。特に、元禄時代(1688~)あたりから、早くも、将軍家にしても大名家にしても、公家の姫君は「権威付け」であって、「徳川実記」などにも書かれていますが、丸顔で腰の座った「健康美人」を求めるようになり、そうした「側室」に子どもを産ませる傾向が強くなったとありますね。

余談ですが、あなたの「歴史感」は「素晴らしい!!」。
「一般的な」「常識的な」回答ではなく、その「奥」まで知りたい、と、いう姿勢には、こちらも、「覚悟して」答えなければならない、と、思っています。

こんばんわ。
NO3.です。

>>それならば、平安、鎌倉、室町時代の天皇家や公家に嫁いだ公家や皇家の女性たちも同様に体が弱かった(更にこの時代のほうが食料事情がもっと悪かったのでは)ということになりますが、、、平安・鎌倉・室町時代には弱そうな姫君からも子どもがちゃんと生まれて、家系を維持できているのは、なんででしょうか。道長の娘たちも男子をちゃんと産んでいますし。。

中々「するどい」ところに気付かれましたね。
平安、鎌倉、室町時代は、「幕府」は開かれていますが、朝廷を...続きを読む

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
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"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Q徳川綱吉の死因は…

徳川綱吉の死因は、御台所に殺されたなどと聞いたのですが本当のところは何ですか。

Aベストアンサー

先の方のご回答にあるように、麻疹に罹って床に就き、正月の餅を食した後に、厠で用便中に食べた物をもどし、それが気管に詰まって窒息死をしたと推測されています。
詳しくは、「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明・新潮新書)をご覧下さい。

Q徳川秀忠の側室と徳川家光の正室について

徳川秀忠の子、保科正之の母の静ですがウイキペディアの徳川秀忠
のページでは側室としてかかれていますが、ウイキペディアの大奥の
ページの将軍の側室一覧では側室として記載されていません。
どちらが正しいのでしょうか?
個人的には静が保科正之が誕生前から誕生後も江戸城内に住んでいませんでしたし、
正之が徳川又は松平を名乗っていませんので正之は隠し子
(正室の江与には知れていたが諸大名には内密)であったため、側室
扱いではなかったと思います。

もう一つ質問ですが、
徳川家光の正室である鷹司孝子と家光の仲が険悪であったと言う記録が
あり(様々な書物)事実と思われますが、険悪な理由はなんだったのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、側室については大奥にしかるべき部屋をもちお付きのものたちが配され公認されなければ、側室ではありません。質問者さんの解釈で良いと思います。

さて、家光の夫婦仲の悪さですが、普通は朝幕関係の緊張関係が影響してと考えるのが正論でしょう。

鎌倉以降、どんどん実権を奪われつずけた朝廷は豊臣政権下では大きく影響力を回復しました。しかし、徳川政権は家康が禁中並びに公家諸法度を制定するなど朝廷を縛る動きを強めます。二代秀忠は娘の和子を強引に後水尾帝に入内させたり、紫衣事件、春日の局の無位参内など朝廷の権威を失墜させ、後水尾帝を激怒させまくっています。そうした朝廷を代表してきている正室とうまくいかないのは当たり前田のクラッカーです(藤田まことさんのご冥福をお祈りします)。

しかし、本当のところはわかりません。家光はどうも性格異常のような気配がありますし、春日の局との関係は(変な意味でなく、変な意味もあるかもしんないが)ちと異常です。幼児期の親からの虐待からかどこか変です。そのへんが実は本当の理由かもしれません。

Q末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 

末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 
末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。
これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。

母がすいぞう癌だと宣告されたのはおよそ1年前です。
肝臓にも転移しており既に手遅れでした。
今年の3月頃までは癌だと思えないほど元気な母でしたが
4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。
あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。
肺へも転移し、咳がひどいです。
今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。
急に食欲もなくなりました。
一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。
母はこれからどうなっていくのでしょうか。
苦しみが増しますか? 
意識は最後まであるものですか?
自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?
この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。

文章がうまくまとまっていなくてすみません。
少しでも心の準備ができればと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化学作用
が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。
大きな血管にがんができて、血管が破れるということも起きます。
腎臓の機能が低下すれば……
脳の機能が低下すれば……

つまり、がんがどこにあり、その臓器は、どんな仕事をしているのか、
ということです。
何が起きても不思議ではない、ということです。

「苦しみが増しますか?」
軽くなるということはないでしょう。
出てきた苦しみを押さえるということになります。

「意識は最後まであるものですか?」
わかりません。
先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている
場合もあります。

「自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?」
状況によりますが、オムツということも考えてください。
尿はカテーテルを留置することになります。

残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、
「それを治療して、昏睡から醒めさせて、延命をする」ということを
しないという選択肢もあります。

末期症状は、医師や看護師がよく知っています。
まずは、医師や看護師と相談してください。

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む

Q徳川家・公家から迎えた正室

京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった、妊娠しても生まれる前に闇に葬って、京都の血が将軍家に残らないようにしたというのは史実ですか。
言われてみれば、至極当然の考え方ですが、びっくりしました。
主に戦国時代の事を指しますが、昔も、じつは女性の影の力は思われているよりも大きくて、人質のように嫁がされても、外交官的役割を自覚して、賢く、たとえ短くても誇り高い人生を生き切った、と、最近の大河ドラマなどを見て、思い始めていたところだったので、この話には驚きました。
どなたかご存知の方がいたらもう少し具体的に教えてください。

Aベストアンサー

> 京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった

回答としては、微妙なトコですね。
ちなみに徳川歴代将軍で正室との間に子を成したのは、初代家康、2代秀忠、6代家宣、10代家治、11代家斉、12代家慶、15代慶喜の15人中7人。
さらにそのうち、皇族や公家(養女を除く)出身の正室は、6代家宣、10代家治、12代家慶です。

まず、6代家宣。
将軍職就任は宝永6(1709)年のことですが、正室(後の天英院。関白太政大臣近衛基煕の娘)が子供を産んだのは、天保元(1681)年と元禄12(1699)年のことなので、「徳川将軍の正室」が生んだことにはなりませんね(元禄12年の時点では甲府藩主・徳川綱豊でしかありませんでしたから)。

次に12代家慶。
将軍職就任は天保8(1837)年のことですが、正室(後の浄観院。有栖川織仁親王の娘)が子供を産んだのは、文化10(1813)年、文化12(1815)年、文化13(1816)年のことなので、こちらも、「徳川将軍の正室」が生んだことにはなりませんね。

最後に、10代家治について。
将軍職就任は宝暦10(1760)年。
寛延2(1749)年に、閑院宮直仁親王の娘を正室としています。
2人の間には、千代姫、万寿姫が生まれています。
千代姫は宝暦6(1756)年生まれですが、万寿姫は宝暦11(1761)年に生まれですから、「徳川将軍の正室」が生んだ子供になります。
ただ、ご質問が「京都の公家から迎えた徳川将軍の正室」となっており、閑院宮は公家ではなく皇族(世襲制の宮家)です。

ですから、厳密に言えば、「京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった」は事実といえば事実と言えないこともない-となりますね。

> 妊娠しても生まれる前に闇に葬って、京都の血が将軍家に残らないようにしたというのは史実ですか。

こちらについては、そうしたこともあったかもしれませんが、6代家宣の元禄12(1699)年に生まれた子供は男子(ただし死産)であったこと、12代
家慶の文化10(1813)年に生まれた子供・竹千代は、1年程度とはいえ生きていたことを考えれば、一概にそうであったとは言えないと思います。

> 京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった

回答としては、微妙なトコですね。
ちなみに徳川歴代将軍で正室との間に子を成したのは、初代家康、2代秀忠、6代家宣、10代家治、11代家斉、12代家慶、15代慶喜の15人中7人。
さらにそのうち、皇族や公家(養女を除く)出身の正室は、6代家宣、10代家治、12代家慶です。

まず、6代家宣。
将軍職就任は宝永6(1709)年のことですが、正室(後の天英院。関白太政大臣近衛基煕の娘)が子供を産んだのは、天保...続きを読む

Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

Aベストアンサー

綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。

Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q徳川15代将軍の各人のイメージを教えてください

高校の日本史でいま江戸時代のことを
勉強しています。僕は15人もいて覚えるのが
大変なので徳川家が嫌いです笑
しかし各人のイメージを覚えればその人の
行った行動なども一緒に覚えれることに
きづきました。例えば・・・・・・・

8代将軍 吉宗 暴れん坊将軍。紀州藩出身。身長2メートルの巨人。
図体がでかいくせに死に際には米の値段を記した米価表を握っていた。
(意外と経済に詳しかった。別名米将軍)

11代将軍 家斉 すごい遊び人。子供と奥さんの数は半端じゃない(エロ親父)

こういう風にイメージで覚えると全員覚えれそうな気がします。
あなたがもつ徳川歴代将軍のイメージを教えてください!!!!

Aベストアンサー

あらかた回答が出ていますので、私の回答はもっと意外性を含ませたものにします。

家康:未亡人が好み
家康は未亡人を、子を産んだ女性を好んで妾にしていました。これは自分の子供を作るには、子を産む能力は合格な女性が1番である、という合理的な考えからきたようです。健康オタクぶりといい、情より利益を考えて行動するタイプでした。
秀忠:とことんカタブツ
妻のお与に遠慮してか秀忠が女性に固いのを心配した家康が、女性をプレゼントします。しかし、秀忠は丁寧におもてなしして、とうとう指一本も触れなかったのに家康は呆れるやら褒めるやらだったとか。ちなみに豊臣家を完全に叩き潰せ!と家康に進言したのも秀忠だったとか、
家光:甘ったれお坊ちゃま
家光が名君といわれたのは将軍時代後半からの事です。若い頃は現代風にいえばバンドにはまったり、ビジュアル系のファッションをしたり、夜遊びやゲイに走ったりして重臣を困惑させていました。あと、乳母の春日局には、マザコンでした。
家綱:面倒くさがり屋
10歳ぐらいで将軍になったため、人の上に立つ事が苦痛だった。政治は老中任せで「そうせぇ(あ~分かった分かった、それでいいよ)」と熱心ではなかった。
綱吉:チビの犬公方
お寺に残っている位牌の大きさからすると、綱吉は身長が130cmと低かったらしい(残されている絵では面長の長身だが、これはオーバーに描いた結果?)。そのため、学問好きなど、かなりのコンプレクス持ちだったというのも納得。
家宣:無名の美男子
家宣はキリっとした顔の美男子だったらしい。綱吉が将軍を死ぬまで譲らず、やっと将軍になれたのは48歳。しかも3年目で死んだため、知名度があまりなく可哀想な人。
家綱:薄幸の幼将軍
将軍になったのは4歳。そのため病気の父・家宣に心配される。僅か3年目で風邪が悪化して7歳で夭折してしまう。でも、頭がいい子だったという。
吉宗:名君の顔した独裁者
表向きは民衆に優しい名君だったが、裏では御三卿をつくり自分の子孫が将軍になれるようにした独裁者だった。自分が大名・将軍になるのにジャマな人たちを全員毒殺したのでは?という説があるだけに、本当は恐い人だったのかもしれない。
家重:知恵遅れの小便公方
難病か、行動もおぼつかなく言語不明瞭だった。あまり表に出る事が無かったが、お寺で墓参りする時に、トイレが近い家重のためにトイレをアチコチ多く作ったので、「小便公方」とあだ名を言われていた。ただ、将棋好きで、そんなに頭は悪くなかったよう。
家治:帝王学ニート
祖父の吉宗に期待されて、帝王学を受けて育った。しかし、政治は苦手で趣味の将棋にこもるばかりで、今で言う高学歴ニートの感じになってしまった。田沼意次に毒殺されたと噂が流れて、田沼人気は完全に地に落ちてしまった。
家斉:大野望の好色家
御三家・御三卿や親藩に自分の息子を養子に、娘を嫁に押し付けて自分の血統による日本支配を目論んだ好色家。最初のうちは松平定信を信頼して改革を任せていたが、カタブツな彼がだんだん嫌いになってしまった。
家慶:ショウガで激怒
水野忠邦の天保の改革で、好物だったショウガが贅沢品で栽培禁止になって食べられなくなったのに激怒、すぐやめさせた。政治手腕は下手だったとも、普通にできたとも、評価が難しい。
家定:無能なイモ公方
家重以上に無能な将軍。病弱で何も出来ず、ただ人前でイモを蒸かしたり、マメをいってその場で食べるなど理解不能な行動を繰り返した。そのため、「イモ公方」とバカにされていた。将軍の役は完全に務まらないまま、35歳で死亡。
家茂:酷い虫歯持ち
家茂の遺骨はまともな歯が無いほど酷い虫歯だった、そのため虫歯が要因で若死した説が有力。羊羹など甘くて柔らかい物が好きだった。性格は素直で、政略結婚した和宮とも仲はよく、勝海舟は彼の事の信望していた。
慶喜:コロコロ変わるインテリ
家茂の事が好きだった勝海舟は、逆に慶喜が嫌いだった。インテリぶるくせに、言う事がコロコロ変わるのを嫌っていたから。明治維新後は趣味にたくさん生きた自由人になるが、これは反政府運動に担がれないためにこういう行動をしたためとも。評価が難しい将軍でもあるが、大正時代まで76歳と家康より長生きした。

徳川将軍家(宗家)はここで終わったのではく、家達・家正・恒孝と現在まで続いています。この3人にも面白いエピソードがあります。

あらかた回答が出ていますので、私の回答はもっと意外性を含ませたものにします。

家康:未亡人が好み
家康は未亡人を、子を産んだ女性を好んで妾にしていました。これは自分の子供を作るには、子を産む能力は合格な女性が1番である、という合理的な考えからきたようです。健康オタクぶりといい、情より利益を考えて行動するタイプでした。
秀忠:とことんカタブツ
妻のお与に遠慮してか秀忠が女性に固いのを心配した家康が、女性をプレゼントします。しかし、秀忠は丁寧におもてなしして、とうとう指一本...続きを読む


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